アミューズメント・パーティOnLine

20 新世紀前夜の決闘


 蓮の瞳は、深い藍色だった。
 小波ひとつない、深海のような藍色。
 黒い髪が時おりその目元を隠すが、それを気にする様子もない。
 藍色の瞳には、光がなかった。
 感情の色がなにも浮かんでいない。
 虚無。
 冷たく、鋭い視線が、飯島を見据えていた。
「山崎里美は我々〈雷羅〉が管理する」
 そのかわいらしい口から、容姿にそぐわない低い声が発せられる。
 威圧。
 わずか一五〇センチに満たない少女の身体から、その体格の数倍にも思われる威圧感が噴出されている。
 それは冷気とも言うべき圧力だった。
 飯島はその威圧にも屈せず、かるく頭を振ると、もう一度同じ台詞を吐いた。
「里美を離してもらおう」
 背後に金色のオーラが立つ。ゆっくりと対流するその輝きは、次第に飯島から離れ、蓮を取り囲むように移動していく。蓮の威圧が冷気なら、飯島のオーラは暖気だった。冷気と暖気がぶつかり合い、相殺し合って渦を巻く。
 里美は目を閉じ、唇をぐっと噛んだ。喉元に食い込む蓮の手は、彼女から呼吸の自由を奪っていたが、里美はそれに耐えていた。もがくこともせず、声を上げることもせず──一見して成すがままにされているようにも取れる。だが、里美は信じていた。飯島を、この暖かいオーラの対流を──
「里美──いくよ」
 その声を、里美は待っていた。
 その声に、里美は動く。
 いままで堅く閉じられていた眼が開き、その口から渾身の呼気が吐き出される。気合い、とでも現すればいいか──熱い息吹が振動となって、蓮の右手に伝わる。
 蓮の右手が里美の喉元から離れた。否、離されたのだ。蓮は表情を変えずに、里美の方を向いた。
 里美は両の腕を持ち上げ、蓮のちいさな右手を掴み、その掌を強引に引きはがしていた。その渾身の力は、蓮の握力を僅かながら上回っていたようだ。徐々にではあるが、蓮から里美は離れていった。その細い身体の、どこに亜邪神の握力を跳ね返す力が宿っているのか──
「──!」
 蓮の右手が不意に開かれる。里美は蓮の右腕を掴んだ状態のまま、すとんと地面に尻をついていた。
 蓮が自ら、右手の力を抜いたのだ。
 飯島が駆け寄る。里美は這うように蓮から離れ、飯島と合流した。強く抱きしめあう、恋人たち。
「きみたちにつき合う気はない」
 蓮が口を開く。冷たい声音に変わりはない。
「テオバルド様の命はただひとつ。だが、その命を遂行するために障害は排除する必要がある」
 藍色の瞳が飯島に向けられていた。その渾沌色の硝子玉に、飯島の身体が写る。
「飯島洋一を抹殺する」
「イグ……」
 飯島は彼女の昔の名を呼んだ。しかし、蓮は表情ひとつ変えようとしない。
「藻間さんを助け、翼曽を分離し、そして俺たちの仲間になろうとしたイグはもういないってことか」
 確認するように呟く。里美も蓮を凝視し、飯島の言葉に頷く。
「山崎里美の能力は称賛に値する。しかし、きみたちに勝つ手段はない」
 蓮には、飯島の質問に答える気は全くなかった。
「きみたちの〈神格〉も、わたしは総て倍化して弾き返す。わたしは蓮透、テオバルド様に仕える最高の亜邪神」
「来い、蓮! お前はもうイグじゃない!」
 飯島は拳を振り上げて、蓮に向かった。
「もうイグじゃない……」
 その言葉に反応したのか、藻間が顔をあげる。彼のぼんやりとした視界に、蓮と飯島が映る。
 もうイグじゃない。
 もうイグはいない。
 イグ……。
「飯島!」
 巨漢は言うが早いか、結界を飛び出していた。誰も止めることはできなかった。藻間は素早かった。その身体に似合わぬ速度で、飯島と蓮の間に割って入る。両の眼は血走り、呼吸は大きく乱れていた。藻間はイグ──蓮をその背でかばうように立ちはだかっていた。
「イグに何をする!」
「藻間さん! 彼女はもうイグじゃない! 最強の亜邪神、蓮透だ!」
 飯島が絶叫に近い声を張り上げる。だが、藻間は訊こうとしない。
