シャドウブレイザーズとて、秘密機関とは言え政府の組織であることに変わりはない。上層部からの通達を無視して行動することは許されないし、仮に武力を持って命令に背けば、それは反逆であり、テロ行為として「合法的に」処理されることになる。
革命気取りで蜂起することの愚かさを知らないわけではなかったが、その衝動を抑えることは、今の三人には拷問に等しい行為だった。
シャドウブレイザーズに対してではなく、上位機関である内閣調査室への挑戦状──それはシャドウブレイザーズでも屈指の猛者と呼ばれた紅蓮隊の隊長──元、隊長──近衛からのビデオレターだった。DVD-Rに焼かれたわずか二分のMPEG2の画像が、各機関に衝撃を伝播するのに時間はさほどかからなかった。
画像の中で近衛はバックに人形使いと〈人形〉たちを並べ、革張りの豪華なデスクチェアで半ばのけぞるようにして腕を組み、鋭い目つきをして大演説をぶってみせていた。要求はたったひとつ、シャドウブレイザーズの秘密裏の解散だった。闇の組織は闇に滅せよ、と。
同じディスク内に添付されたデータは、シャドウブレイザーズの本部の見取り図から組織図、メンバーの顔写真入りの名簿、兵器装備の詳細、さらには関係省庁の代表者の氏名や住所、それらのデータがワンクリックでインターネットにばらまかれる爆弾プログラムまでが内包されていたのだ。
ぎりっ、と口の端から嫌な音を立てる。奥歯が欠けるのではないかと思えるほどの力が、アヤコの顎にかかっていた。九インチのちいさな液晶画面を、穴が開くほどに見つめて見つめて、見つめ続けている。もう何度、同じ画像をリピートしただろうか。デジタルの画像は劣化しないが、心なしか輪郭がぼやけてきているような錯覚を憶えて、ミカは軽く頭を振る。同じように、目の間を指でつまんでアイが天を仰ぐ。
「どうすればいいのさ……」
アイの呟きは、三人に共通のものだった。どうすればいいのか。何を成せばいいのか。今の自分たちに何ができるのか──隊長を失い、前線から外され、人形使い掃討戦〈オペレーションSKI・HI〉にも参加できず、新しい上司も用意されていない。はぐれ部隊であり、存在を否定された旧チーム・キャッズアイ。
封印兵器であるティーゲルトラウムと〈AJ〉を使用し、それでいて事件を解決できなかった彼女たちに復帰の道はない。シャドウブレイザーズに解雇と言う文字は存在しない。秘密は墓まで持っていかねばならないのだ。彼女たちは国家公務員であると同時に、その人格を雇用主に否定された国奴なのだ。
何もできない。どこにも行けない。ここがどこなのかも判らない。どこかの基地の、とある一室であるとしか言えない場所に連れてこられて、幽閉と呼べる状態になって何日が経過したのかを正確に記憶している人間は、この三人の中にはいない。窓のない、時間の経過を正確に記すものの存在しないこの部屋の中では、体内時計も当てにはならない。唯一与えられた液晶端末に、時折こうして「許されたニュース」だけがデータとして送られてくる。リピートして観ることしかできない、外界からの唯一の情報。
また、アイが呟く。
「どうすれば……」
ぎりっ、とアヤコの奥歯が鳴った。
「あたしたちでできることなんか」
コンクリートの打ちっぱなしの壁をぼんやりと眺めながら、ミカが思い出したように言う。
「もう、何にもないんだよ」
視覚は回復しない。疲れ目だろうか、と思って何気なく眼をこする。その手に、生暖かい液体が付着して、ミカはようやく理解する。
「もう、何も……」
そうだ。すっかり忘れていた。人間はこういうとき、泣いてもよかったんだ。堰を切ったかかのように、双眸から涙が溢れて止まらない。ミカは、嗚咽を上げることすら忘れて、ただ涙を流した。まるで泣き方を忘れてしまったかのように。まるで呼吸の方法を忘れてしまったかのように。
扉をノックする音が、かろうじてアイの耳に入る。のろのろと鉄の扉まで歩み、格子のはまった窓から外を見る。食事の時刻にしては、少し早いな──と思っていたアイの視界に、ありうざるべきものが入ってきた。
