仮面ライダー紫煙


第1話 仮面の世界


「走れ……早く……」
 月の出ていない深夜。風の啼く音もない、漆黒と静寂の空間。市街地の外れ──まだ住宅のまばらな暗い夜道を、影が動く。ひとり、ふたり、三人──子供の背丈ほどの影が立ち止まり、呟く。
「本当に……本当に……」
 その影に、背の高い影が言う。
「大丈夫だ。必ず逃げられる……必ず……」
 背の高い影はその顔を、子供ほどの背丈の影に向ける。月明かりはない。街灯もない。光源はなにもない、といっても過言ではない闇の中で、男の顔がぼんやりと光った。
 眼にあたる部分に配置された六角形の複眼が、僅かに赤い光を放っていた。

 

 正月だというのに、東京は混雑していた。
 普段の、正月三が日には交通が途絶え、まるでゴーストタウンのようになる空ざむい東京の風景を想像していた紫煙は、呆れたような顔つきで目白通りを見つめていた。
 東京は、気象庁の観測はじまって以来の正月三が日連続の積雪に覆われて、白く鈍く光っていた。
 冷気が長身痩躯の彼を包む。黒いツナギの上着をはだけ、白いTシャツ一枚になっていた紫煙の口から、紫煙ではない白いものが吐き出されていた。
 人がいない東京でのんびりしたかった──
 紫煙は呆っとそんなことを考えていた。
 身体が冷却されていくのを感じる。幸い、鳥肌という感覚は彼にはない。
 手入れのされていない、くしゃくしゃの黒い長い髪をかき上げ、鉛色の空を見上げる。眩しいわけではないが、その眼は眇められていた。
 無精髭に、ちらりと舞った雪が当たる。音もなく溶けてなくなる雪の感触が、彼の頬に伝わる。
 目白通りは規制されたように、一律の速度に一律の間隔で乗用車が走っていた。
 紫煙は路肩に大型バイクを停め、その脇で呆っと立っている。
 バイクの黒いカウリングに、雪がうっすらと積もり始めている。荷台に無造作にくくりつけてある黒いパラシュートクロスのバッグにも、白い痕跡が目立ち始めていた。
 そのすぐ脇をトラックが走りすぎていく。目と鼻の先の距離だ。掠める、と言っても過言ではない。風が巻き起こり、雪が舞った。
 眼を覆っていた前髪が、雪と同様に舞う。
 眼を細め、紫煙は通り過ぎるトラックを見つめた。
 トラックは秋田ナンバーだった。
 正月早々、ご苦労なこって──
 彼の手は無意識のうちに、腰にあるヒップバッグに延びていた。傷だらけになった紫色のポリカーボネートの鞄の奥から、煙草を取り出す。
 潰れ気味の赤いパッケージから、白い一本を銜えて引っ張り出す。やはり煙草も潰れ気味である。
 右のポケットをまさぐる。ここにも傷だらけの相棒が眠っていた。すでに輝くことを忘れた、真鍮製のジッポだ。金属音も心地よく蓋が開き、瞬間的に火をつける。
 紫煙が吐かれた。
 落ちくぼんだ眼に、光が戻った。
 こけた頬に、微笑みが戻った。
 灰がちりちりと音を立てる。車が掠めるたびに、煙が薙ぎ払われて消えていく。
