あの後、どうやって自分の屋敷に帰ったのか、全く憶えていない。
気付いたら、寝所で寝かされていた。横になったまま辺りを見渡すと、母さまや菊乃、それに珍しく父さままでもがいた。
「……私、どうして──」
ふと漏らした自分の言葉で、気を失う前の出来事がまざまざと甦ってきた。
「……どうして……」
──どうして、重保さまが謀叛人になってしまったの?
「すまない、柚子」
父さまが、いきなり謝ってきた。
「そなたが重保を慕っていたとは全く知らなかった。そうと知っていたら──」
「ど、どういう事ですか?」
父さまの言葉に母さまが驚いた様子で問い掛けた。
「……畠山は何も悪くない。ただ……、父上をどうしても執権の座から下ろしたかった。だから──」
「何の罪もない畠山の家に無実の罪を着せて殺させ、そしてお祖父さまを陥れた、そういうことですか?」
「ゆ、柚子」
静かな口調で言った私に、母さまがうろたえた。
「畠山の人は父さまにとって『捨て駒』だったと、そういうことですね」
「違う! そうではないのだ」
「でも父さま、畠山の人達はその事を知っていたと思いますわ」
今となっては、重保さまのあの時の事が良く分かる。
五月になって文をくれなくなった事。浜で、私を思いきり抱きしめた事。一晩中、一緒にいたいと言った事。そして……、由比の浜に行こうとした時に言った、『ありがとう』の言葉。 全てが符合する。
きっと重保さまは父さま達の考えを知っていて、それでも、その運命に逆らおうとはしなかったのだ。
……私の一言で顔を青ざめさせた父さまは、立ち上がって出ていった。
いつの間にか起こしていた身体を横たえながら、ため息をついた。途端、涙が溢れてくる。
重保さまが殺されてしまった無念さと、もう彼に逢えない悲しみで、胸がいっぱいだった。
そんな私の頭を、母さまが撫でてくれた。
「柚子、今は何も考えないでお休みなさい。ね?」
何も考えないでと言われても、心は重保さまの事でいっぱいでどうしようもないのに。
良く眠れるようにと、静かに退出していった毋さま達の気配が消えた後、そっと起き上がった。素早く身支度を整えて、気付かれないように屋敷を抜け出し、由比の浜へと向かう。
浜に着いたのは、酉の刻(午後六時)にもなろうかという頃で、寄せては返す波の色が、夕焼け色に染まっていた。
なんだか、重保さまが流した血の色みたい。
そっと、水をすくってみた。手の中の水も、やっぱり血の色だった。
その色に誘われるように、一歩、足を海に踏み入れた。一歩、また一歩と、海を進んでいく。
このまま歩いていってしまったら、海の中で溺れてしまうことは分かってはいたけれど、止まらなかった。
……だって、重保さまがいないんだもの。
私の心を支えてくれていた彼が、私に、人を愛する事を教えてくれた彼が、いないんだもの。だから、もういいの。
──いつの間にか、水面が首の辺りまできていた。小袖に、髪の毛に、手足に、水がまとわりつく。
……このまま、溶けてしまおう。
重保さまがいるはずのこの浜の水になって、いつまでもここにいよう。
そして、私はまた一歩、歩を進めた──。
不意に息苦しくなって、あたしは手足をバタバタさせながら起き上がった。呼吸を整えながら横を見ると、隆が心配そうな瞳であたしを見ていた。
その瞳に、あたしの中の柚子が動揺した。
「隆、もしかして……」
「……最初に見た時に、分かったんだ」
急に彼が話し出した。
「小さな頃から、オレの中に想いがあった。大事な人に何も言えずに逝ってしまった想い。それが何なのか分からなくて、一人で悩んでた。でも……」
隆が、こっちを見た。と思ったら抱きすくめられた。
「姉さん……琴海を見た時すぐに思い出した。オレが畠山重保で、琴海が柚子だっだって事も。だからって、琴海にそんな事を言ってもしょうがないと思ってて。でも鎌倉に来て、少しづつ琴海の中の柚子が目覚めてきたのに気付いて、それで──」
