無題


 逢いたい。
 あいたい、あいたい、あいたい──。
 わたしの頭の中は、郁紀に逢いたい想いでいっぱいだった。
 あの別れから幾日過ぎただろう。少なくともわたしは数えなかった。そんな無意味なことはしなかった。
 最初の頃は、「郁紀にとってはこれでよかったんだ」っていう安堵感でいっぱいだった。けれども少し経ったら彼の傍にいることができない空虚感と不安が募った。それがだんだんと「逢いたい」という想いに変わっていくのに時間はかからなかったと思う。
 けれども、彼には会うことができない。彼の見えていた世界、その中でわたしは彼にとっては普通の少女の姿だったようだ。そうなると今、治療を施し元の世界を取り戻した彼にとって、わたしの姿がどう見えるのか──。
 わたしだって、自分の姿が判らない訳ではない。今この地球に蔓延っている人間とは確実に姿形が違う。わたしと出会った時に郁紀がおぞましさを感じていた化け物(それは人間だったのだけれど)と何ら変わりがない姿。
 だからこそ、我慢していたのだ。わたしにとって今一番怖いこと、それは郁紀に自分の存在を否定されること。
 けれども恋愛感情というものはもっと複雑で、且つ単純なものだったようだ。ふと気がついたらわたしは彼のいる病院の中に忍び込んでいた。気配をたどってゆっくり、静かに郁紀のいる部屋の前まで来てしまっていた。
 どうしよう、そんなことを考えていると、誰かが扉に近寄る気配を感じ、向こうから聞き覚えのある声がした。
「沙耶なんだね」
 嬉しかった。懐かしかった。愛おしかった。でも返事はできなかった。彼の耳に届くであろう音はきっと、理解不能な不協和音だから。
 普通に声をかけることもできない自分がすごく嫌だったし、悔しかった。
 返事がないのが不思議だったのだろう、郁紀の声が、また聞こえた。
「なぁ、どうして声を聞かせてくれないんだ?」
 どうしても声は出せない──その時、ふとわたしは手元に携帯電話を持っていることを思い出した。これなら声を出さずに会話ができる。開いてメモ機能を呼び出し、わたしは返事を打ち込み、覗き窓の隙間からそれを渡した。
『わたしの声、きっと変に聞こえるから』
 そう打ち込んだはずなのに、彼からは意外そうな返事が戻ってきた。
「そんなこと、僕はぜんぜん気にならないよ。君の声が聞きたい、姿が見たい」
 そう言って彼は携帯電話をこちらに差し出してくれた。その機械にかすかに残るあたたかな、ぬくもり。それを抱きしめながらわたしは溜息を漏らす。
 ああ、どうして、郁紀はそんなことが言えるのだろう。
 わたしだって郁紀の姿が見たい。胸に飛び込んでその胸の中でぐっすりと寝てみたい。そっと頭をなでてもらいたい。一生傍で甘えていたい。
 ──でも、できない。今のわたしはあまりにも違いすぎる。郁紀の願いを聞いて、出ていって否定されたら、わたしは全ての存在意義を失ってしまうだろう。
 だからわたしはこう打ち込んだ。
『あなたが憶えている姿の沙耶でいたい。お願い。許して』
 また、それを郁紀に渡してしばらくして「そうか……」と呟く彼の声が聞こえた。
 多分彼も、薄々理解してくれているのだろう。わたしの今の姿を。正常な世界での、わたしの姿がどんなものかを。そんな様子が声から受け取れた。
「あの日、君に言おうとしてたこと──保留になってたの、憶えてる?」
 不意にそんな話を振られてわたしの思考は一瞬凍結した。
 忘れる訳がない。
 あの日、彼の言うであろう言葉が想像ついたからこそ、わたしはあえてそれを聞かずにあの質問を投げかけたのに。
 聞いてしまったら彼は二度と戻れない道に踏み入らせてしまう。深みに入って戻れなくなる。だからこそ戻りたいかをあそこで尋ねたのだから。
 返された携帯電話に、さりげない感じでさらっと答えを打ち込んでいく。
『もう忘れてくれてると、思ってた』
 何しろあれから既に幾日もの日々が過ぎ去っているのだ。忘れている方が普通だと思っていた。けれども、郁紀は違っていたようだ。
 携帯電話を隙間から差し出してすぐ、優しい彼の声が聞こえてきた。
「忘れたりするもんか」
 それから、向こうで携帯のキーボタンを押している音が聞こえてきた。しばらくして、そっと携帯がこちらに渡される。液晶画面に撃ち込まれた文字を見た瞬間、わたしの視界は急速に滲んでいった。
 たった一言の、ことば。4文字の、ことば。
 わたしにとってはどれだけ欲しかった言葉だろう。でも、もう──
 携帯電話を握りしめながら、わたしはずっと泣いていた。すぐさまその隙間から入り込んで彼の顔を見たかった。抱きしめたい衝動に駆られた。でも、それは叶わない夢。
 しばらく泣きじゃくっていると、ぽつりと、郁紀の声が聞こえた。
「僕は、構わなかったんだよ」
 彼の言葉は、あの時のことを言っているのだろう。あのまま一緒に暮らして、誰にも入り込めない狂気の世界に二人でいる、それでも構わなかったと。
 けれども、わたしにはそれはできなかった。だって、愛おしい郁紀がどんどん壊れていくさまを見ているのは、嬉しくもあったけれど、同時にとても怖かったのだから。わたしにそんな権利はあるのだろうか、そう思ってて。