「少し痩せた? アイ」
燃えるような薔薇色の仮面。そのゴーグルの奥から覗く、力強い眼──虎の、眼、だ。
「三歩離れて」
アイはたじろぎながら、ゆっくりと三歩下がった。その様子に気づき、のっそりとアヤコが起ち上がる。壁に向かって泣き続けるミカは、まだこの異変に気づいていない。
爆音が、狭い室内にこだました。爆風が、破片が、圧力の総てが中にいた三人を襲う。戦闘のプロである彼女たちは、瞬時にできうる最高の回避方法──床に腹ばいになり、頭部を守る形になっていた。もうもうと上がる煙と埃が完全に途切れる前に、破壊された扉から入ってきた人影は言い放った。
「アヤコ、アイ、ミカ! ついてきて!」
薔薇色の虎──ティーゲル・トラウムが、握っていた拳をゆっくりと開いて三人を促した。
ラ・ピアジェ──都内でも最高級の名を欲しいままにするホテルの最上階は、都心が睥睨できる巨大なスカイラウンジとなっている。そこは以前は会員制レストランとして解放されていたのだが、今は新たなる経営陣の集会所として一般人の入室できないエリアとなっている。
星の瞬くような都会の夜景を楽しむべく、巨大なガラス窓のへりに革張りのデスクチェアを置き、三浦近衛はワイングラスにお気に入りのヴォジョレーを注いでいた。紅い酒は血であり、彼女にとっては祝祭を意味する。多く血が流れれば流れるほど、彼女の理想は近づいてくるのだ。その血が赤ければ赤いほど、彼女の悦びは増していくのだ。
巨大なラウンジには、彼女しかいない。〈人形使い〉たちは、彼女と鷺宮女史──小鳥遊美波の指令で、ホテルの各所に潜伏していた。ワイングラスの中の液体をゆっくり回しながら、近衛はそれぞれの〈人形使い〉と〈人形〉を思い出す。
高杉菊枝──その名を極端に嫌い、ユリカと呼ばれることを望む少女。爆発的な破壊、猪突猛進を得意とするボーグHを駆る。
橘実優──むやみやたらとやかましい河内女。ボーイッシュな外観通りの、手が先に出るタイプ。使うボーグIもパンチのラッシュを得意とする。
村山いち──外見はおしとやかに見える京女だが、中身はかなりの毒舌家。重力を操るボーグQを操る。
玉川理恵と古川由美──いつもコンビのふたりだが、大柄な理恵にちいさな由美がくっついているという印象だけがある。つねに二人で話をしては莫迦笑いを繰り返し、人の話を聞かない。正体不明なふたりで、彼女たちが使うボーグKとボーグNのことを、近衛はまだ何も知らない。
矢作博美はボーグL、音貝美智子はボーグO、三神幹子はボーグP。この三名に関しても、近衛は未だに意志の疎通ができていない。博美と幹子は極端に無口で、美智子は近衛を越える長身から見下すような視線を投げるだけで、決して話をしようとはしなかった。
そして、小鳥遊美波──生命エネルギーを〈人形〉と分け持ち、老女から少女の間を行き来する、本物の魔女。人間を塩にしてしまう〈衝撃の白〉、生命活動そのものを破壊する〈閃光の黄〉を始めとして六つの「防御不能技」を持つ史上最強の〈人形〉──ボーグVを使う。
「来ると思っているのか?」
誰もいないと思われていた広いラウンジに、低い声が響いた。ワイングラス越しに、近衛はラウンジ内を見やる。紅い液体に溶け込むような真っ赤な戦闘服に身を包んだ女性が、窓際の近衛を睨みつけている。
「来るさ」
ワインを胃の腑に流し込むと、近衛は空になったグラスを女に向けてくるりくるりと回して見せた。
「ここには、ヤツが目の敵にしている〈人形使い〉が九人もいるんだ。来ないわけがない。それに──」
手にしたグラスを頭上高く挙げたかと思うと、それを何の躊躇いもなく床に叩きつけた。マイセンのグラスは緞通の絨毯の上で木っ端となって砕け散った。
「あたしが何をしたいのか、美波は正確に理解してくれたよ。あたしはね、血が見たいんだ。強いやつと強いやつが戦って流す血を、ね。そして、一番強かったやつとあたしとで、また血を流す。素晴らしい! なんて素晴らしい!」
