・夜の中

 





『今日、ちょっと出て来てほしいの。いつもの海まで。待ってるから』

 送られてきた、たった一行のメール。
 ──それだけで、全てを悟った。

「わりぃ、俺、ちょっと出てくるわ」

 一緒にいた人物に悟られないよう何でもない風を装って扉をくぐり、普通の足取りでエレベーターに乗り。
 降りた途端、駐輪場に向かって走り出していた。
 行き先はメールを読んだだけで理解していた。二人に共通する『あそこの海』は一つしかない。
 ……さっき普通に翌日も会う約束をして、彼女を送り届けたばかりだった。その時に見せていた表情は限りなく普通だったのに。
 広い駐車場を突っ切りながらさっき別れたばかりの彼女の表情を思い出し、思いを巡らせる。
 ここ最近は毎日ほんの少しの時間でも会う事で、じわりと忍び寄ってくるよく判らない不安を解消しようと必死だった。
 彼女もそんな自分の心を理解していたのか、出来るだけ毎日バベルの自室に顔を出してくれていた。週末は許可を貰って泊まりにも来ていた。

「センセイ、私は急にいなくなったりしないわよ」

 呆れたように言葉を紡ぎ出し、けれどもすぐにふっと遠くを見る瞳になったりする事も多く、不安は肥大していた。
 なぜ、こんなに不安なのかと言えば、彼女が必ず自分の隣からいなくなる、という確信。
 離れて欲しくないという思いの裏で、でも必ずいなくなるんだ、という冷めた目で見ている自分がいた。──薫が自分たちの前から姿を消してからは、余計。
 薫がいなくなり、そして世界はますます破滅への道を突き進んでいくのが判って。
 昔知った予知の通りにすすんでいくのを、止められるほど自分自身には力がなかった。
 そして、今のメール。
 とうとう来たか、と焦っている心の奥隅に既に覚悟を決めている自分がいるのが判り、思わず口の端が歪んだ。

(とりあえず、行くっきゃねぇ)

 よし、と気合いをいれてバイクに飛び乗って、エンジンを始動させ、フルスロットルで飛び出して目的地へと急いだ。




 携帯電話を静かに閉じた。けれども波の音のみが支配しているこの場所では、意外なほどに響いて。
 パチンと聞こえたそれは、心を戻すのには十分な音量だった。

(送っちゃった……)

 畳んで手のひらサイズに収まった携帯を見つめつつ、一人、岩に寄り添って小さくため息を吐き出す。
 送らないという選択肢はなかった。けれどもどうしても手が躊躇って。メールを作成し終えてから何度送信ボタンを押そうとしては押せなくて……を繰り返した事か。
 けれどもちゃんと言わなきゃいけなかったから。メールや電話、ましてや何も言わずに姿を消すことだけはしちゃダメだと思ったから。
 でも、今から彼に会って話をしたところでちゃんと受け入れてくれるかどうかは正直自信がなかった。
 彼は毎日ちょっとでもいいから会いたい、そう言っていた。多分それは愛情と言うよりもきっと不安の心がそうさせていたもの。
 それは自分も何となく理解できていたから、だから出来るだけそばにいた。大丈夫な日は泊まりに行ったりもしていた。
 あの子が私たちの前から姿を消した後、ちょっとだけまた増した束縛に、呆れて言葉を返したこともあった。

「いや、消えるとか消えないとかの前に、お前自身が心配でさ。薫ちゃんがいなくなってからこっち、あんま食べてないだろ。前より絶対痩せたって」

 そっと抱きしめながら返してくれた言葉にこもる感情は、判りすぎるほどの愛が込められてて。
 気づかれないように小さく息を吐き出し、触れられても透視えない位置に本音を隠した。
 だって、どれだけ束縛されてもきっと──。