 至福。
 煙草を喫っているときだけが、紫煙にとっては安らぎの時だった。
 雪とも雨ともつかないものが、目の前を舞っている。
 眼を細めてその光景を見ていた紫煙は、その視界の先にあるものを見つけていた。
 白い、丸いものだ。
 弾んで転がっていく。
 それは歩道から道路に飛び出し、うまい具合に車の波を乗り越え、中央分離帯まで弾んで行って、植え込みの中でその動きを止めていた。
 道路は幅が五〇メートルを下らない。中央分離帯まで、おおよそ二五メートル。わずか数秒の出来事だったが、紫煙にはずいぶんと長回しなスローモーションの世界に思えた。
 歩道に子供が見える。この雪のちらつく寒い中に、半ズボンだ。年齢は定かではないが、小学校の低学年だろうか。紫煙の類推が正しければ、少年、だ。
 五〇メートル先の少年は、悔しそうに白い丸いもの──おそらくはゴムボールだろう──を見つめている。この道路には横断帯というものがなく、人間はみな横断陸橋を使って渡るようになっている。自動車が激しく行き交う時間帯では、中央分離帯に向かって車道を横切ることは自殺行為だろう。
 少年にも、その分別はついたようである。飛び出して中央分離帯に行くことが仮に可能だったとしても、生きて帰ってくることはさらに困難だと。
 紫煙はその様子を、ものも言わずに凝っと観ていた。チャコールフィルターの焼ける嫌な臭いがするまで、飽くことなく。
 自分の少年時代を思い出そうとしていたのかもしれない。
 この世に生を受けて三五年間、何があったかを思い出そうとしていたのかもしれない。
 しかし、それは不可能だった。
 彼には「過去」はない。
 思い出すべき少年時代もない。
 愛すべき家族も友人も、恋人もいない。
 フィルターが口から離される。燃え尽きた煙草を、左のポケットに入っていた携帯灰皿に仕舞う。
 その間も、彼の眼は少年から離されることはなかった。
 愛くるしい顔をしている。髪はいいかげんなカットだが、不潔感はない。むしろ少年の活発さを現しているようにも見える。頬は赤く染まり、いくぶん悔しげではあるが、その眼には力があった。痩せてはおらず、しかし太ってもおらず、運動神経がいいほうには見えないが、しかし運動が苦手という雰囲気もない。理知的な、きりっとした眉をしているが、しかし生意気さは感じられなかった。
 紫煙は少年に交感を持ったようである。そんな感情を持った自分が可笑しくて、紫煙は普段は滅多に出さない片えくぼを作っていた。
 少年はそんな紫煙の視線に気づくことなくボールを見つめていた。時間を計ればたいして永いものではなかったことが知れるだろうが、少年と紫煙の間では、それは決して短い邂逅ではなかった。
 少年は白い息を吐くと、踵を返し、歩道の奥の植え込みに去っていった。植え込みの向こうには公園でもあるのだろう。紫煙はひとり勝手に満足すると、ふたたびラークを銜えた。

