一、

 

 いつも、どこかで何かが引っ掛かっているような感覚があった。それが何かは、どれだけ自分の内側に入っていっても分からなかった。どれだけ考えても思い出せなくて、もやもやとした気分で生きていたような気がする。
 そう、記憶の糸がほぐれ始めたあの日までは……。

 

「姫さま。またいつものものが届きましたけれど……」
 そう言って千種が花束を持って現れたのは、廂の間で脇息にもたれかかって秋の花を愛でている時だった。その声に顔をしかめる。
 御簾のわきからそっと黄色い花が差し出された途端、なんとも言えない怒りがこみあげてきて、私は彼女に低い声で言葉をぶつけた。
「この花を持ってくる時はあなた以外の人にしてっていつも言っているじゃない!」
「ですが姫さま、今他の女房は誰も仕事で手が放ない状態でしたので。いけませんでしたか?」
 私が怒っている事に気付いているはずなのに、千種は何もなかったかのように口上する。その態度に更に怒りを覚え、私は更に言いつのった。
「分からないようならもう一回言ってあげるわ。私はあなたにこの花を持ってきてもらうといらいらするの。どうしようもなく悲しくなるの。だから、あなた以外の人に持ってきてもらいたいの。分かった?」
 そう言っても、彼女はのらりくらりと私の言葉を避けるような表情でこちらを見て、言葉を発した。
「けれど、忙しいのは忙しいんです。そこの所は分かって下さい」
「分かってるわ! でも、どうしようもないのよ。私にだってこの心は分からないんですもの」
 その言葉にちらと眉根を顰める千種──その顔は、明らかに彼女が触れたくない所の話題に触れてしまったようだ。
「……あの時と同じ、でございますか?」
「そう、あなたに崖から突き落とされた時と同じ──あの時にあなたが見せた顔を見た時と同じ気持ちよ! それに、何か思い出せそうで思い出せないのもいらいらするの。あの時の失った記憶が取り戻せたら……」
 その言葉に、彼女は本当に沈黙してしまった。
 二人の間に、ものすごく気まずい雰囲気が流れる。でも、私は謝ろうとも思わないし、それは千種も一緒だろう。私たちはお互いを嫌悪しているのだから。
 しばらくの後、私はようよう言葉を絞り出した。
「もういいわ、さがって」
 彼女は一礼して、その場を立ち去った。
 ふぅ、と息を吐き出して、嫌な気持ちを身体から追い出す。そして、彼女が御簾に差し入れた花束を手に取り、そっと頬ずりした。
 この花束を見ている時は、本当は嫌なことも全部忘れられるはずなのに。秋にしか咲かない、小さな黄色の花が密集している──女郎花。
 記憶がない私の心の中に、いつも咲き誇っているのが、この花なのだ。一面の黄色の広がりを持つ野原、その中で微笑んでいる誰か、そして──。
 いつもだったら、この幸せな記憶のみで終わる思い出が、嫌な記憶に切り替わった。
 そう、心の中に鮮烈に蘇る思い出。崖の下から傷む身体を起こして空を見上げた時に見つけた、怒りと嫉妬と悲しみがごちゃ混ぜになった怖い顔でこちらを見ていた千種の表情……。
 どうして彼女がそんな顔をしてこちらを見ていたのか分からない。でも、一番記憶にあるのは、その表情なのだ。
 乳姉妹としていつも一緒で仲が良かったはずの私たちの間に、何があったんだろうか。

 
 私には、八歳までの記憶が殆どない。
 気がついた時に残っていたのは、千種(名前までは思い出せなかったが、父さまに彼女を教えてもらった時、顔だけは思い出した)に崖から突き落とされたこと、そして、その時に彼女が見せた表情。
 そして、一面の黄色。ただそれだけ。
 父さま、母さまのことさえも思い出せなかった。こんなぬくもりがあったような、くらいでしか。
 二人は私と千種の間で何があったのか、執拗に千種に問いつめ、私には懇願した。でも、思い出せるはずもない。だって、心の中には何にも残ってなかったんだもの。 彼女の顔が夜毎夢に出て、私はうなされた。
 それは、その時に遊びに行っていた(らしい)和泉の里を出て、京に戻ってからも同じだった。
 すごく怖かった。でも、その恐怖の中には悲しみもあった。自分の心の中が分からず、いらいらした。
 そんな時、私にと花が届けられたのだ。小さな黄色の花がいくつもついている可憐な花が。
 乳母の伊勢からそれを差し出された時、何故だかとても嬉しかったのを覚えている。
「伊勢、この花の名前はなぁに?」
 尋ねると、彼女は教えてくれた。この花の名前が女郎花という花であること。
「おみなえし……っていうのね、この花。──あ、私、この花知っているかも」
「まあ、姫さま。この花は思い出されたんですのね」
 伊勢はものすごく喜んでいた。記憶がなくなって以来(彼女の娘が記憶をなくす原因を作ったのだから当然なのだが)ずっと憂い顔であった彼女が、とても嬉しそうなのを見て、私も嬉しくなった。
「そう言えば姫さま、昔からこの花は大好きだったんですのよ。お小さい頃私も頂きましたわ。ほら、綺麗でしょ? 伊勢にあげるね、と渡されたこともありますのよ」「……うん。何となく思い出したわ。それって母さまの所から料紙を勝手に持ち出して、読めない字で手紙を書いて渡したのよね?」
 女郎花に関する記憶が、少しだけ心の中からしみ出してきた。なんだか、ホッとした。
「ところで伊勢、この花はどなたから頂いたの? 父さま、母さま? それとも伊勢なの?」
 ふとこの花が誰から送られたものなのかが気になり、私は彼女に尋ねた。でも、彼女は首を横に振った。
「それが、分からないんですのよ。朝、門の前に置いてあったそうなんですの。『花夜(かや)さまへ』と書かれた小さな紙と一緒に」
「そうか、どこの誰かも分からないのね。でも、すごく嬉しいわ」
 私は花を抱きしめ、呟いた。