「イグはイグだ! 誰が何といおうと、イグはイグなんだ!」
「いかん、藻間を止めろ!」
 五六が叫ぶ。同時に加藤が結界から飛び出し、藻間の脇まで走り込んだ。
「藻間さん!」
「加藤まで! 加藤まで、イグを殺しにきたのか?」
 藻間は加藤の顔を見て、狂乱の様相を呈する。
 蓮はそのやりとりにも無関心なのか、全く表情を変えようとしない。冷たい眼を藻間の背中に向けたまま、動こうとも語ろうともしない。
「イグ! イグもやめてくれ! 飯島と戦うなんて!」
 藻間は振り返り、蓮の両肩を掴もうとして──果たせなかった。
 そのおおきな掌は、蓮の肩から数センチのところで止められていた。
 蓮は藻間の腕を掴むと、驚愕の表情を浮かべる彼に宣告した。
「邪魔だ。どけ」
 次の瞬間、藻間の巨体はふわりと浮かび、空中で一回転すると、傍らの地面に激突していた。岩盤の砕ける音が、洞窟内に響く。
「藻間さん!」
 加藤が駆け寄ろうとするが、これも果たせない。蓮が素早く加藤の懐に入っていたからだ。上目遣いに睨上げられ、加藤は脳裏を蒼白にした。
 刹那、加藤も藻間と同じ軌跡を描いて宙に舞っていた。再び鳴り響く破砕音。
「きみたちに何かしようとは思わない。だが、邪魔をするなら排除する」
 倒れた藻間や加藤を見ようともせず、蓮はその歩を飯島に向けた。ゆっくり、ゆっくりと距離を縮める。
「イグ……」
 腰を打ちつけてにわかに立ち上がれない藻間は、眼だけで少女の姿を追っていた。
「お前は……そんな冷たい眼をした娘じゃなかった……」
 苦しい呼吸の中で、藻間は言葉を紡いでいく。
「イグ……かわいいイグ……ちっちゃいイグ……」
 その藻間の言葉は、蓮の耳には届かない。
「死とは突然にやってくるものだ」
 蓮は誰に聞かせるでもなく、呟きながら歩いていた。
「生と死は隣り合わせ。ちょっとした違いしかない」
 ゆっくり、ゆっくり。ちいさな死神の影が、飯島と里美に近づいていく。
「光と闇も、表も裏も、生も死も……未来も過去も……」
 長い漆黒の髪が、ぱっと開く。
「総ては永い宇宙の歴史から見れば一瞬」
 ショートパンツからのぞく白い脚が、ぴたりと止まる。
「痛みも一瞬だ」
 細い腕がゆっくりと上げられる。指先が飯島に向けられる。
「きみが〈神格〉を放てると言っても、きみは神ではない。だが、わたしは神そのものだ。神にかなうと思うか?」
「奢るな! 造られた人格が!」
 飯島は里美を立たせると背後に回し、かばうようにその両の腕をおおきく左右に開いた。
「何様だ! 神、だ? 人を殺し、人の力を奪って生きてきた化け物が! 里美は渡さない! もう、だれも殺させない!」
「問答で解決する問題ではない」
 蓮の眼が半眼になる。冷たい視線が飯島を射る。
「障害は排除する」
「やってみろ!」
 言うが早いか、飯島は蓮に気を放った。空気の弾丸が容赦なく蓮に襲いかかる。蓮は身構えることもなく、その弾丸を額に受けた。爆発的な衝撃が空間を包み、爆風が動けない藻間や加藤に襲いかかる。洞窟の天井が軋み、嫌な音を立てる。
「うわ!」
「集中しろ、瀬川!」
 爆風に驚いた瀬川に、小川は叱責する。爆風の影響は結界によって半減されているが、精神を集中する彼らにはほんの些細な音や振動でも激しいものに感じられる。
「へいへい……で、キーとやらは見つかったのかい?」
 瀬川のぼやきに、小川は名東と割澤を見る。
(いけるか? 名東、割澤)
 小川が「思う」。
(キー確認)
 額に汗を浮かべながら、割澤が「思う」。
(解除作業に入ります)
 それを受けて、名東が「思う」。
「無駄だ、飯島……総て弾かれるぞ、総て……」
 口の中で、呪言のように呟く。誰にも聞こえないような声量だ。しかし、麗子には聞こえていた。それは雪崩山の、魂の悲鳴だったのか──
「勇次クン……」
 麗子は雪崩山の背中に顔をうずめて泣くしかなかった。
