――パシッ!
 ドアが開いたかと思うと、彼女は「お帰りなさい」と言うでもなくまりの頬を打った。
「まり! 何時だと思ってるの!!」
 声を高くして早口に言うと、彼女はまりの手を一気に引っ張った。同時にまりの足は小刻みに音を立てて家の中に吸い込まれていく。5歳の子供ならすぐに泣き出してしまいそうなものだが、まりは可愛い口をぎゅっと結んで、母親に捕まれていない方の手でベアをしっかり抱き締めたままうつむいていた。
 5歳の子を持つ母親にしては、彼女は老けて見えた。見たところ、30代も後半といったところだ。
「ベアは持って行くなってあれほど言ってるのにあんったは……!!」
“だってベアは”などという言い訳もせず、まりは黙って肩を竦めている。言い訳をしても余計怒られるだけ、そう悟っているのだろうか……と思ったその時、彼女は亜夜を一瞬だけ睨んでそのままドアを閉めようとした。
「ま、待ってください!」
 亜夜が慌ててドアを遮ると、彼女はうるさそうに振り返って“なんか用?”とばかりに睨みつけた。
「あ、あの、すいません。こんな時間になってしまったのは私の責任なんです。まりちゃんを叱らないで下さい……」
「今後一切うちの子に関わらないで欲しいわね!! ほら、離して! しまんないでしょ!!」
 まりは何かを訴えるような瞳で亜夜を見ている。
 不思議な能力を持つまりをこの母親は恐れている―――亜夜はそう感じた。放っておくわけにはいかない。
「――!!」
 ガシガシとドアを閉めようとしていた彼女の手が止まる。
 亜夜の背後に次元の割れ目が生じ、亜夜そっくりの美少女が微笑んで消えていったのだ。
「――……あんたは……?」
「……まりちゃんと同じ力を持つ者です。まりちゃんのこと、いろいろ聞かせていただけませんか」
「……入って頂戴」
 亜夜が入るのを許されたと知って、まりの顔はにわかに明るくなった。それでも何か言おうとはせず、ただニコニコしながら亜夜のスカートの裾をつかむ。亜夜が微笑んで手を差し出すと、まりはすぐさま手を繋いで嬉しそうに繋いだ手を振った。すっかり打ち解けてくれたまりを、亜夜は既にかけがえのない存在のように思っていた。
「まり、お風呂に入ってさっさと寝なさい」
「……まり、お姉ちゃんともっと遊ぶう……」
 母親の命令にまりの表情はとたんに不安のそれに戻った。亜夜の足元に隠れ、警戒している。先ほどから初めて聞くまりの抵抗の言葉だった。
 この母子はなんなのだろう。亜夜は疑問に思わずにはいられなかった。
 母親はまりを野犬を見るような目で見下ろし、“ハンッ”…と、鼻で笑ってみせた。
「まり、お風呂に入ってさっさと寝なさい」
 先ほどと内容も口調も少しも変わらない言葉に、言いようのない重圧がかかる。
「……ハイ」
 まりはうつむいて涙目で呟いた。亜夜から手を離すとベアを両手でぎゅっと抱き締め、お風呂の方へとことこと寂しそうに走っていく。
 まりを見送ってから、亜夜と母親の間に奇妙な沈黙が走る。
「……あの」
 沈黙を破ったのは亜夜の方だった。
「……どうして、まりちゃんに辛く当たるんですか? ……ベアですか?」
「……ベア“だけ”ならまだいいわ」
 だけ、の部分をやけに強調して言うと、母親ははああっ、と深い溜め息をついた。
「……ベアのほかに……?」
「来て頂戴。こんなところで立ち話もないでしょ」
 スリッパと床をザッザッザッザッ、と音を立てて擦らせながら母親は亜夜の返事を待たず居間へと急いだ。
「座って」
 があっと一気に椅子を引いてそう言うと、母親はどこかに消えてしまった。少しキョロキョロして戸惑いながらも、亜夜はそこに腰を掛ける。さっぱりした部屋ではあるが、よく見るとテーブルや床にいくつも傷があり、カーテンにも破れかけたところがたくさんある。ベアの仕業か、酒乱らしい父親の仕業か……
