■処刑特捜CH外伝 蒼穹の鎧■

   広大なる宇宙。
 この無限の空間に存在する、小さな小さな惑星、地球。
 地球に棲む高等知的生命体──彼らは自らを〈人間〉と呼んだ──は、その暗黒の世界を夢見、憧れてきた。
 宇宙──その深宇宙には、彼らの想像もつかないような世界がある。彼らの想像を絶する存在がある。彼らの精神を破壊するほどのものがある。
 そんな驚異のひとつが、今、地球に降りてきていた。


     プロローグ 


 無限に広がる大ジャングル。
 視界いっぱいに広がる熱帯性の樹木。昼なお暗い、鬱蒼とした空間。蒸れるほどの湿気。足場を強奪する雑草。
 アフリカの奥地には、現在もなお人間が足を踏み入れたことのない未開の土地が存在する。このスハルトジャングルもそのひとつである。
 スハルトジャングルという呼び名の由来は、国際的な探検家の協会であり、世界中の探検家が名を連ねるIAI(International Adventurer Institution)の命名によるものである。
 一八九七年、イギリスの探検家ジョナサン・スハルトがこのジャングルに赴き、そのまま消息を絶ったことから、この土地を西欧ではスハルグルと呼ぶようになったのだ。
 スハルトジャングルは、アフリカ大陸のほぼ中央に位置する。面積的には決して大きなジャングルではないが、周囲の国々からも隔絶され、今世紀最大の秘境とまで言われている場所である。ジョナサン・スハルト以降も、何人もの探検家がこの土地に挑戦し、ある者は敗れ、ある者は帰らぬ人となっていた。
 そのスハルトジャングルを今、数人のパーティを組んだ人々が歩いていた。
「……今回の取材はイマイチでしたねぇ、クロンカイトさん」
 背の低い、鼻の大きなアメリカ人が、その大きな口から疲れた声を発した。しかし、パーティの中にいるであろうクロンカイトと呼ばれる男は、その言葉には全く反応を見せない。
 このパーティは、日本の雑誌社の依頼によって形成された取材チームである。その取材対象は、スハルトジャングルにいると言われていた未開住民の密着取材であった。
 しかし、この取材は失敗に終わった。スハルトジャングルにいた土着民族は、決して未開の人々ではなかったのだ。首狩りや割礼の儀式もなく、文明人を恐れる気配も見せなかったのだ。
 取材チームの長であり、ルポライター兼カメラマンとして世界的に売出し中の彼、ウォルター・クロンカイトは、その人々の光景を見て、一気に興ざめしていた。
 助手のチャフィーに言われるまでもなく、今回の取材は失敗だったのだ。下調べの不完全なままニューヨークから直接このスハルトジャングルへ飛んだ。パーティの人間は、荷物の運搬役として現地人が二人、助手の陽気なマイク・チャフィー、そしてウォルターの計四人。最小限度のパーティである。
 二週間、このジャングルの中を歩き回った。そして、取材の失敗。これは致命的であった。
 ウォルターのルポライターとしての生命にも係わるミスである。
 自然と、彼らの足取りは重く、その表情は陰鬱になっていった。
 そんな彼らを、ジャングルの太陽は鋭い光線となって照らしつける。木漏れ日の中、再び静かな行軍が続いていた。
 額の汗を拭いながら、ウォルターは東京で待つであろう出版社の、一度だけ会ったことのある典型的な日本人の顔を思い出していた。
 眼鏡。白いワイシャツ。ポマードの臭い。七三分けの頭。趣味の悪いネクタイ。靴を脱いで足を組む仕種。透けて脛毛の見える茶色い靴下。唾を飛ばして怒鳴る表情……。
 ウォルターはそこまで考えてから嫌になり、頭を数回振った。失敗は認めねばなるまい──うっすらと伸びた琥珀色の不精髭に手をやり、ウォルターは思った。
 その時である。前を歩いていた荷物運びの現地人が、突如異様な声を上げて立ち止まったのだ。荷物を肩から地面に捨てるように落とし、ウォルターの方を見て何やらわめいている。ウォルターには分からない、現地の言葉だ。通常の会話は英語で行われていたが、興奮した現地人は、英語で伝えることも出来ないほどに錯乱していたのだ。
「何だ? 何かあったのか?」
 ウォルターもまた、現地人の指す方向を見る。しかし、悲しいかな、視力の違いは歴然としていた。ウォルターの、いや文明人の視力では、彼らの指す物を見ることは出来ないのだ。
 ウォルターは赤外線双眼鏡を出した。木漏れ日の差すジャングルではその効果のほども怪しいが、それもとっさに出せる位置にあったからだ。とにかく、ウォルターは見たかった。
 それは、ジャーナリストの勘と言ってもよかった。
 二〇〇メートルほど前方であろうか。何か巨大な動物同士が闘っているようにウォルターには見えた。二体、だ。一対一の闘いらしい。
 それが自分の眼で確認出来た瞬間に、ウォルターは走り出していた。失敗を挽回出来るかもしれないのだ。密林で巨大動物が死の決戦! 記事としては大したことはないだろうが、写真にした時、この迫力は大きい。きっと出版社側もこの写真が撮れれば文句は言わないであろう。ウォルターはそう考えながら、必死に走った。
 彼の胸にはニコンのF3とミノルタのα7000が下げられていた。既に手に赤外線双眼鏡はなかった。その手は素早くニコンF3に伸びた。
 その被写体から百メートル近くまで寄った時、ウォルターははっと気づいたかのように足を止め、草むらに身を潜めた。相手は動物である。不用意な気配は消さねばならない。ウォルターは興奮状態を抑えるかのように、少しずつ息を整えていった。
 ニコンF3には、一○五ミリの中望遠レンズが付けられている。一〇〇メートルならば、もう少し寄らねばならない。静かに、静かに彼は被写体に寄って行った。
 静かだったジャングルの中に、僅かずつ音の響きが伝わっていった。闘いの激しさが伝わってくる。木々の折れる音、地面の鳴りひびく音、草々の擦れる音、そして雄叫びにも似た声。
 ウォルターは二体を肉眼で捕らえる位置にまでやってきていた。そして、F3のファインダーを覗き、驚愕した。
 二体を間近に見たのだ。
 二体と呼ぶべきなのか、二人と呼ぶべきなのか、ウォルターは一瞬迷った。その二体に最も近い動物の名前を冠するならば、やはり「二人」──人間である。しかし、彼らは人間そのものではない。明らかに、人間以外の、人間の形をした生命体であった。
 片方は、人間の形状をしている──二足歩行、肩関節の位置、筋肉の構造等──だけの、別種の生物であった。何に似ていると言うには、あまりに雑多な印象しか持つことが出来ない。強いて言うなら、熊の革を被った筋骨隆々の男の、頭や背中や手に蟹の手が生えている──とでも表現すべきか。
 もう一方もまた、ウォルターには理解しがたい存在であった。片方が怪物的なのに対し、こちらは決して怪物的ではない。身体はかなり大きいが、それでも人間サイズであり、はっきりと人間である、と断定してもよかった。着ている服も、黒のブルゾンに紺のジーンズと、彼がニューヨークやロスでなら見ることも可能であろう程度の、常識の範疇に入ったものである。
 しかし、彼には人間とのはっきりとした相違点があった。ウォルターはそのファインダーの中にそれを見、天を仰ぐ気分で呟いた。
「おお……チキン・ヘッド……」
 もう片方の男は、頭が完全に鶏のものだったのだ。
 そんな二人が、互いの肉体の限界を用いて格闘戦を展開しているのである。双方とも二メートルに届きそうな巨体を軽々と宙に舞わせ、樹木をなぎ払って突き進んでいく。ウォルターは、遅れまいと必死に後を追いながら、露出とピントに苦戦していた。
 二人が立ち止まり、対峙し始めた。チャンス到来である。ウォルターは逆光にならないベストポイントに回り込み、一気に露出とピントを合わせた。そのファインダーには、〈鳥頭〉が一杯に写っていた。
 その時である。それまでは全く素知らぬ顔をして相手を睨んでいた〈鳥頭〉が、突然ウォルターの方を睨みつけたのである。ファインダーを通して眼の合ってしまったウォルターは、軽い悲鳴とともにシャッターを押していた。
 次の瞬間には、巨大な二人は再び疾走を開始していた。轟、と風が鳴り、木々が悲鳴を挙げて倒れていった。当然、ウォルターもその後を追った。
「チャフィー、F3を頼む!」
 後方から息も絶え絶えに追ってきた助手に、ウォルターは手にしたニコンを投げて渡した。F3に入っていたフィルムは、その撮影部分を終了していた。いわゆる「隠し弾」や「命弾」と呼ばれる、最後に一枚だけフィルムを残しておいて急務に備えるための部分を使ってしまっていたのだ。
 ウォルターの手には代わりにミノルタα7000が握られていた。これなら、露出もピントも合わせが必要ない。F3のフィルムチェンジはチャフィーに任せてあるし、こいつが終わるまで奴らが闘っていてくれるとは限らない──ウォルターは必死になっていた。
 闘っているのは、謎の生命体である。宇宙人とか、突然変異体とか、考え方は様々であろう。しかし、ウォルターにとっては、それはどうでもいいことだった。とにかく、現在この場で起こっている現象は、異常なのだ。そんな人の知らない異常をカメラに収め、記事にするのが自分の仕事なのだから──ウォルターの眼が、やっと二人の巨人に追いついた時には、もう彼のシャツは汗でべっとりと肌に吸い突いていた。
「さあ、存分に闘ってくれよ!」
 ウォルターはミノルタを構え、ワインダーを鳴らした。
 〈蟹熊〉がその太い腕を震わし、〈鳥頭〉を襲う。〈鳥頭〉はすんでのところでそれをかわし、逆にその剛腕を震って〈蟹熊〉の胸を強襲する。直撃を喰らい、どう、という地響きを立てて〈蟹熊〉は倒れ込む。しかし、その程度の攻撃では、〈蟹熊〉の致命傷にはならない。
 〈蟹熊〉の右手が発光する。ちょうど蟹の爪のようになって肘から突き出している部分である。それが虹の尾を引いて〈鳥頭〉に襲いかかる。〈鳥頭〉はスウェイバックして軽やかに避けるが、紙一重であることに変わりはない。
 何かの焦げる、嫌な臭いが森に充満する。その時初めて〈鳥頭〉は、〈蟹熊〉の爪が高熱を発して自分のブルゾンを切り刻んでいることに気づいた。
 〈鳥頭〉は空中に逃れ、まるでついでのことのように〈蟹熊〉に蹴りを喰らわせた。よろめく〈蟹熊〉。樹木が啼き、空気が震えた。
 着地した〈鳥頭〉が、このままでは埒があかん、といった表情をした。顔の造形はまさしく鶏なのだが、眼が妙に人間臭い表情を持っている。
 隙が出来た。〈蟹熊〉がその〈鳥頭〉の隙を逃すわけがなかった。〈蟹熊〉はその背後に生えている蟹の腕を一斉に発射した。白い蒸気のようなものが蟹の腕を垂直に上昇させ、ジャングルの上空へと消えていく。〈鳥頭〉はその〈蟹熊〉の行動を不審に思いながらも、何度目かのファイティングポーズを取る。
 〈蟹熊〉は再び、熱源爪での攻撃を始めた。爪が樹木を切り裂き、その切れ目が焦げて嫌な臭いを発する。巨体を揺すりながら、〈鳥頭〉はその攻撃をかわしていた。
 攻撃をかわす関係上、〈鳥頭〉のその背後に隙が出来ていた。そんながら空きの背後に、先程上空に放っておいた蟹の腕が舞い降り、絡みついた。
「!!」
 これにはさしもの〈鳥頭〉も驚き、もがいた。しかし、複雑に絡み合った蟹の腕は、容易に彼に自由を与えはしなかった。次第にその腕は締まり、彼の自由はおろか、生命にさえも危機を与えようとしていた。
「どうだ? チキンヘッド。そのキャンサーキャプチュアからは逃がれられまい」
 〈蟹熊〉がその熊の口から、いやらしい笑いとともに言葉を吐いた。これには、ウォルターも驚いた。
 英語なのだ。それも、ウォルターの育ったニューヨーク訛りのある、米語の中でもかなりラフな喋り方だ。まるでウォルター同様ニューヨークで生まれ育ったかのような英語を、〈蟹熊〉が喋ったのだ。
「拳達鬼キャンサーベアーよ、貴様ごときに敗れるこのチキンヘッドだと思うか?」
 〈鳥頭〉もまた、その〈蟹熊〉の口利きに対抗してか、不敵な笑いとともに言葉を紡いだ。
 再び、ウォルターに驚愕の時が訪れた。〈鳥頭〉もまた、ニューヨーク訛りのある米語で喋ったのだ。一体なぜ、彼らはウォルターと同じ言葉で喋るのか?
「見るがいい! HANGの科学力と、正義の心を! ブースト・プロテクトっ!!」
 〈鳥頭〉が叫んだ。その叫びがウォルターの耳に届くや否や、〈鳥頭〉が蒼い光芒に包まれた。眼が眩み、ウォルターは青白い光を瞼の裏に残したまま、暫し視界を失っていた。
 ウォルターが視界を取り戻した時には、その闘いは終わりを告げていた。彼には、青と緑の中間の輝きを持ち、その身体の所々に黄金のストライプを持つ甲冑を纏った男が、その手にした長大なる剣に稲妻を轟かせ、〈蟹熊〉を両断するのが僅かに見えただけであった。
「おお……〈蒼穹の鎧〉だ……」
 追いついた現地人が、口を揃えて言った。ウォルターはその現地人の口から出た言葉が英語だったのに気づき、自分も口に出して言ってみた。
「〈蒼穹の鎧〉……?」
 眼を〈鳥頭〉に戻す。装甲を纏った〈鳥頭〉は、焼け焦げる〈蟹熊〉の身体を探り、その体内から光る珠を取り出していた。
 それは、〈鳥頭〉の体格からすれば、小さな珠であった。察するところ、直径八センチほどであろうか。エメラルドグリーンに輝くその珠を握りしめると、〈鳥頭〉の姿は掻き消すようにその場から消えていった。
 夢のような光景だった。ウォルターは、その焼け焦げた〈蟹熊〉の死体の前に立ち、ただ茫然としていた。
 果たして、眼から入った映像信号は、全て信用するに値するものだろうか?
 ウォルターは、自分の眼を信用出来なくなっていた。