 

「ダバダ火振をロックで」
 注文してから紫煙は煙草が切れていることに気づいた。
「煙草、何があったっけ」
 無表情な男性店員が、タートルネックの奥から発声練習のように低いトーンの声を出す。
「キャスター、マイルドセブン、セブンスターです」
 どれも喫いたくない。紫煙は右手を挙げて店員を制すると、腰を上げ、店を出るべく重い木の扉を目指した。
 扉を開け、細くて急な階段を上がる。自然と猫背になり、ついポケットに手を入れたくなる。地下から外に出て、紫煙はひとつ伸びをした。
 正月から酒を呑む習慣はなかったが、彼に東京で拠り所と呼べる場所は少なかった。
 密かに「隠れ家」と呼ばれるバー・桃源望。華やかな表通りから一本だけ道を入ると、新宿も一気に静かな街に早変わりする。紫煙は酒飲みではなかったが、この店の雰囲気は好きだった。嗜好の関係からビールや日本酒は滅多に呑まなかったが、栗焼酎ダバダ火振だけは彼にとって別格の酒だった。焼酎とは思われない呑みやすさと、ロックにしても殺されることのない上品な香りが、彼に生きていることを実感させる。つまみもいらなかった。ロック一杯で煙草一箱、それが彼の桃源望での過ごし方だった。
 バーではあるが、止まり木がないのも彼の好みだった。気取った優男がすかした女を口説くために訪れるような酒場に金を払う気はない。桃源望は演劇関係者や若い役者の卵で活気がある。肩を寄せ合うような狭い店内に、談義が響く。生きる情熱が、美味い酒とともに燃え上がっている。紫煙はいつも、その末席を楽しんでいた。
 生きるとは何だろう。
 夢とは何だろう。
 希望とは何だろう。
 紫煙は歩きながら考えていた。路上駐輪している愛車の横を抜け、煙草の自動販売機を発見してわずか数十歩歩いただけだが、彼の頭の中には普段から考えている疑問が湧いては沈んでいった。
 答えなんかないさ。
 生きていれば何かある。
 過去もいつか思い出せるさ。
 ポケットから小銭を出し、自動販売機で煙草を購う。乾いた音が販売機の底面から聞こえる。
 そっと腰をかがめて煙草を取り出す。瞬間、ほんとうに一瞬ではあるが、額──ちょうど眼と眼のあいだの部分──に、電流に似た感覚を得る。
 いる。
 近くに、いる。
 だが、紫煙は無視した。
 だからどうだというのか。
 ここは新宿だ。人数比率から言って、いて当然ではないか。
 しかも、いたからといって、それが即「自分の仕事」につながるわけではない。
 立ち上がりざま髪をかるくかき分け、自然な動きを装って、周囲に視線を投げる。
 ──ふたり、か。
 嫌な感覚だ、と紫煙は独りごちる。その言葉を吐こうとした口を自ら塞ぐように、赤いパッケージから茶色いフィルターを銜え出す。
 新宿は練馬と違って、もう雪はちらついていなかった。
 火をつけ、ゆっくりと肺に煙を吸い込む。
 そして、吐く。
 紫煙を吐く黒ずくめの男の脇を、トレーラーが徐行していく。
 運転手がじろり、と紫煙を見やる。
 紫煙は眼を合わせ、その眼を細めた。
 運転手は日本人ではなかった。
 西欧系か? 白い──銀、か──髪に彫りの深い顔つき、唇の形が判らないほどに多量の口髭を蓄え、その蒼い眼が紫煙に何かを語ろうかとしているように見えた。
 老人なのだろうが、紫煙は西欧人の年齢を言い当てられるほど、その方向の造詣は深くなかった。
 トレーラーはゆっくりと紫煙の横を通り過ぎていった。引越し業者の動物のマークと運転している老人の容姿とのギャップに引っ掛かりを感じながらも、紫煙は煙草を大きく喫い、ゆっくりと歩き始めた。
 階段を下り、扉を開ける。からん、と扉に仕掛けられた鐘が鳴る。店員が振り返るが、入ってきた人物が紫煙だと判ると微笑むこともせず、再び背を向けて厨房に戻っていく。
 午後六時、店は開いたばかりで、まだ客はいない。二〇人ほどが座れる店内で、客は紫煙ただひとり──のはずだった。椅子に置いた黒いヘルメットが、机の下から顔をのぞかせている。机の上には、ダバダ火振のロックがグラスに入って紫煙を待っていた。
 その隣には、注文した憶えのないウイスキーのストレートのグラスが、ダバダ火振と同じく彼を待っていた。
「──」
 店員を呼ぼうとして煙草を口から離した紫煙の背後に、流暢な発音の英語がぶつけられた。
「ハッピーニューイヤー、シエン」
 その声には聞き覚えがあった。紫煙は振り返ることをためらった。
「何ですか。新年早々出会ったのがお前か──なんて台詞は聞きたくないですよ、シエン」
 コートを脱ぐ音が聞こえる。紫煙は観念したようにゆっくりと振り返り、声の主を見た。
 金髪碧眼。
 紫煙も三五歳の日本人としては背が高いほうだが、このイタリアンスーツの男はそれを上回る長身である。そして、日本人体形の紫煙には真似できないほど、脚が長い。
 美形。
 紫煙は無精髭に眠そうな目つきの冴えない男だが、このシルクのネクタイの男は爽快にして華麗、嫌みなくらいに好青年である。
「琥珀……」
「この店にいると思いましたよ、シエン」
 琥珀と呼ばれた青年は、右手で前髪をかるく掻き上げ、左手に持ったベージュのトレンチコートを店員に預けると、紫煙に向き直った。
「もっとも、この日本では私もこの店でしか貴方と会ったことはないのですけどね」
「やれやれ」
 紫煙はラークを銜え直し、深く喫い込んだ。

 