「……気狂いが」
「あんたはどうなんだ? 美波の子飼いに成り果てた、牙を抜かれた猫であるあんたは!」
言うが早いか、近衛は腰に下げていた巨大な拳銃を抜き放っていた。右手にデザートイーグル、左手にレイジング・ブル。一挺で一キログラムを大きく上回る、長大なる鉄塊。その筒先にある巨大な銃口がふたつ、ぴたりと標的の両の胸をポイントしていた。
「それとも、もう一度あの子と会うのは怖いかい? トラウマさんよ!」
女はふたつの銃口にも怯まず、無言でその胸を張り続けている。後ろ手にしたその指には、修羅場をくぐり抜けてきた相棒を絡めたまま──。
「シャドウブレイザーズが大挙してやってくるとは考えないのか?」
数秒の沈黙を経て、女はマスクの下のルージュの唇を開いた。巨大な鉄の塊を下ろそうともせず、口の端に笑みを作りながら近衛は答える。
「やつらは所詮、お役所さ。あの情報をネットに流されたらひとたまりもない。そうだろ? ここを取り囲んで見張るのがせいぜいってところだろうさ」
「だといいが」
女は後ろ手に持つ相棒をそっと下げると、ゆっくりと近衛に背を向けた。近衛の指が、その瞬間を逃すはずもない。巨大な炎が両の腕から沸き起こり、衝撃波がラウンジ全体を覆った。金色の薬莢がひとつ、勢い良く弾き出されてラウンジを覆う窓ガラスに当たり、乾いた音を立てていた。
「……〈慈愛〉か……」
女は振り向き、呆然とする近衛を見、そして続いてエレベータホールから姿を現した美少女に視線を遣った。
「無駄な諍いはご免被りたいんですけど。よろしくて?」
少女は女のそばまで歩いてくると、女の背の直前に浮かんでひしゃげた巨大な弾丸を二個つまみあげ、にこりと微笑んで床に落とした。
「お遊戯がお好みなら、いつでもヴィオレッタがお相手いたしますわよ? 三浦隊長」
それは、震え上がるような笑みだった。竦み上がるような声だった。今まで、どの戦場でも味わったことのない恐怖だった。そして、脳の芯が痺れてたまらない、毒を含んだ快感でもあった。近衛は見開いていた眼を次第に細め、大きく開けていた口を緩めると、高らかに笑い出していた。
「いい! いいぞ、小鳥遊美波! 最後に戦う相手がお前だと思うと、悦びで震えが来るわ!」
「御厨亜夜は……小鳥遊よりも強いぞ」
「わたしと同じぐらい、と言っていただけないかしら? オクツ隊長」
立ち去ろうとする背中に、美波は嘆息しながら告げた。薔薇色の戦闘服──ティーゲル・トラウムはその言葉になんら反応することなく、階段をゆっくりと降りて姿を消していった。
ホテルのロビーに併設されているティー・ラウンジで、矢作博美と三神幹子は茶をすすっていた。博美はダージリン、幹子はレディグレイ──互いに視線も交わさず、全くの無言である。このラウンジにきて同じテーブルに着き、ボーイに茶を注文して以来この方一五分ほど、ふたりの間に会話らしい会話は絶無だった。
もともと博美と幹子の間に親密な情は一切ない。同じボーグ使いだというだけで、年齢も違えば性格も違う。博美は二一歳、長い髪が腰までかかるのを自慢にしている垂れ目の女子大生だったし、幹子は髪を輪のように両耳の上で結い上げた吊り目の女子高校生だった。身長も、博美は一八〇センチに届こうかという背丈だったが、幹子のそれは一六〇センチにようやく届くものだった。博美は他人のペースに合わせることを苦手としていたし、逆に幹子ははきはきと物事をこなす反面、自分のペースを崩されることを極端に嫌い、叫ぶことすらなかったが、今にも噛みつきそうな眼で相手を脅すのが癖だった。
性格的にも心境的にも、このひととは合わない──ふたりはそう思いながらも、なぜかいつも一緒にいた。シャドウブレイザーズによって捕獲され、電波の届かない暗い部屋に軟禁されていたときから、ふたりは何故かいつも傍にいたのだ。会話らしい会話を交わした記憶はない。手を取り合ったことも、ない。話が合わないし、行動を見ていてもいらいらしてくる。