「ねえ……勇次クン……憶えてる? 高校のころ……あたしが入学したばっかりのころ……」
 嗚咽の中に声が混じる。
「勇次クン……かっこよかったよ……最初はキザで、他人のことなんか何にも考えてない嫌な奴だと思ってたけど……でもね……最初に会ったときから、あなたのことが……」
 雪崩山はうな垂れたまま、背後からの振動を感じていた。震える身体が麗子の心情を、何よりも雄弁に物語っていた。
「寂しかったの……不安だったの……同類と……同じ化け物同士、判り合えるかもって……その気持ちも……いつしか……」
 麗子は顔を上げていた。涙で髪が頬に張りついている。
「自分を偽ってたってすぐに気づいたわ……好きだったの……好きになっちゃったのよ……でも……言えなかった……あなたから好きだって言わせたかったの……でも……でも……」
 雪崩山は振り返ることができなかった。身体が硬直し、言うことを聞かない。
「いまの勇次クンは……きらい……」
 爆風の振動が収まった洞窟に、再び静寂が訪れる。
「だめか……」
 ぐっと唇を噛みしめ、飯島はふたたび拳を固める。爆風の去ったあとには、こちらを指さしたままの蓮が立っていた。周囲の岩盤は円を描いて削られ、数十センチの窪みを見せている。
「同じことだ」
 その窪みを軽く跳び越えて、蓮はまた飯島に近づく。
「わたしは神だ。その掌の上できみに何ができる」
 指先が、あと数歩で飯島の胸に触れられる距離まで来ていた。
「麻都や翼曽から、きみのことは訊いている。きみの〈神格〉は閉鎖された空間でなくては絶対的な力が出せない。この広大な洞窟内でどれだけ力を圧縮できる?」
「……記憶を共有しているとでも言うのか?」
「記憶ではない。情報だ」
 飯島の問い掛けに、蓮は無表情で答える。
「もっとも、わたしは総ての力を弾き返す。どんな力にも意味はない」
「それでも!」
 飯島は諦めていなかった。蓮の指が彼の身体に触れる前に、そのオーラが少女を包むように動いた。空気が対流し、蓮の周囲で圧縮される。目に見えない鎖が蓮を締め上げ、彼女は歩を止めた。
 しかし、それも一瞬だった。
 蓮は紫の対流を視線で薙ぎ払った。オーラの鎖が引き裂かれ、再び空気爆発が巻き起こる。
「やはりその程度の圧縮しかできないか」
 少女は抑揚のない調子で言う。
「麻都は〈神格〉の光に敗れた。翼曽はきみとの戦いでかなりの損傷を受けていた。きみの〈神格〉が侮れないのは判る。だが、彼らとわたしは格が違う。わたしは神なのだ」
 爆風に煽られ、体制を崩して地に臥す飯島と里美の上から、蓮は言い放った。
「さあ、これで終わりだ──」
「蓮透は触れないと攻撃を仕掛けられないわ!」
 少女の声が洞窟に鳴り響いた。
「確かに蓮透は相手の攻撃を総て無力化し、倍化して弾き返す。でも、自らの攻撃は相手に触れないとできない!」
 その声に、飯島が、里美が、藻間が、加藤が、雪崩山が、麗子が振り返る。
「蓮透には弱点はないわ! 飯島洋一、山崎里美、逃げて! 触れられなければ死ぬことはない!」
 その彼らの視線の向こうには、笑顔の小川がいた。瀬川がいた。名東がいた。割澤がいた。
 そして、ショートカットの黒い髪を持つ、ロングスリーブの生成りのTシャツに若草色のミニスカートを着けた、凛とした眼をした少女がいた。
「むう、ナグ?」
 老テオバルドが呻く。
「なぜ意識を取り戻すことができたのじゃ?」
 その驚愕の眼に、ナグは睨み返すような視線を投げ掛ける。
「さてね。あたしにも判らないわ。でも、判っていることがひとつだけある──」
 少女は立ち上がると、スカートについていた埃をはらって老人に向き直った。
「老テオバルド! あたしはあなたを許さない! お姉さまは必ず返してもらうわよ!」
 ナグは素早く呪言を紡いだ。ずん、と衝撃が走る。老人の周囲に土煙が上がった。
「ナグ、か……」
 土煙の中から、もうひとりの少女の声が上がる。飯島の目の前にいたはずの少女だ。右手を拡げて、ナグの呪言の効果を反射させていた。