「子供、ねえ……」
「ああ」
 紫煙はジッポを鳴らし、火をつけた。煙が、低い天井を這う。
「俺もガキのころはああやって無邪気に遊んだのかなあって」
 紫煙は煙の行く末を見ながら、呟く。独り言のようではあるが、隣にいる琥珀の回答を待っているのは明白だった。琥珀はグラスを傾け、マッカラムを含んでは微笑む、微笑んでは含むを繰り返している。紫煙の煙草は残り二本となり、琥珀のグラスは七杯目になっていた。
「珍しく感傷的じゃないですか」
 琥珀もまた、紫煙の方には向こうとしない。厨房に背を向け、階段に通じる扉を凝視する形で動かない。
「あまり感情的な貴方を見たことがなかったのでね。失言だったらお許しください」
 紫煙はそんな琥珀の言葉に鼻を鳴らした。
「失言って……」
 苦笑しながらグラスを傾ける。紫煙のダバダ火振は、まだ一杯目である。氷は溶けきっていた。
 客席はいつしか満席になっていた。若者が圧倒的に多いが、莫迦な会話はほとんど聞こえない。老若男女がここでは皆、討論し、談笑し、そして人生を語っている。スピーカーから流れる曲もありふれた有線放送などではなく、オーナーの趣味なのであろう、多岐にわたるジャンル無視の曲だ。紫煙の知らない曲がほとんどだったが、つい先程は彼にとっては懐かしいザ・ナックの「マイ・シャローナ」がかかっていた。
 ラークの茶色いフィルタを灰皿に押しつけながら、無精髭の男は呟く。
「琥珀……お前、過去が希薄で悩んだことは?」
 琥珀の手が止まった。グラスの中で、丸く削られたロックアイスが小気味よい音を立てる。
「ないです」
 微笑む。邪気のない笑みだった。三〇歳を超えているとは思えない、若々しい──少年のような笑みだ。
「自分の立場は自分でよく判ってますしね」
 グラスの底に残った琥珀色の液体をぐっと呑みほし、言葉を続ける。
「何がご法度なのかも」
 ふう、と息をつく。その音につられて、紫煙は琥珀を見た。琥珀は上着を脱いで白いワイシャツ姿になっていた。琥珀にしては珍しい、と紫煙は思う。どんなに呑んでも上着を脱いだ姿は見たことがなかったからだ。紫煙は琥珀の白いワイシャツを見、それから自分の白いTシャツを見て、意味もなく片えくぼを作った。
「私は貴方に何かを忠告する立場にないし、何かを教える知恵もない。でも、シエン」
 琥珀は空になったグラスを店員に指し示しながら、やはり紫煙を見ることなく言った。
「悩みがあるなら聞くくらいの耳は持ち合わせていますよ」
 金髪碧眼は気障なことをさらりと言う。
「それはご法度に含まれるんじゃないのか?」
 残り二本になった煙草のパッケージを見ながら、紫煙は訊く。
「そうですね。でも、ここでの会話まで総て筒抜け、ということはないでしょうし」
 店員が持ってきたグラスを受け取り、空になったグラスを返しながら、琥珀は続けた。
「ただ、間違っても子供が欲しい、とかそういうことは言わないでくださいね」
 紫煙は煙草のパッケージを握りつぶしていた。
「あああ、もったいない。まだ入っていたでしょうに」
「お前が莫迦なことを言ったからだろうが」
 紫煙は立ち上がり、扉に向かった。
「トイレですか。だったらそこを右に曲がって」
「判ってる」
 重い木の扉が開かれ、店内に冷気が流れ込んできた。階段を上がると、新宿の街にも雪が降り出したことが判る。白いものがちらちらと舞っていた。
「やれやれ」
 紫煙は小銭を確認すると、煙草の自動販売機のある方角に歩み出した。
 初詣での帰りなのか、破魔矢を持った振り袖の女性がいる。
 お父さんの肩に乗って、雪を楽しんでいる幼児がいる。
 スキーバッグに重装備の若者のグループが声高に話し合っている。
 暇そうにぶらついている若者がいる。
 映画の帰りなのか、パンフレットを読みながら歩いている子供たちがいる。
 これが、平和か──
 紫煙は立ち止まり、天を仰いだ。
 無精髭の顔に、雪が当たって溶けていく。
 人々が願った平和な生活とは、これなのか──
 眼を瞑る。
 瞼の下には、なにも浮かんでこない。
 紫煙には思い出がない。
 記憶がないのではない。封印、という言葉がもっとも相応しいのだろう。
 彼は過去を封印されている。自力で過去を振り返ることができない。
 紫煙はそれを望んだのだろう。
 彼自身、なぜ記憶が封印されたのかを思い出すことはできない。だから、確信があるわけではない。
 しかし、きっと望んだのだろう。望まなければ、過去を封印する行為そのものに肯定的になれるわけがない。
 紫煙は眼を開いた。
 夜になり、空はいちだんと鉛色を濃くしていた。
 寒さは感じない。だが、空しさは拭いようがなかった。
 ツナギの上半身をはだけ、Tシャツ姿になっている紫煙を見て、通り過ぎる人々が囁く。紫煙はなんとなく気恥ずかしくなって、腰に結びつけている袖をほどき、上着を着ようとした。
 彼が上着を着ようとしていたのと、携帯電話が鳴動したのは、ほとんど同時だった。上着の右ポケットに無造作につっこまれている携帯電話は、落下防止のためにポケットの端にワイヤーで繋がれている。紫煙は慌てて携帯電話を取り出したので、携帯電話はポケットから落下し、ワイヤーによって宙づりになっていた。
 周囲の眼を気にしながら、紫煙はワイヤーをたぐって携帯電話を持ち上げ、歩道の隅に隠れるように立って二つ折りの本体を開けた。
 着信あり。
 紫煙の眼に、落胆の色が浮かんだ。その色は次第に薄れ、自分の感情が心の奥底に落ち込んでいくのが判った。
 紫煙は無表情になると、液晶に表示されていた電話番号にリダイヤルした。