 しばらくすると母親は分厚いアルバムを抱えて戻ってきた。
「ほんっとに、あのベアは一体何だって言うのかしら」
 ばんっ、とそれをテーブルにおいて溜め息をつく。
「ボーグ……鷺宮博士……ご存知ありませんか」
「ボーグですって?」
 亜夜の向かいにある椅子を引いたところで彼女の動きが止まる。
 母親の知らないところで、まりは〈人形使い〉となったのだろうか。あんな幼い子が、一体いつどうやって…
「鷺宮という博士が発明した兵器なんです」
「兵器!? どうしてあの子がそんな……」
「……それは分かりません。」
「そして……一体これはなんなの!!?」
 彼女は椅子にどかっと座ると豪快にアルバムを開き、亜夜に向きを合わせて差し出した。
「――――――!?」
 亜夜は言葉を失った。
 そこには、20代の母親に抱きかかえられた、今と少しも変わらないまりが写っていたのだ。今は古ぼけているテディベアが、鮮やかなピンク色をしている。右下には、オレンジ色ではっきり“89”という年号が打ち出されている。
「これは――」
 母親は無言でページをぱらぱらめくる。90、91、92…6歳、7歳、8歳。写真の中のまりが、確実に成長していく。
「まりは15よ」
「――――――」
 亜夜は顔を上げた。
「……訳わかんないって顔ね」
「……すみません」
「まあいいわ。鷺宮、鷺宮―――ね。きっとそいつがあの呪われたテディベアをまりに渡したんだわ……それが分かっただけで十分」
「呪われた……」
 呪われた、という言葉に違和感を覚えて思わず亜夜はその部分だけを繰り返した。ベアはまりの無二の親友だ。亜夜にとってのボーグRも、辛い時にいつも側にいてくれるかけがえのない存在なのだ。それを造ったのが、父の敵である鷺宮博士だとしても……
「“ベアはまりの親友”――そう言いたいわけね」
「……」
 見透かされているようで、亜夜は肩を竦めて下を向いた。
「……なんにも覚えてないのよ、あの子」
 今度はゆっくりと、母親はアルバムのページをめくる。
「七五三で奇麗におめかしして写真取ったこと……三年生の時絵が金賞になってみんなでお祝いしたこと……家族水入らずで北海道に旅行したこと……全部! 全部忘れて…どんどんちっちゃくなって……これ以上ちっちゃくなったら……4歳……3歳、2歳、1歳! で……どうなるの? あの子、どうなっちゃうのよ!?」
 涙で声が震えていた。ぎゅっと握り締めた手も、肩も、震えていた。
 言葉が出ない。亜夜もただ、顔をしかめた。
「あのベアのせいなのよ……全部! あの子は気づいてないけど……あのベアが不気味に動くようになってから……あの子は! 何度捨てても気づけばあの子の腕の中! 焼き払おうとしたら炎を纏ったまま襲い掛かってくるのよ!! ああ……気持ち悪い!! 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!!」
「……まりちゃんをもとの15歳に戻してみせます!!」
 今度は自分でも意外なほど自然に言葉が出て、亜夜は母親と一緒に言葉を失った。まりが何故幼児退行しているのか分からない。ただ自分も〈人形使い〉であるというだけで、まりを普通に成長させる術などない。何故自分がこんなことを言ったのか、亜夜は自分で不思議に思った。
「……できるの?」
「……分からないけど……できる限りの事はします。まりちゃんは……私が守ります」
 言いながら、亜夜はだんだん語調を強めた。自らの決意を言葉に込めて……
 方法がなければ、探せばいい。とにかく、まりのためにできる限りの事をしたいと、心から思った。
 大粒の涙が母親の目から溢れる。両手を握り締めたまま、彼女はうつむいて静かに言った。
「よろしく……お願いします」

執筆:かざなぎ蛍

つづく