4 うるさい猫
前日の雨は嘘のように上がっていた。舗装道路には水溜まりすらなく、春の心地好い風は街路の木々を優しく洗い流していた。
その風に逆らうかの如く、銀にきらめく鋭角なボディを持つ一台のバイクが街を疾走していた。バイクはいくつかの交差点を横切り、しばらく走るとひとつのアパートの前に停まった。バイクから下りた男の細い身体、長い脚、グレーのジャンパー、ヘルメットの下の無精髭、ぼさぼさの髪……。
「飯島のあほが。受話器外しっぱなしで寝やがったな」
雪崩山はヘルメットをかついで鉄製の階段をゆっくりと上がり始めた。ぎしっ、みしっという実に嫌な音を立てる階段に一抹の不安を感じながら、それでも雪崩山はその歩みを止めなかった。階上に着き、彼は行き慣れた道のりを辿ってひとつのドアの前に立った。
「飯島ぁ、起きろ。居留守を使っても無駄だぞ。鍵なんか掛けたって俺には関係ないんだぜ」
そう言って雪崩山はドアノブに手を掛けた。
鍵は掛かっていなかった。
そっとドアを開け、雪崩山は覗き込むように中に入る。飯島が何の返事も返さないのが、雪崩山にとって非常に不気味であった。玄関口からでは部屋の中の様子は掴めなかったので、雪崩山は飯島の許可を受ける前に部屋に上がり込んでいた。
飯島の部屋は2DKである。彼はその一つを寝室に、もう一つを仕事場に使っているのであるが、台所に面した仕事部屋の方はカーテンで、仕事部屋と寝室は襖で仕切られていて、どちらも現在の雪崩山のいる位置からでは人間の所在は知覚不能であった。雪崩山は、後で飯島に叱られるのを承知で、カーテンを勢いよく開けた。
「やっぱり寝室の方か」
仕事部屋に飯島の寝姿はなかった。雪崩山は更にずかずかと進み、寝室の襖に手を掛けた。
「あれ」
そこにも飯島の寝姿はなかった。広げられた布団と脱ぎ捨てられた寝間着、ブリキの洗面器と濡れたタオルから見て、飯島は昨日は熱を出したかして寝込んでいたのだと雪崩山は直感した。どうせ風邪でもひいたんだろうなどと勝手きわまりない想像をしている雪崩山の背後に、いつもの明るい声が響いた。
「なんだ、下のGSXやっぱりお前のか、雪崩山」
コンビニの袋を下げた飯島であった。
「名東が泣いてたぞ。昨日行かなかったんだってな、セレファイスに」
自分が質問しようとしていた事項を先に言われてしまい、雪崩山は一瞬我が耳を疑った。飯島はコップにコーヒー牛乳を分けつつ、雪崩山に目をやっていた。時計が軽い音を立てて九時を知らせた。開け放たれた窓から、春の心地よい風が二人の間を流れていく。
「そういうお前はどうなんだ? 飯島」
元々クールな雪崩山は、その程度の焦りを顔に出す人間ではなかった。逆にその矛先を返された飯島は、何となく話し辛いといった表情を表していた。冷えたコーヒーを軽く飲み干すと、サンドイッチの包みを開きながら飯島は語り始めた。
「話せば長くなる。どこから話してよいものやら……」
雪崩山もコーヒーを一息で飲み、次杯を要求しつつその話に聞き入っていた。
飯島の話は実に分かり易いものであった。彼は事実の順番を決して違わず、順序立てて全ての出来事を話したのである。その話題が山崎里美との出会いに入った時、初めて雪崩山はその口を挟んだ。
「え……山崎里美って、あの夜のあの娘、か?」
「そう。あの娘、ウチの大学の学生だったんだよ」
飯島は少々ためらいつつ、その話題を中華料理店・白楽天での出来事に移した。
「何だって? 彼女が能力者だって? 冗談だろ、おい」
雪崩山が吹いたコーヒーが点々と畳に散るのを横目で見ながら、飯島は無言で頷いた。雪崩山は超能力者のことを能力者と呼ぶ。それが何故かは知らないが、超能力者という語感が一般人の耳には異常なもの、マンガチックなものとして捉えられることをよく知っているからであろうと飯島は思っていた。
