それは、本当に偶然だった。
いつものように昼をすっ飛ばすほどの激務をこなし、一段落してから遅い昼食を摂った後に一服するかー、と休憩所に向かう角を曲がった途端に、暖かな色が賢木の目に飛び込んできた。
休憩所の窓から、西日がオレンジ色をこれでもかと言わんばかりに振りまきながら入り込んでいた。全面ガラスなので、その光といったら半端ない光量で。思わず目をすがめ手を翳す。
(……お?)
そのせばまった視界の中、人影を認めた気がして窓際まで歩を進める。
案の定そこには小さな少女の影。だが、あまりのまぶしさに顔は判らない。特務服からザ・チルドレンの誰か。シルエットからするとこれは。
「紫穂ちゃん?」
真横まで行って呼びかけてみる。返事はなかった。ただ、小さく影が揺れた。どうやらこちらを向いて誰が来たのかを確認する、と言った風情だった。
だが、それもつかの間、すぐにまた微動だにしなくなる。賢木がここにいることにあまり興味はないようだった。
というか、この光の中にずっといても何の反応もない、ということは何かがあって現実に心を向けていない状態なのだろうか?
「……どした?」
とりあえず問いかけてみるも、やはり反応はなかった。ようやく慣れ始めた視界の中、紫穂は窓際に寄ってガラスにこつりと額を軽くつけ、西日に顔を向けていた。
かろうじて見えた口元はきゅっと噛み締められている。表情は髪の毛と光で遮られてしまっているので伺い知ることは出来なかった。
「なんか、任務でいやなことでもあったか?」
らしくない姿が心配になって問いかけると、小さく首を振って否定する。けれども何もないわけはないと感じた。そうでなければ、人一倍甘えたがりな彼女が一人でこんな寂しいところにいるわけがない。
(ひとりに、なりたかったのか?)
ああ、と何となく納得できた。だからこそあえてここにいるのかと。
だったら自分もここにはいない方がいいだろう、そう結論づけた。そのままふいっと去るのもなんなので、一応紫穂に声をかける。
「すまん、俺もいない方がいいんだよな、きっと。あんまり長いこといると薫ちゃんたちが心配するだろうから、落ち着いたら戻るんだぞ」
そういい残し、くるりときびすを返して歩きだそうとして……不意に、動けなくなった。
言うなれば靴ひもを踏みつけられて動けないような、そんな状態。明らかに何かが自分の行く手を阻んでいた。
違和感のある場所に目を向けると、小さく白い手が縋るように白衣の裾を掴んでいた。その手はぎゅっと握りしめられ小さく震えている。
(行くな、ってことか)
納得し、賢木はまた窓際へと戻る。ただし、先ほどよりも紫穂との距離を狭めざるを得なかった。何せ彼女の手は未だに賢木の白衣の裾を握りしめているのだから。
『ひとりになりたい、でも寂しい』という状況なんだろうな、などと1人納得しつつそっと立っていた。
紫穂は白衣の裾を握りしめたまま外を見つめていた。逆光であまり見えないとはいえ、あまり彼女に視線を向けているのも申し訳ない気がして、視線を外す。夕日は数分前よりも色味を強めながら辺りを照らしていた。
(どうしたんだろうな、いったい)
詮無いこととは知りながらも、賢木は考えずにいられなかった。こちらから触れているわけではないので彼女の心境を透視ることもできず、かといって女子中学生の心理状態はさすがに判らない。
まあ、俺でいいって言うなら横にいるくらいお安いご用だけどな、と思い、軽く息を吐き出したそのとき。
不意に身体に重みが加わった。見遣れば、紫穂が頭を賢木の身体に預けていた。ようやくちらりと見えた顔は、愁いを帯びていて、今にも泣き出しそうに見えた。
紫穂がどうして欲しいのかが本能で察し、彼女に身体を向けることなくそのままの体勢で、紫穂の頭を抱き込んだ。
ほんの一瞬、小さく震えた後に彼女は全身を預けてきた。くるりと賢木の方に身体を向け、脇腹部分にすがりついてじっとしている。頭を抱き込んだ手で、軽く頭をなでてやった。
二人、ぴたりとくっついて夕日の中でしばし、たたずんでいた。
「……ありがと、センセイ」
ようやく紫穂が頭を上げて賢木に初めて声をかけて来たのは、既に日が沈み蛍光灯の光が休憩所を味気なく照らし始めた頃だった。
てっきり泣いているのかと思っていたが、予想に反して彼女の顔に涙の跡はみられなかった。すっきりとした表情で賢木に軽く微笑みかける。
「少しね、落ち込んでたの。ほんの些細なことなんだけど」
「まあ、そんなことだと思ったよ。──もう、平気か?」
「おかげさまで。でもよかった、他に人がいなくって。もし人に見られてたらセンセイロリコン扱いだったわよね」
くすくすと笑う彼女の顔に、陰を見つけることはできなかった。口調もいつも通りで、言っている内容も変わらない。
「いや俺ロリコンじゃないから。っていうか自らくっついてきた紫穂ちゃんが言っちゃだめだろー?」
彼女の軽口に乗って反論しながら、抱き込んだ際、震えたほんの一瞬に不意に流れ込んできてしまった思念が脳裏にこびりついて離れなかった。
(いっそのこと、センセイがこの心に気づいてくれたらどれだけ楽なんだろう……)
賢木の行動に驚いて隙が出来た時に、流れてしまったものなのだろう。彼女自身は、透視られたとは思ってないであろう、切ない、心の叫び。
──実は気づいているけど、気づかない振りをしている、とは言えないな。
などと自嘲しつつ、紫穂と二人で窓際でしばらくじゃれあっていた。
|