【越生まつり】に行ってきました

・越生まつりとは、埼玉県入間郡越生町のお祭りです。
 そんな所と豊島氏が関係あるのか? と問われると、『あるんだよ〜ん』と答えます。ええ。

・鎌倉時代、武蔵国豊島郡の辺りで勢力をのばしていた豊島氏。(ちなみにこの頃のメインの居場所は今で言う所の北区、荒川区近辺。もうちょっとしないと石神井までは来ない)
 その時豊島経泰と言う方が、日暮里に諏訪神社を勧進したんですね。(元亨年間)
 そこの神社で使われていた山車を、越生町が購入したんだそうです。
 しかし……越生は豊島氏の天敵、太田道灌が山吹の乙女にあったとされている(っちゅーか、そう言う言い伝えがあるらしい)所なんですが……。敵陣の中?(爆) 道灌父もこの辺りにいたらしいし。
 まあ、そんな事を言ったら日暮里なんか……ねぇ。(道灌山あるし、日暮里駅前に道灌像あるし)
 

 ──閑話休題。
 と、いうことで経泰ちゃん見たさに初めて越生まで行きました。
 東武東上線人生20年(ドアが一枚扉だった頃から乗ってます)の遠野も、越生線に乗るのは初めてでございました。
 駅で誘って下さった井上渉子姉さまと合流。
 姉さまは先に来ていらして、太田親子のお墓があるとされている『龍隠寺』に行かれたとの事。さすが姉さま。
 しかし、道灌ちゃんのお墓、本当に色々な所にあるのねぇ。豊島氏一ケ所だけだってのに。(小机に逃げたはずの泰経の墓もそこ(道場寺)にあるらしい)
 まずは先に調べてくれていた姉さまの案内で経泰ちゃんの人形の所へ。


いや、この時点では烏帽子をかぶってなかったんですよ。
あとでかぶって下さいましたが。
しかし、これが万が一月代とかあったら泣いてたでしょうね。ああよかった。
そりこみ怪しいですがね(苦笑)

 そのあと、まだ祭りは始まらないし……ってことで、山吹の乙女がいたとされている『山吹の里歴史公園』へ。
 行ってみるとなんだかもの悲しい感じのする所。何もないのが原因か。道灌ちゃん、マイナーなのかなぁ?
 入口傍に、山吹の里の由来が書いてある看板があるのと、傍の小さな小屋に太田氏の系図が飾ってあったのと、太田氏がここら辺にいた頃の勢力分布図があるくらいの、本当に小さな所。あ、勢力分布図撮ってくるの忘れた〜(泣)
 とりあえず山吹の里の由来の写真はあるので。それを載っけますです。


『室町時代、太田道灌が川越の領主であったころの話である。
道灌が父の道真を訪ねた折、この辺りでにわか雨にあったので、近くの農家に立寄り蓑を借りようとした。
すると一人の少女が出てきて、だまって山吹の花をさし出した。
道灌は、山吹の花にちなんだ古歌
『七重八重 花は咲けども山吹きの 実の(蓑)一つだになきぞ悲しき』
が考えつかず、少女の思いが分からずに恥をかき、のち大いに学問にも励み、文武両道をかねた名将と
いわれるようになったのだという。
この話は広く知られており、“山吹の里”と称するゆえんである。
昭和三十七年に県指定旧跡となっている。』
……と言う事が書かれてあります。

 豊島氏絡みで太田道灌調べなかったら、この話、実は知る事なかったんですよねぇ(本に載ってたんですよ)
 道灌ちゃん(さっきから思ってるんだが、『ちゃん』付けはどうかと思うぞ、自分)意外に勉強家だったんですねぇ。

・で、そろそろ祭りも始まる時刻になって経泰ちゃんの山車がでる、上町の方へ。
 既に経泰ちゃんは山車のてっぺんで鎮座(座ってないけど)ましましてました。
 そして、いざ出発。


武器まで持ってかっこいいです、経泰。

 山車はきめられたルートをそれぞれ進んで行って、山車同士が出会うと止まって、何やらやってました。
 調べてみた所、『曳合わせ(ひっかわせ)』という囃子の演奏合戦をしていたみたいです。
 そういや、止まった時って異様に中にいたひょっとこさん達踊ってたもんなぁ。


これはどう見ても幼稚園児なひょっとこさん。すごく可愛かった♪
ひょっとこさんは何人かいて、交代で演じてました。

 経泰についていったら、なんか2km位歩いたような気がします。ちょうど引きこもりだった遠野にはすごく辛い道のりでした。
 結局途中でばてて、ルートの2/3位で引き上げました。

 ……経泰ちゃん見るより、道灌ちゃんがらみで行った気がしないでもないですが、まあ、ただでさえ少ない豊島氏の、何かが得られたような、そんな気がするお祭りでざいました。

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