「きゃっ」

 不意に足下が冷たく感じられて、小さく悲鳴を上げた。
 見ると満ち始めていた海水が、ざざっと押し寄せ足下を濡らしていた。雨は降っていないものの風がちょっと強めに吹いている今、波の勢いは存外強い。このままだと足を取られてしまうかもしれない。

(確か、裏に回り込んだら岩場があったはず)

 公園の方に戻る気になれなくて、そっとミュールを脱いで裸足になって岩場の方へと足を向けた。



(駐輪場は確かあったはず……)

 付き合うきっかけになったこの公園は二人のお気に入りで、年に一度くらい定期的にデートの場所にしていた。バイクで来るのは初めてだったけれど、駐輪場がある記憶は残っていたので、公園脇の交差点でしっかり確認し、直接バイクで海浜公園入り口に乗り込む。
 慌ただしくヘルメットを外しながら、賢木は辺りを見渡した。
 深夜と呼べるこの時刻、歴史的観光地と住宅地が共存している国道沿いのこの公園には、ただひたすら波の音と時折通る車のエンジン音だけが空間を支配していて。
 人の姿は、見受けられなかった。
 軽く公園の広場や四阿の辺りを歩いて探してみるも気配をなかなか見つけることが出来ず、しかたなく賢木は地面に手をついて能力を使い、目的の人物の気配を透視してみる。

(あそこか!)

 ふわりとした気配を透視して、賢木は階段を大急ぎで駆け下りてくるりと崖下へと回り込んだ。

「紫穂!」

 そろそろ夜になると羽織るものが欲しくなるこの時期に、彼女は肩まで素肌が外気に触れている服のまま、月明かりを浴びて岩の上に座っていた。
 もうすぐ綺麗に丸くなる予定の月に照らされた彼女の身体が、光るベールををまとわりつかせているようで。飛んでくる波しぶきが彼女の綺麗な姿を助長するかのように跳ねてはきらきらと光って。
 賢木の呼びかけを意にも介せず、まるで、この世のものでないような雰囲気を放ちながら、潮が満ちて岩との距離が近くなった海に素足を浸していた。水の感触を直に楽しむかのように。

「紫穂!」

 もう一度、先程よりも大きな声をかける。するとようやく賢木の存在に気づいたのか、紫穂はようやくこちらにふわり、と視線を向けてきた。

「──あ、センセイきてくれたのね」

 言いながら名残惜しげに水から足を出して立ち上がり、脱いでいたミュールを手に持って岩からふわ、と飛び降りて裸足のままゆっくりと歩いてきた。頬に笑みは浮かんでいるものの、瞳は笑ってはいなかった。

「ありがとう、きてくれて。こんな時間だったから、来てくれないかなって、思ってた」

 一言一言ゆっくりと噛み締めるように紡ぎながら、彼女はミュールを持っていない方の手をすっと伸ばし、賢木の頬に静かに触れる。想像していたより冷たかった手にびっくりして、賢木は暖めるかのように静かに自分の手を重ねた。
 それに、紫穂はびくりと身体を震わせた。触れてくるとは、思ってもなかったのだ。これからの自分の行動を彼はきっとわかっているはずだから。その相手に対して、優しく接してくれる賢木にどう応えていいか判らず、思わず視線を逸らす。

「……こんな時間に一人で出歩くとか、だめだろ?」

 言葉までも優しく、心がぐらぐらと揺れ動く。でも、どうしても言わなければいけなくて。
 砂浜にミュールを落とし、もう片方の手も賢木の頬に這わせながら、紫穂は出来るだけ冷静に呟いた。

「──ごめんねセンセイ。もう、私センセイのそばにいられないの」
「……どうしてもか?」

 賢木の言葉に、静かに強く一度、紫穂は首を縦に振った。

「わかってるでしょ? このままじゃ全部ダメになる」
「それは、判ってる。でも、別に……」

 賢木の言葉を紫穂は優しく遮った。

「待たせる、だなんてそんなのいい女のする事じゃないわ」

 紫穂らしいな、と賢木は苦笑する。
 彼女は自分に負担をかけさせたくなくて、わざと言っているのだ。と言うことは口調や瞳を見れば一目瞭然だ。瞳はゆらりゆらりと揺れ動き、頬に触れている手はかすかに震えている。
 だからといって彼女の要望に応えよう、と言うつもりはさらさらない。