──じゃ、なんでいっしょにいるんだ? あたし。
ウェッジウッドのカップをかちゃりとソーサーに下ろすと、上目遣いのまま幹子は正面にいる博美を見た。
すっと通った鼻筋。綺麗に輝くストレートの髪は上品なカラメルブラウンだ。閉じられた眼はかなりの急角度に垂れ下がっているが、だからといって不細工な造りな訳ではない。カップから離れた口は、自分のものと較べてあまりにも小さく、薄い唇には淡いピンクの口紅が髪同様に輝いている。
綺麗だ、と思う。化粧の仕方をまったく知らない自分にとって、このひとはむかつく存在であると同時に、どこかで真似できない憧れの部分を持っているのだ。認めたくはないが、しょせん五頭身女子高生はスレンダー美人にはかなわないのだ。
──なんだか判らないけど、この人には負けたくないわ。
足を組み交え、ソーサーごとカップを持ち上げると、幹子はソファに思いっきり背を預け、さも優雅な風を装ってさらにレディグレイをすすった。そんな彼女の脚の動きを、博美は沈黙したまま見守っている。
──若いっていいわね。素足が綺麗。
フレアのミニスカートから伸びる幹子の脚は決して褒められるほどの美脚ではない。だが博美には、ミニスカートにアンクルソックスという服装自体がすでに真似のできない世界なのだ。しかも、相手はストッキングなしの生足だ。青い七部丈のレザージャケットに合わせたフェイクレザーのスニーカーには、金の靴ひもが使われている。アンクレットも、細い金のものだった。
博美は、心底このあけすけな、品のない幹子のしぐさに辟易していた。初めて会ったときから、あの薄暗い部屋に幽閉されていたときから、嫌いで嫌いで仕方がなかった。だが、それは自分の気持ちの裏返しなのだ。自分がしてみたかったもの、なってみたかったものを、この子は総て持っている──そんな気がしてならないのだ。
──この子に負けてしまうことは、わたしの全否定に繋がる。
無言にならざるを得ない。ふたりは牽制し合っている。互いが互いのことを嫌いだと思い、自分も相手のことを嫌いだと思い込もうとしている。奇妙なコンビだった。
宿泊客がいないわけではないが、首都圏は一部が戦場のような報道をされており、観光客は激減していた。ビジネスのための客はもっと安価な郊外のビジネスホテルに宿泊しており、海外からの渡航客も減っている昨今、この最高級ホテルとてロビーに人がまばらなのは致し方のないところなのであろう。ティーラウンジには博美と幹子しかいない。
幹子はカップの中に茶が一滴もないことを確認すると、残されたスコーンに手を延ばし、くわえたところで固まってしまう。吊り気味の眼を大きく見開き、ロビーの入り口の方向を指さしてふがふがと何ごとかを告げるが、スコーンが唾液をすべて吸ってしまっているのか、口いっぱいのスコーンを飲み込むことも取り出すこともできない彼女の言葉は博美にはまったく通じない。
博美はこめかみに人差し指を当て、さも困ったような表情をひとつ作ると、コップで水をがぶ飲みしようとする幹子を尻目に起ち上がってロビーの入り口方向を振り向き見た。
自動ドアが閉まり、人影がロビーに向かって歩んでいる。薔薇色の戦闘服に虎の仮面──博美は垂れた眼を眇め、嘆息して肩をすくめた。
「オクツ、あなたその格好で外に出ていたの? ちょっと頭おかしいんじゃ──」
そこまで言って、何者かが自分に抱きつき、引き倒そうとしていることに気づく。咄嗟の判断ができず、博美はソファを押しのけて絨毯の上に放り出されていた。自分の上にのし掛かったものが幹子であると知ったのは、胸の上でスコーンの匂いがしたからだった。
「オクツ、あんた何で、何でぇ?」
幹子は叫んでいた。口の中にあったスコーンが吐き出され、博美の美しくも薄い胸の上にばらまかれる。
「Dジャマーが効いているはずだ。お前たちに勝ち目はない」
