「それで、逃げ帰ってきたっておっしゃるの?! まったく使えない方たちね」
ラボの中を甲高い女の声が響き渡る。
「アクシデントある」
「不可抗力ある」
「仕方無かったある」
対する柳家三姉妹の声も、言い募るに連れだんだんと声高になっていく。その様は鶏小屋の態を示していた。
「勇気ある撤退といって欲しいある」
「その場にいなかった人間に口を出す権利はないある」
「弱い犬ほど良く吠えるといいますものね!」
「失礼ある」
「無礼ある」
「その言葉取り消すある」
コッコッコ、コケーッコッコッコ……。彼女たちの言い争いは喜劇にしても程度が低く、頭痛だけを誘う。
コツーン
石張りの床の上、ゼファーの立てた冷たいその音が、つかの間の静寂を呼んだ。
「……確かにわれわれの行動は先走りだったある」
「しかし仕掛けてきたのは向こうである」
「われらが姉妹を守るためだったある」
三姉妹の言い訳に、ゼファーは答えない。
言葉を重ねることが恐怖を和らげるとでも言うように、三姉妹はくちぐちに言葉を重ねた。
「次こそは仕留めるある」
「売られた喧嘩は借金してでも買うある」
「七代辿って滅ぼすある」
「われら姉妹に敗北はないある」
「正式な攻撃命令を出すある」
「命を懸けて先のはじは削ぐある」
床に落ちていた銀色のペンが、音も無くゼファーの手におさまる。再度弄ぶようにはじかれたペンが、くるりときらめく軌跡を描いた。
「おまえ達に与えられた指令は何だ?」
ゼファーは唄うように問い掛けた。
「行方不明のボーグおよび〈人形使い〉の捜索と捕捉ある」
「それに〈もりた まり〉の観察ある」
「……必要と判断すれば、それらの処分も任されたある」
ゼファーは唇の右端を薄く上げた。かたっ、とカオリンの体がわずかに震える。
「わかった、わかってるある」
「なにいうある、高鈴小姐!!」
「美鈴の恥辱は、われら姉妹全員のもの! 違うかある?!」
カオリンは唇をきゅっとかみ締め、自分の姉妹達を見詰めた。
「……任務は任務ある」
「高鈴小姐!!」
「心まで犬に成り下がるのかある?!」
叫んだそばからホウリンは、床にがっくりと膝をついた。
「く、はぁ……」
左胸を押さえ、苦悶の表情を浮かべるホウリン。彼女たちの服従回路は不完全な物で、後の〈人形使い〉に比べれば、感情の自由が許されていた。ただし、明らかな反抗を示せば、Dエンジンより脳に対して、苦痛のプログラムが流し込まれる。無意識下の支配ではなく、言うなれば鞭による支配である。彼女たちのプライドと恐怖は、そこから生まれた物だった。
「おーほっほっほっほ、カオリンだけしか分かっていないようねえ」
立ち尽くすカオリンに容赦無い言葉が浴びせられる。
「美波貴様、犬の分際でうるさいある!!」
ホウリンの横に膝をついたまま、メイリンは美波をねめつけた。美波はメイリンの言葉を鼻で笑った。
「ホウリン、立てるかある」
カオリンも手を貸し、ホウリンを立たせると、カオリンは吐き棄てるように言った。
「われら姉妹が誇りを棄てることはありえない、但し与えられた仕事は片付けさせてもらうある」
柳三姉妹がラボから姿を消すと、小鳥遊美波〈たかなし みわ〉は、おかしくてたまらないとでもいう風に、声を立てて笑った。
「どうして、弱い者から〈AYA〉に立ち向かわせますの? もうデータは十分じゃありませんの、私なら今ここに連れてこられましてよ」
笑いやんだ美波は、ゼファーにしなだれかかった。
「いたずらに経験値を上げさせることはないじゃありませんの、これでは最後に負ける悪役のパターンですわ」
ゼファーは片眉をわずかに上げる。
「この世には人には計り知れないことがある。われわれが知らないだけでこの世には支配者がいるのだ。流されていくしかないことというのがあるんだよ」
美波は理解できずに首をかしげた。
「あなたがそんなに信心深いとは知りませんでしたわ、ゼファー様。私ならば、気に食わない流れなぞ、捻じ曲げてご覧に入れます」
美波と初めて会ったときを思い出して、ゼファーは顔に笑みを浮かべた。
「そうだな。おまえは見た目に似合わず、気性が激しい」
「お褒めの言葉と受け取っておきますわ。次は、ユリカがねらわれているんでしたわね。私のユリカが、私の言葉を保証してくれますわ。」