      第一章 


 その日の風は、三月の風にしては冷たかった。春一番が吹いてから、既に一週間以上が経っているというのに、である。東京が、いや日本全体が冬に逆戻りしたかのような風が、街に強く吹きつけていた。ウォルターには、少なくともそう感じられた。
「……くそっ」
 汚らしい言葉を口にしながら、ウォルターはとぼとぼと街路を歩いていた。ときたま擦れ違う日本人たちが、彼の高い背と琥珀色の髪、そして蒼い眼にその視線を注いでいたが、ウォルターにはそれを煩わしく思う余裕すら残されてはいなかった。
 ウォルターは僅か四日前のことを、まるで懐かしい子供時代のように回想していた。
 スハルトジャングルの暑さ・湿っぽさ・暗さ。〈鳥頭〉。〈蟹熊〉。〈蒼穹の鎧〉。そして……。
 彼のミノルタには、何一つ画像は写されていなかった。フィルムの装填ミスがあったのだ。カメラマンとしても、ウォルターは初歩的なミスを犯したのだ。
 ウォルターはジャケットの胸ポケットを探り、一枚の写真を取り出した。それは、あのジャングルの状況が唯一写されていた、ニコンのフィルムからのプリントだった。
「これじゃ、証明にはならんしな」
 ウォルターは呟いた。そのプリントには、増感処理による粒子の粗さが目立っていた。素人には、何が写っているのかも理解出来ないであろう。
 しかし、ウォルターにははっきりと分かる。その写真の中でこちらを睨んでいる、鶏の頭を持つ男の表情が、まるで手に取るように分かるのである。
「編集長は信じてくれなかった。しかし、俺のライフワークにはなりそうだ」
 ウォルターは再び呟き、赤信号の交差点で立ち止まった。眼の前を、四車線の大きな交差点が走っている。車の量は、ニューヨークよりも多いだろう。
 ウォルターの日本びいきは、仲間内にも編集者間にも有名なところである。まだ二十六歳ではあるが、彼は既に二〇回を超える訪日を行っており、東京には彼の根城ともいえる土地もいくつか存在していた。
 フリーのライターになって二年、ニューズウイーク時代を加えてもまだ四年である。彼はまだまだ新人売出し中のルポライターである。これしきの失敗でくさっている暇などないのである。
「ま、いいか。飯でも食って帰ろう」
 ウォルターは足を御茶の水に向けた。そこには、行き着けの店がある。
 東京では、彼はアメリカ人であるにもかかわらず、それほど目立たない。確かに背は高いし、金髪の髪は日本人の眼を引く。しかし、この神保町の古本街の人込みに紛れると、それほど目立つ存在ではなくなる。それだけ彼はこの土地での生活に馴れ、日本人の中に溶け込むことを知っている、ということでもある。
 擦れ違う日本人たちは、そのほとんどが彼を見ても珍しがったり不安がったりしない。それは、彼の風貌が穏やかで優しく、アングロサクソン特有のとんがった感じがないからだ。また、彼自身が日本語が達者であることも、それに一役買っていた。
 ウォルターは駿河台を御茶の水駅の方向に登り、B大学の脇道を入る。その少し入った所に、彼のお気に入りの中華料理店『白楽天』がある。
「こんにちはぁ」
 ガラスの嵌まった引き戸を引く。特有のガタガタという音とともに扉は開き、中からおやじの調子のよい声が響いてくる。
「いらっしゃーい。ああ、クロンカイトさん、久し振りですねぇ」
 おやじが少し意外そうな声を立てて言った。店には、二人連れの客が一組と、若い女性客が一人いるだけであった。そんな店内を見回し、照れ笑いに似た仕種をしながら、ウォルターは空いている席に座った。彼が腰をかけたと同時に、店の中の壁時計が二時を知らせた。
「最近はどうですか」
 ウォルターがおやじに訊く。おやじは他の客にラーメンを運びながら答える。
「そうだねぇ、ウチの経営のことを言うなら変化なし、だね。この周囲はまた色々ゴタゴタしてたけどね」
「ゴタゴタ? 学生運動とか? それとも、事件かい」
 ウォルターのルポライターの虫が刺激される。おやじはあんたには関係ないことだよ、と言って奥に引っ込んだ。ウォルターは、その答えには不満顔だったが、それ以上を尋ねることはしなかった。それは、彼流の礼儀だった。
「で、ご注文は?」
 そこに、ウォルターの眼からは小学生にしか見えない、ちいさな少女が注文を訊きに来た。ウエイトレスなのだろう。
「イイジマ・スペシャル」
 ここ一年、ウォルターは白楽天でそれ以外のメニューを頼んだことはなかった。彼の前の席に座っていた二人連れが、そのメニューに少し驚いたように彼の方をちらっと見ていた。
 ウォルターは深く椅子に腰掛けると、くつろいだ気分になった。今の今まで、編集者に怒鳴られていたとはとても思えないほどのリラックスの仕方である。
 彼の眼は、店内の細かな部分も逃さないかのように見張られていた。しかし、実際に彼の視神経に入ってきている映像は、かなりぼんやりとしたものであった。
 彼は空間を睨んでいたのである。それは、彼が想像をめぐらせる時の常套手段であった。
 彼の頭の中は、再びあのスハルトジャングルでの出来事で一杯になっていた。それは、彼にとって至福の時であった。記憶と想像に任せ、彼は脳裏に様々な画像を展開していた。
「はい、おまたせ」
 おやじの声で、ウォルターは現実の世界に戻った。とはいえ、このおやじの声は彼に向けられたものではなかった。彼の左側のテーブルに着いていた女性客に対してのものだったのだ。ごとっという音と、チャーハンの油の香りがウォルターの聴覚と嗅覚を刺激する。と同時に、彼は視覚もまた刺激されていた。
 軽く「ありがとう」と言ったその女性──いや、少女と呼ぶ方が正しいか──は、その流れるような黒髪を軽く掻き上げながら、レンゲを取った。そのたおやかな手の動作は、特筆に値する。ウォルターには特にそう思われた。
 少女は、美しかった。その容貌もさることながら、身体全体の動作といい、その雰囲気といい、全身から上品さを醸し出していたのだ。それがまた、厭味になっていない。いわゆるミス何とかといった感じのものではないが、男が惚れるとしたらこれほど完璧な女性はいないのではないか?と、外国人の彼でさえそう思わせる美しさを有していた。
 光の少ないこの店内にあっても、少女の髪はきらきらと輝いていた。この髪の輝きが、ウォルターの興味をそそった。好奇心の虫をくすぐったのである。決してスハルトジャングルでの一件を忘れてしまったわけではない。しかし、目の前の美味しいエサに飛びつかずにいられるような彼ではなかった。
「あいよ、スペシャルお待ちぃ」
 そんなウォルターの目の前に飯島スペシャルがやって来た。飯島スペシャルは元来、この店の常連客であるB大学の大学生・飯島洋一の開発した特別メニューで、飯島のサークル仲間以外の人間が注文することは出来ないし、第一そんな名前のメニューはお品書きにも載ってはいない。ウォルターは約一年前、この店を知った時にこのメニューを彼のサークルの仲間から知ったのである。
 飯島スペシャルの中身は壮絶である。ラーメン、ギョーザ、スブタにチャーハンがついて、なんと三〇〇円である。ウォルターはスブタが苦手なので、代わりにサラダをつけてもらっているが、それでもこの量でこの金額は殺人的である。
 ウォルターは黙々と食べ始めた。しかし、その心は味には配られていなかった。
 ウォルターは少女を尾行ていた。あまりいいやり方とは言えないが、ウォルターはチャンスを待っていた。
 彼の行動は、決してナンパなどではない。彼女に何かを感じたのである。その閃きは、彼の取材開始の前触れであることが多く、事実その閃きから事件をルポした経験もあった。
 ウォルターが少女に魅かれたのは、その美しさ故ではない。それ以外の、いや、それ以上の何かが、彼を揺り動かしたのである。ウォルターは、その「何か」を信じて行動していた。
 少女は歩き続けていた。何かを捜している様子もない。ただ、黙々と歩いていた。そのペースは早く、ウォルターは一時も気の抜けない尾行を続けていた。
 随分な距離を歩いた。御茶の水の白楽天から、どのくらい歩いたであろうか。幾つものビル街を抜け、周囲が開けた。
 皇居の濠が見える。彼女の目的地は、皇居だったのだろうか。ウォルターは不思議がった。
 しかし、少女はまだその歩みを止めることはしなかった。ずんずん歩いていく。全く疲れを見せないその歩みに、ウォルターも負けずについて行く。
「公園……?」
 少女はついに、その目的地に到着したらしい。歩みが緩やかになり、足取りが以前に増して軽やかになった。ウォルターはその公園の入口に立ち、石碑に刻まれた文字を読んだ。
「日比谷……公園……」
 何と少女は、御茶の水から日比谷まで歩いてきたのである。尾行という特殊な状況だったために距離感のつかめなかったウォルターも、これには仰天した。しかし、この入口で尾行は終わったわけではない。彼は少女を追って中に入った。
 平日の午後とはいえ、日比谷公園に人は多い。うじゃうじゃといるわけではないが、サラリーマンの休む姿や若いカップル、老夫婦の散歩姿などがいたる所で見られる。尾行は今までよりは難しくなったわけであるが、周囲に気を配りさえすれば、さほど困難な仕事ではない。
 少女は公園の一角に入った。設備の何もない、ちょっとした広場のような場所だ。ウォルターは木陰にあるベンチに腰をかけ、様子を伺った。
 あの少女に、一体何があるというのか? 一体、何が自分をここまで魅きつけているのか? ウォルターは自問した。事件の臭い? それとも、彼女に惚れた? いや、この感覚はどちらでもない。それ以上の何かがある──彼はそう感じてやまなかった。
 そして、それは確信に変わりつつあった。
「何か御用? クロンカイトさん」
 うつむいて考えていたウォルターの視界に、白いミニスカートから出た、白いブーツを履いたすらっとした脚が入った。そして、この声。ゆっくりと視線を上にずらす。次第に、声の主の姿が眼に入ってきた。
 白いミニスカート。白いジャケット。手には白いドライバーズグローブをはめている。ジャケットの胸元には、淡いピンクのタートルネックのシャツが見える。そして、長い、綺麗な輝く黒髪。薄いピンクのルージュ。可愛らしく睨みつける黒い瞳。細い眉──眼前に立っていた人物は、あの、ウォルターの尾行けていた少女であった。
「ウォルター・クロンカイトさんですね? 私に何か御用ですか? あのお店からずっと尾行けてきていたみたいですけど」
 そう言って、少女は微笑んだ。何もかも、知られていたのである。ウォルターは茫然として、すぐに返答することは出来ないでいた。
「……なぜ、僕の名を?」
 ウォルターはとっさに自分のことを「僕」と言っていた。それは、日本人に対する彼の、警戒した時の言葉遣いであった。
 しかし、少女はそんなことはお構いなしである。にこにこと微笑みながら、ウォルターの顔をまじまじと見つめている。
「あなたの記事はよく読ませていただいてますの。『タイム』と『ニューズウィーク』は愛読誌ですのよ」
 少女はポケットからピンクの紐を取り出すと、その紐で髪を縛りながら、にこにこと笑った。身体全体でリズムを取るようにして腰を振りながら、紐を結ぶ。その仕種はまるで、金縛りにあって動けないウォルターを見て、楽しんでいるようであった。
「私に興味がおありですの? クロンカイトさん」
 髪をポニィ・ティルに縛り終え、少女はウォルターの顔を再び覗き込んだ。ウォルターは未だにうまく会話の交わせない状態にいた。それが何故なのかは、彼には全く理解出来ない。自分の置かれた状況が、何故自分に不利に働いているのかすら、彼には理解出来ないでいた。
「……君の名前を知りたい」
「あら、ナンパですの? それならそうと最初から言っていただければよかったのに」
 少女は意外そうな声で言った。しかし、その表情は以前と全く変わってはいない。にこにこと笑ったままである。
「私の名は神垣麗。日本語の達者なあなたなら、解説は不要ですわよね」
 少女は名乗った。ウォルターは耳から入ったその名を脳裏に刻み込んでいた。かみがき・れい──神垣麗。
「で、だな。神垣さん……」
「御免なさい。ちょっと用事が出来ちゃったみたい」
 麗はウォルターから視線を外し、森になっている公園の北の方を見た。眼がきゅっと細くなる。何かを注視しているのだ。ウォルターもまた、その方向を凝視した。
 そこには、男がいた。グレーのスーツに真っ赤なネクタイをした、山高帽の男である。日本人離れしたその彫りの深い顔には、いくつもの皺が寄っていた。ウォルターにはそれが、怒りによるものであると分かった。
「まさか、こんなに早くお目にかかれるとは思っても見ませんでしたよ……ミス・神垣……」
「あら、それはどうも。光栄ですわ、拳達鬼さん」
 二人は睨み合ったまま、動こうとしない。ウォルターはべンチから腰を上げ、その二人を見比べた。二人の視線の間には、火花が散りそうな雰囲気があった。この二人の間には、何か相当なものがあるらしい。
 麗がじり、じりと左に移動する。男がそれに対応するかのように右に移動する。そしてまた立ち止まり、対峙する。二人は再び睨み合いに入った。張り詰めた空気が、周囲を占領する。いつの間にか公園独特の喧騒はウォルターの耳には届かなくなっていた。彼は一気に息苦しくなったような、そんな錯覚に囚われていた。
 すっ、と麗の両手が動く。その手はミニスカートの左側に縫い付けられていたファスナーに伸びる。そして左手がファスナーの脇のスカートの裾を掴み、右手がファスナーの金具を摘む。
 ジジーッというファスナーの上げられる音が、静寂の支配する空間に鳴り響いた。ウォルターは、ミニスカートが真っ二つに割れて下着が露出する様子を想像していたが、そうはならなかった。ファスナーは腰まで上げられたが、その奥にも布地が存在していたのである。つまり、ミニのタイトスカートが一瞬にしてミニの巻きスカートに変身したのだ。これで、太股の自由度は格段に上がったわけである。
「いらっしゃい、拳達鬼さん! この東京のど真ン中で獣化する勇気があるならね!」
 麗が跳んだ。その跳躍は、ウォルターの今まで見てきたあらゆるスポーツ選手のそれを、はるかに超えていた。と同時に、男も跳んだ。麗に見劣りしないその跳躍も、ウォルターの常識の範疇外のものであった。
「あなた程度の人を始末するのに、変質は必要ないのですがね」
 男はそう前置きしてから、芝生を蹴ってもう一度跳躍した。麗はその跳躍の軌跡の下をくぐり抜け、森の中に逃げ込んでいた。その動きは素早く、とても人間技とは思えない。
 ウォルターは背中に背負っていたバッグからキヤノンEOS−RTを取り出し、その二人の後を追った。意外な形ではあったものの、彼の勘は的中したのである。
「何だか知らんが、ネタになりそうだぜ」
 ウォルターは嬉しさに顔を綻ばせながら、二人の後を追った。今はピーカンの真っ昼間である。こんな絶好の写真日和なら、ミス撮影は有り得ない。彼の自信が再び彼を奮い立たせていた。
 四日前の、あの時のように。
 木々の擦れ合う音が響き、男と麗の姿が僅かに見える。大地を蹴る音を合図に、二人が空中に踊り出た。高い。人間の跳躍距離をはるかに超える距離である。その空中で、男と麗は格闘戦を行っていた。
 男の蹴りが麗を襲う。しかし、麗はそれを左脚で受け、その反動を利用してソバットを見舞う。男の胸に麗の右脚がヒットするが、空中ゆえ威力は半減する。男は胸を押さえた状態で地面に降り立った。
 麗は空中でもう一回転してから地上に降りた。ふわりと髪が舞い、きらめきを空中に残す。そしてすぐさま体制を整えるべく背後に跳躍し、相手に付け入る隙を与えない。その軽い身のこなしに、男はにやりと笑って納得顔を作った。
「さすがはHANGの女性捜査官……甘く見た私が間違っていたようですな。もう手加減はいたしませんぞ、ミス神垣!」
 男が吠えるような声で言う。麗はその声を聞いて微笑む。ぺろっと舌を出して、上唇を軽く嘗める。明らかに余裕の仕種である。男は両の腕を広げ、麗に向かって突進を開始した。
 長い腕が空を斬る。その風の音を聞くだけで、男の筋力が知れる。凄まじい瞬発力だ。かわしたはずの麗も、前髪が数本切れたことに驚異を感じていた。その開いた胸に両足で蹴りを加え、反動で麗は後転してその腕から逃れる。男も今度はその程度の攻撃では怯まない。腕を再び広げ、腰を一気に九〇度曲げて麗に襲いかかる。
 男の左手が麗の脇腹にヒットした。もんどりうって転げる麗。漆黒の髪がふわっと展開する。しかし、ダウンはしない。麗は素早く立ち上がり、公園の木々の間に身を潜めた。
 ウォルターは、その闘いを必死になって追っていた。カメラが二人を追い切れないのである。とてもではないが、二人は早すぎた。止まっていてくれないのである。ウォルターは次第に焦りを感じてきていた。
 ざっ、と草を掻き分ける音が響いた。男の背中に麗がドロップキックを喰らわせたのである。草むらからの突然の攻撃に男は怯み、芝生の上に突っ伏した。麗はスカートの裾を気にしながら立ち上がり、男から素早く離れた。
 ファイティングポーズを取りながら、麗はウォルターに言った。
「クロンカイトさん、まだそこにいて写真を撮ろうというのなら、おやめになったほうがよろしいですわよ。怪我をしてからでは遅すぎますからね」
 ウォルターはぎょっとした。一瞬ではあるが、麗の眼がファインダーの中の自分を睨んだのである。この仕種は、四日前の悪夢を彼に思い起こさせた。デジャ・ヴュに近い衝撃であった。
「お喋りの余力があるとは、ますます本気にならざるを得なくなってきましたね」
 男はゆっくりと立ち上がり、肩で笑いながらそう言った。麗からは背中しか見えないため、その表情はうかがい知れない。麗はちょっと嫌だな、といった表情をしたが、すぐさま気を取り直して微笑んだ。
「光栄ですわ。でも、獣化しないと私には勝てませんことよ」
 麗は全身から気を発し、背中を向けている男を睨みつけた。
「なるほど、そのようですな……では、変質させていただきましょうかね……」
 そう言って、男はくるりとその顔を麗に見せた。その顔は既に、人間のものではなかった。
 ウォルターは四日ぶりに、悪夢の中に叩きこまれたかのような感覚に襲われた。
 また、怪物である。前回はアフリカの奥地、スハルトジャングルであった。だから、異常な現象が起こってもある程度は納得が出来た。しかし、今回は東京のど真ん中、日比谷公園である。必然性がない。信じるに値しない。やはり、何か間違っている。ウォルターは、また自分の視神経を信じることが出来なくなっていた。
「お嬢さんに、拳達鬼の本当の恐ろしさを知らせてあげる必要がありそうですな」
 男の全身がとろけるように軟質化していく。いや、液状化と言っても過言ではあるまい。とにかく、どろどろとしたものに変化していく。その変化も次第に単なる化学変化から、何か象徴的な物体を形成するような変化に変わっていく。
 変質時に質量が増加するのが、ウォルターには不思議でならなかった。しかし、男の立っている周囲の芝生が次第に枯れていくのを見て、何となく納得がいった。