「それで、わざとあの紫陽花のこんぺいとうを見せて、あたしの中の柚子を、目覚めさせたのね」
「うん。どうしても、柚子に言いたい言葉があったから」
「……何?」
尋ねると、隆は……ううん、重保さまが言った。
「ごめん、柚子。俺、あの時四阿から出ていったら殺されてしまう事は、分かっていたんだ。それなのに行ってしまって、ごめん」
「ううん、いいの。今こうして重保さまに逢えたから」
あたしの中にいる、柚子が返事をする。彼女の想いが、心の中にしっかりと息づいている。
やっぱり、彼女はあたしの前世だったのね。
「俺、ずっと気になっていたんだ。俺が死んでしまった後、柚子はどうしたんだろうって。謝りたい想いと、逢って抱きしめてやりたかった想い、この三つの想いがあったから、きっと生まれ変わってきたんだと思う」
「あのね、実は……」
あたしは素直に、鎌倉に来てから感じていた、もう一人のあたし──柚子の想い、そして、今知った彼女の最期を語った。
話を聞いていた彼の顔が、みるみる強張ってくる。
「……私は、重保さまに逢いたかったの。だって、いきなりいなくなったんだもの。『逢いたい』その想いだけで、生まれ変わってきたの」
「……本当に、ごめん」
「いいの。私は柚子だけど、水上琴海でもあるから。謝られても……。それに、あれは重保さまが悪いわけではないんだもの。柚子はそんな事、考えられなかったと思うの。重保さまがいなくなった、ただそれだけだったの。だからね、今あたし──柚子は今、幸せなんだよ。だって、重保さまが傍にいるから」
腕の中から彼の顔を見つめ、ニッコリ笑った。でも急に、不安になったの。……あたしの隆への想いは、柚子のものが滲み出ていたものなのかな?
どうしよう? なんだか分からなくなってきちゃった。
「ねえ、隆」
「何?」
「あのね?」
すうっと息を吸い込んで、気持ちを落ち着けて言った。
「あたし、隆の事、好きなの。柚子の事を思い出す前から、ずっと。でも今すごく不安になったの。もしかしたら自分は、柚子の想いに捕らわれていただけなのかなって。隆はどう思う?」
隆は、面喰らった表情で考え込んでいた。しばらくして、言葉を選ぶような感じで話し始めた。
「オレだって、姉さん──いや、琴海の事を、姉としてじゃなく好きだよ。重保との想いとは別に、いつもあった。迷った事もある。本当にオレは、琴海の事が好きなのか、重保の柚子への愛と混同してるんじゃないかって。でもさ、考えたら重保もオレ自身なんだよ。水上隆っていう、オレの中にあるものだから。だから、柚子の心が滲んできた想いじゃなくって、それさえも琴海の想いなんだよ、きっと」
言われてすとんと、心が軽くなった。
そっか。そうよね。柚子もあたし自身なんだよね。
ほっとして、ようやくあたしは、自分が未だに隆の腕の中にいる事を思い出した。
「あ、あのね隆、そろそろここから出してほしいんだけどなー」
「いやだ」
な、なんでいやなのよう。
「言ったろ。オレは姉としてじゃなく琴海が好きだって。だから今日は一晩中、琴海を離さない」
え、え〜っとそれって……。
「だって──」
そう呟いたかと思うと、隆の抱きしめる腕に一層力がこもったの。
「く、苦しいよ隆……」
「明日になって家に帰ったらオレたち姉弟に戻らなきゃいけないから、だから……」
そうか。そうだよね。あたしたちは半分とはいえ血が繋がった姉弟なんだもの。でも──。
あたしはそっと腕を隆の身体に回して、抱きしめた。
「今日だけ、今日だけ姉弟だって事、忘れようか? お互い普通の恋人どうしになろう?」
言って、自分からキスした。
だって、すごく淋しいんだもの。このまま姉弟に戻りたくないの。一日だけでいいから、長い人生の中でこの一日だけでいいから──。
「ん……」