「白楽天にある政木式フーチパターンで見たんだ。ほら、横に長い列のパターンが出たんだよ」
その言葉に雪崩山は否定的な見解を示した。
「しかしな、あれは被験者の精神状態を見るものであってだな、決して能力の有無を見るものではないんだぜ。それにな、横に十五センチも幅のある円を描くような性格の激しい娘じゃないよ、彼女は」
横に長い楕円を描く、いわゆる超能力者のパターンは、奇人変人で他人との協調性に欠け、決して人付き合いのよい人間のパターンではない。女性の理想的なパターンは、真円に近いものなのである。雪崩山の思い違いでなければ、山崎里美は決して超能力者のパターンが出る少女ではなかった。
「それにお前の話じゃ、彼女は自分が能力者であることを否定したそうじゃないか。多分彼女はその時精神が乱れていたんだよ」
飯島はなんとなく雪崩山に説得されてしまっていた。確かに里美にあのパターンが出たのはおかしい。きっと自分が実験の前にしゃべったことがかなり精神にきていたのであろう。しかし……。
「じゃあ、俺のパターンは一体どうなるんだ?」
「何だよそりゃ」
雪崩山は飯島の口から、さらに信じられない言葉を聞いた。
「神格、だぁ? お前が? 何で」
何でと言われても、答えられない。飯島はその口を閉ざした。雪崩山はいつの間にやらサンドイッチを頬張ると、飯島のその目をじっと見つめた。彼は飯島のその目の中に、自分の信じられない事柄を相手に信じてもらえるだろうかという疑念の色を見出し、ヘルメットを膝の上から畳に下ろして聞く態度を示した。
「俺にだって信じられないさ……でも、事実なんだ。彼女が試した後、俺もフーチをやったんだ。そしたら、フーチはぴくりとも動かず……彼女も、おやじさんも見てる。本当だ」
飯島の顔はわずかに蒼白になっていた。彼はその後不覚にも気絶同様となり、里美とおやじに担がれてこのアパートに戻ってきたのだ。飯島洋一、一世一代の不覚である。
勿論、雪崩山にはそんなことは分かろうはずもなかった。彼は彼なりに、飯島のショックは理解出来るつもりでいたのだ。ただ、飯島に神格が出たことは、里美が超能力者であるということ以上に信じ難い事柄であった。
「それこそ信じられん。お前に神格が出るなど。あれは精神がどういう状態であろうと、滅多に、いやまず出るもんじゃないぞ」
もっともだ、と飯島も思った。実際にこの目で見た自分にでさえ、信じることが出来ないのだから。
「ま、とにかく養生しろ。あ、そうそう、明日昨日出来なかった新入会員獲得検討会を〈光の都〉でやるから出て欲しいんだけどな。無理にとは言わんがな」
そう言って立ち上がる雪崩山に、飯島は虚ろな視線を投げかけた。
「おい、もう行くのか? ゆっくりしていけよ」
そんな飯島の言葉を遮るように、雪崩山は言った。
「二限があるんだよ。もし来れるようなら、〈光の都〉に電話してくれ。多分五時くらいにはいると思うから。くれぐれも身体を大事にしろよ」
雪崩山は階段を下りながら、今までに得た情報の全てを再構成していた。飯島がそんなに手の早い男だとは知らなかったが、山崎里美の件は少々探りを入れる必要があるな……彼女がもし本当に能力者ならAPにスカウトするもよし、もし違っても元々である。今日は学校に行ったら、まず彼女に接触してみよう──そこまで考えた時、不意に嫌な声が雪崩山の耳に入った。
──猫か?
階段を下りきった所で辺りを見回すと、建物の影で一匹の真っ白な猫がうなっているのが目についた。何かに脅えているのか、その身体は攻撃体勢を取り、しきりに雪崩山の死角に存在する何かに向かって嫌な声を上げていた。
「猫よ、何がいるんだい?」
雪崩山の声に驚いたのか、猫はその場から走り去ってしまった。何気なく猫の見ていた方向を覗いた雪崩山の視界に、一人の男が入った。全身真っ黒──黒いスーツ、黒いズボン、黒い山高帽、黒い靴──の背の高い細い生っ白い男!