「蓮透、あなたには判っているはずよ。あたしはナグじゃない──あたしは本間香代よ!」
 ナグは蓮を睨む。蓮はその視線に応えようとはしない。感情のない藍色の瞳をただナグに向けていた。
「莫迦な! 亜邪神と人間の意識が同居しているじゃと?」
「残念でした。同居じゃないわ。あたしは本間香代、ナグの能力を持つ本間香代よ! ナグの人格は」
「ナグの人格は封印させてもらった」
 ナグの言葉に小川の言葉が重なる。
「人格操作──深層テレパシーの応用だ。今まで表層に浮かんでいたナグの人格には沈んでもらって、奥底に封印されていた彼女本来の人格に表に来てもらった」
「だから彼女は人間でありながら、亜邪神の能力が使えるのです」
 割澤が、眼鏡の蔓を上げながら言う。
「それには強い意思が必要でした……彼女の過去が、人間としての記憶が、何が正しくて何が悪いかを判断したのでしょう」
「イグ……本間佳奈という姉を思っての、強い意思だ」
 名東が続ける。
「あんたには判らないだろう……イグは亜邪神でありながら、本間佳奈としての意思を持っていた。ナグは今、本間香代を取り戻した。愛だよ、愛。姉妹愛!」
「無理なリーディングをした甲斐があったってもんだ。ちょっと訊いてて気分が落ち込む内容だったがな」
 瀬川は額の汗を拭いながら言った。それは独り言に近かった。
「記憶を封印──リーディング?」
 老人は狼狽した。確かにイグとナグを造ったとき、彼女たちは自分たちが人間だったころの意識と記憶を持ったままだった。しかし、それはもう何十年も前の話だ。すでに意識は亜邪神のものとなり、例え人間だったころのことを憶えていたとしても、それは「思い出」に過ぎず、精神の中核を成す存在とはなりえないはずだった。
 しかし、いま眼前に立つナグは、ナグの能力──亜邪神の超能力を使うことができるにも関わらず、その精神は人間のころの人格──本間香代になっている。
 リーディング──後退催眠。人間の前世を読むと言われる超能力。記憶を時間軸を遡るように追いかけ、生誕以前の記憶を呼び醒す力。ナグの前世とはすなわち、人間であったころの記憶──本間香代の記憶。その記憶が今、彼女を支配している。黄泉帰り──老テオバルドの脳裏に、信じたくない言葉が過った。
「莫迦な! ありえない!」
「あなたが知らないだけよ! 老テオバルド!」
 ナグは老テオバルドを睨んだまま、呪言を紡いだ。
「百年分の恨み!」
「わしに直接攻撃をかけると言うのか! 愚かなりナグ!」
 老テオバルドは〈写本〉を取り上げ、軽く凪いだ。〈写本〉が作り出した金色の軌跡が、ナグの力を無力化する。
「ナグ、お前は戦闘に向いておらん! 蓮にかなうわけがないのじゃ! 今なら間に合う、ここに来て手をついて許しを乞え! さすれば許してやっても」
「雪崩山勇次!」
 老人の言葉に耳を貸す様子も見せず、ナグは傍らに立つ雪崩山に言った。
「老テオバルドは動かないんじゃない、動けないのよ! あの岩から立ち上がることもできない! あの台座の岩を破壊すれば、あいつは──」
「あ、ああ……」
「ぼーっとしてる場合じゃないでしょ? あたしの力だけじゃ弱いのよ! ここでまともに攻撃力を持ってるのはあなただけなんだから! 協力してよ!」
「勇次クン!」
 ナグの声に麗子の声が重なる。
「あんなちっちゃい子にあんなこと言われて、恥ずかしくないの? 男でしょ、戦いなさいよ! 勇次クンらしくないよ! 戦って戦って戦い抜きなさいよ! あなたはそれだけが取り柄なんだから!」
「それだけって……」
 雪崩山の頬が歪む。苦笑していた。麗子の言葉に、何かが弾けたような気がする──雪崩山はかぶりを振り、頬を叩いて気合いを入れ直すと、ナグに言った。
「どうすればいい?」
「あたしの力にあなたのPKを同期させて! 蓮透を攻撃しても無駄よ! 老テオバルドを討つ!」
「させない」
