・照姫伝説が息づいた原因の一つであろう、小さな塚。
石神井城落城の時、当主泰経が家宝の黄金の鞍をおいた白馬にまたがって三宝寺池に入水、次女の照姫がそれを嘆き悲しんで、後を追って入水したと言う、伝説があるわけです。(もちろん伝説。真実は明治時代に照日上人と言う人がいて、その人のお墓)
まあ、前から言っている通り、この伝説にはすごい間違いがあって、当主泰経はそこでは死なず、とりあえず平塚城(北区上中里辺り)に逃げて再起を謀り、失敗。今度は小机城(横浜市港北区)に逃げた、という記録が残っているので、もちろん伝説ですが。
三宝寺池の北側、山を登った方の隅っこに、小さく塚があります。
姫塚の由来が書いてある看板。
塚の前に立てられています。
これが姫塚全体図。
社はつい最近建てられたと言う感じで、右隅にある小さな碑が、元からのものと思われます。
照姫まつりの影響でしょうかね?<社が建てられたの
こちらは殿塚の由来が書かれた看板。
う〜ん、殿はいないと思うんだけど。
これが殿塚全体図。
姫塚とほぼ一緒ですが、土の盛りが全然違いますよね。
姫塚のすぐ近くにあるのですが、最初行った時は全く気付かなかったです。(苦笑)
個人的感想。
しまった。上に書く事があまりなかったから、上が半分個人的感想だ(苦笑)。
私的には、殿塚ってのは他の誰かの塚で、それを嘆き悲しんだ照姫が身投げした、と言った方が納得が行く気がします。
姫塚の碑には『二女照子姫〜』と書いてありました。そうか、本名は照子姫だったんだね、照姫。
両方の塚にはきちんとお花がそえられていました。
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