市電がいつも通りの時刻に向こうから姿を現すと、私の心は期待と不安でいっぱいになってしまう。
この日も、そうだった。
晩夏独特の蒸し暑くよどんだ空気の中を大きな車体がゆれながらやってきて、停車場に止まる。
列をなした乗客は次々と乗り込んで行く。
それを見送ってから一番最後に、静かに滑り込んだ。
運転士さんに定期券を見せつつ車内に入った途端、ふわり、といつもの香りが私の鼻を軽くかすめる。
(あ、今日もいらっしゃるんだわ……)
素早く視線を泳がせて、目的の人物を捜し出した。
彼女はいつもの位置に陣取り、手すりをしっかりと握りしめ、いつものように遠くを見つめていた。
いつも何を見つめ、何を思っているのかしら? 考えながらす、と彼女の姿に素早く上から下まで視線を滑らせた。
きれいにおかっぱに切り揃えられた髪の毛、彼女のその髪型にとても似合っている大きな明るめのリボン。このご時世に学校の方針なのだろうけど明るい色の振袖に袴という姿は、逆に彼女の魅力を存分に引き出している。
そして、この香り。
彼女からはいつも甘い花のような独特の香りが漂ってくる。車内が混んでいたとしても、香りがすれば彼女はこの中にいる、と判ってしまうくらいに。
着物に香でも薫きしめてあるのだろう、と考えるのだけれど、私にはその明るい爽やかな香りは彼女自身から出ているのではないかと思いたくなってしまう。
それほどまでに彼女の印象というのは香りそのものだった。そして、イメージにあっていたのだ。
ああ、どうしましょう、と一瞬だけ悩んで私は乗車口からそっと奥へと歩を踏み出す。そんなに混んではいないので簡単に彼女のそばへと近づくことができた。
傍に行けば行くほど、彼女の容姿が視界に入り込んでいく。
小柄なその背や、猫の目のようにつり上がってはいるけれども大きくて潤んだ瞳、すっと通った鼻筋、ぷっくりとした唇、小さくて愛らしい手などが伺えて、知らず心が高鳴ってしまう。
──こんなに近づくことができたのは、初めてかもしれない。
いつもであればもうちょっと人が乗っていて、彼女の定位置である奥の手すりの辺りは既に人が詰まっていて入り込めない状態なのだけれど、今日は何か理由があるのか、本当に人がいなくて。
ああ、どうしよう。と思いながら私は彼女の真横に立った。
すると、いつもよりずっと強く彼女の特長である香りを感じることができ、一瞬めまいを起こしそうなほどに興奮してしまう。
くらくらする身体をどうにか立て直しながら、大きく深呼吸をして、胸いっぱいに香りを閉じ込める。
と、その時。不意に電車が急ブレーキをかけ、車体全体が傾いだ。私は足に力を入れてなんとかやり過ごす。
なんとか人とはぶつかることもなくて、ほっと胸をなで下ろす。
と。
「きゃ」
か細い声がしたかと思うと、不意に私の胸に何かが飛び込みそうなくらいの勢いで倒れてきた。とっさに支えようとするも、ほんの数センチ手前のところでそれは留まった。
「ごめんなさい」
ぺこりと、容姿の甘さよりも涼やかな声で謝ってきたのは先程隣にいた彼女。おかっぱ頭をものすごい勢いで揺らしながら、こちらに向かって謝ってくる。
あまりの勢いに、リボンもかすかに上品な衣擦れの音を立てて揺れていた。
「だ、大丈夫でしたか? お怪我はありません?」
彼女に話しかけられたこと、彼女が自分を見ていることに動揺してしどろもどろの返事をするのに、猫のような目をふうわりとやわらかくにじませて、彼女は微笑んだ。
「ありがとうございます。私は大丈夫ですわ」
「そう、ならよかった」
できるだけこれ以上動揺しているのを悟られたくなくて軽めに声をかけると、彼女はまたくるりと視線を私から外し、いつものように遠くを見つめて手すりに掴まってしまう。
悔しいような残念な気持ちにとらわれながら、私はそうっと横顔を盗み見た。横に視線をずらすと、小さな手がぎゅっと手すりを持っていた。
先程不可抗力とはいえ倒れてしまったからだろう。もう絶対に倒れないわ、と思っているのが私にでさえ判ってしまうような、力の入り方があまりに可愛らしく小さな笑みがこぼれてしまう。
ふ、と同じ手すりに掴まろうかしら、という考えがよぎった。
──私自身、今みたいに電車が急停車してしまったとき倒れないとも限らないし、などと心の中で自分自身に言い訳をしつつ、さも当然と言った感じにさりげなく同じ手すりにぎゅっと掴まった。
彼女より頭ひとつ分大きな背をしている私がつかんだのは、彼女の手のすぐ上の辺り。
触れそうで触れられない位置に、彼女の指があって。ぎゅっと心臓が捕まれたかのように締め付けられる。
こんなに近くに彼女の存在を感じることができるなんて……とほう、とため息をついたとき、車体が大きく右に曲がった。
いつもだったら乗りなれている電車なのだから、どこで曲がるかなんて判りきっているはずなのに、彼女横にいるという事実にに気を取られ、失念していた。
ここの曲がり角は私が学校に着くまでの路線の中で、一番の角度で。車内で立っている人の身体すべてが斜めに傾ぐほど。
大慌てで手すりを握り直し、揺れをやり過ごす。身体がようやくまっすぐに戻った時、ふ、と手すりを持っている左手の小指が何か暖かいものに触れていて。
(え?)