 今もらったメッセージを保存し、新たな空白に謝罪の言葉を入れる。
『ごめんなさい。わたしは、意気地なしだった』
 そう、意気地なしだった。どうしても最後の一歩が踏み出せないでいた。郁紀を愛していたからこそ、できなかった。あの時彼に構わないと言ってもらっていたとしても無理だったろう。
「君だけが悪いんじゃない。あのとき僕に迷いがなければ、君だって勇気を出せた。そうだろ?」
 迷いがあったのは郁紀だけじゃない。わたしにだって迷いがあった。
『あなたが、怖かった。わたしのせいで変わっていくあなたが』
 戻ってきた携帯電話にこう打ち込んで、渡す。
「仕方ないさ」
 返ってきた言葉は、二人の全てを物語っているように思えた。
 あの世界にいることにほんの少しだけためらいがあった、郁紀。
 わたしのせいでどんどん変わっていく郁紀にほんの少し恐怖を覚えた、わたし。
 そのほんの少しの溝があったために、わたしたちは二人で生きていくことを否定してしまったのだから。
 だからこれは、もう『仕方ない』んだろう。
 「沙耶は、これからどうするんだい」
 郁紀がわたしを心配してかそう疑問を投げかけてきた。
『またパパを捜す。あの人なら、私を還す方法を知ってるはず。わたしの、もといた場所に』
 そう返事したわたしに郁紀は優しく問いかけてきた。
「そうか……帰りたいんだね? 沙耶は」
 ……帰りたい、帰りたくない。本当はわたしはどっちがいいんだろう。
 逡巡。
 どれだけ遠くても彼と同じ世界にいたいと思う。けれども、ここで暮らしていくのはとても困難な事だということも解っている。そして、郁紀の近くにいられない寂しさはわたしの心をどんどん苛んでいくだろう。
 本当は他の人を見つけてしまえばいいのかもしれない。もう人間という生物の脳をいじる方法は理解したのだから、書き換えてその人のそばにいればいいのではないかと考えたこともあった。でも、無理だった。郁紀の顔が、声が、仕草が、心が、わたしの中で鮮やかな記憶として残っていたから。郁紀以外の人の傍にいることを考えただけで嫌悪感をもよおした。
 わたしがこの世界に現れた時の目的はもう果たされないと言っていいだろう。だったら、帰った方がいいのかもしれない。それが悩んで出てきた結論だった。
『うん』
 悩んだ時間の割に返事葉素っ気ないものになってしまった。でも、しょうがないかなとも思う。肯定をしたということは郁紀との別れをも肯定してしまうのと同意義なのだから。
「そうか。お父さん、見つかるといいね」
 返って来たのは、応援の言葉。すぅっとしみ込んできた。その言葉だけで頑張ろうって気持ちになる。たとえこの先何があってもこれなら頑張ることができる。
『がんばる』
 素直な気持ちを打ち込んで渡した。
「もしも気が変わったら……僕はずっとここにいるから。いつでも来ていいからね」
 そう言ってくれた郁紀には申し訳ないと思うけれど、わたしは二度とここには来ないだろう。わたしは自分のこれからの道を示し、彼はそれを応援してくれた。だったらわたしは前に進むしかない。だからこそもう彼には会わない。
『うん。ありがとう。さよなら、郁紀』
 想いと決別を込めて、ゆっくり、しっかりとボタンを一つづつ押してお礼と別れの言葉を入れた。この携帯を渡すのも最後なんだな、と思うとちょっと震えた。でも渡す時には郁紀に気づかれなかったと思う。
「さよなら、沙耶」
 郁紀の言葉に扉をぺたぺたと叩いて返事の代わりにした。
 手元に返ってきた電話をぎゅうっと抱きしめる。彼のぬくもりが消えてしまわないように。それでもだんだん冷えていってしまう電話を、わたしは愛おしく見つめて、それからしまった。
 涙があふれて止まらないけれど、きっとこれは悲しいからじゃない。淋しいからじゃない。ただ、彼が愛おしくて愛おしくて、その想いがあふれて止まらないだけ。
 もう逢えないと思っていた人に逢えた。声をかけてもらった。そして、この先を応援してくれた。そして──。
 わたしは今しがたしまった携帯電話を開いて、もう一度、保存しておいたメッセージを呼び出す。涙でぼやけていて輪郭しか判らないけれど、そこに書いてある想いをわたしはきっとどこでも思い出すことが出来るだろう。
 考えただけで新たな涙があふれてくる。
 涙を拭わないまま、わたしはパパを捜すべく、新たな一歩を踏み出した。
 


解説。

 『沙耶の唄』が大好きなんです。どの結末にたどり着いてもなんだか泣けてしょうがなかった。
 その中で一番泣けた病院編ED後小説を、ずっと温めたままでした。
 これを晒していいか迷っていたから。(いや、同人的な意味でね)
 今は多少規制も緩くなったしいいかなぁと思って今回初めて晒してみます。
 会社のエディタでせこせこ打っていた記憶があります。懐かしいなぁ(笑)
 (2004.01.19作成)
 



 

 

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