 奴は、周囲のエネルギーを何でも取り入れて変質のエネルギーにしているんだ──ウォルターはそう思った。そして、そんな冷静な回答を出せる自分の精神にも、少しばかり驚いていた。
 やはり、見たままの状況が、ここにはあるのだ。
 男はその変質を完了しようとうしていた。時間に直せば、僅か五〜六秒といった所である。まるで映画のスローモーションのように感じたのは、ウォルターの観察眼の細やかさによるものであろう。
 男はスーツを切り裂き、その醜悪なる身体を露顕した。その身体には毒々しい黒と黄色の不規則な模様が入り、腕の数が六本に増殖していた。全身の表面はぬめぬめと輝き、粘液質のものがその表層を覆っていた。
 さらに醜悪なのが、その頭部である。人間の頭の大きさを一とすると、その頭は五以上の大きさを有していた。白い傘のような形状で、その周囲にはひらひらとしたゼラチン状のヒレを多数つけている。そのヒレも、てらてらと輝いていた。
 そう、何と表現していいのか……ウォルターはその怪物を、クラゲの頭を持つ蜘蛛だと思った。その〈水母蜘蛛〉は、変質を完了するや否や、麗に向かって名乗りを上げた。
「我が名は拳達鬼・メデューサスパイダー! HANG特別捜査官・神垣麗! この姿を見て生きて帰れると思うなよ!」
「獣化したら、いきなり言葉遣いが悪くなっちゃったのね。がっかりだわ」
 麗はメデューサスパイダーの姿を見ても、それほど驚いている様子はなかった。どちらかというと、逆に呆れているようなフシも見受けられた。
「でも、いいの? ここはアフリカの奥地じゃないのよ。東京の人間は、他の土地の人間と違ってごまかしが効かないわよ」
「大きな御世話だ!」
 メデューサスパイダーはその麗の言葉に腹を立てたらしく、巨体を震わして突進してきた。麗はさっきと同じように、軽く跳躍してその巨体をかわした。メデューサスパイダーは森に突っ込んだが、巨体の割には木々の折れる音が少なかった。戦闘生物としての素質は充分らしい。
 麗は跳躍の際についた、メデューサスパイダーの表層粘液が手についてしまったのを気にしながら、その気配を追った。
 周囲に静寂の時が流れた。妙に静かだ。遠くに自動車の排気音が聞こえるだけで、それ以外は風の音しか聞こえない。麗は耳に神経を集中していた。ウォルターはその背後で、息を潜めて〈水母蜘蛛〉の出現を待っていた。
「だあーっ!?」
 しかし、メデューサスパイダーの襲ったのは、麗ではなく、ウォルターのほうだった。突如としてウォルターの背後に現れたメデューサスパイダーは、その六本の腕の一つを震い、ウォルターを天高く放り投げていた。
 ウォルターは勘念した。この空中の高さから叩きつけられれば、おそらく絶命するだろう──これだけ考える時間があるほど、彼は宙高く舞い上げられていたのだ。
 しかし、彼の身体は麗によって抱き止められ、辛ろうじて地面への激突だけは回避出来た。着地の時、麗はメデューサスパイダーに狙われるのを恐れ、森の中へ強行着地を敢行していた。おかげで彼女のあらわな太股は擦り傷だらけになってしまったが、メデューサスパイダーに直接襲われることを考えれば、好判断であったといっていい。
「遅いッ!」
 しかし、メデューサスパイダーのほうが一枚上手だった。藪の中で立ち上がった無防備の麗に向け、メデューサスパイダーは〈蜘蛛の糸〉を発射していたのだ。
 この、ナイロンに似た、それでいてねばねばとした糸は、数ミクロンの細さの糸を数百本束ね、その先に磁力を発する小さな分銅状の金属弾を装備している。分銅の部分が拳銃の弾丸よろしくメデューサスパイダーの腕から発射され、糸がそれについて追っていく。そして目標物に絡まり、相手を緊縛するのである。
 一瞬の隙をつかれ、麗はその数千本の糸によって緊縛られていた。
「しまっ……」
 た、という語尾を口にする間もなく、麗は〈蜘蛛の糸〉によって引きずられ、その場に叩き伏せられた。糸は実に効果的に彼女を縛っていた。首、腕、胸、腰、そして脚。身動きすることは、ほとんど不可能であった。
「ほほほほほ、いい恰好だぞ、神垣麗。そのまま輪切りにしてやろうか? それとも、もっと精神的な屈辱がお好みかな?」
 メデューサスパイダーは、その眼に当たる部分をきゅーっと細くした。麗は唇を噛み、もがくしか術がなかった。メデューサスパイダーは、その麗の恰好が可笑しくて仕方がないらしい。楽しそうに、彼女の周囲を歩いて回っている。
「その糸はお前たちの科学力を持ってしても、そう簡単に千切れるもんじゃない。そう、当然ながら、君がどんなに訓練された人間であったとしても、自力で切るなどというのは到底不可能なのだよ」
 メデューサスパイダーは右の一番上の腕を前に出し、そっと麗の膝頭を触った。爪のように尖った指先が、軽く膝頭を愛撫するように滑る。麗は思わず身を捩った。
「ふふん、まだ抵抗するのかな? では、決定的な事実を教えてあげよう。この糸に囲まれている限り、君の切り札である装甲展開は不可能なのだよ」
 メデューサスパイダーは、不敵に笑った。麗はかっと眼を見開いている。
「嘘だと思うなら、やってみることだな、装甲展開を」
 その誘いに、易々と乗るような麗ではない。切り札とは、常に最後まで取っておくものである。麗はそう思い、頬に笑みを浮かべて言った。
「必要ないわ。この程度の糸なら、私が装甲を纏うこともないでしょう」
「その自信は一体どこから来るのかな? 神垣麗」
 メデューサスパイダーの指が、次第に膝頭から内股に移っていく。麗の白い太股が、次第にピンクに染まってきていた。爪が糸を避けるように軽く滑ると、麗はその進行に合わせるかのように身を捩った。
「……いいでしょう。そこまで言うのなら、見せてあげるわ。神垣麗のブースト・プロテクターを!」
 麗は頬を染めながら、その視線をメデューサスパイダーに向けて言った。
「面白い、見せてもらおう! しかし、装甲展開が失敗すれば、この私の指が一体どの部分に到達するのかということもお忘れなく」
 メデューサスパイダーはさらに眼を細くした。
「──ブースト・プロテクトっ!!」
 瞬間、閃光が奔った。ウォルターはその光を、薄ぼんやりとした意識の中で感じとっていた。ああ、スハルトジャングルで見たあの光と同じだ……ここにも〈蒼穹の鎧〉の持ち主がいたんだ……。
 しかし、稲妻が轟き、周囲がスパークしたというのに、その電雷は全て〈蜘蛛の糸〉に吸収されていった。麗の身体には、装甲は展開されなかったのである。
 眼を閉じて装甲の展開を待っていた麗は、展開に失敗したことを知って愕然とした。
「ほぅら……私の言った通りだ」
 メデューサスパイダーは引っ込めていた手を再び麗の脚に置いた。今度の位置はかなり深い。内股の中程である。嘗めるように爪が蠢いた。
「無駄だよ……君の運命は決まったも同然だ。キャンサーベアーの仇もすぐに取れる……」
 メデューサスパイダーは次第にその身体を麗に近づけていった。その手がじわり、じわりと進んでいく。
 麗は勘念して、眼を閉じた。その頬は、恥辱に染まり、その身体は小刻みに震えていた。
「……鶏……」
「誰の名だね? 麗。君のボーイフレンドかな? ならば、願うがいい。君を助けてくれることをな」
 メデューサスパイダーはその巨大な傘の頭から粘液を滴らせながら、麗の上に覆い被さった。残りの五本の手が麗の身体を掴もうと、大きく開かれた。
 その時である。
「がぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?」
 メデューサスパイダーの巨体が、まるでキューで弾かれたビリヤードの球のように宙に舞った。その身体から飛び散った粘液が空中できらきらと輝いた。
 異常なまでの滞空時間の後、メデューサスパイダーはもんどり打って地面に激突した。一転、二転、三転。土煙をもうもうと上げ、メデューサスパイダーはしばらく立ち上がることすら出来なかった。
「な、何だ!?」
 メデューサスパイダーの眼には、がっちりとした体格の男が映っていた。それが誰であるかを理解するには、メデューサスパイダーには時間が必要だった。土煙が収まり、その人物がはっきりと視神経を刺激した時、それが彼にとって決して忘れてはならない人物であることを悟り、そして悔やんだ。
 こんなに早く現れるとは──!
「よくもこんなにウチの麗を可愛がってくれたな、拳達鬼・メデューサスパイダー! その行為、死に値する! HANG特殊捜査官・チキンヘッドが貴様を処刑する!!」
 そう言った男の頭は、まさしく鶏の頭であった。あの、スハルトジャングルで〈蟹熊〉を葬った、あの〈鳥頭〉である。
「け……鶏……」
「麗、下がってろ。今その糸を切ってやる」
 チキンヘッドは無造作に〈蜘蛛の糸〉を手で引きちぎり、麗を後ろに下がらせた。麗はチキンヘッドの言うことをおとなしく聞き入れ、後方に下がった。
「さあ、準備はいいぞ。来い、メデューサスパイダー!」
「行くぞ、チキンヘッド!」
 二人の巨体が同時に突進を開始し、その距離の中央で激突した。力押しの勝負は互角と見えて、両雄とも全くその場から動かない。ぎりぎりという筋肉の震える音のみが、微かに聞こえてくる。
 チキンヘッドがその身を沈めた。ふわっとメデューサスパイダーの身体が宙に浮かぶ。両手を握り合ったままの、巴投げに似た投げ技である。ハンド・グリップ・ホイップとでも呼ぶべきか。メデューサスパイダーは受け身を取ることが出来ず、脳天から地面に激突した。
 しかし、勝負はつかない。メデューサスパイダーは素早く立ち上がり、チキンヘッドの背後を狙って〈蜘蛛の糸〉をその一番上の右腕から吐く。チキンヘッドは糸の動きを完全に見切ってから移動を開始する。したがって、かわす確率は高いが、常に紙一重である。
 ざっ、と風が鳴る。チキンヘッドが跳躍した。その跳躍力は、麗の比ではない。軽く五メートル上空を跳ぶ。二階建ての家屋ならば、飛び越せる力である。
 メデューサスパイダーがその背後を追うように跳ぶ。その距離はしかし、チキンヘッドを上回っていた。あっという間に空中で追いつき、その背に拳を叩きつける。チキンヘッドは体勢を崩して、公園の脇の雑木林に落下した。
「チキンヘッド! 貴様にも〈蜘蛛の糸〉、味わってもらおうか!」
 メデューサスパイダーは空中で姿勢制御すると、その六本の腕の全てから〈蜘蛛の糸〉を全弾発射した。億の位の糸がチキンヘッドに向かって音速で飛んだ。
 しかし、チキンヘッドはその億の糸の軌跡を全て見切っていた。その巨体を滑らかに動かし、糸と糸の間隙を縫って避ける。メデューサスパイダーも、これには驚いた。ここまで完璧にかわされるとは、思ってもみなかったのである。チキンヘッドの身体には、糸一本すらかかってはいなかった。
「もうお終いか? メデューサスパイダーよ。これならまだキャンサーベアーの方が歯応えがあったぞ」
 チキンヘッドはその眼を細めてメデューサスパイダーに言った。胸を張り、ジーンズのポケットに手を入れて立っている。黄色に黒のストライプの入ったジャンパーが、その中の筋肉を誇示するかのように、ぱん、と張っていた。
「お前さんには、装甲展開する必要もなさそうだ」
「ぬかせっ!」
 メデューサスパイダーが怒鳴った。と同時に、その胸の黄色と黒のストライプで飾られた装甲板が外れ、内部から持てる全ての〈蜘蛛の糸〉を吐き出した。その射出速度は腕部からのものよりも強烈で、かつ方向性が皆無だった。皆が皆、ばらばらの方向に射出されたのだ。
 これはチキンヘッドにも読めなかった。その一瞬の判断が命取りとなり、チキンヘッドの身体にも無数の糸が絡みついていた。
「しまった!」
 しかし、こうなってからではもう遅い。チキンヘッドもまた、その巨体を地面に叩きつけられていた。その糸は麗を緊縛したものよりも粘液の量が多く、粘っていた。その粘りのせいか、チキンヘッドの怪力を持ってしても、千切ることが出来ない。収納庫に格納されていたものが一気に噴出されたのであるから、ある意味では当然と思われた。しかし、チキンヘッドはそれ以上のことを考えていた。
 収納庫に直前まで格納されていた──つまり、出来たての糸であるなら、強度的に劣っているのではないか?
「逃げ出そうなどと考えるなよ、チキンヘッド。今、貴様の周りを取り囲んでいる〈蜘蛛の糸〉は、三億本ほどの糸が複雑に絡み合って構成されている。貴様の力で切れないのはもちろん、装甲展開すら不可能なのだ。そっちの方は、先刻お前さんのパートナーで証明済だ」
 ちらっと麗に眼をやる。麗はウォルターを膝に抱えながら、茂みの中からメデューサスパイダーをじっと睨んでいた。ふふん、と笑ってメデューサスパイダーは眼をチキンヘッドに戻した。
「さあ、どうする? もっとも、私のやりたいことはたった一つ……いや、二つ、か。キャンサーベアーの仇を取ることと、もうひとつは……」
 腹から三億の糸を垂らしたまま、メデューサスパイダーは右の一番上の腕をチキンヘッドに向かって突き出した。
「キャンサーベアーから奪った〈活殺眼〉を返してもらおう」
「ここに持っているはずもない」
 チキンヘッドはその申し出を突っぱねた。その様子を見、メデューサスパイダーは眼を細くして言った。
「ま、それはそうだ。きっと君の基地なり母船なりにあるのだろう。それは分かっている。だから、麗くんにはああして無傷でいてもらっているのだからな」
 麗はそれを聞いて、びくっとした。チキンヘッドもまた同様であった。メデューサスパイダーはその眼をますます細めて言った。
「そう……分かったようだね。二人とも頭がいい。つまり、チキンヘッドくん、君が人質だ。麗くん、君が母船なり基地なりに帰って、〈活殺眼〉を持って来るんだ。早めに処理した方がいいぞ。私とて、この周囲にそれほど長く結界を張ってられんからな」
 なるほど、これだけ大騒ぎしながら怪物二人が闘っているというのに、周囲に人間が全く寄ってこなかったのは、〈水母蜘蛛〉が特殊な結界を張っていたからだったのか──ぼやけた視覚と耳鳴りの酷い聴覚、痺れる触覚と闘いながら、ウォルターは思った。彼は右の頬に、暖かく柔らかい女性の感覚を感じていたが、それを現実のものとして認識出来る状態にはなかった。
 麗はチキンヘッドと連絡を取るべく、その眼を彼に向けた。眼と眼が合う。二人の間に、会話に似たものが交わされた。その間、僅かに二秒。
「──今、面白い結論が出たよ」
「何?」
 このチキンヘッドの言葉に、メデューサスパイダーは思わず聞き返した。チキンヘッドはにやにやと笑い、続きを話した。
「麗は今、自由な状態にある。ま、そのルポライターさんの看護を除いては、ね。つまり、彼女に装甲展開してもらって、俺を助けてもらおうって案だ。これなら、筋も通ってる」
 しまった、という顔をして、メデューサスパイダーは麗の方に左の上から二番目の腕を延ばした。しかし、糸は発射されない。
「売り切れじゃないのか? 〈蜘蛛の糸〉が」
 チキンヘッドはせせら笑った。そう、収納庫の糸を全てチキンヘッドに吐きつけてしまっているメデューサスパイダーに、吐く糸はもうないのだ。
「じゃ、いかせてもらうわよ。ブースト・プロテクトっ!」
 麗の身体が蒼穹の光芒に包まれた。無数の球雷が飛び交い、稲妻がスパークする。プラズマ状になったエネルギーが一瞬にして集結し、彼女は蒼い装甲に包まれていた。
 以前、チキンヘッドがスハルトジャングルで見せた装甲よりも、ラインは華奢である。しかし、女性のラインを象っているとはいえ、そのフォルムには弱々しさは微塵にも見えない。逆に、女性の力強さを感じさせるものがある。
 全身、晴天の抜けるような蒼である。装甲のない関節部分などは黒い衝撃吸収繊維で覆われ、装甲の所々には白銀のストライプが入っている。
 さらに特徴的なのが、ヘルメット後部から伸びる髪である。さらさらとした、漆黒の髪が伸びているのである。とはいえ、これは彼女の自毛ではない。光学繊維の束であり、装甲内部の余剰エネルギーの放射や、大気およびスペクトルなどの観測用機器ともなっているものなのである。
「さあ、いらっしゃい! メデューサスパイダー!」
 麗は腰に手を当て、右半身を前に出すポーズでメデューサスパイダーに言った。凛、とした態度である。彼女の身体全体に、自信が漲っていた。
「む……う……」
 手の内を見透かされ、ただでさえ不利な状態の時に、さらにブースト・プロテクターを纏ったHANG特殊捜査官との一騎打ちである。メデューサスパイダーには、勝つ絶対の自信は、なかった。
 とっさに〈蜘蛛の糸〉を束ねて引っ張ると、メデューサスパイダーはブースト・プロテクター姿の麗に向かって大声で言った。
「それ以上近づくと、チキンヘッドの命はないぞ!」
「やっぱりな」
 そう呟くとともに、チキンヘッドは腕を延ばして束ねられた〈蜘蛛の糸〉を握り、そして一気にそれを振った。
 それは、力学的に考えれば、理解の範疇を超える行動だった。チキンヘッドは〈蜘蛛の糸〉ごと、メデューサスパイダーを空中に放り投げたのだ。メデューサスパイダーは完全に足を掬われ、チキンヘッドの思惑通りに飛ばされていた。そしてその慣性の力は〈蜘蛛の糸〉で繋がれたチキンヘッドをも宙に飛ばせようと試みた。
 しかし、チキンヘッドを宙に運ぶほど、その慣性には力はなかった。チキンヘッドは僅かに浮いただけで、逆にメデューサスパイダーはその衝撃で、予想以上に近い場所で急激に地面に激突させられていた。
 麗はのびたメデューサスパイダーとチキンヘッドを繋いでいる〈蜘蛛の糸〉の束を、右腕の破壊銃で断ち切った。髪を焼くような嫌な臭いが公園内に充満する。
「サンクス、麗!」
 チキンヘッドは素早く〈蜘蛛の糸〉から逃れると、麗に駆け寄ってその尻を叩いた。装甲板があるためにそれほど感触は伝わらないはずだが、麗はそのヘルメットの中で赤面していた。
「さて、お前さんは珠持ちの拳達鬼か? それとも、単に邪悪魂に揺さぶられた奇形生命体かい?」
 チキンヘッドはうつ伏せたままのメデューサスパイダーに向かって訊いた。しかし、メデューサスパイダーは何も答えなかった。ただ、黙ってうつ伏せていた。気絶しているのか? それとも、自決したのか?
「──今日の所は俺の負けだ。それは潔く認めよう。しかし、次は貴様の持つ〈活殺眼〉、必ずや取り戻してみせよう!」
 そうとだけ言うと、メデューサスパイダーは次第にその形を崩していった。液状化して地面に浸透しているのである。チキンヘッドがその頭を踏みつけた時、すでにその身体は地面に浸透した後であった。頭は風化して、粉になって吹き飛んでいった。
「相変わらず奇妙な生物形態だぜ、拳達鬼ってのは」
 チキンヘッドは独り言を言ってから、麗のほうを向き直った。麗は肩をすぼめ、小さくなってチキンヘッドを見つめていた。
「鶏……」
「よくやった、麗。今日は大手柄だった。さ、デッドリードライヴに戻ろう」
 わっ、と麗はチキンヘッドに泣きついた。ブースト・プロテクターを纏ったままなのであまりよい感触ではないのだが、チキンヘッドはそんな麗を優しく抱き止めていた。そして二人は、掻き消すようにその場から姿を消した。
 その後、ウォルター・クロンカイトが日比谷公園から東京の根城に帰り着いたのは、夜も更けた午後九時のことであった。
 