小指が触れているのが何かを知った途端、心臓がどくりと大きな音を立てた。
何故なら触れていたのは彼女の人差し指だったから。
デパートで売られているビスクドールのような肌理細かいなめらかな肌の感触が、小指一本なのに直接伝わってきて。
「……あ、ご、ごめんなさい」
たぶん、そんなことを考えていたのはほんの一瞬。さっと手を引っ込め、私は急いで彼女に謝った。
「大丈夫です、お気になさらないで」
ほんの少しだけ微笑んで、彼女はまた、元の位置に向きな置った。
……こんなに胸が高鳴っているのは、私だけなのね。
ほんの少し……いえ、ものすごくがっかりして視界の端に彼女をとらえながら、私はうなだれつつ前を向いた。
しばらくして、いつも私が降りる停車場に市電が滑り込む。
名残惜しい気持ちをひた隠しにして、私は降車口から停車場に降り、彼女のいる辺りを見あげた。
ちらりと見えたのは遠い目をして外を見つめている彼女の姿。儚げなその表情に私の心はまたしても奪われる。
(何度見ても、彼女は可愛らしいわ)
熱のこもった瞳で、彼女を眺めた。
と、その時。
ちらりと、彼女がこちらに視線を投じてきた。下から彼女を見つめている私に気がつくと、小首を傾げ、そして。
にっこりと、微笑んだ。
その微笑みはとても愛らしくて。
あわてて、ぺこりと頭を下げて微笑み返す。勢いで小さく手を振ってもみる。
すると彼女も着物の袂を抑えつつそっと手を振り返してくれて。
舞い上がった私を置いて、市電は静かにまた走り出し、どんどん遠ざかっていった。
(ああ、どうしよう……)
私は高鳴る胸を押さえ、しばしその場から動けないでいた。一緒に下車した人にとん、と背中を押され、ようやく我に返って小走りに駆け出す。
学校への道は停車場からはそう遠くはないのだけれど、この余韻に浸っていたくてひとつ前の小径を曲がり、遠回りすることにする。
そもそも彼女と一緒の電車に乗るためにここ数ヶ月いつもより三本も早い電車に乗っているのだから、遅刻はしないのは判りきっている。
ひとけのない路地裏に身を寄せ、胸にもう一度手を当てた。いつもより多い鼓動は、走って来たからだけではないだろう。
(あの人に微笑んでいただいた……)
それが嬉しくて嬉しくて。どうしたらいいのか判らなくて。しばらく胸に手を当てたまま、壁に背中を寄りかからせていた。
今まで見ているだけだった彼女と幾度も話すことが出来て。にこりと微笑んでもくれ。最後には手まで振っていただけて。
今日という日は、彼女と近づけた記念日だわ、と心の日記帳にそうっと書き記しておこうと考えた。
ようやく鼓動も落ち着いてきて、学校が始まる時刻も近づいてきたのが懐中時計からも伺えたので、身体を起こし歩きだそうとした時、ふと、左手の小指に目がいった。
(あの人に触れた指……)
歩きかけていた身体を止め、じっと小指に目をやった後、私はそうっと壊れものに触れるかのように、小さくひとつ小指に唇を落とした。
心と身体がふわりと何か煌びやかなものに包まれるのを感じながら、私は軽い足取りで小径を走りだした。セーラー服の襟やスカートが乱れるのを厭いもせず。
──明日はきっと、あの人ともっと話せる、そう思いながら。 |