薔薇色の虎が言う。両手の甲から、肉眼でははっきり見えないがきらきらと輝く糸のようなものが踊っていた。博美は、たった今まで自分たちがいたソファの背が切り裂かれてなくなっていることを知り、愕然となる。
「あたしは人殺しのプロだ。必要があれば、躊躇いなく殺す。質問に答えてもらおうか──矢作博美、三神幹子」
「一階ロビー、突破されました。Dジャマー検知、ボーグ現出不可能です」
「状況を正確に伝えろ!」
窓際にあるガラステーブルにノートパソコンを置き、携帯電話に向かって近衛が叫ぶ。怒りに燃えた眼が、一五インチの液晶画面を睨みつける。電話の向こうにいる音買美智子は事実のみをただ淡々と告げ、それ以上の情報を近衛にもたらそうとはしない。
「敵は? 美波を一階にやれ、Dジャマーを外させるんだ! 音貝、今どこにいる?」
「敵のひとりを視認中。Dジャマーが効いている限り、手出しできません。今、敵は高速エレヴェータに乗り込もうとしています。矢作と三神は縛られてロビーに転がっています」
「ここに一気に来るつもりか?」
近衛はノートパソコンを操作すると、ホテルの制御コンピュータに入り込み、中央のラウンジまで直通できる高速エレヴェータの電源を切った。これで少なくとも、敵はその他のエレヴェータを乗り継がないと近衛の元にはやって来ることができない。
「時間稼ぎした。他の連中は? 主要な乗り継ぎ階のエレヴェータホールに待機しているんじゃなかったのか?」
「ジャマ」
通信がぶつっと途絶えた。Dジャマーが携帯電話の電波帯にも干渉しているのだろう。美波の番号を素早く検索すると、近衛はふたたび携帯電話を耳に押しつけた。
「美波、今どこにいる? 敵が来たぞ! 一階だ! Dジャマーを装備している。たったひとりで来るはずがない、どこかに仲間がいるはずだ。注意してくれ」
「あらやだ。最初の話と違うじゃない」
電話の向こうの美波は、突き放したように告げた。
「わたしはあなたを護るためだけに戦うのではなくてよ。ねえ、ユリカ」
かすかにユリカが応える声が、近衛の耳にも入ってきた。会話中だったが、近衛の携帯電話にメールが到着する。慌てた近衛は電話を切り、メールを見る。添付されていた画像ファイルが展開され、二インチの液晶画面にブレた写真が映し出される。
そこにあったものは──ホールを睥睨する薔薇色の虎の姿だった。
「ティーゲル・トラウム──まさか、オクツが?」
写真を観て驚愕する近衛の前で、携帯電話がけたたましく鳴る。
「ティーゲル・トラウムと接触」
ざらざらの音質でかかってきた音貝美智子からの電話はすぐに切れ、さらに着信音が続く。
「敵はティーゲル・トラウムや! いくで、ボーグI!」
「オクツさんが裏切りはったんですね。行きますわよ、ボーグQ!」
「きゃははは! オクツさんはっけ〜ん。ふたりで行きま〜す。ね、いいでしょ? たいちょ!」
「エレヴェータを乗り換えるのって面倒ね。一階に着いたらまた連絡するわ」
近衛は携帯電話をテーブルに放り投げると、配置図を入れ込んだファイルをノートパソコン上に展開させる。
矢作博美と三神幹子は一階のホールに配置していた。
音貝美智子は五階のホテルフロアに配置していた。だが、ホールからオクツの姿をメールで送って来ている。彼女も、いまは一階にいる。
橘実優と村山いちはBエレヴェータの最上階、乗り継ぎのために必ず降りなければならない一九階のレストランフロアに配置されている。
玉川理恵と古川由美はCエレヴェータの最上階、一般のホテルフロアとVIPのための宿泊フロアを分ける二七階のセカンドロビーに配置されている。
小鳥遊美波とユリカ──高杉菊枝は、このスカイラウンジの直下にある三六階のスカイレストランに配置している。乗り継ぎで昇ってくるDエレヴェータも、一階から直通でやってくる高速エレヴェータも、この直下のスカイレストランまでしかやってくることができない。ここを守りの要所と考えていたのだが──よもや敵がDジャマーを持つオクツだとは思いも寄らなかった。
──待て。何かがおかしい。
オクツの目的は何だ?