小さな寝返りをうって、ふとその先に触れる肌の感触にビックリしてあたしは飛び起きた。
横を見ると、気持ち良さそうな寝息をたてて隆が寝ている。その姿を見て、今更ながらに昨夜の事が脳裏をよぎっていって、一人で顔を赤らめてしまった。
「……あ、起きてたんだ」
頭の中から考えを消そうと躍起になっていた所に、隆の声がした。
「う、うん」
「あれ、もしかして照れてるの?」
「うるさいわね。しょうがないでしょっ! ──昨日の事だし、起きたら隆が腕枕してくれてるし……」
そう。朝触ったのは、あたしが枕代わりに使っていた、隆の腕だったのぉ。昨日寝る時にはしていなかったもんだからビックリしちゃって……。
隆に背中向けてぶつぶつ呟いていたら、
「琴海って、可愛い」
いきなり後ろから抱きつかれた。
……ますます顔が赤くなった。
「ちょっとー、朝っぱらから変な事しないでよぉ」
「いーじゃんか。チェックアウトまで二時間もあるんだし。それに……」
そう言ったかと思うと、不意に真面目な声で。
「言い換えると、あと二時間しかない……ってことになる。だったら一分一秒でも、琴海の傍にいたい」
そう言われて涙が溢れてきてしまった。タイムリミットまでの二時間が、あたしたちにとっての至福の時間──。
その時までに、あたしは心を決める事ができるの?
「大丈夫だよ。だってオレはいつも琴海の傍にいるんだから。たとえ恋人どうしじゃなくても、弟として、でも心はいつも琴海の事を考えているから」
あたしの涙をそっと拭ってくれながら、隆が耳元で囁いた。
そうは言うけれど、でも不安なの。いつかあたしや隆に他に好きな人ができるかもしれない。そうしたら……。
心の不安を訴えたら、
「その時が来たら考えようよ。今考えても仕方がない事じゃないか。今、オレは琴海が好きで、琴海はオレが好き。それだけでいいんじゃないのかな?」
「そっか。そうだよね。あたしは今の気持ちを大事にすればいいんだよね。ありがと、隆」
くるりと隆の方に振り返ってお礼を言った後、そのまま、彼の胸に飛び込んだ。
「好きよ。大好き」
あなたの前で、こういうのは最後だから。明日からは、またいつものあたしに戻るから。
その想いを胸にしながら、あたしはきつく隆を抱きしめた──。
──隆が不注意のトラックに轢かれて逝ってしまったのは、それから僅か三ヶ月後の事だった──。
……次の年。去年隆と一緒に来た日と同じ日に、あたしは由比ガ浜に来ていた。
沈む夕日と、夕焼け色に染まり始めている海を見つめながら、あたしは心の中で隆に話し掛けていた。
──隆、そっちはどう? あたしは元気だよ。
隆がいなくなってから、もう九ヶ月近く経っちゃった。隆が横にいないのが辛くて、たまに泣いちゃったりもするけど。
でもね、あたしは大丈夫。
あの時の隆の『今、オレは琴海が好き』の言葉を、信じてるから。
柚子と違って後を追いかけたりはしない。だって、今日ここに来て分かったんだもの。……あなたがあたしを見ていてくれているのが。あたしの心の中に隆の想いが生きている限り、あなたは生きているから。だから、大丈夫。
でも、やっぱり淋しくて泣いちゃう時もあるかもしれないけど、見守っていてね。そうすれば、頑張れるから。
──いつの間にか、頬を一筋、涙が伝っていた。
でもこれは、淋しいからじゃないの。決意の涙なの。
……今までは、隆が傍にいない事が辛くて、たまに布団を被って声を押し殺して泣いていた。
でも、今日からそんな事はしないの。ここで話しているうちに、隆の心や想いが自分の中にあるのが分かったから。彼が一番近くにいるのに気付いたから。
……あたしは、涙を拭って海に背を向けて、歩き始めた。
すると、心の中から柚子の声が響いてきた。
──今度は大丈夫。今は強くなれたから──
あたしたちのそんな想いを、色付いた海が静かに包み込んでいった──。 |