「ひろー……い」
パンドラの拠点、カタストロフィ号。
身体にまとわりつく空気の冷たさから、カレンダーの日付的に北半球にいるのだとは判る。
思った以上に強い風にスカートの裾を弄ばれながら、紫穂はひとり甲板の上で外の景色を見つめていた。とはいっても今は夜。見えるのは船の周りのかすかな海の色と、空に広がる無限の星空だけ。
空の広さが気になって、くいっと顔をあげ満天の星空を見上げながら、紫穂は思わず空に向かって手を伸ばした。
触れるものは全くないと判っている、無邪気にはしゃいでた小学生の頃とは知識も状況も全く違っている。
それでも、なんだか触れればいい、そう思ったのだ。
けれども広げた手のひらをなでていくのは潮を含んだ重たい風だけだった。
(そうよね、当たり前よね)
ふふっ、と自嘲気味に笑った時、じゃらり、と金属音が耳に届いた。いつもはあまりにも馴染みすぎている、常に左腕につけている男物の腕時計の音。
他人にあまり見られないように、といつも袖の中に隠しているそれを、静かに引っ張り出した。一番キツい所で止めていても緩いその時計は使い込まれて、鈍い色を放っている。
かすかな音を立てながら秒針が動いていくさまを、紫穂はじっと見つめていた。
瞳に映しているのは進んでいく針、けれどもそれはただ映っているだけで、心は全く違うものを思い浮かべていた。
そう、バベルを出てパンドラに向かうと決めた、あの日。
本来なら何も言わずに出てくるのが安全なはずなのに、どうしても一人だけにはそれとなく匂わせておきたくて、一人、目的の部屋に向かった。
普段のように透視して勝手に解錠をするようなことはせず、静かにインターホンを押す。
『おう、どうした? こんな時間に珍しいじゃないか』
いつもと全く変わらない彼の口調に、ちくりと針で突き刺したような痛みが胸を襲い、少しずつ痛みが広がる。
けれどもここで気取られるわけにはいかなくて、小さく深呼吸をしてから紫穂はきわめていつもの口調で話した。
「ごめんなさいセンセイ、ほんの少し用があるんだけど、今大丈夫?」
『へーきへーき。今開けるから待ってろよ』
気軽な返事が聞こえるのと同時に、すいっと研究室のドアが開いた。下を向いたまま数歩踏み出してから顔を上げると、ごつん、と人の胸にぶつかった。驚いて小さく悲鳴を上げる。
「きゃっ」
「なんだよ、どうした?」
紫穂に視線を合わせるべく軽く腰を曲げた賢木の目が、紫穂に合わさったとたんにすうっと色を変える。眉間に軽く皺を寄せながら、賢木はそうっと紫穂の頬に手をさしのべ、触れた。透視させてくれないことは判りきっているから、透視ることはしない。ただ、彼女の温もりに触れたかっただけだった。
紫穂も賢木の手に自分の手を這わせ、軽く握りしめてくる。それが決意の現れだ、というのはすぐに理解ができた。
空いている方の手でぎゅっと紫穂の肩を抱き、胸の中に閉じこめる。抗うこともなく、紫穂はすっぽりと収まったまま、小さく息を吐いた。
二度、三度。胸に詰まっている何かを吐き出すかのように細く小さな呼吸を繰り返して、紫穂は目の前の布をぎゅうっと握りしめ、小さくつぶやく。
「ごめんセンセイ、どうしても今日ここに来たくて。忙しいのは判ってたんだけどね」
言いながら腕の中から抜け出す。
今、忙しくないバベル職員なんかいないわけがない。世界はエスパー対ノーマルの全面戦争まっただ中で。そんな中、エスパーとノーマル両方を繋いでいると言っても過言ではないバベルは、世界中から非難の矢面に立たされている。
そのフォローと対策のために、全員が総動員して動いているのだ。現に皆本でさえ、パンドラに行った薫に心を奪われつつもやはり毎日動き回っている。
「いんや。今ちょうど休憩中だったんだ……コーヒー、飲むか?」
けれども賢木は忙しさをおくびにも出さない態度でいつものように微笑んでくれる。目の前の椅子をひいて勧めつつ、PC机の横においてあったコーヒーサーバーを指差した。
「ありがとう。貰うわ」
言いながらテーブルの真ん中にあったチョコ菓子をひょいとつまんで口に入れる。ほろ苦いそのチョコの味が、さっきの心の傷に少しだけ染みた。
さっき視線を合わせた瞬間に顔色が変わった賢木。きっと自分の決意、これから取る行動は悟られてしまっているのだろう。けれど、何も言わずそれこそ中学生の自分にしょっちゅう遊びにきた頃のような態度でいてくれる彼に、じれったいような燻った思いがほんの少し心の隅を支配する。
……引き止めて、欲しいのかな? なんて思っている自分に自嘲する。
そんなことを言ってくれるような仲ではないのは、判ってるのに。
「ほい、コーヒー。いつも通り牛乳半分な」
目の前に降りてきた自分専用にしているマグカップを受け取ってからぎゅ、と握りしめた。
思ったより熱くてそろそろと流し込んだそれは、いつもと変わらない味だった。
自分の分のコーヒーをさっきまで使ってたカップに入れ、賢木は紫穂の向かいに座った。彼女が静かにカフェオレを飲んでいくさまを、何も言わずに見つめる。
薫がいなくなり、N.Y.に自分たちが行っている間にチルドレン3人の間で何かしらの動きがあったのは知っていた。ただ、彼女たちがそれをひた隠しにしているのでこちらからは何も言い出せなくて。久々に顔を見せたと思ったらあの決意に満ちている瞳で。それで全てを悟ってしまった。