 蓮が言う。瓜二つの少女に向かって、その右手を上げる。
「総て弾き返す」
「お前の相手はこっちだ!」
 その華奢な身体は、一瞬の隙を突かれて大きく飛ばされていた。飯島の放った空気の弾丸が、蓮の左脇腹をえぐる。
「蓮に邪封印をかけるってのは?」
「無理ね。弾かれて、あたしが封印されるわ」
 名東のアイディアは、即座に却下された。
「この力がいつまで使えるか判らない今──あたしは老テオバルドをこの手で討ちたい!」
「精神が悲鳴を上げておるのじゃろう?」
 ナグの言葉じりをつかまえて、老テオバルドは嬉しそうに嗤う。
「人間の精神で、亜邪神の能力が制御できるはずがない!」
「二発目を許したのも初めてかもしれない」
 ふわりと地上に降りると、蓮は飯島に視線を投げる。右手で左の脇腹を軽く押さえていた。飯島はそんな蓮の様子に軽く舌打ちすると、視線を里美に向けた。
「里美、怖くないか?」
「全然。飯島さんの背中、広いもの」
「上等!」
 飯島は精神を集中した。里美も呼応する。金色のオーラが拡大し、洞窟全体が軋みを上げて唸り出す。〈神格〉の第二段階、空気圧力の膨張。セレファイスを破壊し、岩崎精神科医院の地下室を破壊した力。その力が、広さもはっきりとしない漆黒の闇に包まれた洞窟全体を、その圧力で満たそうとしている。結界に守られているはずの雪崩山たちも足下を掬われるほどの空気の対流が発生していた。
「わたしを押すほどの圧力……なるほど、麻都や翼曽が恐れた理由も判らないではない」
 その空気の対流を切り裂き、蓮は独りごちた。
「だが、それではわたしを倒すことはできない」
 切り裂かれた空気の溝の中で、蓮は眼を細めた。
「素晴らしい……これが〈神格〉か!」
 老テオバルドは嵐に翻弄されながらも、〈神格〉の起こした現象に見入っていた。超常の力、超能力の上を行く力──それこそ自分の望んでいた、超人間能力! 邪神に近づくために必要な力──
「もっと、もっと見せてくれ! その力! その素晴らしさ!」
 老人は、自分の置かれている状況も忘れて絶叫していた。
「凄い……」
「でも、ここまでなら見たことがある」
 風を除けるように手で顔を覆った雪崩山に、ナグは冷静に言う。
「亜邪神は記憶を学習し、共有する……老テオバルドの召喚できる亜邪神は決まっている。あたしが亜邪神になってからあいつは何度か亜邪神を降臨させたけど、いつも順番は一緒だった。麻都須、翼曽通、そして蓮透……」
 眼を細めて、嵐の向こう側の老人を睨む。
「麻都須の行動を翼曽通は憶えている。翼曽通の行動を蓮透は憶えている。同じことをしても、蓮透には絶対に通用しない」
「しかし、これだけの力が発現していれば──」
「蓮透は我々の邪魔をする暇はない、か」
 雪崩山とナグは見合った。身長差のあるふたりの視線が交差する。
「微力ながら、我々も力を貸そう」
「やれるだけのことはやろう!」
 雪崩山の背後から声がする。五六と、嵐の中ようやく結界内にたどりついた加藤だった。雪崩山はにやりと笑うと、その視線を老テオバルドに戻した。
「里美……まだ行けるかい?」
「大丈夫……判ってきた。それにあったかい」
「判ってきた? あったかい?」
 飯島は振り返ることはできなかったが、背後の里美の言葉に疑問を挟む。
「力の使い方が判ってきた……飯島さんを……飯島さんのことが判ってきたから……飯島さんの気持ちがあったかい……」
 里美は飯島の背中に頬を当て、眼を閉じた。出会ってからの短い、しかし濃密な日々が走馬灯のようの蘇る。そこにあったのは、いつも笑顔の飯島。自分を暖かく見守ってくれる飯島。自分を守ってくれる飯島──
「大丈夫……やれるわ……あなたとなら、あたし、やれる!」
「里美……」
 飯島も眼を閉じた。心が通う、その暖かさ。テレパシーなどという無粋な言葉で表すことはできない、魂の交流。ひととひとが触れ合う、その楽しさ。守りたいものがある、守りたいひとがいる──それが生きる証!