 

「大丈夫なの? 本当にここで……」
「ああ。運び屋が来てくれる」
「こんな人通りの多いところで? 見つかったらどうするの?」
「なあに、木を隠すなら森に、って言うだろ? 大丈夫さ」
「パパ……怖いよ……」
「大丈夫だ……もうすぐ、もうすぐ自由になれる……」
 男は目深に帽子をかぶり、コートの襟を立てている。大きなバッグは重たげで、肩ひもが肩に食い込むほどである。その背後には、妻と息子であろうか、女性と男の子が隠れるように立っている。
 男は、一言で言えば大男である。上半身がコートで隠せないほどに大きく、発達している。身長はちらと見る限りさほどではないが、それも妻や息子の方向に向いて背を丸めているからで、実際に背を伸ばした状態で立ち上がったら、二メートルを超えてしまうかもしれない。
 すぐ横のビルからは、カラフルなネオンの明るい光線が振りまかれている。賑やかな音楽も流されている。雑踏の音がすぐそこに聞こえる。夜の新宿は街のイルミネーションに照らされ、闇になる部分は少ない。だが、闇になる部分には人間は滅多に訪れない。人間は無意識のうちに、闇を恐れる。
 男は硝子にかかったカーテンをそっと開け、外の様子を窺った。雪がちらつき始めたが、それ以外に変化はない。
 カーテンが閉められる。再び、闇が彼らを覆った。すぐ外は、繁華だ。彼らが潜伏しているのは、正月三カ日を休業にしているちいさなブティックだった。
 彼らは深夜を待っていた。彼らを安全なところまで逃がしてくれる「運び屋」を待つために。「組織」から永遠に逃れられる、天国へのパスポートを得るために──
「あなた……オートバイ……?」
 妻の言葉に弾かれるように、男は窓に向かった。妻の視線の向こう──窓の外には、人間の影があった。低く、重い排気音が硝子を揺らしている。相当な排気量のバイクのようである。
「来たか? それにしては時刻が早いような気もするが……」
 男は慎重に窓に張りつき、そっとカーテン越しに外を見た。
 繁華のネオンに遮られ、外にいる人物はシルエットになっている。大型のバイクにまたがっているのは間違いない。
 影が動いた。
 腰の後ろに手を回している。何かを取り出そうとする仕草だ。やがて手が前に戻され、ゆっくりと顔が右手に近づいていくのが判る。どうやら、煙草のようだ──男はそこまで理解すると、カーテンを細く開けた。
 火がつく。影の顔が一瞬、明かりによって照らされた。
 眼が大きい。赤い、燃えるような眼だ。
 額に赤い点がある。これも燃えるような赤である。
 口にあたる部分が大きく開けられている。鋭い歯が並んだ、凶悪な口である。
 そして、これらのパーツは、どうやら影がかぶっているマスクであることが男にも判った。
 火が消える。
 鋭い歯の中に、一瞬ではあるが、人間の口が見えた。煙草を銜えている。その口から、紫煙が吐き出される。煙は影の首の部分にまとわりつき、まるで白いマフラーのように見えた。
 影の中に、赤い光が灯った。
 ひとつは、煙草の火。
 ひとつは、額にあった赤い点。
 そして──両の眼が赤く輝いたとき、男は悟った。
 追手だ!
「英子! 幸男! 下がって!」
 男は帽子とコートを脱いだ。その下に隠されていた、発達した肉体が顕になる。
 突如、ブティックの壁が吹き飛んだ。店内からは、無数の白い糸が飛び出していた。白い糸は影に巻きつき、その動きを封じようとしていた。