「こんないい女、俺が手放すわけないだろ? こうなるってことは薄々想像ついてたさ。まあ、俺が紫穂についてくってわけにはいかないけどな、でもやっぱり別れるとかそういうつもりは一切考えてない」
「だって……」

 紫穂は言葉に詰まる。動揺して思わず目をそらす。
 彼の負担を考えたら、縁は断ち切っておくに越したことはない。彼と紫穂のつながりを身内以外が知ってしまったら、余計な勘ぐりをされたり、最悪疑惑をかけられて捕まってしまったりするのは想像に難くないから。
 あちらに行く紫穂はきっと何を言われても平気だけれども、このまま皆本とともにバベルに残ると決めているであろう賢木には、周りに疑惑を持たせたくないのだ。
 ──自分という、足枷をはめたままではいけないのだ。

「俺が決めたことだからな。ほかの誰にも文句を言わせない」

 けれども賢木は笑うのだ。紫穂の思惑など全部お見通しだと言った風情で、優しく。
 何を言っていいか判らなくなって、紫穂はうつむいた。
 その動きにあわせるかのように賢木は触れていた紫穂の手を離し、ふわりと身体を抱きしめた。
 すっぽりと収まったそれは予想以上に冷えきっていて。熱を分けてあげられるようにと、抱きしめる腕に少しだけ力を入れた。



 紫穂はそのまま抱きしめられるままだった。手を添えることもなく。だって縋ってしまったら決意がもろく崩れそうな気がして。
 だって今だって、さっきの笑顔で心がぐらぐら揺れている。どんな手を使ってもこの人と一緒にずうっといたい、そんな甘く綺麗な想いは常に心の奥底に沈んで揺らめいている。ともすればそれが浮上して、心全体を覆ってしまう。

「……センセイは、ずるい」

 小さく彼の胸元に落とした言葉はちゃんと届いたらしく、ふっと抱きしめる腕が少し、ゆるんだ。

「ん?」

 覗き込まれた気配はしたけれど、見上げる事は出来なかった。

「ずるいって、どうして?」
「だって、そんなこと言われたら甘えちゃいたくなるじゃない。……でも、甘えちゃダメなのよ。ちゃんときっちり片をつけなきゃだめだと思うの」
「だからぁ、どーして紫穂はすべてをきっちり決別しようとしてるわけ? さっきも言ったけど俺のことは心配するなって言ってるんだから、このままの関係でいいじゃんか」

 思わずハッと顔を上げた。見上げた彼の瞳は、やっぱり甘かった。
 顔を上げたことで月に照らされた紫穂の眦にはうっすらと光るものがあった。親指で優しく拭ってやる。

「このまま……って、どこまでこのまま?」

 問いに、簡潔に返す。

「ほぼ全部」
「ほぼ?」
「一緒には、いられないから。それはお互い判ってる事だから。それ以外は今と一緒でいいんじゃね?」
「私がセンセイに借りっぱなしにしてるソフトとか、この間もう面倒だからって置いてきたパジャマとかも?」

 紫穂の質問があまりに可愛らしく、思わず賢木は吹き出した。むう、と下でむくれる気配がする。

「真面目に質問してるのに。笑わないで」
「すまんすまん、やっぱり紫穂は可愛いなぁって思ってさ。……とりあえず、パジャマもソフトもそのままでいい。帰ってきたらどうにかすればいいって」
「帰ってこられるかなんて、わ……」

 抗議の呟きは、キスでかき消された。唐突すぎて何か最初判らなかったけど、判ってしまえば馴染んだ感触に、心がふわり、溶けていく。
 唇を離し、お互いそうっと見つめ合い。

