それは、ほんのわずかな間の出来事だった。
 高周波ブレードは、まだ勢いが余っているかのように動きを失わず、カーブを描いて主の元に戻っていく。
 銀色をしたヒョウは、最初こそ辛うじてその原形をとどめていたが、高周波ブレードがボーグRの手に舞い戻って来る頃には、切り裂かれた体の一部が音を立てて、ボーグRの足元に転がっていた。ボーグGの、右の後ろ足だった。
「G!」
 悲鳴とも、絶叫ともつかない声が亜夜の耳に流れ込む。
「ボーグG、ゴー!! 動け! 動けったら!!」
 後ろ足を失い、バランスを崩したボーグGは、遣い手の命令を実行しようとしたが、実際にはその場を這いつくばっているだけだった。
「無駄よ。『修復』でもしない限りはね」
 目を見開いたまま、閉じようとしない夕を横に、亜夜は静かに言った。 
「一つ、訊ねてもいいかしら?」
 続いた亜夜の言葉に、夕は唇をかみ締め、ゆらりと顔を向けた。普段も敵対グループ同士の争いで、1対1でやりあうことが少なくないが、自分が負けを認めた事など、一度たりともなかった。
 彼女はスカートのポケットに手を滑り込ませた。硬くて冷たい感触がその手に触れる。
「上等じゃん。御厨亜夜。お前なんかボーグの力を借りなくても充分さ。あたいが殺してやる!!」
 左胸を狙え、ボーグも、AYA自身の機能も止まる。それは勿論、お前も同じ事だ。
 あの時、わずかに囁かれたゼファーの声が繰り返される。
 それは以前にも何度も聞かされたことだった。ボーグさえ近くにいなければ、どこにでもいるただのガキなのだ、と。
「ボーグG、行け!」
 言うと同時に、夕は走り出した。右足を失ったヒョウも残りの足で跳躍を切った。
「殺してやる」
 ボーグGはもう動けないものだと油断していたらしい。亜夜は一瞬驚いたような表情を顔に現したが、すぐにもとの鋭い目を取り戻すと、叫んだ。
「ボーグR、ワイヤードナックル!!」
 力を振り絞って向かってきたボーグGに向け、再び電磁力を反発させる。しかし……
「ボーグG、電撃だ!!」
 一テンポ遅れたワイヤードナックルは、ボーグGの左脇を軽く掠っただけだった。左足だけのヒョウは、もう一人の亜夜をねじ伏せていた。それは正に夕の執念が形として現れたものだった。
 亜夜の左胸にエモノを突き刺せば、全てが終わる。もう少しで手が届くまでの所に立って構えている亜夜を前に、夕はナイフを振り上げた。
「御厨亜夜、覚悟ぉぉぉ!!」
 亜夜に慌てた様子はなかった。むしろ気を落ち着かせて深呼吸しているかのように見えた。ただ、その眼だけは戦闘的な光を失わず、ずっと夕を見据えていた。
 亜夜の唇がわずかに動いた。けれど、今の夕には自分のペースメーカーが刻む機械音とその横の心臓の鼓動がミックスされた音だけしか聞こえていなかった。
 構えているだけで、ピクリとも動こうとしない亜夜に、彼女は奇妙な違和感を憶えた。違和感というより、疑問だろうか。けれど、その一方で、確かな勝利を掴めるという確信も抱いていた。
「!」
 喜びとも、狂喜ともつかない笑みを夕が口元に刻んだ時、亜夜は素早く後ろに跳んだ。
「――青龍!!」
 そう叫ぶと、両腕を伸ばす。彼女の掌で夕の視界は遮られた。それと同時にしびれるような感覚が体中に広がり、夕はナイフを持っている感触を失った。
「っ……」
 声を出そうにも息をする事すらままならない。息を吸い込むだけ吸い込んで、吐き出せない。そんな状態だった。
 自分は今、何をされたのだ? 痛みは、だんだんと体の中心に集中してくる。
 今、亜夜が放ったものが「斬獄業火四将拳」の奥義の一つ、「青龍」であった事を当然知るわけがなかった。
「ごめなさい。まだ、使い慣れていなかったから……」
 御厨亜夜のどこか申し訳なさそうな声が、遠くで聞こえていた。
 ボーグRは、体の上で動かなくなった銀色のヒョウを振り払うと、ゆっくりと立ち上がった。
「もう、帰っていいよ。ありがとう、ボーグR」
 亜夜がそう言うと、ボーグRは腕を振り上げた。何もない空間に向かって、拳を深く突き刺す。出てきた時と同じように、ひびの割れた次元との隙間ができた。隙間がボーグRの身長と同じくらいの大きさになると、ボーグはその中に消えていった。
 夕の荒かった呼吸も、いつのまにか規則的な呼吸を取り戻していた。
「やっと、一人目ね」
 呟きながら、亜夜は、倒れている夕を見下ろした。訓練でこそ、それこそ血の滲むような思いで、何度もこの「斬獄業火四将拳」を使ってきたが、実戦で使ったのはこれが初めてだった。
 ……今頃になって、足が震えていた。
 この先、一体この拳を何回使う事になるのだろうか……。