「やられてたまるか! 俺は自由を──幸せを掴むんだ!」
 暗い店内から出てきた者は、人間ではなかった。
 下半身こそカーキのズボンを履いているが、剥き出しになった上半身は、人間のそれではなかった。
 全身が黒と黄色の毛で覆われている。斑模様のその身体には、逞しい腕が四本生えていた。胸板は厚く、ここにも黒と黄色の毛が多量に生えている。
 そして、その頭部は──六角形の複眼が三個、影を睨みつけるように配置されていた。口からは粘着質の白い糸を吐き出している。
「やれやれ……」
 影が動いた。
「蜘蛛男七九式……二三年間もの組織への忠誠、ここで裏切りとは……」
 巻きついた白い糸もものともせず、煙草を銜えたまま影がバイクから降りる。マスクも黒、身体を覆うスーツも黒、ブーツもグローブも黒──僅かに口に相当する部分だけが濃緑なだけで、赤く光る眼の部分を除けば、ほとんどが黒である。
「悪いが、お前に天国は用意されてない。行くのは地獄だけだ」
 蜘蛛男は糸をたぐり寄せる。しかし、影はまったく動じない。紫煙を吐きながら、影は続けた。
「改造人間に行ける天国なんてないんだ」
 金属が噛み合わされる音がした。ぽとり、と煙草が落ちる。次の瞬間、影の姿はそこにはなかった。
 急激な衝撃と、続いてGがかかる。蜘蛛男は為す術もなく、宙に舞っていた。平屋建てのブティックの屋根が崩壊し、蜘蛛男は破片を纏わりつかせながら、そのまま空高く飛び出していた。
「呪うなら、己の身体に流れる忌まわしき組織の血を呪うがいい」
 空中で影は待っていた。ぴんと張った糸は緩み、蜘蛛男は影を追い越し、さらに高いところまで舞っていった。
 落下しかけた影はビルの壁面を蹴った。さらに、さらに高いところまで上がる。
 百貨店の軒並み揃う通りを尻目に、影と男はネオンを越えた中空まで舞い上がっていた。
「首領からの遺言だ」
 影が言う。
「ショッカーに裏切り者はいらない」
 蜘蛛男は瞬間的に理解していた。自分が脱走したことも、ここに潜伏していたことも、総て首領にはお見通しだったことを。さらに、「運び屋」情報そのものが首領による巧妙な罠だったことも──そして、この「影」が何者なのか、ということも──ショッカーの総ての改造人間の記憶装置に「忌み名」として刻まれている死神の名が、彼の口を突いて出た。
「貴様あああああ! ライダーか? ライダーなのかあああああ!?」
「これがお前が聞く最後の言葉だ」
 影は蜘蛛の糸を総てちぎり外すと空中で反転し、右脚を大きく前に出して叫んだ。
「ライダーキック!」
 蜘蛛男の身体は、その蹴りによって木っ端と化していた。

 

「なんか事故があったみたいだぜ」
 外での騒ぎに、客の何人かが階段を上がっていく。その流れに逆行するように、紫煙は桃源望の店内に戻った。
「ダバダのロック」
 店員に告げると、紫煙は琥珀の隣に座り、ポケットに手を入れた。握りしめたパッケージから潰れた最後のラークを引っ張り出すと、ジッポで火をつける。
「シエン」
 琥珀は一二杯目のマッカラムを傾けながら、戦友に忠告した。
「悩みがあるなら聞くと言ったでしょう」
「……言えるかよ」
 紫煙の履く黒いブーツから、焦げた臭いが立ち上っている。
 彼の手の中で、灯らない折れた煙草が震えていた。


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