仲間のふりをして全員の寝首を掻くことなど、あの手だれの雌猫には簡単なことだろう。だが、なぜわざわざ一階に降り、そこから昇ってこようとしているのか?
しかも、オクツは自分より前──オペレーションSKY・HIの前から小鳥遊美波と接触し、行動を共にしている。ということは、時期的にDジャマーを装備していない可能性が大きい。
自分の装備をコピーしたのか? それはありえないだろう。僅かな時間しかオクツとの接触は行っていないし、機器を奪われた形跡もない。自分にとってもDジャマーは生命線であり、そんな生易しい管理をしているわけではない。
では、オクツはどうやってDジャマーを手に入れたのか? やはりシャドウブレイザーズと連絡を取り合っていたのか? なぜ外部と連絡を取れる彼女が、Dジャマーを手に入れられる彼女が、たった独りでこのホテルで我々に牙を剥くことになったのか?
ここまで思うに至り、近衛ははっとして再び配置図を観た。
博美、幹子、美智子が一階。
実優といちが一九階。
理恵と由美が二七階。
美波とユリカは、エレヴェータを乗り換えつつ一階に向かっている。
だが、美智子と実優、いち、理恵と由美はティーゲル・トラウムを目視している。それぞれが戦闘に入ろうとしている。
全員が一階にいるのか?
敵がオクツひとりなら、美波がDジャマーを外しさえすれば楽勝なはずだ。全員が寄ってたかって撃破する必要はない。それは御厨亜夜がやってきたときのためのフォーメーションだ。
まさか、と思う。
携帯電話では、全員に一気に指令を出せない。シャドウブレイザーズ時代の装備の便利さを思い出しながら、近衛はテーブルに放り出した携帯電話をわしづかみにすると美波に電話をかけた。
ひとけのないスカイレストランのエレヴェータホールにランプが灯り、軽快な電子音と共にその扉が開かれる。薔薇色の虎は注意深く、ホールに脚を入れた。
陽動が成功していれば、このフロアと最上階のフロアに〈人形〉と〈人形使い〉はいないはずだった。それ以外の人間が例えいたとしても、それは倒すべき敵ではない。ターゲットは唯一、あの女だけなのだから。唯一の例外を除けば──。
「誰もいないと思った?」
その声に振り向く薔薇の戦士。柱の影で腕組みするその姿を見て、虎の仮面の下からくぐもった声を返す。
「本当にいましたね。サキエ技術士官から訊いたときはまさかと思いましたけど」
「サキエの手配か」
「ええ。三浦近衛が許せないだけです。あなたを倒すのが目的じゃない。でも──」
虎戦士がその爪先を尖らせ、体重を移動させはじめる。まるで雲の上を猫がふわふわと歩くような──軽やかなステップの上では、丸めた指が柔軟に蠢き、腕の自由度を限界まで上げる体制が整っていた。
「あいつに、そして〈人形使い〉に味方するなら、例え隊長であったとしても許さない」
「よく言った、アヤコ!」
オクツも「虎のステップ」を踏みはじめる。アヤコはマスクに覆われていることを忘れ、右の指先で鼻の頭をこすっていた。
二頭の薔薇色の虎は、一触即発の間合いに突入していった。
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