 夜、夕食を外食で済ませ、亜夜は帰宅した。靴を脱ぎ、壁際にあるスイッチを押す。
 フローリングの床にはベッドと宅配便の箱が3つ無造作に置いてあった。暁があてがってくれた部屋は、女子高生が一人で住む部屋としては広すぎた。きっとまた別の指令近いうちにここを離れなければいけない。自分の荷物など、ポケット一つで足りてしまうくらいなのだ。
 鞄を床に置き、床に直接座り込む。すると、聞き覚えのある音が鳴った。御厨暁から定期的に入る連絡だった。
「どうだ、学校の様子は」
 ほとんど感情を持たない声が携帯から聞こえる。
「転校早々、見つけたわ」
「……ほう、で?」
「例の拳を使った。遣い手の名前は西村夕。ナンバーはG」
「……Gだと!?」
 驚いたような御厨の声が返ってくる。
「Gだと、何かあるの?」
 しばらくの沈黙の後、御厨は答えた。
「俺がそこにいるとふんだのは、そいつじゃない。もっと別のやつだ。タイプも多分お前が今日戦ったやつより新しい」
 今日の相手、西村夕も、実戦経験の少ない彼女にとっては手強かった。けれど、まだ序の口なのだ。
「まだしばらく、そこにいる必要がありそうだな」
「わかった」
 確かに、まだ始まったばかりなのだと自分に言い聞かせて、亜夜は言葉を返した。
「強くなれ、亜夜。今以上にもっと。……期待してるいよ。我が妹よ」

 ……同刻。
 亜夜の住んでいる町の、とある公園のベンチでも、やはり一人の少女が携帯で話をしていた。紺のブレザーに、バーバリチェックのネクタイ。傍らにはブティックのものらしき紙袋が置いてある。どうやら学校帰りに寄って買ったもののようだ。
 シャギーの入ったショートカットを揺らしながら、彼女は携帯に向かって言った。
「やっぱり失敗しちゃったみたい。ダメだよ、アイツ」
『フ、彼女には最初から期待はしていなかったさ、ただダメージくらいは与えられるだろうと思ったんだが……。<あの御方>のお怒りに触れる前に、Yuuは始末しなければならないだろうな』
「ふーん、でも面白いなぁ。あの転校生の御厨ちゃんがねぇ……。あたしにはそんな風に見えなかったけどなぁ」
 電話先の相手の話をろくに聞かず、一方的にしゃべりだす。
 フラフラと酔っ払いが少女のいる所にやって来た。しかし、彼女に触れることなく、男は近くの噴水にまで吹っ飛ばされた。
 何事もなかった様に無邪気に、彼女は言った。
「……ねえ、その役、今度はこの有紀ちゃんに任せてよ! もちろん、失敗するわけないじゃん」
 くすくすと笑いながら電話をしている女子高校生の後ろに、次元のひび割れを見出せる者は誰もいなかった。

執筆:Kan

つづく