「じゃあ、そこら辺は全部置いてくね」
「おう、了解」

 この人には、なんだかんだで敵わないんだなぁ、と心の中で呟きながら、紫穂は賢木の胸に寄り添って耳を当てた。
 ざざぁん、ざざぁんという音に混じって規則正しく刻まれている賢木の鼓動の音が、心地よかった。

「俺だって、紫穂には全く敵わないと思ってるぞ」
「やだちょっと透視ないでよ!」

 笑いながらツッコミを入れると、小さくデコピンが返ってきた。

「透視えたんだから仕方ないだろ。──せっかくだから、深夜デートと洒落込みますか」
「せっかくだから……ね」

 ほいとさし出された腕に、ぎゅっとしがみついた。




「さて、そろそろ日も昇りそうだし、俺は帰るか」

 小さなあくびをを噛み殺しながら、賢木は呟いた。その言葉に、紫穂の肩がかすかに揺れる。

「ん……私も、そろそろ行かなきゃ。皆待ってるだろうしね」

 何気ない風を装っているが、語尾がかすかにかすれていた。でもそれに敢えて気づかない振りをする。きっと彼女は気づかれたくないと思っているのは、透視とかしなくても永い付き合いの中で判っていること。

「途中まで送ってくか?」

 駐輪場に止めてある、バイクの方を指差す。けれども紫穂はふるふると首を横に振った。

「せっかくだから、海岸線を歩いて散歩して、それから行くわ。今からならきっと綺麗な朝日が見られるはずだし」
「そ……っか」
「せっかくの申し出はありがたいけど」

 ──お別れするなら、この海で、この場所で。だからこそ彼をここに呼び出したんだもの。
 一度ぎゅっと瞳を閉じて、よし、と気合いを入れて目を開けば賢木の顔がすぐそばにあった。

「じゃあ、ありがとうセンセイ。──またね」

 いつも送ってもらったあとに言う言葉を、努めて普通の口調で紡ぎ出す。賢木はニッコリと笑い、ぽん、と紫穂の頭に手を置いて変わらない口調で言った。

「おう、気をつけてな。ちゃんと寝ろよ」

 そうして素早く頬に唇を落とし、手を振って駐輪場へと向かう。

「帰り、事故らないでよ!」

 後ろ姿に向かって叫べば、サムズアップが返って来て。
 本当に、昨日まで繰り返されていた別れ方で。思わずくす、と笑ってしまった。
 バイクを走らせながらちらりと見た紫穂の顔は会った時よりずいぶん明るくなっていた。賢木が見たのに気づいたのだろう、小さく手を振ってくる。
 片手を上げてバイクの速度を上げながら、賢木は思いを巡らす。
 自分がこれから、何をすべきなのか。どうすればこの状況を終わらせる事が出来るのか。

(とりあえず、皆本と管理官には報告しねぇとな)

 小さく頷き、一段と速度を上げた。


 ──バイクが走り去るのを見送ってから、紫穂は彼が去ったのとは正反対の方向へと歩き出す。海浜公園のある岬を越えれば、、そこは湾が一望できる場所。
 海沿いの遊歩道への道を歩きながら、頬に残された賢木の唇の感触をそうっとなぞった。
 ふわり、柔らかな愛情が透視みとれ、感極まってぽろりと涙がこぼれ落ちた。慌てて目をこすって涙の気配を消す。
 泣くのは違うと思ったから。だって、これは別れなんかじゃない。

(じゃあ、行きますか) 

 水平線ににじむ太陽の光を見つめ、意を決して一歩を踏み出す。次に会った時はいつものように笑って賢木に会えるといいな、そう思いながら。

 


 ・注釈。
2011年にあったオンリーで新刊として持って行ったものです。
なのでちょっと長め。

多分私の理想を全て詰め込んだもの。
 

 

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