「よろず相談事承ります」

 そんな言葉が簡素に書かれたトップページ。一日三万件のアクセス。掲示板システムへの書き込みは一日三千件、メールは千七百通……。
 世の中には、人には言えない悩みがある。逆に言って気の晴れるものもある。解決できない困難を真剣に相談してくるものもある。
 現代の「電脳駆け込み寺」。インターネットでの口コミが拡がり、次第に噂が噂でなくなってくる。
 もちろん、相談は匿名だし、解決されたかどうかがホームページで報告されているわけではない。大半の人が、掲示板を見て「自分と同じ悩みの人がいる」と思って安心したり同情したり……といった使い方をしているのだ。
 しかし、もちろん、中には本当の危機に直面している人もいるのだ。
 このホームページの管理者は、《和尚》と呼ばれる人物である。ネット上に莫迦正直に自分の素性を書き込む人は少ないだろうから、当然《和尚》なるこの人物の詳細も不明である。
 しかし、電脳駆け込み寺の《和尚》は、袈裟を着たり読経を行ったりはしない。
 ビークロスを駆り、私立探偵を使って事件を解決するのである。

 いま、そのビークロスは、暴漢たちを蹴散らした後、数キロも離れていない高速道路の高架下に停められていた。
「メールを入れても読まないし、チャットにも来てくれない。四日前から連絡していたんですよ」
 つるつるに剃った頭を撫でながら、《和尚》は果心に詰め寄った。果心は視線をずらし、窓の外を見ている。
「携帯ぐらい買ってくださいよ、お願いだから……一回だけ、彼女のところのパソコンから掲示板を見ましたよね。プロバイダのアクセス位置からあそこを特定するのにどれだけ苦労したか……」
 前髪をいじりながら、果心はようやく《和尚》の方に向き直った。つるりとして髭ひとつ生えていない細い顎が、重たげに上下する。
「御託はいい……仕事だろ」
 《和尚》は観念したかのように深くため息をつくと、後部座席から曲線デザインのボディが美しい、巨大なノートパソコン――パワーブックG3を取り出した。蓋を開けるとレジュームが解けて、車内がほの明るくなる。
「これかい……笹門織香……十七歳……」
「ごく普通の女子高校生ですな。ただ、ちょっとひっかかるのが……」
 トラックパッドを指で擦り、カーソルキーが少女の写真の上に来るようにする。果心は写真をクリックした。音声ファイルが再生され、少女の声がスピーカーからか細く聞こえだす。
 果心は無言でその言葉に耳を傾けていた。眼はかるく瞑っている。いつの間にか、腕組みをしていた。腕組みすると、細かった果心の二の腕に、信じられないほどの筋肉が浮かび上がる。
「……で、依頼人と会うことはできるのか?」
「今日の午前七時、彼女が学校に行く前に自宅で会えます」
 メニューバーの時計が午前六時を指し示していた。

 笹門家は、豪華な住宅だった。
 高級住宅街として知られている街の、ほぼ中央にあるその邸宅は、地上三階建て、地下一階、庭もあれば屋上もある。ガレージにはベンツとBMWが停めてあり、もうひとつ空きスペースがある。果心はビークロスをそこに入れた。
 玄関先のインタフォンを押し、果心は待った。玄関からインタフォンのある門まで、二百メートルではきくまい。庭には果心の知らないさまざまな樹木が植えられ、邸宅を被い隠そうとしていた。
 返事が会ってから数分後、息を切らせてひとりの華奢な少女が玄関先に現れた。
「あなたが、私立探偵さん?」
「はじめまして。高村果心と申します」
 少女はぺこん、と頭を下げた。長い黒髪がふわりと拡がる。一緒に出てくると思われた兄弟や両親は、少女の周囲にはいない。「どうぞ、入ってください」
 少女は果心の反応を見ることなく、小走りに玄関に向けて行ってしまう。果心もペースを狂わされ、何となく早足になって、そのちいさな女の子の後を追う。
 庭から、大型犬なのだろう、低い吠え声が聞こえてきた。

「……どうぞ」
 震える手つきで、織香は茶器を運んできた。豪華、と一言で言うにはあまりに豪華な応接室の、身体が半分も埋まるようなソファに座りながら、果心はさまざまなものを観察していた。
 置物。飾り。電飾。家具。絨毯。ドアの位置。窓の位置。そして、家の中の物音……。
 注がれた茶は、果心の知らない香りのする紅茶だった。花の香りなのだろうか。
「君も忙しいだろうから、端的に訊きたい」
 果心は、盆を持って退出しようとする織香の細い背中に、低い声をぶつけた。びくっ、と少女の背中が震える。
「大体の事情はメールで判った。しかし、具体的なことはあれでは……」
 言いかけて、息を飲む。いつの間にか少女は涙目になり、肩を振るわせながらも、気丈な態度で果心を見つめていた。盆の裏には、封筒の束が見える。
「わたしを……わたしを助けてください、探偵さん」
 それだけ言うので精いっぱいだったのか、織香はしゃくるように泣き出してしまう。盆を取り落とし、拾おうともしないその姿に、果心はただ視線を投げかけるのみだ。
「もう……もう、怖くて怖くて……」
 泣きじゃくる顔から右手を外し、封筒の束を果心の方に向ける。織香は感情の制御に必死になっていた。その右手を、そっと暖かく包むものがある。
 果心の手だ。
「言ってくれ。何があった? この大きな家に、人の気配がないのはなぜだ?」
 その言葉に弾かれたかのように、織香は顔を上げた。大きな眼は涙で濡れてはいたが、その奥の光に濁りはなかった。
「もう、わたししか残ってないんです! この封筒を残して、も母も、兄も姉も弟も叔父も、みんないなくなってしまったんです!」
 ちいさな織香の手から滑り落ちた、六通の封筒。その表書きには、同じ名字の人名が六つ。
 果心がそのひとつを拾い上げる。表書きには「笹門織香どの」の文字。住所はない。切手も貼られていない。
 そして、裏にある謎の言葉。
 《オクトパスの棺》――。