「あのね……明日、ちょっと出かけてくるわ。この忙しい時に申し訳ないんだけど。確か明日センセイと仕事の予定だったわよね? ごめんなさい……センセイ、一人で行ってくれる?」
視線をマグカップに落としたまま、不意に紫穂が呟いた。
そう、確か明日は紫穂と二人で政府から依頼を受けて調査をするために出かけるはずだった。政府からの依頼さえも蹴って出かけるということは、つまりそういうこと。
覆せない、彼女の決意。
けれども判っていても口に出す事はしない。言ってしまったら……引き止めたくなってしまうから。引き止められないことは判りきっている。彼女たちの絆の深さを考えたらそれは当たり前すぎて。
だから、彼女を安心させるため賢木はいつもの明るい口調で返事をした。
「おう、あれくらいの仕事、俺一人で十分だよ。紫穂ちゃんは気にせず出かけていいぞ」
あまりにも明るすぎる声に、紫穂がはっとして顔を上げるのに合わせて微笑んだ。固く強ばっていた彼女の顔が、少しだけほころぶ。
「ありがと。ちょっと遠いから、帰るの遅くなりそうなんだけどね」
紫穂は舌をぺろ、と小さく出して笑った。
「おいおい、大丈夫か? 暗くなる前に帰るんだぞ」
「やだセンセイ、私をいくつだと思ってるの? もう20歳よ。大人よ?」
「まあそうなんだけどさ。女の子が暗い所にいるのは危険じゃんか。あ、そうだ」
と会話をやり取りしながら賢木は自身のはめていた腕時計を外し、テーブルの上を滑らせて紫穂の前に置いた。予想外の行動だったのだろう、かすかに紫穂の瞳が見開かれる。
「とりあえず紫穂ちゃん、携帯でしか時間見てないだろ。時計なんかつけてるところ見たことないし。なんかあったら困るだろうからこの時計貸してやるよ」
「え……いいの?だっていつ返せるか……」
驚きのあまり途中まで出かけた言葉を飲み込み、賢木の言葉の真意をくみ取って、瞳が潤みそうになるのをかろうじてこらえた。
「う……うん、判った。じゃあこれは帰ってきたらちゃんと返すから」
言いながら、そっと手に取り左腕につける。
「おう、んじゃ指切り」
「子供じゃないんだからちゃんと返すのに……もう」
子供のように手をさしのばしてくる賢木に、くすりと笑いながら、指を絡めようとテーブルをぐるりと回って彼の目の前に立って。
次の瞬間には賢木の腕の中。
「……やくそく、な」
抱きしめられたまま、軽く頭をぽんぽんと撫でられた。
「……うん。オッケー」
言うと同時に賢木の胸を軽く押し、静かに離れる。
「じゃあ、行ってきます」
「気をつけてなー」
いつもと変わらない──それこそ小学生時代から同じ──言葉にどうにかして視線をはずしたまま笑顔を向け、何も言わずそのまま部屋を辞去する。
ドアをかすかにふるえる手で閉めて賢木が見えなくなった瞬間、あふれる心が抑えきれなくて目頭を押さえながらドアに寄りかかった。
涙がこぼれそうになるのをかろうじて抑える。
これは自分が決めた道。薫ちゃんから教えてもらったあの出来事を知った以上、ここに残ることはできない。
自分で決めたことだからこそ、あの日に泣かないって決めたから。
戦慄く唇をかみしめ、きつく瞼を閉じてから深く深呼吸。繰り返すうちに少しずつ心は落ち着きを取り戻す。
ぎゅ、と先ほどはめてもらった時計を握りしめ静かに歩き始めた。
あれからもう、どれくらい経ったんだっけ……。ここに来てからの忙しさと俗世から隔離されているという状況では、もう、ここにいつ来たかさえも思い出せない。
判っていることは、すべてが終わらないと帰ることはできない、ただそれだけ。
それほどまでに世界は壊れてしまっているから。
センセイは、今どうしているのかしら……、思いながらもそれを知る術がない今は、こうして心の中に思い浮かべるだけ。
──そういえば、この時計にセンセイの心って残ってるのかな?
甲板の手すりに掴まり、ぼうっと船が通ることによってできた波を見つめていた視線を、賢木の時計に向ける。
借りてからずっとはめているだけで、その金属の温もりに満足しているだけで、透視しようとか一回も考えなかったけれど。
今日は賢木の心の片鱗に触れたくてたまらなかった。
どんな情報が入っているか判らないので透視ていいものか少しだけ迷ったけれど、寂しさの方が勝り、紫穂はそうっと時計をはずして両手で握りしめ、静かに情報を読んだ。
「……っ!」
読んだとたんにこぼれんばかりに流れ込んできた、賢木の思念。
……あの日から、泣かないって決めていた。
すべてが終わるまでは絶対。
でも、今日だけは。
頬を滑り落ちた涙が服に染みを作っていくのも厭わず、しゃがみ込んで時計を握りしめたまましばらく泣きじゃくった。
(ずっと、待ってるからな。紫穂ちゃんが、この時計を持って俺の所に帰ってくるのを。それまではこれをお守り代わりにしててくれよな)
伝わって来たのはきっとあの最後の日に残してくれた思念。
あふれんばかりのそれは、自分を心配し、励まし、そして帰ってくると信じてやまない、想い。
うん、帰る。いつかちゃんとセンセイの所に帰るから。
だから……生きてて。
|