謎の青年・氷室雪都と別れ、帰り着いた亜夜を待っていたのは、空っぽの部屋だった。ただでさえ家財道具の少ない部屋だったが、いまや完全に空室と化している。ダイニングキッチンのほとんどを占めていた大型冷蔵庫も姿を消していた。
「……?」
 いぶかしげに眉をひそめ、亜夜は携帯電話のボタンをプッシュする。
 間をおかず、すぐに相手――暁が出た。
「……どういうこと? 部屋が空っぽよ」
 食ってかかるように尋ねる。
「次のポイントへ移動だ」
 と、暁がそっけなく答えた。
「あ……!」
 亜夜は目をみはった。
 ――うかつだった。予言された通り、亜夜は三日を待たずして暁のもとへ戻った。〈人形使い〉を倒すことは、もはや復讐のためではない。鷺宮教授によって、プロトタイプのボーグを持たされてしまったまりを、元の姿に戻すこと。まりのために、亜夜は鷺宮との闘うことを選んだのだ。みずからの意志で、暁のもとへ戻ったのだ。
 だが……それは、いつ果てるともなく続く〈人形使い〉たちとの死闘の再開を意味していた。
 この闘いが続く限り、亜夜に平穏な日常は許されていない。暁の指示通り住居を変え、学校を転々とし、さまよい続けるのだ。
 自身〈人形使い〉でありながら、亜夜は暁の想うままに操られている。亜夜が、敵の〈人形使い〉たちに対して、無意識のうちに感情移入してしまうのは、彼らと自分が同じ境遇にあることを悟っているからにほかならなかった。亜夜も、〈人形使い〉たちも、操られているのだ――糸を持つのが、鷺宮か暁かというだけの違いにすぎない。
「移動するポイントを指示する。お前の新しい住居は……」
 暁が、亜夜の新しい住居のアドレスを伝達する。察するところ、今度も小さなアパートのようだ。
 暁は、亜夜が通学することになる、新しい学校名も告げてきた。
 亜夜はメモを取ることもなく、暁から伝えられた情報を脳裏に刻みつける。記録を取り、その痕跡を残すことによって、敵に次の異動先を察知されるわけにはいかない。
 一呼吸おいて、暁が思い出したようにいった。
「学校はどうした? 下校する時間を見はからって、次の移動ポイントを伝えようと思っていたんだが」
「サボったわ」
 と、亜夜は簡潔に答える。
「ほう?」
 回線の向こうで、暁がおかしがっているような吐息を洩らした。
「学校にマスコミが押し寄せていたわ。西村さんの……事件のことで。それで、なんかイヤになっちゃって」
「まあ、いいだろう。どうせ、明日からは通うこともないんだからな」
「あ、それから……」
 亜夜は思い出したように声をあげる。
「どうした?」
「学校から引き返す途中で、変な連中に会ったの。チャイニーズっぽい感じの三人娘」
「三人娘? 〈人形使い〉か?」
「ええ、たぶんね」
「ふん。それはおそらく……」
 いいかけて、暁は口をつぐんだ。いつものことだ。亜夜に、必要以上の情報は決して与えようとはしない。
 亜夜は苦い笑みを浮かべ、皮肉っぽい口調でいう。
「大変よ。いつも襲われてばかりで」
「それだけ、亜夜が人気者だということだ。で、どうした? どうやら切り抜けたようだが?」
「助けてもらったの。素敵な人に」
 亜夜は、うっとりと視線を宙にさまよわせた。
「素敵な人だと?」
 暁の反応はすばやかった。
「そうよ。すっごくきれいな顔の、男の人――ううん、本当に男の人なのかなあ?」
 亜夜は先ほど自分を助けてくれた青年の顔を思い出していた。この世のものとは思えないほどの端正な美貌。まさに天使の横顔だった。
「名前は、たしか……氷室雪都、っていってたわ」
「――氷室? たしかにそういったのか?」
 暁が勢いこんで問いかける。刃のように鋭いものを含んだ声だった。
「うん。たしかにそういってた……知ってるの、”兄さん”?」
「……いや。まさかな」
 回線の向こうで、暁は緊張をゆるめたようだった。
「だが、気になることがある。調べておこう」
「お願いするわ。あ、それから……例の、スーパーで私を襲った連中のこと、どうなってる?」
 亜夜の問いに、暁はかすかないらだちを含んだ声で応じた。
「ああ、あのことか。今、根回ししているさいちゅうだ」
「正体はわかっているの?」
「まあな。やつらは政府の非合法破壊部隊だろう。〈人形使い〉に対抗して結成された組織がある、と聞いたことがある」
「〈人形使い〉に対抗……」
 と、亜夜がつぶやく。
「そうだ。部隊の暗号名はシャドウブレイザーズ、指揮を執っているのは六道四郎という人物らしい」
「知ってるの?」
「データではな。だが、まだ会ったことはない。おかげで、話を持っていくのに苦労しているんだ。こっちの持ってるコネを総動員しなきゃならんからな」
「大変ね」
 亜夜はさして同情していない口ぶりでいった。
「まあな。とにかく、お前は次のポイントへ移動しろ。指示は追って出す……ツッ!」
 暁が、ふいに苦痛のうめきを洩らした。
「どうしたの?」
 と、亜夜が勢いこんで尋ねる。
「なんでもない……この分だと雨になるな」
「え?」
 突拍子もないセリフに、亜夜は目をみはった。
「古傷が痛む。雨が近づくと、わかるんだ」
「ああ……”兄さん”の脚?」
「そうだ」
 暁はうずく痛みをこらえるように、低く抑えた声でいった。
 亜夜は、暁がいつも杖をついていることを思い出した。どのような原因で杖をつくようになったのか、暁が語ったことはない。おそらくは鷺宮が関わっているのだろう、とは察していた。
 亜夜の知る限り、暁は杖を手放したことはない――片時も。
「わかった。次のポイントへ行くわ。それじゃ」
「ああ。それじゃ、な」
 亜夜は通話を切った。踵を返し、玄関で靴を履く。一瞬ためらってから、部屋の方へ向き直った。
 ――さよなら。
 心の中で、そっと別れを告げる。
 亜夜は勢いよくドアを開け、外に出た。
 空はどんよりと曇っていた。