      第2章  

 
 朝の柔らかな日差しで、ウォルターは目醒めた。そしてしばらくベッドから身を起こそうとせず、眼を天井に向けていた。
 何があったのか……ウォルターの記憶ははっきりとしていた。しかし、それを全て信じることは、彼にとって無理のあることだったのかもしれない。
 まだ、日比谷公園での出来事から、二日しか経っていない。
「……チキン・ヘッド……」
 〈鳥頭〉チキンヘッドと〈水母蜘蛛〉メデューサスパイダーの闘いは、彼の常識の全てを打ち破ってしまっていた。ウォルターは、自分のルポライターとしての能力とセンスを疑いはじめていたのだ。あの、世紀の一大イベントとも言うべき闘いを記す筆を、彼は持ち合わせていなかった。
 それが、彼に大きな悔いを残していたのだ。
 この、心の痼は、ウォルターの仕事意欲を完全に削いでいた。彼は生きる目標を失った屍のように、この二日間ごろごろとアパートでふて寝していたのである。
「……」
 ウォルターは枕元から小さなアルバムを取り出して開いた。中には、ぶれの大きなプリントがいくつも入っている。何の予備知識もない人なら、何が写されているのか全く判らないであろうその写真を見ながら、ウォルターは物想いにふけった。
 その、大きくぶれた写真のいくつかには、白い服を着てファイティングポーズを取っている女性が写されていた。
「……神垣……麗……」
 ウォルターは、その写された女性の名前を口にし、写真を凝視した。
 写真家としての価値はゼロに等しいこの写真も、彼個人としては宝物に属する。
 それだけ、彼の心の中で麗は大きなウェイトを占めるに到っていたのである。
(日本人の女性を好きになったのは初めてだな)
 ウォルターは写真を眺めながら、考えた。日本人に惚れた、というよりも、あの長い美しい黒髪を持つ少女に惚れたのだ、と考えた。何故か「日本人に惚れた」という事実を、彼は認めたがらなかった。
「……また会えるかなぁ……」
 限りなく確率の低い願いを口にしながら、彼はゆっくりと起き上がった。カーテンの隙間から差す朝の光に眼を細めながら、ウォルターは八畳の部屋に立った。
 台所に向かい、冷蔵庫から牛乳のパックを取り出し、ぐっと一息に飲み干す。口の周りの不精髭に牛乳がまとわりつき、白い髭を形成する。
 その白い髭を拭いながら、ウォルターは外の郵便受けに向かった。がちゃんという大きな金属音とともに扉が開き、彼の身体はひんやりとした外の空気に身震いしながらも郵便受けに向かった。
「新聞と……何じゃこりゃ」
 朝日新聞とジャパンタイムスの他に、手紙が二通入っていた。ウォルターはこの、日本語で書かれた手紙を不審に思いながら、部屋に戻った。
 朝日を広げながら、電子レンジに即席スパゲッティを入れる。それが出来るまでに、ウォルターは朝日を読み終える。彼の新聞の読み方はすばらしく早い。見出しだけを見、そして頭の中のインデックスに引っ掛かった記事だけを集中的に読む。日本の新聞は、彼のやり方では大抵三分で読める。そして、その間にレンジグルメが出来上がる。それが毎朝の日課であった。
 チン、と音がする。電子レンジの中からスパゲッティを取り出し、新しい牛乳パックから牛乳をコップに注いで、グリーンのカーペットの上に置く。彼の朝食は必ず床で行われる。テーブルで朝食を採った試しがない。
 スパゲッティを頬張りながら、今度はジャパンタイムスを読む。こちらは内容の全てに眼を配る。とはいえ、そのスピードは朝日新聞の時とほとんど変わらない。
 今日も、大した記事はなかった。当然ながら、二日前の、あの闘いのことは全く触れられていない。
 作る時間が三分ならば、食べる時間も三分である。ジャパンタイムスを読み終える頃には、パッケージの中のスパゲッティはすでに彼の胃袋に収まっていた。これもまた、日常のことである。
 ふう、と一息ついて、ウォルターは部屋の中を見回した。ベージュの壁はあまりいい趣味ではないが、八畳のアパートとしては上物件であろう。
 外国人を入れたがらないアパートも多いが、このウォルターのアパートは違った。彼が日本語の得意なルポライターであることを知るや否や、彼の入居を許可すると共に、彼が年の半分以上も部屋を空けることも承諾した。
 ベッドとテーブルと洋服タンスが一つずつしかない殺風景な部屋だが、彼は気に入っていた。東京には幾つかの彼の拠点があるが、このアパートにいる時は大抵がオフの時である。気も休まろうというものである。
 床の上に置かれているテレビのスイッチを入れ、彼は手紙の方に手を伸ばした。その二通とも、表書きは綺麗な日本語である。片方の封筒には見慣れた出版社のロゴが印刷されていたが、もう片方は無地の白封筒である。
 彼は迷わず、出版社からの手紙を開封した。何か、仕事関係の通信に違いないと感じたからだ。そして中を検める。しかし、彼の期待は見事に裏切られた。
「は? アンケート?」
 その内容は、作家に当てられた雑誌記事アンケートであった。拍子抜けしたウォルターは、封筒にそのアンケートを収めると、ぽいっと部屋の済に放った。
 もう一つの方に取り掛かる。しかし、こちらは差出人が書かれていない。字の感じからは男性というよりは女性のようだが、中味と関係があるとは限らない。彼はあまり期待しないようにして、その封を切った。
 そして、驚愕したのである。
「……これは……!?」
 その便箋は、街の文房具店で手に入る、ごくありふれたものであった。中の文字も、表書きのものと同一。しかし、彼を驚愕させたのは、便箋でもなければ文字でもない。中味、文章である。
 彼の眼は、完全に手紙に集中していた。聴覚も嗅覚も、触覚までもが減退し、精神の全てが視覚に集中していた。何度も何度も読み返し、ウォルターは全てを頭の中に叩き込んだ。しかし、彼にはその文面がどうしても信じられなかった。
「三月……一二日、正午……上野公園・西郷隆盛像前……」
 ウォルターは大きく身体をひねり、壁に掛けられているカレンダーを見た。今日は……三月一二日!
「正午、上野公園だな」
 時計を見る。まだ九時七分であった。彼はしかし、そそくさと出掛ける準備をし始めた。
 彼、ウォルター・クロンカイトに送られてきた手紙の内容──それは、あの神垣麗からの、ラヴレターにも似た手紙だったのだ。

 鬱蒼と生い茂る木々。コンパスの役立たない溶岩地帯。熱帯の雰囲気さえあるこの森の中に、一人の男が佇んでいた。
 富士樹海。富士山の裾野に位置し、溶岩流によって開けた土地の上に生い茂る木々をそう呼ぶ。ここは昔から自殺の名所であり、一度迷えば二度と出ることは出来ないとされている。コンパスも効かない、何のマーキングもないこの土地に、男が一人で立っているのである。
 何の鳥であろうか、気味の悪い鳴き声を上げて飛び立つものがいる。どこか遠くで何かの鳴る音がする。微かに、森に反響していた。しかし、それも何が発する音なのか、全く見当もつかない。
 男は、そんな薄暗い森の中で、天を見上げたり、地を眺めたりしている。
 男の精神は、安定していた。全くの平静状態である。普通、樹海に紛れ込んだ人間であれば、こんなに冷静にものは見られまい。
 ならば、自殺志願者か? それなら、こういった精神状態の人間も考えられよう。これから進んで静かな死の淵へと向かうのだ、じたばたしない者もいよう。
 しかし、男は自殺志願者ではなかった。それどころか、邪悪な精気に満ち満ちていた。絶対に死なない、自信にも似たものを持っていた。
 男が歩き始めた。まるで、今初めてこの樹海を歩くような、そこに生えていた植物が突然歩き出したような印象を与える。
 男の視線は、絶えず周囲に向けられていた。何かを捜しているのである。〈何か〉とは何か──男の眼は、決してその〈何か〉を逃さないようにと、かっと見開かれていた。視線が嘗めるように樹海に注がれ、移動していく。それは、止まるところを知らない、熱烈な要求の表現であった。何か、動物間の求愛の行動にも似ていた。
 風が空間を洗う。樹海の中にも、心を清々しくさせるような風が、ごくまれに吹くようだ。男はその風を頬に受け、少しばかり嫌な顔をした。清々しさは彼の対極にある概念だ。風がいくら彼のグレーのスーツの裾を舞わせても、彼の心は全く動じない。感動というものが存在しないのだ。そんなものに心を奪われる以前に、彼には〈心〉など存在していなかったのだ。
 彼の眼が止まった。その視線の先には、小動物がいた。その小動物は、長い舌をちろちろと出しながら、男の視線に応えるかのように鎌首をもたげていた。
 蛇である。
「蛇か……いいかもしれんな」
 男は言うや否や、蛇の前に立ち、その鎌首をそっとつまみ上げた。蛇は抵抗しようと試みたが、次第に身動きをやめていた。
「そう……おとなしくしていれば、痛いようにはしない」
 男は蛇を右手で持ち、左手を右肩に乗せた。そしてゆっくり、ゆっくりとその掌を蛇の方へと這わせていく。
 その途端、樹海の中の生き物たちが、異変を感じて一斉に行動を起こした。鳥は騒ぎ立てながら飛び立ち、爬虫類の多くは土の中へと避難した。数少ない哺乳類たちも、その脚を活かして遠くへ走り去っていった。木々は哭き、シダや雑草たちはその色を褪せさせた。
 そう、いまこの富士樹海では、異常な出来事が起こっているのだ。自然の許さない、異常な出来事が。
「ん……」
 低い唸りが、森林を支配した。男の声である。ぼうっと男の周囲が明るくなる。淡い光が男の右腕から発せられているのだ。その光がだんだん一点に集中するようになる。右の掌だ。右と左の掌が重なった時、その光が一段と強まった。
 数秒の後、光は収束した。
 男の手に握られていた蛇は、もうどこにも見当たらなかった。

「やっぱり早すぎたかな」
 ウォルターは独り言を言いながら、上野公園を歩いていた。腕時計の針は、まだ一一時を差してはいない。
 彼は御徒町の駅前にあるロッテリアからカツレツバーガーを買っていた。それを頬張りながら、好きな場所の一つであるアメ横を歩き、この上野公園までやって来たのだ。時間を潰したつもりだったのだが、彼が期待するほど時間は潰れてはくれなかった。かといって、もう一度アメ横を往復する気にはなれず、ウォルターは上野公園へ入っていった。
 一個目を食べ終わり、ウォルターは二個目のカツレツバーガーをポケットから出した。
 上野は春の麗かな陽気に誘われた人々で、いつになくごった返していた。
「そっか、今日は日曜だったか」
 ウォルターは今、初めて今日が日曜日であることに気づき、この人手も納得した。花見には早いが、人々は緑に色づく上野公園に集まり、それぞれの楽しみ方をして過ごしていた。ウォルターもまた、陽気な観光外国人を装い、ハンバーガーを頬張った。
 ウォルターの今日の服装は、本当にラフである。傍目から見れば、彼が文章で生活しているとはとても思えまい。日本人の眼には外国人の年令は判別し辛い部分もあるから一概には言えないが、ウォルターの年令は明らかに実際よりも低く見えるであろう。
 麻のグレーのジャケットに黒のTシャツ、そしてケミカルウオッシュのGパン──いわゆるアメリカで言う所のヤッピーの服装であり、日本では大学生ぐらいの感覚であろうか。背の高い彼には、こういったラフな恰好が実に似合う。
 ただし、商売道具だけは持ってきていた。背中に背負われたナップサックには、愛機であるニコンF3が入っていた。
 遠目に見れば、彼は完全に日本に遊びに来ているアメリカの大学生であった。
 二個目のカツレツバーガーを食べ終え、さて三個目を食べようとナップサックを漁っているそんなウォルターの直前に、いきなり人間の気配が迫った。
「どえっ」
 ウォルターは本気で仰天し、危うく後ろにひっくり返るところであった。
 彼の眼前には、あの微笑みを讃えた美少女・神垣麗が立っていた。
「こんなにも早く来てもらえるとは、思ってもみませんでしたわ」
 そう言って麗はくすっと微笑った。
 ウォルターは何故か赤面し、愛想笑いをした。その眼は、眼前に麗がいるのがまだ信じられない、といった風に動き、彼女を爪先からPAN・UPする。
 靴は流行のエクササイズシューズのハイカットだ。スリムのジーンズに、黄色い薄手のジャンパーを着ている。襟と袖口が黒い。手には相変わらずドライバーズグローブをはめているが、今日の色は黒だ。暖かいせいか、ジャンパーの下に着ているのはピンクのタンクトップのようである。もちろん、ウォルターには想像するしか手がない。そして、あのきらめく髪を、今日は大きなピンクのリボンで結んでいた。
 ウォルターはその全てを、完全に記憶すべく嘗めるように見つめた。ただ、彼女の顔に到っては、穴の開くほど見つめるというわけにはいかず、そっと見る程度に止めた。
「今日は貴方にお話があってお手紙差し上げましたの」
 麗はウォルターの傍らで軽く左側に体重をかけて立ち、話を始めた。
「話……とは?」
「ここでお話するのも何でしょうから、どこかベンチにでも腰掛けてお話しませんこと?」
 麗のこの申し出を、ウォルターが断る理由はなかった。二人は連れ立って公園の奥へと歩き始めた。
 ウォルターとしては、どんな話であれ、彼女と一緒にいられるだけで満足だったのだが、彼のルポライターとしての感性が、それ以上の何かを彼に訴えかけていた。
「あ、あそこが空いてるわ」
 数分歩いた後、ウォルターと麗は公園の中央にほど近い部分に位置するベンチに腰掛けた。このベンチは、ちょうど周囲から木々で隔離され、またあまり人通りもない、実に好都合な場所であった。
「どうぞ」
 ウォルターはハンカチでさっとベンチを拭い、あまり汚れがないことを確認すると、麗を先に座らせた。ありがとうと言って麗は腰掛け、続いてウォルターも腰掛けた。
 この二人、注意深く見る傍観者がいたならば、随分と変わったカップルに見えたであろう。ウォルターは何となくぎくしゃくとしているし、麗は麗で変に冷静である。そう、形容するならば、中学三年のお姉さんと、彼女に惚れて初のデートに挑む中学一年生の坊やのカップル、とでも言ったらいいか。
 とにかく、ウォルターは自分から話し掛けることが出来ないでいた。
「えっと、ですね」
 麗が口を開いた。こういう時、ベンチというのは割と不便な構造のものである。二人が会話するには、その二人が向き合う必要性がある。ベンチで並列して座っている二人は、身体をひねって向き合う必要があるわけだ。そうしないと、大変不自然な会話を行わねばならなくなる。
 麗が腰をひねってウォルターの方を向いて話を始めたのは、至極当然の行為であった。しかし、ウォルターにとってその行為は、当然とは言えなかったのである。
 ベンチとは、それほど大きな椅子ではない。実際このベンチには、三人は掛けられまい。同一のベンチに座った二人が身体をひねって向き合えば、当然のこととして、その顔の距離はかなり近いものとなる。
 ウォルターには、この息もかからんほどに近づいた麗の顔を、真っ正面から見据える度胸がなかったのである。
「何です」
 ウォルターは相変わらず、正面を向いたままで麗の言葉を聞いていた。麗も一瞬戸惑ったが、割とあっさりその行為を認め、構わずに話を続けた。
「クロンカイトさん、貴方はもう二度も私たちの行動を目撃してます。一度目がアフリカ大陸のスハルトジャングルで、二度目がこの間の日比谷公園で。そのいずれもが、私たちの捜査活動の真っ最中のもの」
「捜査活動?」
 ウォルターが聞き返した。ちらっと視線を麗に送る。かなりの近距離で麗が微笑み返す。
「そうです。捜査活動です。貴方には、私たちが何者で、何を行っているのかを、正確に理解してほしいのです」
 俯いて話を聞いていたウォルターが、顔を上げた。両手を組んで顎の下に置き、麗の方に首を回す。もう、彼の心の中には、羞恥とか照れとかいった、メンタルな部分は存在していなかった。色恋とか言ってはいられないのだ。
「全てを話してくれるんですね。私の疑問の全てに応えてもらえるんですね」
 麗はこくっと首を縦に振った。髪がふわっと揺れる。そしてすっと立ち上がり、ウォルターに手を差し延べた。
「クロンカイトさん、私の手を握って」
 ウォルターは言われるままに麗の手を握った。細身の身体にしては、その手の感触はふわっと柔らかかった。
「立って下さい」
 麗の言葉に操られたかのようにウォルターは立ち上がった。そして、彼の身体に麗がそっと寄り添う。
「暫く眼をつぶって下さい」
 ウォルターは、頭の芯がぼーっとするのを感じながら、眼を瞑った。
 次の瞬間、電光が舞った。青白いプラズマが二人を貫き、瞬きする間もなくその身体を包んだ。
 そして、二人の身体は上野公園から消えた。