「蓮……お前に守るべきものがあるか?」
 蓮は歩みを止めた。蓮にとって、その質問は意味のないものだった。飯島は何を訊きたいのか? 蓮には判らなかった。
「命のままに動くのが我ら亜邪神の宿命──ただそれだけだ」
「お前は自分を神だと言ったな」
 飯島は眼を開いた。
「だとしたら、神ってのはつまらないものだな……愛することもない、信じるものもない……」
「問答に意味はない」
「俺は殺し屋じゃない。自分の守りたいもののために別の誰かを犠牲にするようなやり方は好きじゃない。だが……いいさ、お前が神とやらでいる限り、絶対に判らない話だ。ただ、俺は守る──それだけだ」
 どん、と空気が鳴った。
 〈神格〉の第三段階──蓮の見たことのない現象が起きていた。
 今まで外側に膨張を続けていた力が、一気に内側に圧縮されたのだ。
 嵐は止んだ。空気は固まり始めていた。
 重い。身体を自由に動かすことができない。限られた空間の中──飯島と里美の創り出した〈神格〉のシールドの中の気圧だけが急激に圧縮され、高まっていく。蓮は自由を奪われ、初めて困惑の色をその藍色の瞳に浮かべた。
 圧力から開放された洞窟の岩盤が、弾けたように崩壊を始める。
 障壁を張り、老テオバルドはその圧力に抗していた。だが、その障壁も軋みを上げ、形を保つことができない。
「何というエネルギーじゃ……わしの障壁が悲鳴をあげておる!」
 老人は狂喜した。
 次第に圧力は一点に集中していく。
 蓮は全く動けなくなっていた。
 ねっとりと絡みついた空気に抗うことができない。
 身体に向かってくる強烈な圧力を跳ね返すことができない。相手が空気では、それを倍化して返すという技も使えない。シールドされた空間の中からはテレポートもできない。空間を切り裂いて逃げることもできない。精神障壁を張って圧力を逃がすことはできたかもしれなかったが、総てが手遅れだった。しかも、蓮は相手に触れないと攻撃ができない。空気の檻に閉じこめられた彼女は反撃の能力すら封じ込められ、何もできないで立ち尽くしていた。
「今だ!」
 ナグと雪崩山は同時に動いていた。一瞬遅れて、五六と加藤も動く。ナグが呪言によって描いた金色の軌跡に、彼らのPKが乗って奔る。その先には空気の圧力から開放され、呆けたように飯島たちを見る老テオバルドがいた。
 金色の軌跡は、老人の座る台座となっていた岩を粉砕した。老人はバランスを失って、冷たい岩盤の上に落とされていた。
「テオバルド様!」
 蓮は、主の危機に気づいた。しかし、動くことができない。振り向くことすらできかった。
「は、蓮……」
 老人は砕けた岩盤の上でか細い声を上げていた。しかし、そこに助けに来るものはいない。
「もう蓮も役には立たないだろうな」
 老人の呟きを掻き消すように、言葉がだぶる。老人が顔を上げると、そこには大男が立っていた。
「藻間……」
「もうイグはいない。でも、彼女はあそこにいる。蓮から彼女を開放してくれ」
 藻間はあの〈神格〉の嵐の中、最後のチャンスを狙っていた。服は裂け、額からは相当量の血が流れている。岩盤の裂け目に身を隠し、空気の暴走に耐えていたのだ。例えそれが無謀な策であったとしても、藻間はそれをやらねばならなかったのだ。
 藻間は岩盤の上に落ちていた古書──〈写本〉を拾うと、言った。
「ナグ、テオバルドに邪封印を!」
 その叫びと同時に、ナグは呪言を唱えていた。老人の右手の甲に、赤黒い逆五芒星が浮かび上がる。肉の焼ける嫌な臭いに、藻間は眼を背けた。その背中に、絶叫がぶつかる。
「老テオバルドに邪封印がどれだけ効果があるかは判らないわ。でも、あいつにも邪神の血が流れているなら……」
 そう言うと、ナグは膝から頽れた。そのちいさな身体を慌てて雪崩山が支える。少女の貌は青ざめ、身体は細かく震えていた。
