「ごめんね、本当に待たせちゃって」
「何度も謝らなくていいですよ。もう過ぎた事だし、本当に気にしないで下さい。それにまだまだ行く所もあるんですし」
 ショッピングモールの中を、次の目的地である小さな遊園地に向かう為に二人は歩いていた。歩きながらずっとゴオはレストランでの事を謝っていた。
 あまりのしつこさに杏奈が心の中で(ここまで何度も謝らなくてもいいのに。一度謝って『大丈夫です』って言ったんだから)などと思い始めていた。
 その時ふと、目の端にちらりと綺麗で澄んだ色が映った。くるりと振り返って見ると、それは小さな雑貨屋の入り口で鎮座していた回転式ディスプレイに吊るしてある商品の一つ、青い小さなバレッタであった。
「かわいいー」
 手に取ってまじまじと見つめる。シンプルなものではあったが、大きさや色合いがとても好みのものであった。値段を見ると、お小遣いでは買えない事もないがちょっと高いかな、と思う値段であった。
 うーん、どうしよう、買ってもいいけどお金少なくなっちゃうし、でも欲しいし……などと杏奈が思案していると、横からすっと手が出てきて商品を取った。あわてて振り返ると、ゴオがその商品をレジへと持って行ってしまった。
 後を追うように小走りにレジに走って行くと、目の前に小さな包み紙を差し出された。見上げると、ゴオの少し照れたような顔を見つけた。
「さっきのお詫びの気持ちも込めて、これ。すごく欲しそうだったから」
「ありがとうございますっ! すごくすごく嬉しいです」
 お礼を言い、手渡されたバレッタを早速つけてみる。小さなものであったが、それはとても自分に似合っているような気がした。店備え付けの鏡で確認し、ゴオに改めてお礼を言う。
「本当にありがとうございました。宝物にしますね」
 けれど。
 ゴオはまた遠くを見ているような感じで。
 返事も少し素っ気なく。
 そんな彼を見ているうちに、杏奈の心の中に少しだけ、もやもやしたものが浮かんできた。嘆きや悲しみというより、怒りに近い感情だった。
 どうして猿渡さんは、こんなにも落ち込んだままなのだろう。どうしていつも、遠くを見ているんだろう。……そう、彼は前を見ようとしていないのかもしれない。けれど、人はそのままでは進めない。だからこそ前を見る事が出来るようにお手伝いしてみようと思ったのに、どんなに色々気遣ってもどうしようもないなんて。
 その感情は端から見れば杏奈の自分勝手な思いのかもしれないが、その思いはどんどん彼女の中で膨らんでいったのだった。