「ここは?」
 眼を開けたウォルターは、周囲の景色が一変していることに気づき、麗に尋ねた。
「私たちの母船です」
 麗はこともなげに言った。母船、とは船のことか? ウォルターは周囲を再び見回した。この小部屋には、装飾品が一切ない。壁はベージュがかった白い、ビニールともウレタンともつかないブロック状の素材で覆われている。天井も床も、リノリュームに似た素材で出来ているらしい。歩くと少しばかりゴム同士の擦れる音がする。これが……船の中なのか? しかし、どうやってここに連れてこられたのか、彼には全く理解出来なかった。
 一瞬の出来事だったのだから。
「どうも、クロンカイトさん」
 背後で声がした。少し低い、男の声だ。しかし、初めて聞く声ではない。ウォルターには、この声の持ち主が判っていた。
「お招きいただき、ありがとう。チキンヘッドくん」
 ウォルターのこの言葉に、巨体を揺らしながら〈鳥頭〉がにっこりと微笑んだ。
「聞きたいことは山ほどあるが、今日は貴方がたに全てお任せしよう。そういう約束で、神垣さんにここに連れて来てもらったのだから」
 ウォルターは平静を取り戻していた。ここがどこであろうと、相手が誰であろうと、もう何を見ても驚かなくなっていたのだ。とはいえ、別に神経が麻痺したというわけではない。チキンヘッドと麗に、絶対的な信頼を置いたまでのことである。
 彼らには全幅の信頼を寄せるに足るものがある──ウォルターはそう解釈したのだ。何が彼にそうさせたのかは判らないが、信頼関係というのは、意外とこういうものなのかもしれない。
「いいでしょう。では、こちらに」
 チキンヘッドがエスコートして、小部屋を出る。後から麗が小部屋の扉を閉める手続きをした。
「でも、不思議だ。どうやって私をここに?」
 チキンヘッドがこの独り言にも似たウォルターの疑問に答えた。
「ああ、電送装置のことですか」
「電送装置?」
「そうです。ある特定の物質をこの小部屋を介して船内に入れたり出したりが出来るんですよ。ま、距離の限界はありますが、ここと地球を結ぶくらいは簡単です」
 ウォルターは一気に彼らを知ることによって、自分の理性が崩壊する危険を感じた。チキンヘッドたちは、本当のことを自分に喋っているはずだ。第一、あの鳥頭から日本語が喋られていることを容認する自分だ。それ以上の出来事があっても、もう驚くには値すまい。
 しかし、今の話一つにしても、凄まじい。チキンヘッドたちの周囲は、オーバーテクノロジーの塊なのだ。信じる以前に、現在の自分の科学知識で理解が可能なのか? 常識の全てを捨てることが、自分の中で出来るのか? ウォルターは、本気で彼らを理解するには、捨てなければならない部分があまりにも多いことを知ってしまったのだ。
「要するに、物質を電話やファクシミリのように電送する……それも無線で」
「ま、似たようなものです。ただ、何でも転送出来るってわけにはいかないんですけどね」
「そんなもんですか」
 ウォルターはチキンヘッドの物言いに、何となく返事をしていた。そんな簡単な説明で、電送装置の何たるかが理解出来るはずもない。しかし、だからといって、その構造を説明されたところで、一%でも理解出来るとは思えない。大体の感じが掴めれば、それで良しとせねばなるまい──ウォルターの、偽らざる感想である。
 ……ちょっと待て、ここと地球を結ぶ?
「チキンヘッドくん! 君、さっき『ここと地球を結ぶ』と言ったね? てぇことは、ここは地球上じゃないってことかい?」
「そうです。超空間要撃母艦デッドリードライヴは、月面上に存在するのですから」
 月面! ここは月の上にある船──宇宙船の中なのか! ウォルターは、まだまだ驚くべき事実が目白押しなのだ、ということを再確認する思いで言った。
「超……空間要撃母艦、か。この内部の感じだと、そうとう大きな船なんだな」
 事実、彼らの歩いている廊下はかなりの広さであり、天井方向に到っては軽く七メートルを超えるのではないかと思われた。また幅も五メートルを確実に超しており、さっきから歩いた距離とて数十メートルではきくまい。しかもこの直線の廊下は、いまだに途切れる様子すら見られないのだ。
「ええ。クロンカイトさん、メートル法で実感が湧くかどうか分かりませんが、この船の最大長辺は二〇〇〇キロメートルになります」
「に、に、二〇〇〇キロ!?」
 ウォルターの頭の中には、地球のグラフィックが現れていた。地球から赤道が剥がれて宇宙に伸びていく。その距離、四〇〇〇〇キロメートルである。その傍らに、二〇〇〇キロの船。地球の周囲の、二〇分の一の大きさの、船。日本列島に匹敵する大きさの、船である。
「で、どのくらいの乗組員がいるわけ?」
 ウォルターは平静を装って尋ねた。驚愕と冷静が、周期的に彼の精神をいたぶる。
「私と彼の二人だけです」
 後ろから麗が言う。
「二人だけでこれだけ巨大な船を維持出来るの?」
 これにはウォルターも大声を出していた。いいだろう、信じよう。全長二千キロメートルの宇宙船、信じよう。しかし、この日本列島同様の巨大船を、たった二人で維持していようとは……。
「ええ。大まかな制御はSABがやってくれますから」
「サブ?」
「Super Artificial Brain……ま、貴方がたの言う人工頭脳ってとこですか。ニューロコンピュータのそのまた二ステップほど上のコンピュータです」
 チキンヘッドはこともなげに言った。ウォルターは、とにかく聞くだけは聞こう、と開き直っていた。そうでもしないと、本当に彼の神経は焼き切れてしまいかねなかったのだ。
「応接部屋というものがこの船にはありませんもので……私と麗がミーティングルームとして使用している部屋にご案内します。少々雑然としてはいますが、人の生活臭のない未使用の部屋にお連れするのも失礼かと思いますので」
 チキンヘッドがそう言うのとほぼ同時に、廊下の突き当たりにある扉が自動的に開いた。まるで、三人を招き入れるかのようなタイミングである。
「この部屋がそうです。ま、空いている椅子にでも掛けて、お待ち下さい」
 チキンヘッドに言われ、ウォルターはこわごわその部屋に入った。麗がその後から入り、電送室の時と同様に扉を閉める。
 想像していたよりも、狭い部屋である。ウォルターには、このミーティングルームよりも自分の部屋の方が広いのではないか、とさえ思えたほどである。
 確かに部屋の大きさは、ウォルターの八畳のアパートより狭い。その狭い空間に、白い革の椅子が四つにガラスのテーブルが一つ、それを取り囲むかのようにキッチンらしき施設と通信パネルのような四角い突起物が無数に存在する。壁の二面がそのパネルによって占領され、淡い緑色の光を放っていた。
 しかし、そんな調度の類がこの部屋を狭く見せたわけではない。ウォルターが問題にしていたのは、その青い絨毯で彩られた床に散乱する、夥しいばかりのプリントアウトやタオル、新聞らしき印刷物、そして見える範囲で五つもある大きなゴミ箱であった。
「なるほど……人間の生活臭か……」
 ウォルターは印刷物の束を横に退けながら、ふかふかと身体の沈む個人用のソファに腰を下ろした。後ろにひっくり返りそうになるのを我慢しながら、ウォルターはさり気なく部屋を隅々まで観察していた。
 天井は薄いプラスチック状の板で覆われ、サンライトイエローの光を放っていた。眩しくはないが、決して暗くはない──眼にいい光だった。
 眼をふとキッチンのほうに転じると、そこにはチキンヘッドと麗の、仲睦まじい光景があった。二人は肩を並べ、何やら談笑しながら茶でも煎れているのだろうか、柔らかい湯気が立ち登っている。そのキッチンの中の食器類も、決して整理されているとは言い難かった。彼らの科学力なら、食器の整理などはお手のものなのではないだろうか? しかし、機械の合理性よりも、人間はずっと曖昧な生き物なのだろう。使いやすさと合理性は、彼らの世界でも両立していないらしい──ウォルターはなぜか、ほっとしていた。
 手元のプリントアウトを拾い、眺めてみる。残念ながら、ウォルターの知っている言語ではなかった。当然、読めない。印刷の仕方も、彼の知らない方法であった。熱転写でもなければ、感熱でもない。ワイヤドットでもインパクトドットでも、インクジェットでもなければレーザープリンタでもない。かと言って、凸版でも凹版でも、オフセットでもなかった。
「読めないでしょ」
 その、突然のチキンヘッドの言葉に、ウォルターは仰天してプリントアウトの束を撒き散らした。軽く笑いながら、麗が続けて言う。
「その言葉が、私たち宇宙刑事機構の公用語なんです。バーディっていいますが、文法構造なんかは地球のドイツ語によく似てるんですよ」
「宇宙……刑事機構? それが、君たちの所属する組織の名前か? そして、君たちがその……宇宙の刑事とでもいうのか、そういった仕事でこの地球に来ているってことかい?」
 どかっと絨毯の上に腰を下ろし、チキンヘッドがテーブルにガラスのコップを三個置いた。それをウォルターに勧めながら、チキンヘッドと麗はゆっくりと説明に入った。 「そう……銀河連邦警察という巨大な組織が存在するんです。地球は大変に発達した惑星だが、他の知的生命体からは完全に孤立しているのです。今から地球時間でおよそ……えーと……」
 そこでチキンヘッドは言葉を切った。彼は手元に転がっていたハンディの電卓のような機械を操作し、ひとしきり納得した様子でまたウォルターのほうを向き直り、言葉を続けた。
「そう……およそ一〇〇〇年前になりますか。その頃、この銀河系を一つの秩序で統合しようという動きがあり、銀河連邦というものが構築されたのです。そして、連邦内部の秩序を取り締まるのが、銀河連邦警察というわけです」
「そして、その銀河連邦警察の中の、宇宙刑事機構というセクションに所属するのが我々、というわけなんです」
 麗がウォルターの隣のソファに腰を落としながら、話を続けた。
「宇宙刑事機構は、その名の通り宇宙刑事と呼ばれる特務刑事たちが各惑星に一チームずつ派遣され、その惑星の中で特に銀河連邦規約に反する犯罪行為があった時に、その犯人を検挙もしくは抹殺するというものなんです」
「抹殺かい」
 ウォルターが眉を顰めた。
「あ、ご心配なく。抹殺といっても、いわゆる『人権』を持った知的生命体を刑事の判断で殺すことほとんどありませんから」
 チキンヘッドがフォローを入れる。その一言で、ウォルターは納得した。つまり、抹殺の対象となるのは、〈蟹熊〉や〈水母蜘蛛〉といった、怪物の類なのだろう。
「じゃ、君たちも宇宙刑事ってことかい」
「そう解釈していただいても構わないのですが、正式には宇宙刑事とは別のものです」
「ほう? でも、宇宙刑事機構の一員なわけでしょ? 現にこうして、捜査活動もしてるんだし」
 このウォルターの疑問は、もっともなものである。チキンヘッドは少しだけ弱ったような表情をしたが、すぐに気を取り直して言った。
「そうですね……少し長くなりますけど、我々の仕事について説明させて下さい。我々は銀河連邦警察・宇宙刑事機構の中の一つである、重武装正常化部隊──通称HANGの特殊捜査官なのです。ここで長々と説明をするのは省かせてもらいますが、要するに宇宙刑事と我々処刑特捜とは、仕事のテリトリーが異なるんです」
「仕事のテリトリー?」
「ええ。宇宙刑事には、任地があります。必ず一チームに一つの惑星──捜査の範囲に限界があるのです。そして、彼らの仕事はその惑星の中に限定され、犯罪者が惑星外へ逃亡した場合、刑事は長官もしくは隊長の許可のない限り、犯罪者を追って任地を離れることは出来ないのです」
 ふうん、と言ってウォルターは湯気の立つグラスを傾けた。ウーロン茶だ、と思った。
「そんな宇宙の逃亡者を専門に追い掛ける部隊も、別にちゃんと存在しているんです」
 今度は麗がフォローを入れた。髪をほどき、その細い指先で玩んでいる。
「刑事は犯人を見つけ、追い、逮捕もしくは抹殺するのが仕事ですが、任地に制限がある。逆に我々は、上からの指令で特定の犯罪や犯人を銀河狭しと捜しまわり、逮捕もしくは抹殺するのです。だから、我々は警察本来の捜査はしないのです。もちろん、目の前の犯罪を無視したりはしませんけど」
 チキンヘッドがここまで言って、一息ついた。
「我々HANGの特殊捜査官が『処刑特捜』と呼ばれるのも、そこらへんの特殊性からなんです」
「大抵の場合、私たちが追っている犯罪の主要因は『抹殺』の部類なものですから」
 二人の言葉を聞き、ウォルターは頭の中で整理を開始していた。つまり、彼らは銀河を統一する巨大な組織の命により、極悪犯罪人や凶悪宇宙怪物を抹殺することの出来る「宇宙の始末屋」なのだ。それも、銀河全体を股にかけ、縦横無尽に宇宙を掛け巡る──俗っぽく言えば、宇宙パトロールなわけだ。
「……しかし」
 ウォルターは腕組みしたまま、低い声でゆっくりと言った。その眼は、チキンヘッドを凝視している。
「そんな重大なことを、何故私に? 第一、この地球以上の文明の存在を認める人間は、この地上にはほとんどいないでしょうに──何故、こんな一介の掛け出しルポライターにそんな話を?」
 チキンヘッドもまた腕組みしたまま、じっとウォルターを見た。答えは決まっているのだが、どういう言葉にしたら分かりがいいか──そういった表情だ。
「それは──あなたが信頼の置ける人物だからです。私たちの機構や組織、行動や活動を正しく理解してくれるであろう、この地球でも稀なる存在だからです。あなたの選出には、SADが腐心してくれました。ただ、スハルトジャングルで出会ったのは計算外でしたが……」
 そうか。俺は選ばれた存在だったのか──全てを偶然で片づけるには出来過ぎだとは思っていたが、やはり何らかの「意志」が存在したのか──ウォルターは理解した。全く不安がないかと言われれば辛い部分もあるが、とにかく胸の支えが下りた感があった。
「つまり、君たちの選んだ、地球上での良き理解者──と解釈していいのかな」
「そうです。まさしく、その通りです」
 チキンヘッドは笑った。ウォルターも笑った。麗も微笑った。
「協力と言うほどあなたを縛るつもりはありませんが、この地での仕事の間、色々と教えてもらいたいこともありますから、これからもよろしくお願いします」
「そんな水臭いことは言いっこなしだ。もう、俺たちは仲間なんだ。そうだろ? チキンヘッドくん」
「鶏って呼んで下さい。その方が呼びやすいでしょう」
「じゃ、鶏。君の必要なことは何にでも協力するし、そのことで君たちが変に気をつかうこともないよ。俺のこともウォルターって、気楽に呼んでほしい。敬称は略だ」
 そんな会話の間に、彼らの中に奇妙な連帯感が生まれていた。
 信頼し合える──仲間の意識がそこにはあった。
 