「!?」
その男は、雪崩山の目の前で背景に溶け込むように姿を消した。雪崩山は男の消えた場に立ち、アパートの壁面と隣のビルの壁面とを見比べながら、考えた。
──テレポーターか。
何のためにここにいたのか、何故自分の目の前からテレポートという人に見せてはならない方法で姿を消したのか……雪崩山の頭は少なからず混乱していた。その頭の中には、里美のことなどひとかけらも残ってはいなかった。
腰までかかる長い黒髪をなびかせながら、石原麗子は学生ホールを歩いていた。今日はE研の部会がある日だが、昼食を済ませた彼女は暇を持て余していた。この後授業はないというのに、部会は六時からなのである。誰か話し相手はいないかしら……麗子の視線が四方に舞った。
「今日は確か勇次クン二限があったはずだけどなぁ」
きょろきょろと辺りを見回す。その仕種はどちらかというと少女っぽさを感じさせる。彼女のパンプスが軽い音を立ててホールの床面を蹴ると、ホールにたむろしている男どもが皆振り返る。それほど彼女は人目を引く魅力の持ち主なのであった。
そんな彼女に背後から声をかける男がいた。
「麗子くん」
その呼び方をする男はこの世に一人しか存在しない。麗子は誰が自分を呼んだのか、振り返る前に分かっていた。E研の部長、広樹和義である。
「今日の部会で新入生獲得会議を開きたいんだけど、何かいい情報は入ったかな?」
振り向くと同時に、麗子は首を横に振った。長い髪がまとわりつく。そうか、と小さく溜め息をつくと、広樹は麗子の横に立った。麗子は決して小さな女性ではないが、広樹の横に立つと随分小さく、華奢に見えた。
「今年はきついみたいよ。APの方もそれで悩んでるみたいだし」
「あいつらのことはどうでもいい。問題は我々の方に新入生がいないことだけだ」
その言葉に麗子はむくれた。広樹は悪い男ではなかったが、APに対する激しいまでのライバル意識の持ち主であった。それは雪崩山に恋する自分としては是認出来ない部分でもあった。しかし広樹はぷぅっと膨れた麗子の頬を何を勘違いしたのか人指し指で押し、ふふっと笑った。
「ま、いいさ。ところでこの後お暇かな? 昼食は」
「済ませた」
「じゃ、食後のお茶にでも」
残念ながら、麗子に拒む理由はなかった。雪崩山と約束があった訳でもなく、午後はどうせ暇を潰さねばならなかったのである。それに今後のE研の活動についても広樹とはじっくり話し合わなければならなかった。
「誰かと約束でもあるのかい?」
「いいえ」
「じゃ、地下の喫茶室にでも行くか」
二人はゆっくりと歩き始めた。広樹はその途中、色々なことを話しかけてきたが、麗子はうわのそらで返していた。E研の仕事以外では、広樹は麗子の興味の範疇外であった。同じサイコキノでありながら、雪崩山と広樹では比べようもなかったのだ。
確かに二人ともあまり明るい男だとは言えなかったが、広樹には女性に対する理解というものが全く見られなかった。麗子は仕事でなかったら絶対にこんな男とは付き合わないだろうと思いながら、階段を下りていた。
不意に広樹が顔を近付けてきた。後退る麗子に広樹は、思い出したかのように言った。
「時に、雪崩山とはうまくいっているのかな?」
麗子は階段の途中で身動きが出来なくなった。この男は何故知っているのか? まだ誰にも話したことすらないというのに……。動揺する麗子の肩に手をやりつつ、広樹は押さえつけるように言った。
「何で知っているかって言いたいんだろう? 君のことなら何でも知っている……いや、雪崩山のことなら、ライバルのことなら何でも、かな」
まるで麗子の弱味を握ったことが可笑しくてたまらないといった表情で広樹は、麗子を喫茶室まで導いた。
APに対して常に和親的態度を取り、自分よりも部員から絶大なる支持を受けている麗子を押さえ込み。よりE研の結束を強固なものにしてAPに負けない力を備える──これが広樹のE研存在の、そして部長広樹和義存在の理論であった。
この理論に基づいて構築されたE研こそ、永遠のライバルである雪崩山率いるAPに打ち勝つことの出来る唯一のものであり、E研内を自分の元に統一するためには、自分より人気のある麗子を押さえる必要があると、広樹は本気で信じていた。
「ま、じっくり話し合おうじゃないか。今後のことについて……部のこと、勿論君自身のことも」
そう言って広樹は喫茶室のドアを開けた。からんと乾いたベルの音がして、中の店員が振り返った。