美波の背後で空間が割れ、巨大な天使が現出した。小柄な美波が天使の腕に抱かれると、一幅の絵のようであった。
「うふふ、私は可愛いユリカが勝つところを見てまいります。」
するり、と空間の隙間に入り込んで、美波の姿が消えた。
ゼファーは美波を見送ると、喉の奥で笑った。
「くくく、人には器に見合った役割という物がある。……なぁ、暁」
ウエストミンスターチャイムが、朝の始まりを告げていた。町へも聞こえるようにと、最初のチャイムと終業のチャイムは、格別大きな音で鳴らされる。
亜夜は初めて聞く聖オルコット名物に、面食らった。話には聞いていたが、これほどとは思わなかったのだ。
さすがにシスターは慣れたもので、驚いたふうもなく亜夜に笑顔を向けた。
「こんな時期に転校なんて不安でしょうけど、あなたが入るクラスは信仰心の厚い子達が多いから大丈夫。きっとすぐになれることでしょう」
聖オルコット学園はカソリック系の女子校で、服装、立ち居振舞いなどに厳しい反面、学生の自治など自由な校風が特徴である。
亜夜は廊下にかかっていた鏡に目をやった。そこには黒く髪を染め、二つ分けに括った亜夜がいた。ほんの数日前と変わらぬ姿であるはずなのに、どうしても奇妙に思えてしまう。かつての自分は、もはやいない。髪を黒く戻したところで、人の死に関わった記憶は薄れようも無く、逃れることはかなわない。
理由はどうあれ、罪に絡め取られていく自分がそこにいた。吐き気さえ覚える。
「どうしました、御厨さん?」
「いいえ、庭の緑が綺麗だな、と」
亜夜は右手で左腕を強くつかんだ。
いずれ風景を綺麗だと感じることも出来なくなるかもしれない。復讐を果たし、生き延びることが出来たとしても、確実に心は死んでいくのだろう。少しだけ、それが寂しい。
初夏の緑は鮮やかすぎて、目に痛かった。
亜夜は強くなっている。けれど、強くなるには、それなりの傷も、過ぎるほどの荷重も、負っていかなくてはいけない。強くなるたび擦り切れていく心を、亜夜は意識せずにいられなかった。
「おはようございます、シスター山崎」
「あら、千木良さんもう朝のお祈りが始まりますよ」
「思わず朝練に熱中しちゃって……」
てへへ、と体育着姿の少女は頭を掻いてみせた。
「ひっどいんですよォ、みんなあたしのこと置いていっちゃうんだから」
「また、呼ばれてても気がつかなかったんじゃないの?」
くすくすとシスター山崎は笑った。
「ちょうど良かった千木良さん、御厨さんは今日から転校してきたの。あなたと同じクラスになるから、校内を案内してあげて」
「って、ことは朝の礼拝出なくていいんですかぁ?」
やったぁ、と千木良はぱちん、と指を鳴らした。
「まあ」
「感謝の気持ちは忘れませんて」
シスター山崎も若い所為か、それ以上のことは言わなかったが、怒っていると言うよりむしろ、面白がっていると言うようなふうだった。
「御厨さんも、私より、同じ生徒のほうが気が楽でしょう?」
「え、ええ……」
特定の生徒と関わるのは極力避けたかったが、無下に断るわけにもいかず亜夜は曖昧に答えた。
「あたし千木良真弓。……えーと」
「御厨亜夜です。よろしく」
「こちらこそ!!」
真弓は上背があり、スポーツ少女らしく均整の取れた身体をしている。何より強い生命感が魅力的だ。誰からも好かれているだろう事が想像に難くない。
今の季節が良く似合う。
「こんな時期に転校なんて珍しいね」
「兄の仕事の関係で……」
「どこか入る予定の部活は?」
「考えていないけれど……」
ぱっと真弓の表情が明るくなった。
「だったら、うち入りなよ。あたしバレーでセッターやってるんだけどさ、楽しいよお」
真弓の表情を曇らせるのは、もったいないな、と亜夜はちらりと思う。
亜夜は少しだけ肩を竦めて答えた。
「あんまりスポーツって好きじゃないの」
「そうか、もったいないな。いい体してるのに。……ああ、んじゃ格闘技かなんかしてる? そんな感じだよね」
この質問にも、亜夜は肩を竦めて答えるしかなかった。
「おっかしいなぁ、あたし人を見る目には自信あるんだけど」
首をひねる真弓に、亜夜は少しだけ悪いなと思った。
「まずは教室からでいい? 汗臭いからさ」
真弓は汗に濡れた体育着を、つん、と引っ張ってみせた。