 
 その花は、それ以来花が終わってしまうまで毎日のように届けられた。何の文も付けられてはいなかったけど、何となく送って下さる方の思いが花から伝わってくるようだった。
 しかも、それは私が十四になった今も続いているのだ。
 最初は不審がっていた家の者も、今ではこの時期が来るのを楽しみに待つようになっているようだった。──一人を除いて。
 それは、千種だった。
 彼女はこの花がどなたから届くのかを知っているようだったのだ。私はそれを知っていても、彼女と口を聞くこともあまりしたくなかったので、何も尋ねなかったのだが、彼女も言う気はないようだった。
 でも、彼女は私に仕えているからたまにこの花を持ってくる。無表情のまま。一所懸命心の中にあるであろう秘密を隠して。
 その時の彼女を見ると嫌なことを思い出すので、なるべく彼女にはこの花と関わらせないようにと言ったのだった。

 
「花夜、花夜」
 いきなり、耳元で声がした。どうやらぼうっとしていたらしい。振り返ると母さまの笑顔があった。
 母さまは、普通の人とはちょっと違う。先触れをよこして人の対に行く、その際は先導の女房がつく、などのこういった形式的なことを、一切しない。突然私の対に現れたり、お半下の童に親しげに声をかける。
 和泉でならまだしも、京に戻ってからもそんなことを続ける母さまに、ものすごくびっくりしたのを覚えている。でも、なんとなくもっと昔から母さまはこうだったなぁ、というのもある。
 父さまは、母さまと結婚する前からこういう性格を分かっていたらしく何も言わない。それがでも、面白いなぁ、と思ってしまう。
『昔はもっとお転婆だったのよ。姉さまたちと暮らしていた頃は──』
 と、そのことを聞いてみたら、微笑んでいた母さま。もうじき三十路に手が届くような方なのに。無邪気な子どものようだ。
「あら母さま、何かご用ですの?」
 こちらもさすがに慣れてしまって、普通に返事を返す。母さまはにっこり笑まれて。
「まあ、今日も届いたのね、女郎花」
 意味ありげな言葉をくれた。
「母さまは、この花がどなたから届くか知ってらっしゃるの?」
 思わず問いつめる。
「知っていると言えば知ってるし、知らないと言えば知らない、のかしら」
 その言葉に私はむくれた。はぐらかされているのが分かったから。でも、こういう時の母さまは問いつめても何も言ってくれないのも分かってる。しょうがなく、私は話題を転じた。
「ところで母さま、今日はどんな用事でいらしたの? 何かご用がおありなのでしょう?」
「ええ、今日はとても素敵なお話を持ってきたの」
 母さま、嬉しそう。よほど素敵な話なのだろう。早く聞きたくなって、私は急かした。
「何? どんなお話?」
「あのね、実は知り合いの子どもをこちらに住まわせようと思っているのよ」
「えっ?」
 私は、びっくりした。いきなりそんな話を楽しそうに振られても……。
「あのね、身分は明かせないのだけれど、とっても親しい方の子どもなの。十三になる公達なのだけれど。お邸が遠くて内裏に通うのに不便というお話を聞いたから、だったらこのお邸は内裏に近いし、こちらに住めば、というお話になったのよ。他の皆にはもう了承はとってあるの。明日には越していらっしゃるのだけれど、一応、花夜にも言っておこうと思って」
 ──さすが母さま。私が反対するかもと思って何も言わなかったに違いない。事後承諾なんてずるい。
 でも今さら反対出来るわけもなく、しぶしぶ頷いた。
「いいわ。今さらどうこう言っても明日にはその方は越していらっしゃるのでしょう? 私は何も言えないの、母さま分かってらっしゃるくせに」
 くすくす苦笑を漏らしながらいう私に、母さまは優しい視線を向けた。
「で、どんなお方ですの?」
 良い返事はもらえないだろううけど、一応聞いてみた。
「義紘(よしひろ)さまとおっしゃるのよ」
 身分は明かせないとおっしゃっていたからお名前だけ聞ければいい方だろう。
「分かったわ、義紘さま、ね」
 私たちは瞳を合わせ、くすくすと笑いつづけた。


 このことが、私の心の扉をあける最初の出来事だったと気付くのは、もっと後になってからの事──。

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