「もう限界ね……ナグが出てきちゃうわ……そうなったら、せっかくのチャンスもぶち壊し……」
「ナグ! しっかりしろ!」
「ナグって呼ばないで……雪崩山勇次……ナグが出て……きちゃう……」
 雪崩山の腕の中で、ナグは──本間香代は、最後の気力を振り絞って言った。
「加藤全一郎──〈写本〉を焼いて!」
 古書に赤い火が灯る。老人の視界には、炎の背後に、指を打ち鳴らす加藤の姿が入った。
 それが合図になったかのように、洞窟が崩壊を開始した。数度にわたる超常現象の嵐に、その岩盤がついに耐えられなくなったのだ。巨大な岩盤が次々に落下し、彼らの上に降りかかった。


 お茶の水は雨だった。
 朝にも関わらず、街は暗く、蒸し暑い空気が周囲を支配している。
 駅には、様々な人が降り立っていた。児童、学生、サラリーマン、老人。
 駅の近くにある大学病院に、見舞いであろうか、花屋で花束を購って持っていく人がいる。
 楽器店のセールに向かう、長髪にギターケースの若者がいる。
 パチンコの新装開店に並ぶ中年がいる。
 立ち食い蕎麦の暖簾を分けて飛び出す若いスーツの男がいる。
 黒、青、赤。色とりどりの傘の列。
 その中のひとつ、黒い折り畳み傘の男が、歩道を埋める人の流れに逆らって立ち止まる。
 傘の柄を小脇に挟むと、手にした機械式の一眼レフを構え、駅舎を撮る。ピントリングを調節し、露出を確かめ、レリーズを押す。乾いたシャッター音が彼の耳に届く。
 カメラを下ろし、傘を持ち直し、男は溜息をつく。
 その脇を、茶色い傘を差した眼の細い疲れた顔つきの男と、黒い傘を差した、眼鏡の奥に鋭い目つきを隠した男が通り抜ける。
 男は彼らに──特に眼の細い男には見覚えがあったが、あえて声はかけなかった。思い違いかもしれなかったし、かけたところで判るはずもないと思ったからだ。
 もう姿を見なくなって数週間になる。
 彼はいったいどこに行ってしまったのか──
 男は流れを堰き止めていることに気づかず、しばし呆然と歩道に立ち尽くしていた。
 親友の失踪は、彼にとって重大な事件だった。
 失踪──と言っても、彼がその親友に会えないことが即失踪ではない、ということは
男にも判ってはいた。
 しかし、いつもなら明るい顔をして学生ホールで仲間と談笑しているその顔を、彼は数週間見ていなかった。
 アパートに電話をかけたことも何度かある。しかし、彼はいつも不在だった。彼女ができたという話は聞いていたが、その程度で音信不通になる人間ではない──それは男にも判っていた。
 親友が超能力者であることは知っている。彼のサークルには写真家として参加していたし、サークルの後輩が自分の目の前で倒れ、介抱したことは決して昔の話ではない。そのことで揉め事に巻き込まれるのではないかと、いつも男は彼を心配していた。
 自分のことには能天気にできるが、親友のこととなると事情が違った。
 だが、自分には写真を撮ることしかできない──男はふたたびカメラを持ち上げ、ファインダーを覗いた。
 そこには、彼の通う大学が映っていた。
 私立B大学。二週間ほど前にボヤ騒ぎがあったが、今はその騒ぎも収まって平穏である。
 校舎の四ヶ所と中庭の一ヶ所を焼いたボヤは、原因不明で処理されていた。出火当時は日曜日で、学生は校舎にいなかったという。しかし当日は講演会が校舎内で予定されており、出入りする人物がいなかったわけではない。放火説が高かったのだが、出火場所に火薬や燃料の類いは全く検出できなかった。何の目的で作られたのか判らない床や壁、柱の中のちいさな四角い窪みだけが焼けていた、という。
 胸騒ぎがしていた。大学の近くにあった喫茶店が倒壊したときも、今回のボヤ騒ぎも、親友とその仲間の姿が見えなくなってしまったことと関係があるのではないか、と男は思っていた。