教室に入ると、まだ生徒が一人残っていた。不良、というわけでもなさそうだ。きちんと髪を三つ編みに結ってはいたが、そんなに高くもない背をことさらにちぢこめている所為か、印象の暗い少女だった。
「どうしたの、高杉さん」
「聖歌集を……落したみたい」
声までもが陰鬱で、亜夜の背中はそそけだった。それに高杉は妙にねっとりした視線で、亜夜と真弓を見ている。
「あったら拾っておくよ。よければあたしの使ったらいい」
真弓が机の上に置いた本を、高杉はひったくるように取ると、頭を下げるのもそこそこに教室を出ていった。
「なに、あれ」
思わず、亜夜の口からそんな言葉が漏れた。
「人見知りするみたい。頭良くて結構面白い子よ、いつも何か本読んでる」
真弓は特に気にしてもいないようだった。思いきり良く服を脱ぐ。
真弓の肌を見て、亜夜は目を疑った。スポーツブラの下に亜夜と同じような傷があったからだ。
「ああ、これ? もう痛くなんか無いよ」
亜夜の視線を誤解したのか、真弓はその傷について説明してくれた。
「こう見えてもさあ、子供の頃は体弱くってさ。手術の痕」
こんなもの気にしてなんかいないよ。口にこそしなかったが、真弓は言外に語る。真弓の傷は親切な人間以上に好奇の目を集め、口さがない者の噂になってきたに違いなかった。
しかし亜夜の驚きは、他の者とはいささか趣を異なっていた。そんな偶然は信じたくなかったが、真弓が今回のターゲットなのかもしれない。そう思うと、亜夜の胃はきゅっと収縮した。
「なに? それともその気があるの? なんてね」
亜夜の気も知らずに、真弓はけらけらと笑った。
「うちの学校そういうの多いんだよねえ。御厨さん美人だから、SBレターとか、きっとたくさんもらうよ」
「その、千木良さん……」
「SBレターって知らない? シューズボックスレターの略なんだけど、要するにラブレターでさ、いろいろとポエムみたいなのとか書いてあったりするんだよ。あたしバレーやってるし、このタッパでしょ? これが良くもらうんだわ」
どうやって切り出したらいいものかという思いと、間違いであって欲しいと言う思いが亜夜の中を交錯した。メイリンのこともある。向こうの関係者ならば亜夜のことは知っていて当然だろう。だが、真弓が素知らぬ振りをしているだけだと言うことも十分に考えられた。
もし、本当に知らないのだとしたら……。亜夜が馬鹿にされるだけならまだいい。信じろと言われても、何も知らなければそう容易に信じられることではないだろうから。けれど、それを問うことで、無関係な真弓を巻き込んでしまうことも十分に考えられた。
(どうすればいいの!?)
単刀直入に聞くのが最善なのかもしれない。躊躇うのは、亜夜が真弓に好意を持ち始めているからに違いなかった。
ほんの数ヶ月前までは、単なる代名詞でしかなかった「友達」と言う言葉が、亜夜に重く重くのしかかる。
初めて亜夜を見たときはぎょっとしたものだ。どんなに礼儀正しく振る舞ってみても、彼女の瞳に宿る影を、シスター山崎は見逃さなかった。どう扱っても、この子はクラスになじまないのではないかと、教育者にあるまじき危惧を抱いた。
だがそれも杞憂に終わりそうだ。
転校して初めて会う生徒が、千木良真弓だと言うのは、これこそ天の思し召しに違いないと思う。千木良真弓はけして模範的な生徒でこそ無いが、明るく素直で、何よりも人の心を開く何かを持っている。
人はきっかけによっていくらでも変わることが出来る、と言うのがシスター山崎の信念であった。千木良真弓が、御厨亜夜にとってのきっかけになりうるだろう、と密かにシスター山崎は確信している。たとえ何を背負っていようとも、人は光に満ちた存在なのだ。
理科室からくすくすと、嘲笑うような声が聞こえる。
科学はシスター山崎の受け持ちで、この時間は空きになっているはずだった。
「だれなの?」
がらり、と横開きのドアを引くと、中には二人の少女と、天使、そして黒い生き物がいた。一瞬その黒い影が、犬に見えて、シスター山崎は悲鳴を飲み込んだ。
そして、思い返す。天使がいるのなら少女達をお守りくださるはずだ。
くらくらする眩暈を押さえるために、胸元のクロスを握り締めて、ようやく現実ばなれしている状況を認識した。
何故、ここに天使がいるの?