 そして、今日の最終目的地は、遊園地だった。
 動物園に併設された小さなものだったが、一通りのアトラクションは揃っていた。既に夕刻近い時刻であった為、人は少なく、色々な物に乗る事が出来た。
 きゃあきゃあはしゃぎながら乗り物に乗る杏奈を、ゴオはぼんやりと見つめていた。朝からの出来事を、ぼんやりと思い返してみる。
 何故だか、彼女といるとミラとの思い出がいくつも浮かんできていて、正直ゴオ自身も感情を持て余していた。さっきの雑貨屋でも、そうだ。
 昔、ミラの誕生日に小さなブローチを買ってあげた事が思い出されたのだ。まだ給料も少なくて、正直いいものは買ってあげる事は出来なかったのだが、ミラは喜んで、毎日のようにつけていたのだ。
 そんな他愛もない過去が、次々と出て来るのは、なぜなのか。
 ──また、乗り物に乗っていた杏奈も、今朝からの出来事を思い出していた。
 ゴオがどうしてあそこまで落ち込んでいるのか、杏奈には理解できない。母はあまりそう言ったプライベートな事は話さない主義だったし、ゴオの周りの人間も、一切その事は教えてはくれなかった。
 正直、彼の心の痛みの深さを、自分は知らない。
 けれども、それでも一所懸命自分は自分なりの方法で彼を励まそうとあれこれやってみたのに、ますます彼が落ち込んでいって。
 自分のやっている事が実は間違いなんじゃないか、本当は放っておいた方がよかったのか。そんな事ばかりを自問していた。
 ──でも。
 やっぱり落ち込んでいるのは間違いな気がする。人間沈んでいるのと心も身体もどんどん悪くなっていっちゃうから。
 猿渡さんは、多分自分から這い上がろうとはしてないんだ。だからあそこまで落ち込んでしまっているんだ。
 ……どうして、出来ないんだろう。
 きゃあきゃあ叫びながら、杏奈の心は怒りでますます膨れ上がり、爆発寸前になっていったのだった。
 そして一通りのアトラクションをこなし、閉園間際になった時に、杏奈が乗りたいと言い出したのは観覧車であった。
「ほら、なんか観覧車って最後に乗る感じがしません?」
 こじつけっぽいことを言い出し、ゴオは言われるがままに杏奈とともに観覧車に乗り込んだ。
 次第にあがっていくゴンドラの揺れや、細く開けた窓から入ってくる風は、とても心地よかった。
 四分の一ほどゴンドラが進んだ頃だろうか、窓の外を見ていた杏奈が口を開いた。
「高い所って、すごく好きなんです。一年前を思い出させるから」
 ぽつりと漏らされた言葉に、ゴオはハッとなった。一年前……それは、ゴオが杏奈を助けた事を言っているのだろうか。杏奈はなおもゆっくりと言葉を重ねていく。
「わたしは、あの時助けてもらった事を今でもすごく感謝してます。あの人がいなかったら、今の自分はいないんですから。だから、二度目に彼に会えたときはすごく嬉しかった。この人と出会った事は運命なんだって、ちょっと変な事も考えちゃったり」
 彼女が何を言いたいのかいまいち理解が出来ず、ゴオはそのまま次の言葉を待つ。
「でも、その後母から聞きました。その人は巨神戦争で何か大切なものを失ったと。なんなのかは教えてはくれませんでしたけど。でも、その人が落ち込んでいるのを見るのは、すごくすごく辛かったんです」
 感情のままに話しているせいだろうか、杏奈の身体は小刻みに震え出していた。
「だからわたし、今日一所懸命猿渡さんが元気になれたらいいなぁって思って色々やってみた。ずっとお話したり、動物園やお買い物だって遊園地だって、ベースの中に閉じこもったままでどこも出てないって聞いてたから、少しでも気が晴れたらいいなぁって思ってた。でも、わたしが行動すればするほど猿渡さん落ち込んでいっちゃうし。わたし、何か悪い事したのかってずっと悩んでた。でも、違ってたんですね」
 そこまで言ったあと、彼女はゴオの瞳を覗き込んだ。思わずたじろいしまう。キッパリとした光を目に宿し、杏奈は言い放った。
「今日一日一緒に過ごしていて、判りました。猿渡さん、自分の中に閉じこもったまま、出てきてない。そこにいるのが当然の状態だと思ってきてる。早く元気になってほしいとずっと思ってたけど、これじゃあ何をやっても意味がない!」
 彼女の言葉で、ゴオは自分が昨日までどんな状態でいたかを初めて理解した。何もせず、何も考えず、ただひたすらあの日のミラだけを思ったままでで一年以上を過ごしていた事実を。そして今日初めて、違った心で一日を過ごす事が出来た事を。ミラとの楽しかった思い出──過去──に目を向けられるようになったのは、少しとはいえ、自分が浮上してきたから……ということも。
 そしてこんな自分に手を差し伸べて引き上げてくれたのが、目の前にいる小さな彼女だという事が。
「ごめん、杏奈ちゃん。君の心に気がつかなくて」
 ゴオは素直に杏奈に謝罪した。怒鳴った為に震えていた杏奈の身体の動きが、止まった。
「今、君に言われて初めて気がついた。自分で心に殻を作って、閉じこもっていたんだな、オレは。ずっとあの時起こった事に心を捕まっていて、それ以外の事は何も思い出さなかった」
 自分の心に改めて整理をつけていきながら、淡々と話していく。
「けれど、杏奈ちゃん、君がオレの心に風を入れてくれた。君と過ごした一日で、ほんの少しだけれども前を見る事が出来るようになったと思う。今日、何度か落ち込んでいたのは前を見る事によって少なからず自分自身が傷ついただけであって、君のせいじゃないんだ。むしろ感謝している」
 杏奈の暗かった顔が、みるみる明るさを取り戻していき、彼女は満面の笑みをたたえてゴオを見た。うっすらと瞳に涙を浮かべて。
「よかった。わたし、猿渡さんを少しでも元気づけてあげる事が出来たんですね。──本当に、よかった」
 ゴンドラを降りて出口に向かう。ゴオのコンパスについていく事が出来なくて小走りになって走る杏奈。やっと追いつきそうになった時に、いきなり転んでしまった。地面にへたり込んでしまった彼女に、ゴオは手を差し伸べた。
「ほら」
「あ、ありがとうございます」
 しっかりと手を握って立ち上がる杏奈だが、なかなか手を離そうとはしなかった。
 ゴオも、まあいいやと思いながら手を繋いだまま彼女の歩幅に合わせて歩き出す。
 ひとけが殆どなくなり、夕日で赤く染まりかけた遊園地に、二人の影が長く伸びていた。
 
