「……っ!」
声にならない叫びをあげながら、紫穂はベッドから跳ね起きた。
何の夢かは憶えてはいない。ただ、ひたすらに怖かった。不安だった。未だに荒い呼吸を整えるべく、一つ大きな深呼吸をする。
吸った息を思い切り吐き出して、肩の力を抜いて。ようやく人心地つく。
落ち着いてみて、冬だというのにびっしょりと汗をかいていることに気づき、ああ、そう言えば喉が渇いたかも、なんて思ったりしてみる。
隣に寝ているこの部屋の住人を起こさないように、そっとベッドを降りた時、肌に刺さった外気で何一つ身に纏ってないことを思い出し、手近にあった上着らしきものを急いで掴み袖を通す。
(あ、やだこれ……センセイの白衣じゃない)
どうやら彼が明日職場に持っていく、と言って椅子にかけておいた洗い立ての白衣を掴んでしまったようだ。まあ、もう袖を通しちゃったからしょうがないわよね、などと言い訳しつつそのまま羽織り、キッチンへと足を向ける。
(現実がこんなに不安だから、夢でも不安になっちゃうのかしら……)
グラスを取り出し、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しながら、思いを巡らす。
確かに、今は不安な要素がいっぱいだ。超能力者と普通人は一見すると小康状態を保っているように見えるけれど、内部でどちらも崩れ始めている感じが窺えて。
それよりも心配なのは……薫だった。いや、彼女は普段と変わってないかもしれない。でも、明らかに今までと態度や行動が違ってきている。紫穂の心の奥底では彼女の行動に対して危険信号が点滅している。
そんな危うい彼女を見るたび、以前聞かされた予知が迫っているのではないかという、不安が消しても消しても浮かび上がってくる。
──ううん、そんなわけない。
ふるふると頭を振って不安をかき消そうとした。グラスを一気にあおって中身を飲み干して。
と、不意に背中に体温を感じたと思うと、そっと抱き締められた。
「……ごめんなさい、起こしちゃった?」
問いかけながら、回された腕にそっと触れる。途端、透視ようとしなくても流れ込んできた不安の思念に驚いて、腕の中で向きを変えると、いつも見せるものと全く異なった恋人の瞳にぶつかった。
「どうしたの?」
問いかけると、言葉よりも先に、きつく抱きしめられる。白衣で覆いきれていない部分が、上半身何も身に付けていない賢木の胸と合わさり、その素肌の感触にホッとする。さっきまで心いっぱいに感じていた不安が、少しだけふわりと中空に溶けていく。
「や、起きたら隣に紫穂がいなかったから」
「そんな理由じゃないでしょ?」
言いながらそっと手を伸ばして頬に触れる。そこからも流れ込んでくる、強い不安。自分が隣にいなかっただけでこの人がこんな風になるなんて、ありえない。
──何をそんなに、不安がっているの?
「……夢を、見たんだ。──紫穂がパンドラに行っちまう、夢」
静かにぽつり、呟かれた言葉に目を見開く。
「薫ちゃんを追っていなくなるんだ。俺のいない間に。で、バベル内を走り回って探すんだけどどこにもいなくて……って夢でさ。起きて横にいなかったのを見た時、夢じゃなくて現実か、と焦った」
だからこんなに不安な思いを抱えているのか、とようやく納得した。腕を回し、そっと賢木の身体を抱きしめ、ぽんぽん、と軽く背中を叩く。
「……私は今、ちゃんとここにいるでしょ? それに、パンドラなんかに行ったりしないわ」
どんな未来を聞かされたとしても。今、自分の意志でここにいるから。だから、この先パンドラに行くことはない……はずなのだけれど。
知ってしまった未来が、的中率100%と言われた伊−九号によってもたらされた未来のビジョンが、枷のように心を縛り付けて離してくれないのも、事実。
「そもそも、薫ちゃんだって今ちゃんとバベルにいるじゃない。今日彼女に会ったばかりでしょ、センセイも」
自分の心の不安は押し隠したままわざと明るく告げても、賢木の表情は晴れることはなかった。そればかりか、ますます眉根を寄せて考え込む様子を見せる。
「以前、どっか遠くに飛ばされたことがあったろ。パンドラのアジトを探りに行ったとき」
不意に話が飛んで、少し困惑しながらも紫穂は答える。
「あったわね、あのとき初めて未来を知ったんだわ」
そう、あの時にパンドラの葉から聞かされたのだ、驚くべき未来を。チルドレンの3人がパンドラのリーダーになる、という。
「あのとき俺、『観察者効果』の話をしたと思うんだが、憶えてるか?」
「──観察すること、それ自体が結果に影響するから100%の予知はあり得ないってのよね?」
「ああ。でも、それさえも全て組み込まれてたとしての、予知ならば。逆に行くと決まってるとしたら、って考えることがたまにある」
賢木の言葉に、目を見開く。それはずっと、自身も考えていたこと。伊−九号の予知は観察者効果さえも見越しての予知なんじゃないか、と。
うつむき、唇をきゅっと噛み締める。しばし思考を巡らせる。……しばしのち。
「私は」
下に向けていた顔を上げて、賢木に視線を合わせ。紫穂はきっぱりと告げた。
「……将来行かないって言い切ることは、出来ないかもしれない。未来は本当にあやふやで不確定だから。でも、少なくても今ここにいる私は行かないって、センセイの傍にいるって言えるわ。──それじゃ、だめ?」
紫穂の言葉に、賢木の眉間に寄っていた不安の影が少しほぐれた。
「……判った。紫穂の言葉を信じる」
「良かった」
ホッとしてため息を零す。
──さっきの言葉。あれは自分自身にも言い聞かせた言葉。口に出すことで思いを確認して不安をはねのけようとしてみたのだ。実際自ら言葉にして紡いだ決意は、ここ最近心の中でずっと唱えていたよりも心の枷を軽くしてくれた気がした。
ほら、さっきまで全く浮かばなかった笑みが出てくるんだもの。
ふわりと緩く微笑んで、紫穂はぽん、と先程より強めに賢木の背中を叩いて促した。
「ほら、いつまでもここにいてもしょうがないわ。……っくしゅん」
ずっと寒いキッチンにいたからか、小さなくしゃみが出てしまう。と、賢木がそれまでの渋い顔を緩ませ、ニヤリと笑いかけてきた。
「っていうか紫穂、なんて格好してるんだ。──白衣プレイ?」
言われて改めて自分の格好を思い知らされ、不本意ながら顔が真っ赤になってしまう。
「は、白衣プレイってなによっ。……違うわよ。寒いから傍にあるもの引っ掴んできたらこうなっちゃっただけで。ってもう、どこ触ってるのよっ!」
白衣の合わせ目から忍び込んで鎖骨を撫で上げた手を、ぺちんと軽く叩き、くるりときびすを返して寝室に向かった。
「待てよ紫穂。置いてくなって」
慌てたような賢木の声が背後から聞こえたかと思うと、すぐに後ろからぎゅっと抱きしめられる。
──そうやって、私がいなくなろうとした時に追いかけて抱きしめてくれるなら、私はずっとあなたの傍にいるから──
慣れ親しんだぬくもりを感じながら、紫穂はそっと瞳を閉じた。
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