再度、シスター山崎は悲鳴を上げようとして、不可視の力に阻まれた。
「シスター、はしたなくってよ」
一人の少女が、笑いを噛み殺しきれないというふうに言った。手は、ゆっくりと、ゆっくりと、もう一人の少女の解いた髪を撫ぜている。その仕種が、淫らがましく見えて、シスター山崎は眉を顰めた。天使を含めて、目の前の情景は、ひどく淫猥で、背信的だった。
うっとりとした目で、もう一人の少女はいう。
「お姉様、シスターに罰を与えなくては」
「そうね、見てはいけないものを見た者は、罰を受けなくてはね」
逃げなくては、とシスター山崎は思った。だが思うように体が動かない。
「罰を与えましょう」
「バツヲアタエマショウ」
勝手に唇が、言葉を復唱する。(ああ、目だ)と思う。この目を見てはいけない。きっとこれは……。
イーブル・アイの存在を思い出したときには、少女の目はシスター山崎の視界を支配していた。
「軽い罰で許してあげる。腕を振り上げて」
「ウデヲフリアゲテ」
(神よ!!)
どんなに祈っても、祈りは届かない。
「打ち下ろすのよ、床にね」
「ウチオロス……ああああああぁぁぁああああああ!!」
グキャ、と厭な音がして、左手首が砕けた。血飛沫が飛び、白い骨が見える。頭はぼうっとしているのに、痛みだけがやけに鮮明で、シスター山崎は意識を失った。
「あらあら、ずいぶんと脆弱なのね、ねえ、そう思わないこと? ユリカ」
「仕方が無いわ、お姉様。人は自分の痛みには弱いものよ」
うふふふ、と顔を見合わせて笑いあう。
「ユリカの髪、いい匂い」
ええ、お姉様のために香水入りのシャンプーを買い込んで、毎日朝晩頭を洗うんですもの。ユリカは一瞬そう言おうかと思ったが、そんな事を言い出したら、大好きなお姉様に嫌われてしまうかもしれないと、口をつぐんだ。
今しがたのことなどすでに忘れてしまったかのように、少女達は身を寄せ合った。
お姉様はユリカのことを、とげとげしい声で「菊江」とは呼ばない。同じ花ならば、百合がいいと、「百合香」という名をくださったのもお姉様だ。
そっとお姉様は口付けをくださった。本当はいけないことなのだろうけれど、ユリカは薄目を開けて、お姉様の顔を眺めた。
妬ましくなるほどに、お姉様は美しい。ほんの少しだけ残念なのは、ユリカよりもちょっぴり背が低いことだ。けれど、それだって、お姉様は華奢なのだから仕方が無いし、お姉様の美しさはそんなことで、ちっとも損なわれるものじゃない。何よりも美しいのは、その目だ。まつげの奥は、神秘的なまでに深く、いつまでも見つめていると吸い込まれてしまいそうだ。
お姉様のためなら何でも出来ると、今更ながらに思う。お姉様が言うのならば、それは何でも正しいことなのだ。きっと以前憧れていた千木良さんを殺す事だって厭わないだろう。それどころか、私の中に埋まっているという服従回路だって、お姉様への思いにはかなわないに違いない。もし、ドクターとお姉様が対立する日がきたなら、心千切れようとも、お姉様の味方でいる。
ユリカは手で、傍らにうずくまる黒豚を呼んだ。
ユリカは自分とお姉様を結んでいる、ボーグという名の絆を、いとおしげに撫でた。
「私きっと〈AYA〉を倒してみせるわ」
「勿論信じていてよ、ユリカ」
美波は花のように笑う。その笑みの裏に、いかな野心が潜んでいるかは、それこそ天使でさえ分かる由も無かった。
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