      第3章 

 
「──何かしら、これ」
 麗の呟きに、二人の男は振り返った。麗は壁一面に広がるアクセスパネルの一つの前に立ち、その全身に緑から淡いブルーに変化した光を浴びていた。
「どうした、麗」
 チキンヘッドが立ち上がり、麗の傍らに立って訊く。小柄な肩をすくめて、麗が申し訳なさそうに答える。
「ご免……何だか判らないわ。この惑星にはない周波数変調をするエネルギー体だってことぐらいしか……」
「でかいな……富士の裾野あたりか? 側にある浜岡の原子力発電所と同等の熱量を発してる……」
「原発と同等?」
 ウォルターもまた立ち上がり、チキンヘッドと麗の間に割って入る。パネルに表された記号は彼にとって暗号以上に難解であったが、雰囲気は判る。
「富士の裾野に、そんなパワープラントは存在しないぞ。自衛隊の駐屯地で核爆発でも起こったのか?」
「いや、放射能反応はない。核反応と同等のパワーでありながら、核反応の痕跡は皆無だ」
 チキンヘッドがその部分に該当するであろう位置を指差して、言う。無論、ウォルターにはその指された場所が何を表しているのかは判らない。
「しかし、原発と同等のエネルギーを発するものなんて、そこにはないぜ。自衛隊の秘密実験発電所とかがあるなら、ルポライター仲間で必ずウワサになるはずだし」
 ウォルターはここまで言って、チキンヘッドと麗が神妙な表情をしているのに気づいた。この二人には、自分の知りえない何かが判ったのだ──ウォルターはそう思った。
 チキンヘッドは無言で踵を返すと、狭い部屋を大股に出ていった。麗もまた、チキンヘッドの後をついて部屋を後にする。
「鶏」
 チキンヘッドは麗の声に歩みを緩めた。すぐさま追いつく麗。ぎゅっと広い背中にしがみつく。ほぼ同時に、チキンヘッドが口を開く。
「ヤツだ──間違いない。パワーアップしたメデューサスパイダーだ」
「判ってる、判ってる……でも」
 麗は顔をチキンヘッドの背に埋めて言う。
「あのデータから言えることは……あなたでは、あなたのブースト・プロテクターでは、今のメデューサスパイダーに勝てないってこと……」
「それは判らない」
 チキンヘッドの歩みはいつしか完全に止まっていた。麗の言葉が背中から振動となって伝わる。
「判るわ……あんなに強力なエネルギー生命体は見たことがない……ブースト・プロテクターの限界能力を遙かに超えた生命体なのよ」
「それでも」
 チキンヘッドは再び脚を動かし始めた。
「オレは行く」
 麗はチキンヘッドに引きずられるように数歩だけ歩いたが、すぐさまその大きな背中から離れた。鶏は言い出したら決して引かない──そのことを麗はよく知っていたし、それを承知でこの辺境の惑星までついてきたのだ。覚悟は出来ていたはずであった。
「オレの任務は、この惑星に降り注いだジャークソウルの殲滅だ。ジャークソウルに踊らされた拳達鬼の大掃除だ。例えヤツが強大であったとしても、オレはヤツを倒さねばならない──この生命尽きるとも!」
 チキンヘッドは歩きながら、背後に立ち竦んでいるであろう麗に向かって言った。任務に対しては鬼になる──生命はHANGに預けてあるのだから──それがチキンヘッドの持論であった。そしてこの言葉は、闘志の現れでもあるのだ。
 決して負けない! 麗のためにも──
 チキンヘッドは一人、空間電送室に入った。
「麗さん」
 部屋に戻ってきた麗にウォルターは話し掛けようとした。しかし、その表情の虚ろさに押され、次の言葉が喉に詰まってしまった。そんなウォルターの目の前で麗はゆっくりとソファに腰を下ろし、中空を見つめた。
 ウォルターは色々と質問をしたかったのだ。例のパワープラントの正体、チキンヘッドがどこへ行ったのか、麗の表情の変化……しかし言葉は全く出てこなかった。出そうとしても、全てが胸でつかえてしまう。
 何故そんな悲しそうな顔をするのですか、麗さん──そんな優しい言葉の一つも掛けてあげたい。ウォルターは心からそう思った。そして、何一つ声を掛けてあげられない自分の不甲斐なさに苛立っていた。
「鶏は」
 そんな一人相撲の真っ直中にいたウォルターの耳に、麗の澄んだ声が響いてきた。それは、人に聞かせるといったトーンのものではなく、独り言に近い響きを持つものであった。
「鶏は──任務に余りに忠実すぎます。遊びの部分がないんです。こうして若い男女が一つの空間に住んでいても、あの人は私には全く手を出しません。私が嫌われているのかもしれませんけど……」
 そこで言葉を切り、すっと俯く。視線は常に中空のとある座標にあり、決してウォルターの視線と絡み合うことはない。その細い顎が再び上げられるのに、数秒が必要とされていた。
「──ジャークソウルの捜索は、一番の難捜査です。この広い宇宙空間の、どこにいるのかも判らない超純粋悪の精神体であるジャークソウルから、一定期間の間に幾つかの『悪の胞子』とも言えるジャークソウルのかけらが飛び出すのです。そしてそのジャークソウルのかけらは有機生命体に吸い込まれ、拳達鬼と呼ばれるモンスターを造り出します。拳達鬼はその惑星の文明を破壊し、純粋悪を植えつけていきます」
 ウォルターの視線に、一瞬だけ麗の視線が絡み合った。しかしウォルターの焦燥とは全く無関係に、麗の言葉は続けられた。視線が視界を意味していない──彼女には今、目の前が何も見えていないのだ。
「ジャークソウルのかけらと拳達鬼は、一定周期で必ず高度な生命体のいる惑星に出現するのです。HANGは彼らを捜索し、殲滅することを任務とし、最終的にはジャークソウルの根源を絶つことをその目的としているのです。ジャークソウルの捜索は事実上不可能です。でも……」
「でも?」
 思わずウォルターは訊いてしまう。麗は、ウォルターの質問とは係わりなく続きを話す。
「ある時、ジャークソウルのかけらと拳達鬼が何かを求めて惑星上に出現していることに上層部が気づいたのです。それを先にHANGが集めてしまえば、もしかしたらジャークソウルの先手を取ることが出来るかもしれない、と……」
「それは一体?」
 麗はウォルターの声に口淀んだ。
 ウォルターもまた、口を噤んで答えを待った。
 静寂が、狭い部屋を蹂躪した。
「……銀河連邦で最も古い歴史を持つ惑星に住む人々の間に、こんな言い伝えがあるそうです。『天に戦士ありき、その戦士蒼き鎧を纏いて雷の剣を持つ。地に魔ありき、その魔胸中に輝く珠を抱きて闇を吐く。雷舞いて魔を払い、その珠を得る。国安泰となりき』──その鎧と剣の名は……」
「名は?」
「〈蒼穹の鎧〉と〈蒼穹斬〉」
「〈蒼穹の鎧〉……!?」
 ウォルターは、スハルトジャングルで聞いた言葉を再び耳にし、驚愕した。
「参ったね……凄い場所だ」
 樹海に電送されたチキンヘッドは、その木々の覆い繁る空間を評して行った。
「いかにも拳達鬼連中の好きそうな場所だ」
 周囲を見回す。熱帯雨林と違い、じめじめとした嫌な感じはない。しかし、上を見ても空は見えず、今が本当に昼間なのかどうかも判らない。風もなく、空気の移動がないためか、臭いが流れない。動物の生息すら怪しまれる雰囲気がある。もちろん、足元を見れば無数の昆虫や小動物を見ることは可能なのだが。
 この空間には、〈気配〉というものがない──チキンヘッドはそう思った。気配があるのかないのか判らない、としたほうがより親切な表現である。気配だらけなのかもしれないし、本当に気配が一つもないのかもしれない。
「どこにいる! 出てこい、メデューサスパイダー! チキンヘッドがお前の相手をしに来たぞ!!」
 叫ぶが、返事はない。拍子抜けの感がある。チキンヘッドは周囲に気を配りながらも、ゆっくりと歩を進めた。
 けもの道が草を分けて走っている。その上をチキンヘッドは歩いた。罠があるかもしれないが、そういった知恵と工夫を凝らした攻撃をしてくる拳達鬼は過去例がない。ジャークソウルによって変質させられた生命体はその殆どが決して高度とは呼べない生命体であることが多く、知恵の部分が増幅されることは滅多にない。
「ヤツも多分、珠持ちの拳達鬼だ。油断しないに越したことはない」
 チキンヘッドは四方を睨みつけるようにして進んだ。進行方向にメデューサスパイダーがいるとは限らないのだが、動かないではいられなかった。早めに決着をつけないと、この惑星の人間生活に支障が出る可能性があるからだ。原発と同等の力を持った生命体など、大都市に入られては困るのだ。
「よく来た、チキンヘッドくん。私のために〈活殺眼〉を持ってきてくれたようだね」
 異様なトーンの声が、鬱蒼と繁った森林にこだました。チキンヘッドにも聞き覚えのある声だ。チキンヘッドもまた、大声で返答する。
「メデューサスパイダー、姿を現せ! お前との一騎打ちの時が来た!」
「ふっふっふっ……笑止! 今の私と君とでは、能力に差がありすぎるよ、チキンヘッドくん。さあ、早く装甲展開したまえ。今回は前のような邪魔はしない。そうでもしないと、君が不利すぎるからねぇ」
 チキンヘッドは隈なく視線を周囲に飛ばす。しかし、判らない。一体メデューサスパイダーはどこからこの声を発しているのか?
「いいだろう。お前もあのキャンサーベアー同様、ジャングルの肥料としてやる。ブースト・プロテクトっ!」
 チキンヘッドはキーワードを叫ぶと、コンピュータプログラム通りにポーズを取った。ポーズを取ることにより、デッドリードライヴのメインコンピュータSABが正確にチキンヘッドの身体の表面のトレースを行う。トレースされたデータを元に、チキンヘッドの身体目掛けてブースト・プロテクターが電送される。このアクショントレースシステムにより、毛髪や衣服の欠損なく装甲展開が行われるのである。
 目も眩まんばかりの蒼い光球がチキンヘッドの身体を包み込む。この光球はプロテクターの電送フィールドであると同時に、装甲展開中の捜査官を護るバリアでもある。フィールドが形成されてしまえば、中の捜査官は安心して装甲を纏うことが出来るのである。
 プラズマ状のフィールドが球雷となって飛び散るまで、僅か一秒足らず。明るかった樹海が一転して薄暗くなる。そしてその中に立つ、蒼穹の鎧を纏った男。
 眼にあたるゴーグルの部分に二本の細い明かりが灯り、頭頂部にある可変翼が前方に立ち上がってプラズマを放出する。蒼い装甲に奔る黄金のストライプが、僅かに差し込む陽の光によって怪しく輝く。そして微かな振動音を発して起動する背部のブーストジェネレーター!
「処刑特捜・チキンヘッド!! メデューサスパイダー、勝負!」
 ブースト・プロテクターのゴーグル部分に、様々なデータが映し出される。チキンヘッドはそのデータから、メデューサスパイダーの膨大なエネルギーを察知した。方向、距離、熱量、予想攻撃力などが次々に報告される。
「そこかッ、メデューサスパイダー! ルミナル・ブレイカー!!」
 キーワードと共に、チキンヘッドの右手に長大なる剣が電送されてくる。大いなる雷の剣──ルミナル・ブレイカー。すでにその切っ先には、迸る球雷が漲っていた。
「プラズマ・ブレイカー!」
 チキンヘッドは、メデューサスパイダーのいるであろう空間に向かってルミナル・ブレイカーを振った。ルミナル・ブレイカーに溜められていた球雷がその切っ先を離れ、プラズマの弾丸と化して空を斬った。
 轟と空間を裂き、プラズマの弾丸は数十の木々をなぎ倒して視界から消えていった。
 しかし、手応えはない。
「移動したか?」
 ゴーグル内部のディスプレィには、エネルギー体の移動の軌跡が描かれていた。プラズマ弾の走る僅かな時間に、メデューサスパイダーは大きく位置を変えていたのだ。
「速い!」
 チキンヘッドは舌打ちしながら、再びプラズマ・ブレイカーを撃つべく位置を移動した。木々の間を素早く回り込み、メデューサスパイダーの予測移動位置に先回りしようというのだ。
「そこだッ! プラズマ・ブレイカー!」
 第二弾を放つチキンヘッド。再び薄暗い森林にプラズマが走り、木々がなぎ倒されていった。そして、数十メートル先で起こる、異常な光芒。
「当たったか?」
 ディスプレィ内部のデータ照合では、命中確率は九〇%を超えていた。チキンヘッドは用心深く、回り込むようにその光芒の起きた位置へと急いだ。
 その場所は、溶岩の大きく迫り出した、草の生えない空間だった。溶岩の一部が大きく焼け焦げ、砕かれている。これがプラズマ弾によるものなのか、それともメデューサスパイダーの激突した跡なのかは、一見しただけでは判らない。
 しかし、チキンヘッドは直感した。
「避けられたな、これは」
 剣を構え、周囲を見渡す。必ず近くにいるはずである。ディスプレィには、プラズマ・ブレイカーを撃った後に消えていたエネルギー体の移動軌跡が再び現れていた。その軌跡を眼で追いながらも、眼の焦点はディスプレィの外──広大な森林に合わされていた。
 速い──余りにも速い。以前手合わせした時のメデューサスパイダーとは比べ物にならない速度で移動している。素手でどころか、ブースト・プロテクターを纏った現在でも、力比べで勝つ見込みはない。プラズマ・ブレイカーが効かないことはないだろうが、致命傷を与えるにはやはり接近して直接プラズマエネルギーを体内はぶち込まねばならないだろう。チキンヘッドの額に、汗の玉が光った。
 ディスプレィに紅点が現れる。自動追尾装置の捕らえたメデューサスパイダーの予想軌跡の中で、最も確率の高い一点である。チキンヘッドはその一点に掛けていた。どうやら、この樹海では電子装備は磁界によって多少なりとも歪められてしまうらしい。全てが信頼出来ないとは言わないが、電子装備は皆多少マユツバになっていると考えていい。ならば、信じるのは自分の眼だけ、である。機械に頼るのは、これを最後にしたい──それがチキンヘッドの決断であった。
「いけぇッ! プラズマ・ブレイカー!」
 三発目のプラズマ弾が森林を貫いた。そして同時に、チキンヘッドは駆け出していた。メデューサスパイダーは必ず近くにいる。ならば、いそうな場所に駆け寄って剣の一振りでもしたほうが、待ちの作戦よりもいくらかマシである。ルミナル・ブレイカーのプラズマがリチャージされたのを確認すると、チキンヘッドは剣を水平にかざしてひたすら走った。
 予想に違わず、三発目のプラズマも外れた。しかし、その光に照らされ、ほんの一瞬ではあったが、チキンヘッドの視界にメデューサスパイダーの姿が入って来ていた。
 大きい。
 以前より、二周りほど大きくなっていた。それでいて、この機動力。出力は原発三基とほぼ同等──まさしく〈化物〉の名に相応しい拳達鬼となって、メデューサスパイダーは戻ってきたのである。
「でかくても、強いとは限らない!」
 チキンヘッドは、走るメデューサスパイダーと交差するであろう軌跡を横切る形で先回りを計った。相手が見えないことには、有効打を与えることは出来ない。ましてや、飛び道具であるプラズマ・ブレイカーが役立たずの照準機器によって無力化している現在、やはり直接プラズマエネルギーを体内に叩き込むこと以外に致命傷を与えることは出来ないのである。
「よし!」
 チキンヘッドはついに、自らの正面に敵を見据えることに成功していた。自分のまっ正面から、迫り来る巨大なメデューサスパイダー!
「ターゲット・ロックオン! プラズマ・ブレイカー!」
 チキンヘッドは四発目のプラズマ・ブレイカーを放った。今度は外しようがない。プラズマの走る速度とメデューサスパイダーの移動速度から考えても、全く被弾しないことは有り得ない。四発目にして、やっとメデューサスパイダーに一矢報いることが出来るのだ。
「何いっ!?」
 しかし、チキンヘッドの予測は大きく外れた。メデューサスパイダーが大きくジャンプし、プラズマ弾をかわしてしまったのだ。そして正面にいるチキンヘッドに覆い被さるかのように突進してくる、巨大な〈水母蜘蛛〉。
 とっさにチキンヘッドはルミナル・ブレイカーを前面に押し出し、防御の構えを取る。それ以上のことを行う暇はなかった。
 轟音を立て、激突する両者。剣は大きくメデューサスパイダーの頭部に食い込み、足を掬われたチキンヘッドは宙に浮いた状態でメデューサスパイダーに押される。粘液がチキンヘッドの腕を濡らし、四本の腕ががっちりとブースト・プロテクターのボディを掴む。悲鳴を上げる胸部と腹部装甲。
「このまま溶岩壁に叩きつけてもいいんだぜ、チキンヘッド!」
 メデューサスパイダーは、その眼をいやらしく細めた。
「せめて腕が外れれば……!」
 しかしその腕もまた、メデューサスパイダーの頭部の、傘の裏側から這い出てきた蛇触手によってがんじがらめにされてしまう。ルミナル・ブレイカーから己の腕が引き剥がされていくのを、チキンヘッドはどうすることも出来ずに見ていた。
「……勝てない!」
 次の行動予測の立たないまま、チキンヘッドはメデューサスパイダーのなすがままとなっていた。
「……私、行かなくちゃ!」
 突然そう言い放ち、麗は立ち上がった。ぱっと漆黒の髪が広がり、美しい光を放つ。ウォルターもそれに素早く反応していた。
「待った! 行くって、どこに?」
「決まってる! 鶏の所よ。鶏一人じゃ勝てっこないわ。私が加勢しなくちゃ──」
「勝てるってのか!?」
 ウォルターのこの問いに、麗は口籠もった。立ち竦む麗の肩をそっと抱くようにして掴み、ウォルターはゆっくりと言う。
「冷静になってくれ、麗。君を信頼していないわけじゃない。でも、でもだ。二人になったからといって、数値的に能力値が上がったからといって、勝つことに繋がるとは限らないよ。もっと、もっと冷静になって、彼のために──彼の勝利のために考えなきゃならないことだってあるだろう」
 麗はゆっくりと頭を垂れ、ソファにその身体を沈めた。ウォルターの言葉はいちいちもっともである。しかし、感情的になった麗の頭を完全に冷やすほどの力はなかった。麗はまだ、自分の加勢が唯一にして最大のものであると確信していたのである。
 ウォルターは麗を見下ろす形で立ったまま、宙を見つめていた。麗には偉そうなことを言ったが、策は本当にあるのか? 麗とて、HANG特別捜査官である。ブースト・プロテクターを持つ処刑特捜の人間である。彼女の加勢以上のものが、本当に存在するのか? さっきの言葉は、思いつきに過ぎないのではないか──ウォルターの心もまた、揺れに揺れていた。
「でも……」
 麗の、その勝気なトーンの言葉を、ウォルターは瞬時に遮っていた。
「君のことを思ってだな……!」
 二人の視線が絡み合う。そして、絶句。
 暫し、静寂の空気が狭い部屋を占領した。しかし、その時間は僅かなものであった。
「ありがとう、ウォルター。でも、それは私も同じ。私だって、鶏のことを思って言ってるわ。だから、だから……例え二人の力を合わせて勝ち目がないとしても、やらなきゃならないのよ。他に頼れる人もいなければ、頼れるものもないわ」
 ウォルターは驚いていた。先程まで、あれほどまでに激昂していた麗の眼に、落ち着いた彩が現れていたからである。鶏を、チキンヘッドを想う心が、彼女を冷静沈着な女戦士にさせているのか?
「……勝つ見込みがない戦いに、君を向かわせたくはない。何か付加価値的な装備みたいなものは? あと、俺にも手伝えることがあるのなら」
「大丈夫。彼は今、MONSTER〈B〉装備で出動してるわ。もう装甲展開して数分経ってるところを見ると、ちょっと苦戦してるみたいだけど」
 ウォルターは首を横に振って、麗の考えを否定した。
「違う違う。君の装備についてだ。鶏のブースト・プロテクターはちらっとだけ見たが、君のものよりも重装備だった。君の方が装備的に手薄なんじゃないのか? せめて何か、俺を安心させてくれるような装備をしてくれ」
 この滑稽な言葉に、麗はくすっと微笑って応えた。
「判ったわ。私もMONSTER〈B〉で出動する。あと、お願いがあるんだけど」
「何だい? 言ってくれ。手伝えることがあるのなら、何でもする」
 ウォルターは立ち上がった麗に覆い被さるようにして尋ねる。
「そう、私が地上に具現化したら、そこの右側の──そう、それね、そのパネルの青く光ってるスイッチを押して欲しいの。それで、モニタリングカメラポッドが私と鶏を追うようになるから、貴方にも私たちの戦いがモニター出来るわ。それと」
 麗はやおらにタンクトップの胸の部分を両手で延ばして広げると、その胸の谷間から小さなロケット状のものを取り出した。それを赤面するウォルターに向かって見せながら、言う。
「これを……もし、私や鶏が本当に危なくなったら、これをそこの引き出しみたいになってる部分に入れて、引き出しを閉じて欲しいの。あんまり使いたくない武器だから封印してたんだけど、今回だけは特別。だから、貴方に託すわ。お願い」
「でも、最初っから装備して出ていくことは出来ないのかい?」
 このウォルターのもっともな問いに、麗は首を横に振った。それにつれて、きらきらと輝きながら長い髪が踊る。
「それは出来ないの。鶏にも止められてるし、本来は私たちの装備じゃないから」
 何やら事情があるらしい。未だ納得のいかないウォルターであったが、これ以上根掘り葉掘り訊いたところで貴重な時間を潰すだけである。ウォルターはここで質問を続けたい自分をぐっと堪え、麗に言った。
「判った──引き受けた。鶏を護ってくれ」
「行ってくる!」
 麗はそう言って、部屋を飛び出していった。
「御免なさい、ウォルターさん。私のブースト・プロテクターには特殊装備はないの。あんな嘘ついちゃって……でも、必ず戻ってきます。〈蒼穹斬〉を使うようなことはさせませんから」
 電送室までの廊下を、麗はそう言いながら駆け抜けていった。
 轟と風が哭った。振動が森林全体を揺さぶる。そして、弾ける火花。金属と金属のぶつかり合いで生じた衝撃波が樹海にこだまする。
 駆け抜ける巨大な〈水母蜘蛛〉。それに翻弄される蒼の騎士。ときたま輝く長剣も、〈水母蜘蛛〉には致命傷を与えられない。
 さらに、〈水母蜘蛛〉は蛇の能力も併せ備えていた。地を這い、蒼の騎士を狙う。〈水母蜘蛛〉の吐く粘液質の〈蜘蛛の糸〉は、緊縛した相手を決して逃さない。その締め上げる力は、蛇の能力を得た〈水母蜘蛛〉に無敵の力を与えていた。
「だああああッ!」
 チキンヘッドは再び、射出された〈蜘蛛の糸〉をルミナル・ブレイカーで叩き落とす。プラズマエネルギーを溜めた剣がスパークし、〈蜘蛛の糸〉は激しく閃光を発する。しかし、切れない。以前にも増して、エネルギーを反發する能力が上がっているのだ。
 しかもこれによって、せっかくチャージされたルミナル・ブレイカーのエネルギーを奪い取られてしまうのだ。
「くそっ、攻防一体の攻撃か……上手い、上手すぎるぜ」
 チキンヘッドは舌打ちした。エネルギー量が膨大に膨れ上がっているのは知っていたし、その俊敏性も予想の範疇だった。しかし、このメデューサスパイダーの攻撃力の増加は、予想の上を行っていたのだ。ルミナル・ブレイカー──MONSTER〈B〉装備があれば充分と踏んでいただけに、チキンヘッドにも僅かながら焦りが現れていた。
「直接、プラズマをぶち込むことさえ出来れば!」
 しかし、その俊敏な動きに加えて、遠近両用の攻防一体兵器となった〈蜘蛛の糸〉が、メデューサスパイダーの周囲にほぼ鉄壁の防御網を敷いていた。いざ懐に飛び込もうとすれば、数瞬前のように四本の腕と傘の下の蛇触手によって身体を緊縛され、溶岩石に激突させられるのである。その時チキンヘッドはブースト・プロテクターの堅牢さに感謝すると共に、メデューサスパイダーに対して初めて恐怖の念を抱いていた。
 まだ、チキンヘッドには「技」が残されていた。相手のボディに直接プラズマエネルギーをぶち込む窮極の奥義・ルミナルスラッシュが。しかし、その技を叩き込む隙を、メデューサスパイダーは全く与えてはくれなかった。
「はッ」
 そんなチキンヘッドの脚を、ついにメデューサスパイダーの〈蜘蛛の糸〉が捕らえた。あっという間に宙に踊らされる蒼い騎士。
「しまっ……」
 そのセリフを最後まで言う暇は、今のチキンヘッドにはなかった。溶岩石の突出する大地に叩きつけられ、再び宙に舞う。それでも、ブースト・プロテクターには傷一つつかない。衝撃も、そのほとんどが吸収される。しかし、ショックに代わりはない。
「はッはッはッ……ブースト・プロテクターを纏ってもこの程度か。甘いな、チキンヘッドくん。HANGの実力とは、そんなものなのかな? それでよくキャンサーベアーを斃すことが出来たものだ」
 巨大な白い傘が、きゅっと眼を細めながら言う。身体の表面を粘液が覆い、僅かに差す陽の光にてらてらと輝く。傘の下からは、無数の蛇がその鎌首を出し入れしている。スネーク・メデューサスパイダー──最悪の拳達鬼。
「君をいますぐ殺してしまうことは、大変惜しいことだ。それに、君からは〈活殺眼〉も返してもらわねばならないしな」
「……それは出来ない」
 二度目の激突で陥没した岩石の中から土煙と共に立ち上がったチキンヘッドは、毅然とした態度で言った。
「お前たちジャークソウルの尖兵に、〈蒼穹斬〉を渡すわけにはいかないッ!」
「〈蒼穹斬〉こそ、我ら拳達鬼の──ひいてはジャークソウル全ての望み。必ず貴様から〈活殺眼〉、取り戻してみせようぞ!」
「来い!」
 チキンヘッドは、己の右足を縛る〈蜘蛛の糸〉にルミナル・ブレイカーを突き刺して千切り身体を自由にすると、一気に高高度跳躍して優位を取った。追うメデューサスパイダー。地上三〇メートルの空中戦である。