「猿渡さん、今日は本当にありがとうございました」
「いいよ。こっちも色々あったけどすごく嬉しかったし」
「ところで、猿渡さんって名前、長いんで『ゴオさん』って呼んでいいですか?」
「……いいよ」
「わぁい、嬉しいな。命の恩人さんを名前で呼べるなんて。ゴオさん、ありがとうございます」


 ──そして四年後──
 
「ゴオちーん、これ、直せる?」
 半泣きになりながら杏奈がゴオの前に持ってきたのは、いつも髪に留めているバレッタの片割れだった。何やら留め具の部分がひしゃげている。よほど乱暴な扱いを受けてしまったのだろう。よくよく見てみると歯形もついていた。ぴんぴんの仕業らしい。
 ぐりぐりいじり倒して解決策を考えついたゴオは、杏奈の頭をなでて慰めた。
「まあ、これくらいならどうにかなると思うぞ」
「わーいっ! ゴオちん、大好きっ!」
 いきなり杏奈に飛びつかれ、ゴオは少し赤面した。忍が出かけていなかったからいいようなものの、見つかったら何を言われるか判ったものではない。
「判った判った。すぐ直すからちょっと離れてろ」
 半ば強引に引きはがし、赤くなった顔を見られないように後ろを向いて作業を開始する。杏奈はちょっと悔しかったが、思い直して質問する。
「そうだ、ゴオちん。その髪飾り、なんだか判る?」
「なんだか……って、お前がいつもしているやつじゃないのか?」
「ぶー。もぉ、ニブちんなんだからぁ」
 ゴオの素っ気ない返事に杏奈はぶつぶつと文句を言っていた。
 そんな彼女に、心の中でゴオは謝った。
(ごめんな、あの時の話を振られるのが嫌で誤摩化したけれど、本当は全部憶えている。これは初めて一緒に出かけた時にオレが買ってあげた髪飾りだという事)
 直しながら四年前の初デート(と呼べるか判らないもの)を思い出す。今でも詳細に蘇る記憶は照れくさい感情を呼び起こさせるものであった。けれども、あの事がなかったら自分が今こうして杏奈と生活している事はなかったはずだ。そう考えると、あのデートが人生の中での転機だったのは間違いないだろう。
 杏奈にとってもきっと重大な位置を占めているのは間違いはなさそうだ。あの時買ってあげた小さな髪飾りは、常に彼女の頭に留められているのだから。
「ほら、できたぞ」
 しばらく格闘した後ようやく直ったバレッタを杏奈に渡すと、彼女はそっとそれを髪につけた。かと思うといきなりゴオに抱きつく。
「ななななんだよ」
「いいじゃん忍っちいないんだし。たまにはこうしてベタベタしたって」
 いやそれでも誰か急に来たら……と思って引き離そうとしたが、考え直して杏奈の背中に腕をまわしそっと抱きしめた。
 こうして愛する人のそばにいる幸せを、改めて実感しながら。


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