 Tyger! Tyger! burning bright

 In the forests of the night,

 What immortal hand or eye,

 Dare frame thy fearful symmetry?

 待機中に許された仮眠のさなか、オクツは夢を見ていた。
 いつも見る夢――虎の夢だ。
 ただの虎ではない。薔薇(ばら)色に燃え輝く夢の虎。
 薔薇色の虎は、たくましさと優美さを兼ね備えた肢体をゆったりとうねらせ、夜の森を闊歩する。
 その、イメージに重なって……
 シルバーリンクスを額に突き立てられたエミコの顔が浮かぶ。
 ――あたいのせいだ。あたいの作戦ミスだ……!
 オクツはうなされていた。仮眠を許された短い時間に、浅い眠りと覚醒を交互に繰り返している。一番、疲れるパターンだ。
 ――エミコ。仇は取るよ。あんたの仇は、あたいが必ず取ってやる。
 だが、シャドウブレイザーズの指揮官、六道四郎――キャッズアイの面々は戯れに『ロッシー』と呼んでいた――は、あの〈人形使い〉に手を出すな、と命令した。例の、御厨暁と名乗った男と取り引きしたからだ。
 くそっ。
 オクツは、御厨暁と名乗った男が提示した情報を思い出していた。オペレーションSKY・HI(スカイ・ハイ)だと。バカな……!
 オクツは行動を制限されたことに、手足を縛りつけられたような窮屈さを感じていた。
 ――自由になりたい。力が欲しい。夢の虎のように。薔薇色に輝く虎のように。
 夢の虎なら、あたいにできないことができる。
 行動を制限されたあたいの代わりに、自由にふるまうことができる。
 あたいが、夢の虎になれたら……きっと、エミコの仇を取ることができるだろう。あの〈人形使い〉と、そのそばにいた熊の化け物を、思うさま切りさいなんでやるのだ。
 力が欲しい……夢に出てくる、薔薇色の虎の力が。
 いつしかオクツの夢の中には、ふたたび夢の虎が現れていた。

執筆:紙谷龍生

つづく