 いかにエネルギー量が増したとはいえ、それだけ重量も増えたわけである。メデューサスパイダーは、空中での姿勢制御に苦しんだ。傘の下から蛇触手を無数に展開し、それをカウンターウェイトとして重心をずらし、それによって空中での姿勢制御を行うのだ。
 しかし、地上ほどの猛威は奮えない。メデューサスパイダーに、この戦い初めての焦りと隙が生じる。
 そこを見逃すチキンヘッドではなかった。
「ルミナル・スラッシュ!」
 剣先に溜めたプラズマエネルギーを一気に放出しながら、チキンヘッドは必殺の一撃を空中で姿勢制御に苦しむメデューサスパイダー目掛けて放った。水平に奔る剣。その切っ先がメデューサスパイダーを捕らえる。
 光芒が広がる。
 そして、急激な収束。
「な……何ッ!?」
 チキンヘッドは、我が眼を疑った。予想外の、そして予想以上の展開が、自らの視神経を突いたからである。そしてコンマ一秒かかることなく、この光景を事実として認識していた。
 フルチャージ状態であったはずのルミナル・ブレイカーの切っ先は、確かにメデューサスパイダーの左の脇腹に食い込んでいた。それは、間違いようのない事実である。しかし、プラズマエネルギーがメデューサスパイダーの体内に流れていった気配がないのである。無論、剣にはプラズマエネルギーはかけらも残ってはいない。
「一体、どういうことだッ!?」
「教えてやろうか? 処刑特捜」
 深く食い込んだ剣を左の上の腕で、剣を握るチキンヘッドの右腕を左の下の腕で掴みながら、メデューサスパイダーは眼を細めて言った。
「お前はさっき、俺の〈蜘蛛の糸〉がお前の剣に漲るプラズマエネルギーを弾き返すのを見ているはずだ。そして、俺の腹の中には一体何が詰まってると思う?」
 チキンヘッドには、その短いメデューサスパイダーの言葉だけで充分であった。マスクの下で驚愕しているであろうチキンヘッドを見ながら、メデューサスパイダーは嬉しそうに続けた。
「そう、やっと思い出したようだな。俺の腹の中には、数億という数の〈蜘蛛の糸〉が詰まっている。今日はまだそんなに吐いてないから、フルチャージ状態に近い。それだけの数の〈蜘蛛の糸〉が、お前の剣のエネルギーを弾き返せないとでも思ったのかい?」
 その言葉が終わるのとほぼ同時に、二人は轟音とともに着地していた。衝撃が脚に伝わると、二人は瞬時に後方に跳躍し、間合いを取る。
 チキンヘッドは肩で息をしていた。それが肩の両側に大きく張り出す丸い装甲に覆われたプラズマジェネレーターに伝わり、余計に大きな揺れとなって現れる。
 ──勝てない!
「鶏っ!!」
 そんな弱い心を叱咤するかのように、麗の声が樹海の黒い森に響きわたった。驚き振り返るチキンヘッドの視界に蒼い光芒が入る。装甲展開の輝きだ。
「麗、なぜ来たっ!」
 素早くチキンヘッドの傍らに走り込むと、麗はその問いに応えた。
「足手まといにはならないわ。一緒に戦いましょう。だって、私たちはいつでも一心同体のはずでしょ?」
「麗……」
「ほぉ、お嬢さんもいらしたか」
 白い傘を揺らしながら、メデューサスパイダーが嬉しそうに言う。
「二人で仲良く死んでもらうのもいいかもしれないな。もっとも、私の窮極の目的は君たちの死ではなく、あくまで〈活殺眼〉を取り戻すことだがね」
 その背後に垂れる二本の長い触手が、ルミナル・スラッシュで受けたプラズマエネルギーの残りの部分を吐き出し終えて、その輝きを止めていた。空中アースに似たシステムらしい。
「そんなことはさせないわッ! スローターカノン!」
 麗は、ブースト・プロテクターの右腕に装備されている高エネルギーレーザー銃を撃つ。狙いは正確である。三射して全てがメデューサスパイダーの腹部に命中した。
 しかし、効いた様子はない。
「無駄だ。ヤツの装甲にはプラズマ・ブレイカーですら致命傷を与えることは出来ないのだから」
 チキンヘッドは麗を制すると、下がっているように指示してゆっくりと立ち上がり、メデューサスパイダーに向かって言い放った。
「メデューサスパイダーよ! 次の一撃が最後だ。お前のその邪悪な身体を、この惑星の塵にしてやる!」
「ほざけ! お前を斃し、そのお嬢さんの装甲をはぎ取って嬲ってくれるわ!」
 チキンヘッドは突進していた。勝機があるわけではない。ただ、長期戦は彼らに圧倒的に不利だ。エネルギーの持久率が違い過ぎる。
 しかし、いくら保持しているエネルギーの量が多くても、それは瞬間的に出すことの出来る瞬発的な数値に過ぎない。それだけの大出力を何秒も維持できるわけがない──つまり、連続攻撃が可能ならば、突破口も開けようというものである。
 チキンヘッドのブースト・プロテクターには、麗のもののような内蔵兵器はない。代わりに、強力なプラズマジェネレーターを両肩に二基持っている。それを利用して、オプション装備を稼働させるのである。主武装が、今回のMONSTER〈B〉装備であるルミナル・ブレイカーとなる。
 ルミナル・ブレイカーはそれ自身は単なる剣であるが、物体を破壊する能力も兼ね備えている。ルミナル・スラッシュとプラズマ・ブレイカーがそれである。そのためのエネルギーが、両肩のプラズマジェネレーターから供給される。
 通常、ルミナル・ブレイカーにはルミナル・スラッシュ及びプラズマ・ブレイカー一発分のエネルギーが蓄積されている。そのチャージタイムは平均すれば約六秒であるが、連続使用は基本的にチャージタイムの悪化に繋がる。連続使用に耐えうるだけのエネルギー量と機能はあるのだが、機関に負担がかかるのも事実である。
 チキンヘッドは今、この限界に挑戦しようとしていた。プラズマジェネレーターは両肩に二基装備されている。常に一基がチャージ状態となり、連射のラグタイムを抑えているわけだが、それを一度に開放し、ルミナル・スラッシュかプラズマ・ブレイカーを二連射しようというのである。
 もちろん、これは危険な賭である。この二連射をし損じれば、チキンヘッドにはもう攻撃性防御は不可能となり、防戦一方になるのは目に見えている。麗がどんなにカバーしたとしても、不利に代わりはない。
「──しかし、やるしかないッ!」
 チキンヘッドは怒号を伴ってメデューサスパイダーの懐へと突き進んでいった。
「喰らえッ! 黄金の雷、プラズマ・ブレイカー!」
 チキンヘッドは大きく振りかぶり、そのプラズマに輝く剣を振るった。飛び出す球雷に続き、チキンヘッドもそのままメデューサスパイダーに向かって走る。
 メデューサスパイダーはその、至近距離から放たれたプラズマの塊を弾くべく二本の左腕を前に出し、〈蜘蛛の糸〉を射出する。ネットを張って、そのエネルギーを拡散させようというのだ。
 しかし、射出された〈蜘蛛の糸〉によるネットは、プラズマ・ブレイカーの球雷を防ぐには効果的な手段であったが、次の一撃をも逸らすには、あまりに非力で迂闊な方法だった。
「しまっ……」
 最後の言葉が口を突く前に、チキンヘッドの白刃が〈蜘蛛の糸〉を切り裂き、メデューサスパイダーの一番上の左腕を貫いていた。そして流される、プラズマの奔流。
「吠えろプラズマ! ルミナル・スラッシュ!」
 チキンヘッドは思い切りルミナル・ブレイカーを突き刺し、上方へと斬り上げた。表層組織が大きく裂け、メデューサスパイダーの筋肉構造が露になる。プラズマがスパークして空中に散り、森は一瞬にして静寂の刻を迎えた。
 次に麗の耳に入った音は、森の遙か彼方に落下したメデューサスパイダーの左腕の立てた、乾いた音であった。
 麗の視界には、二人の男が立ち竦む光景が入っていた。一人は、蒼穹の鎧に身を固め、その長大なる剣を天に向けて立っている。もう一人は、その左肩から上方に身体を切り裂かれ、水母の顔の半分が欠損している。
 しかし、蒼穹の男には、余裕がなかった。逆に、水母の男の眼には、笑みすら感じられた。
「よくぞここまで俺の身体を切り裂いてくれたな……チキンヘッドよ……しかし、ここまでだ。もう、お前には手がない」
 メデューサスパイダーは残された三本の腕を伸ばし、チキンヘッドの身体を掴んだ。右下の腕で剣を握る両の拳を掴み、左上の腕で頭を掴み、そして左下の腕で腰を掴む。金属の軋む音が、次第に樹海の中に響きわたるようになった。
 持ち上げられる。チキンヘッドの足が、地から離れる。剣が手から離れる。じたばたともがくも、どうにもならない。メデューサスパイダーは今、その圧倒的なパワーをもって、チキンヘッドを握り潰そうとしていた。
「待って!」
 麗が草むらから飛び出し、右腕のスローターカノンを構えつつ言った。
「それ以上彼を痛めつけるなら、私があなたのその傷口にスローターカノンをお見舞いするわよ! 動かないで!」
 メデューサスパイダーは、そんな健気な麗を見やり、いやらしい微笑みを作って言う。
「ほう……そんな豆鉄砲のような銃器で私を倒せるとでもお思いか? ミス・神垣」
 千切れた傘の下から、蛇の頭を無数に出して威嚇する。そんなメデューサスパイダーの行動にも恐れることなく、麗は続けた。
「あなたの胴体には確かに〈蜘蛛の糸〉があって、私たちのプラズマエネルギーを受けつけない。でも、頭の中はどうかしら?」
 黒鉄色に鈍く光るスローターカノンの銃口を照準に乗せつつ、麗はじりっ、じりっとメデューサスパイダーに近づいていく。それを睨めつけながら、一定の感覚を持って後退るメデューサスパイダー。
(今、ヤツの腕は彼を掴むことによって全て塞がっている──〈蜘蛛の糸〉は吐けない!)
 麗のこの胸の奥に潜む思いに同調するかのように、静かな戦いが続く。
「よせ……麗……近づくな……」
 チキンヘッドは唸るように言い放つ。メデューサスパイダーの罠に気づいたのだ。しかし、麗にはその言葉は単なる警告としか受け取れない。
「たッ!」
 麗は前転して一気に間合いを詰めると、メデューサスパイダーの左から回り込んで死角に入った。そして、大きく開いた頭部の傷口に向けて、スローターカノンの引き金を絞った。
「甘い!」
 しかし、スローターカノンのエネルギーもまた、〈蜘蛛の糸〉のネットによって散らされ、麗はそのままネットに捕らえられていた。
「そんなッ! 腕が塞がっているのに、何故〈蜘蛛の糸〉が発射出来るのッ!?」
 ネットに捕らえられ、もがきながら麗が自問する。その問いに応えるかのように、メデューサスパイダーが言葉を吐く。
「だから甘いのだよ、お嬢さん。私は強化された、スネーク・メデューサスパイダーだ。スネーク──蛇の部分からだって、〈蜘蛛の糸〉を吐くことが出来るのだよ」
 麗の顔が、マスクの上からメデューサスパイダーによって踏みつけられる。地面に半分めり込む。嫌な音が、耳の中で反響した。
「まずはチキンヘッドくん、君からだ。今から君の身体を粉々に砕いていく。それが終わるまでに、〈活殺眼〉のある場所を吐くんだ。もし拒絶すれば、君の生命ばかりか、私の足の下にある可愛い麗くんの顔が潰れてしまうことになるよ」
「くッ……」
 なす術もなく、チキンヘッドは唸った。
「さあ、吐きたまえ。〈活殺眼〉はどこに?」
 メデューサスパイダーの右上の腕が、ゆっくりと膨張していく。筋肉に力を漲らせる。金属の軋む音が、次第に構造破壊の音へと移り変わっていく。
「があああああっ!」
 チキンヘッドが痛みの声を上げる。
「まだ判らないようだな。麗くんとて、こんな苦しみを受けたくはないと思うのだがね」
 地面の下でも、金属と樹脂の悲鳴が上がっていた。次第に変形していく、麗のマスク。
「ほら、第一段階終了っ!」
 この世で最も恐ろしい音が耳に入ってから、チキンヘッドの感覚は一旦死んでいた。その感覚が蘇るのに要した時間がどれほどのものなのかはチキンヘッドにも判らなかったが、再び開けた視界が以前とは全く違っていることに気づいた時、彼の心臓は急激に圧迫されていた。
 驚愕──まさに驚愕の刻である。
 いままで液晶モニターを通して見ていた視界が、肉眼の視界に変わっていたのである。
 そして、風を感じ、臭いを感じ、光を感じ、圧力を感じた。全て生の感触である。
「マ、マスクが……?」
 マスクが、ブースト・プロテクターのマスクが剥がされていたのである。
「お前の生命を護るものはもう、何もない。お前には死しか選択出来なくなったのだ」
 ぼやけた視界を打ちのめすように、メデューサスパイダーの醜悪な顔が眼に入った。それと同時に、メデューサスパイダーの後方に軽い音を立てて落ちるブースト・プロテクターのマスクもまた、眼に入った。
「いかにお前さんがブースト・プロテクターとかいう鎧によってスーパーマンたりえても、私のこのパワーにはかなわない。かなうはずもない。何故なら、私こそがこの宇宙でで最も強力な生命体──拳達鬼スネークメデューサスパイダーなのだからな!」
 同時に、メデューサスパイダーの足元の人影もまた視界に入っていた。
「──麗っ!」
 そこには、マスクを砕かれたブースト・プロテクター姿の麗が横たわっていた。〈蜘蛛の糸〉のネットに絡められた彼女は、さながら蜘蛛の巣に捕まったか弱い蝶のようである。
「心配するな。これは脅しだ。彼女の頭蓋まで踏み砕いたりはせん。もちろん、これからの返答次第によっては、踏み砕くやもしれんがな」
 〈蜘蛛の糸〉で縛られた麗を軽く草むらまで放り投げると、メデューサスパイダーは視線をチキンヘッドに向け直してにやりと微笑う。
「さあ、〈活殺眼〉の行方、吐いてもらうよ」
「だああああああっ!」
 その時である。メデューサスパイダーから言う後方約三〇メートルほどの地点──ちょうど麗が電送された辺り──で、大声を上げる者がいた。
「何奴?」
 メデューサスパイダーがちらりと視線をその方向に流す。隙が出来た。その隙を、チキンヘッドが逃すわけがない。素早く蹴りを喰らわせ、その三本の腕から逃れる。
「!」
 メデューサスパイダーはチキンヘッドが逃れようとする空間に向け、〈蜘蛛の糸〉を三射した。しかし、全て軌跡を見切られ、チキンヘッドを捕らえることは出来ない。
 チキンヘッドがひらりと舞い降りた地点には、〈蜘蛛の糸〉によって緊縛された麗が横たわっていた。
「麗、大丈夫か?」
「あ……鶏……」
 額から血を流しながらも、麗は無事を告げた。傷も大したことはなさそうである。
「鶏! 麗さん!」
 草むらから聞き慣れた声が発せられる。驚き、その方向を見る二人。その方向──メデューサスパイダーの向こう側──に人影を発見し、叫ぶ麗。
「ウォルターさん!」
「ウォルター!?」
 チキンヘッドもまた、叫んでいた。ウォルターが、デッドリードライヴに残してきたはずのウォルターが、何故この樹海にいるのか?
「まさか──」
 チキンヘッドと麗は眼と眼を合わせた。そして、互いの考えが同一であり、その考えこそが唯一真実であろうという確証を得た。
 ウォルターは、デッドリードライヴの電送装置によってこの樹海に来たのだ。
「確かに、計器類をいじらなければ、座標はこの地点のままだから、ここに転送される確率は大きいわ」
「しかし、電送装置の使い方が判るとは……」
 チキンヘッドは妙に感心した。
「お前……この間も会ったな。ルポライター、ウォルター・クロンカイト──我々の存在を知る唯一のこの惑星の知的生命体」
 メデューサスパイダーが吠える。ウォルターは腰を抜かしそうになるのを堪えながら、メデューサスパイダーに向かって言う。
「お、俺だって、お前なんかに負けはしない! ペンは剣より強しって言葉を知ってるかい? それにな……」
 ウォルターの手には、とても人間の振るえるサイズとは思えない、巨大な剣が握られていた。
「お前みたいな化け物には、ペンなんて高級な武器は使わない! 剣で充分だッ!」
 ウォルターは、自分の力だけでは支えることすらおぼつかないその剣を構え、よたよたと身体を揺らしながら言った。
「鶏! 助けに来たぜッ!」
 しかし、ウォルターを除く三人の眼は、その剣を凝視していた。ウォルターの言葉に耳を貸すものはなく、またその余裕もなかった。
 まさか、あの剣は……。
「麗! お前、キーはどうした?」
 チキンヘッドが麗に訊く。麗は俯いて言う。
「ウォルターに預けたわ……その方が安全だと思ったの……でもまさか、持って来るとは思ってもみなかったわ」
 チキンヘッドは天を仰いだ。
 メデューサスパイダーもまた、沈黙を破ってその口を開いた。
「その輝き……その威圧感……まさしく、その剣……」
「〈蒼穹斬〉!!」
「〈蒼穹斬〉!!」
「〈蒼穹斬〉!? これが!?」
 知らないのは、ウォルターただ一人。
 この巨大なる剣こそ、様々な文明のある惑星に共通に伝説として残る、史上最強の剣──〈蒼穹斬〉である。
 その刃渡りは一メートル七〇センチ余り、全長は二メートルを軽く越える。あくまでストレートなその刃は、刃の部分を〈破邪の面〉、峰の部分を〈活殺の面〉、その尖る先端を〈砕貫点〉と呼び、鍔の部分は握りやすいようにグリップ状態となっている。柄の末端を腹につけ、右の腕で柄を握り、左の腕で鍔のグリップを握って貫くのが正しい使用の法であるという。
 また、柄の末端には幾つかの穴が開いている。その穴に〈眼〉を入れることにより、この剣は伝説の能力を発揮すると言い伝えられている。
 〈破邪眼〉、〈正眼〉、〈活殺眼〉、そして〈邪眼〉。それが、この剣を伝説の剣とするための〈眼〉である。
 今、キャンサーベアーを倒すことによって得られた〈活殺眼〉の填まった状態で、〈蒼穹斬〉は我々の眼前に姿を現した。
「鶏たちのピンチをモニターで見ていて、いてもたってもいられなくなったんだ。それで、麗さんに言われたロケットをセットしたら、この剣が出てくるじゃないか。これを鶏に届けたら、こんな水母野郎なんかは一発でやっつけられるんじゃないかと思って、で、電送装置をいじってたら──」
 ウォルターはおろおろと言い訳する。さっきまでの勢いなど、どこにもない。まるで自分の仕出かした罪の重さに悩むかのようである。
「ウォルター・クロンカイト! そんなことはどうでもいいことだ。その剣をよこしな! そうすれば、お前さんの生命だけは助けてやろうじゃないか。な?」
 メデューサスパイダーの声に、ウォルターの足はぶるぶると振るえていた。立っているのがやっとの状態である。しかし、彼の心の根底に流れる正義感が、その手を放そうとはしなかった。
「鶏、早く! 早く、この剣を受け取りに来い! 俺はそっちにいくことは出来ないんだ!」
 その言葉と同時に、チキンヘッドは跳躍していた。高く、高く、そして遠く。一飛びでウォルターの側までいくつもりであった。
 しかし、いま一歩のところで〈蜘蛛の糸〉が彼の望みを断ち切った。チキンヘッドは轟音を立てて溶岩石の大地に叩きつけられた。
 土煙舞う中、再びチキンヘッドとメデューサスパイダーの格闘が始まった。今度は両者とも、素手と素手の、力と力の戦いである。チキンヘッドの左足とメデューサスパイダーの左腕は〈蜘蛛の糸〉で繋がれ、さながらチェーンデスマッチの様相を呈していた。
「判っているのか、チキンヘッド! マスクのないお前は、すでに生身とほとんど変わらないのだということを!」
 メデューサスパイダーの鋭い拳を紙一重で躱しながら、チキンヘッドは水母の戯れ言に言葉を返した。
「お前と俺の間に、ハンデはない。生きるか死ぬか、だ。御託を並べる暇があったらもっと精進するんだな、メデューサスパイダー!」
 チキンヘッドの鋭角的な蹴りがメデューサスパイダーの腹部に吸い込まれ、その巨体を宙に浮かす。同時にチキンヘッドは落ちていたルミナル・ブレイカーをすばやく拾い、〈蜘蛛の糸〉を切り裂く。
「おのれッ!」
 よろめきながらも、メデューサスパイダーは〈蜘蛛の糸〉を吐く。チキンヘッドはルミナル・ブレイカーを楯代わりにして〈蜘蛛の糸〉を躱し、一気に跳躍した。
「ウォルター、〈蒼穹斬〉をッ!」
「頼む!!」
 ウォルターは巨大な〈蒼穹斬〉を柄を垂直に立てるようにして地面に突き刺し、その場を飛びのいた。そして急降下してその地に舞い降りる蒼き装甲の騎士。
「〈蒼穹斬〉よ、我に力をッ!」
 チキンヘッドは〈蒼穹斬〉を右手に、ルミナル・ブレイカーを左手に持って構えた。
「動くなチキンヘッド! これを見ろッ」
 メデューサスパイダーは麗を持ち上げ、その右腕をブースト・プロテクターの胸部に掛けていた。
「今すぐ〈蒼穹斬〉を渡せ。さもなくば──」
 金属と樹脂の軋む音が虚空に響く。その音に連れ、次第に麗のブースト・プロテクターが割り裂かれていく。僅かずつではなるが、確実に彼女の装甲は剥がされようとしているのだ。
「ここでお前の可愛い彼女を丸裸にしてやる。これがどういうことか判るか? チキンヘッド! 彼女は皮膚一枚で死と直面するのだ。護るものはもう、何もない!」
 構造材が剥き出しになり、継ぎ目から装甲がはげ落ちる。麗の白い胸が、薄暗い樹海の中で一際輝いていた。
 麗は、成す術もなく唇を噛んでいる。
「──くッ!」
 チキンヘッドには、どうすることも出来ない。〈蒼穹斬〉を捨てることも出来なければ、麗を見殺しにすることも出来ない。どちらを取ると言われても、両者を取るとしか答えられない。どちらが重いと言われても、両者を比べることは出来ない──。
「──鶏」
 不意に、周囲の雑音が途切れる。そして、麗の声だけがまるで小鳥の囀りのように涼やかに響きわたる。
「私のことは心配しないで──メデューサスパイダーを倒して」
「それは出来ない。君を犠牲にするようなことは出来ないんだ」
 麗の声に力が籠もる。
「私を信頼して──そして、自分を信頼して」
「麗……」
「私が今まであなたの足手まといになったことがあって? 心配かけたことはあるかもしれないけど、いつもうまくいってたじゃない。信じて──」
 ──信じて……。
「麗ーッ!!」
 チキンヘッドが咆哮する。それと同時に、チキンヘッドのブースト・プロテクターに装備された二基のプラズマジェネレーターがフル稼働する。空気が爆発するような轟音を立て、両肩の装甲が赤熱化する。
 地を揺るがす振動が数秒間続いたかと思うと、そのエネルギーは瞬時にして両の掌にあるエネルギーコネクターへと伝達される。エネルギーはコネクターを通してルミナル・ブレイカーに伝わり、その刃に輝く球雷を漲らせる。
「ルミナル・ブレイカー!!」
 そのエネルギーの漲るルミナル・ブレイカーを〈蒼穹斬〉に擦り合わせる。根本から先端まで、ゆっくりとエネルギーを移す。そして、両の腕に輝く長大なる二本の光の剣!
「貴様、この女の生命が惜しくはないのかッ!?」
 焦燥し、怒鳴るメデューサスパイダーに、チキンヘッドはゆっくりと、そして冷静に言った。
「俺と麗は信頼し合っている──死ぬときも生きるときも常に一緒なのさ」
 その眼は、煌々と輝いていた。凝っとメデューサスパイダーを睨めつける。
「行くぞ、麗! 地獄で再び逢おう!」
 チキンヘッドは走り出していた。
 速い。
 そして、重い。
 樹海の地面がうねるようにして、チキンヘッドの巨体を受け入れる。
 空気が裂ける。
「今ッ!」
 メデューサスパイダーには、一瞬何が起こったのか、理解出来なかった。
 たった今まで、その腕の中で押さえつけられていた麗が、一瞬にして視界から消えたのだ。
 そして手元に残ったのは、今や脱け殻となった麗のブースト・プロテクターのみ。
 メデューサスパイダーの次に感じた感覚は、衝撃と痛みだった。
「な……にッ!?」
 メデューサスパイダーの身体は〈蒼穹斬〉の刃によって見事に貫かれていた。深々と根本まで入ったその剣を操る蒼の騎士の視線が、やけに間近に感じられる。
 チキンヘッドは〈蒼穹斬〉をメデューサスパイダーの身体に捩じ込み、そのまま突進した。メデューサスパイダーの身体は宙に浮き、チキンヘッドにされるがままとなっていた。
 そして、激突。メデューサスパイダーの背中から長々と突き出していた〈蒼穹斬〉は巨大な溶岩石に突き当たり、轟音を上げながらそのまま突き刺さっていった。
 メデューサスパイダーは文字通り、串刺しになっていた。
 もう、身動きは不可能であった。
 一呼吸分の静寂が、樹海の森林に生まれる。
「地獄で詫びろ! ルミナル・スラッシュ!!」
 串刺しとなり、逃れられなくなったメデューサスパイダーの身体に、チキンヘッドは最後のプラズマエネルギーを喰らわせた。
 頭部から胸部にかけての醜悪な水母の部分が削ぎ落とされ、その切り口が次第に溶解していく。
 もう、再生能力はないようである。
 メデューサスパイダーの復活はもう、ない。
 次第に、次第にその身体は崩れ落ちていった。
「麗!」
 チキンヘッドはエネルギーの切れた剣を地面に深々とつき立て、草むらに横たわる傷だらけの麗へと駆け寄って行った。
「大丈夫か?」
「うん、生命に別状はなかったみたい」
 裂けたスーツの中の身体に擦り傷を負い、ほぼ半裸の状態でチキンヘッドに抱かれた麗は、それでも強がって微笑みを見せた。
「強制解除システムを使うなんて……無謀だよ。あのスーツの設計者に文句を言ってやる」
「そんなことないわ。強制解除システムがなかったら、今回の作戦は失敗してたはずだもの……」
「もう喋るな」
 チキンヘッドは、その鋼鉄の胸に麗を抱き締めた。
 ウォルターもまた、麗に温かい視線を投げ掛けていた。
 終わったのだ。全てが、終わったのだ……。