 根拠はない。だが、その想像は膨らみ、いつしか確信に変わっていた。
 シャッターを切る。
 そこに親友の姿は、ない。
 黒田の頬に、雨ではない水滴が伝い落ちた。
 傘の奔流が、そんな黒田の身体を次第に神保町方面に流し始める。
 その流れに逆らうように、駅の方向に傘も差さずに歩く少女がいた。
 幼い肢体に蠱惑的な笑顔を載せ、少女は黒田に近づいていった。
 美しい。ミドルティーン独特の、幼さと美しさが融合した美だ。天使のようだ、とも言えるし、悪魔のようだ、とも言える。
 スリムのジーンズに包まれた下半身は少年の躍動と少女のしなやかさを併せ持ち、細い腰は今にも折れそうな華奢な印象を与え、紅色のペイズリー柄のTシャツの下の胸は、これからの芽吹きを待つ若芽のように気持ち膨らんでいる。
 その美しさに、黒田は突き動かされたようにカメラを向け、シャッターを切った。
 ファインダーの中の少女は、ショートカットの黒髪に右手を入れ、掻き上げるような仕草を見せていた。ふわり、と少女特有の芳香が拡がる。
 次の瞬間、少女は右手を髪から離すと、指をゆっくりと拳銃の形に変えて構えた。
 その人さし指は、黒田の眼をファインダー越しに狙っていた。
「……あなたもあたしに呪い殺されたい?」
 少女が呟く。同時に、黒田自慢のカールツァイス・ゾナーは粉々に砕け散っていた。衝撃にのけ反り、歩道の水溜まりに尻餅を突く。
「な、な……何が……?」
 黒田がカメラから眼を上げたときには、少女の姿はどこにもなかった。
 その横を女性が、ピンクの傘をくるくると回しながら通る。白いフレアのミニスカートがふわりと揺れる。
 ややくせのある猫っ毛が、雨の湿気を吸って重たげに揺れる。耳にかかった髪を軽くかき上げ、足取りも軽やかに、しゃがみ込んだまま周囲を見回す黒田の脇を抜けて歩く。
 ピンクの傘は歩道の波から外れ、大学の脇にある一本の路地に入っていった。
 長屋のような建物が軒を連ねる、古い駿河台の雰囲気を残した街並み。
 その中に、客足の途絶えた中華料理店がある。
 暖簾は汚れ、店名も確認できない。昭和三〇年代の雰囲気を残した、支那そばと大書された破れ提灯が軒下に下がる。引き戸の硝子は脂で煤け、店内が明るいのか暗いのかさえ判然しない。
 その滑りの悪い引き戸を前に、女性の傘は閉じられていた。
「いらっしゃいませ」
 中から声が聞こえる。自動ドアよろしく、引き戸が軋みを上げながら開かれた。
 扉の向こうから背のちいさな少女がひとり、白いエプロンに三角巾という古風な装束で現れた。髪が長い。腰まであるストレートの髪は漆黒である。暗い中華料理店の照明でも、その髪は玉虫色に輝いていた。
「元気そうね、イ……佳奈」
「イグでいいです、里美さん。呼び慣れないでしょ? 色々とご迷惑をおかけしました。もう大丈夫です。藻間さんの怪我も思ったより軽かったですし……明日には退院できると聞いています」
「良かった……ナグは?」
 里美はもうひとりの影を追って店内を見回した。
「ナグは……いません。もう戻ってこないかもしれません」
「そう……」
 イグは視線を逸らした里美に、元気に言った。
「皆さんがお待ちかねです。久しぶりの部会ですものね」
 その言葉に、里美の曇った表情が元の明るい色に戻った。
「里美!」
 店の中から、声がかかる。里美には、見なくても判る声だ。耳にするだけで暖かくなる、愛しいひとの声。
「雪崩が遅れてるけど、部会を始めるぞ!」
 部長だけがいない、アミューズメント・パーティの部会が開始された。

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