      エピローグ 

 
 ウォルターが自分のいる場所の再確認をしたのは、春の日差しの暖かな三月の半ばのことである。
 そこは、相変わらずの自分のアパートだった。
 ぐるっと八畳間を見回す。見慣れた光景だ。カーテンの色も、冷蔵庫の位置も、電子レンジの型も、全てが見慣れた光景だった。
 しかし、釈然としない。
 ──俺はいままでここにいたのか?
 判らない。
 自分の名前は──
「ウォルター・クロンカイト。二六歳。ニューヨーク生まれのフリールポライター」
 言える。自分が何者であるかは、判っているようだ。
 しかし、頭の中には、それとはとうてい繋がりようのない映像が浮かんでは消えていった。
 〈鳥頭〉、〈蟹熊〉、〈水母蜘蛛〉、〈少女〉──繋がりようのないものが、繋がって出てくる。
 一体、何のヴィジョンなのか。
 ウォルターには、全く心当たりがないのだ。
「……判らん」
 ウォルターは一言呟くと大きく伸びをした。壁に掛けられた時計が、今の時刻を早朝であると告げていた。
 習慣的に新聞を取りに出る。共同の郵便受けには、朝日新聞とジャパンタイムスの他に、手紙が二通入っていた。ウォルターはこの、日本語で書かれた手紙を不審に思いながら、部屋に入った。
「は? アンケート?」
 一通は、雑誌社からのアンケートだった。ウォルターはそんな紙片を一瞥すると、封筒ごと部屋の隅に投げ棄てた。もう一通を見る。
 差出人の名前がない。
「誰だ? ファンってこともないだろうし……」
 宛名書きの文字は、綺麗な日本語で書かれている。流暢、とでもいうのか。止め、跳ねがはっきりとした、今時の日本人でも書けないような、本当に綺麗な字である。
 しかし、ウォルターには、この字に見覚えはない。
「何々……」
 中に書かれてあった文字は、たった一言。
 ──さようなら。
「さようなら……?」
 別れを告げられるような人物など、ウォルターには全く思い当たらない。日本語の書ける彼女どころか、彼には彼女と呼べる女性はどの国にもいなかった。
 ──女性?
 ウォルターは自問した。
「何で女性って限定する?」
 自分でも、何故この手紙をくれた相手が女性であると限定出来たのか、全く判らなかった。筆跡が細いことも要因であるのかもしれない。しかし、ここまで決定的な感覚が生じるであろうか?
 思い当たるフシは──
「……何にもないよなぁ」
 そう言って窓を開け、ウォルターは空を眺めた。
 抜けるような蒼い空だった。
「蒼、か……」
 ウォルターは理由もなく微笑むと、蒼い空に向かって呟いた。
 ──さよなら……
 空の彼方で、何かが応えるように輝いたのを、ウォルターは知らない。

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