空いている席を捜す広樹の視界に、嫌なものが目に入るのにはそう時間はかからなかった。
「よぉ広樹。元気そうだなー、どうだい調子は」
「な……」
二人の視線が絡まった。麗子は雪崩山に声をかけることすら、ためらった。彼女にも、この険悪な「気」の流れが体感できたからである。
広樹は僅かに後退った。雪崩山は傍らに麗子を見つけると、一層激しく広樹に「気」をぶつけた。その「気」の力は予想以上に凄まじく、知らず知らず周りの学生たちは店を出ていってしまっていた。
「広樹、俺は今考えることが沢山ありすぎてお前の相手はしてやれない。このままおとなしく麗子を置いて出ていけ。それが身のためだ」
鬼気迫る雪崩山の台詞に、広樹はただならぬものを感じていた。まるで今さっきの自分の浅はかな考えを嘲笑しているかのように、彼には感じられたのである。麗子が雪崩山の女だからといって、それが何だと言うのか。広樹は雪崩山の意志とは全く無関係に、自分の行動を恥じた。
「分かった。麗子くんは君に預ける。しかしな、雪崩山。俺は負けないぞ。勝敗は今年度の新入生の数でつけよう。じゃあな。麗子くん、さっきは悪かった。部会は六時だ、遅れないようにな」
一気にそう言うと、広樹は喫茶室を後にした。雪崩山はぽかんとしている麗子に尋ねた。
「何なんだ? ありゃ」
「さあ……ところで勇次クンは何をそんなにおーまじめに考えてるわけ?」
「お前に言ってもあんまり関係ないだろうな」
麗子はむくれて、雪崩山の隣に座った。雪崩山は露骨に嫌がった。いくら店内に客がいないからといって、E研の連中やAPの連中がやって来ないとも限らないのだから。
「やめろよ。分かってるだろ? 俺とお前の関係は」
「広樹は知ってたわ」
その言葉に雪崩山は驚愕を感じた。広樹が何故知っているのだ? 本能的に雪崩山は麗子に聞き返していた。麗子は喫茶室に来るまでの出来事を細かく伝えた。事実は事実として。雪崩山の頭の中は再び一掃された。すでに黒づくめの男のことは、彼の頭の中には残されていなかった。
「考え事がまた増えたか……」
雪崩山は真剣に、麗子をAPに迎え入れる方法を考えていた。
「こんにちはぁ」
明るい声が部屋中にこだました。ワープロを打っていた飯島は、予想外の出来事に思わず背筋を伸ばしていた。恐る恐る後ろを振り向くと、そこには太陽にも似た微笑みを讃えた少女が立っていた。
「山崎さん……本当に来たね」
「約束ですから。いけませんでしたか?」
そこには献身的少女・山崎里美のミニスカート姿があった。確かに昨日、飯島は倒れて里美に看病してもらった。その時飯島は心ならずも「もしよかったら明日も来てくれないかな」とぽつりと言った覚えがある。言った本人は軽く聞き流して欲しかったのだが、里美はしっかり覚えていて、今日も授業もそこそこに飯島のアパートにやって来たのだ。
「起きてていいんですか?」
大丈夫だよ、と言いながらも飯島は困惑していた。何故に彼女はここまで自分に尽くしてくれるのであろうか。自分に惚れているから? それじゃマンガだよ。自分の発想に笑いが込み上げて制しようがない飯島であった。何にせよ、里美は飯島の世話を実にこまめにこなした。何とありあわせの材料で夕飯まで作ってしまったのだ。これには飯島も感動しないわけにはいかなかった。
「あ、そうだ。明日、俺たちアミューズメント・パーティの集会があるんだけどさ、行ってみない? 面白い連中ばっかりだから心配はいらないよ」
里美は小さくうなずいた。飯島は、その場で里美の超能力が何であるかを知ることが出来るかもしれないと密かに思っていた。勿論根拠らしいものは何一つなかったが、ぼんやりとした何かを感じていたからである。もしかしたらそれは、里美の作った味噌汁のせいだったのかもしれなかった。飯島は久し振りに、幸福というものを満喫した気がした。
「美味いよ、これ」
頬を赤らめながら、里美は微笑んだ。彼女の喜びの表現である。確かに可愛いな、と飯島も思う。尽くされて悪い気はしない。
二人はこの後、九時頃まで何だかんだと言いながら語り合った。その間に少々アルコールが入ったために、逆に飯島は里美をアパートまで送る羽目になっていた。別れ際に翌日の会のことを再確認し、手を振る里美が扉の向こうに消えたその帰り道、飯島は本気でこう思っていた。
「会って一日二日で『泊まっていきなよ』たぁ言えんもんな」
月の綺麗な夜であった。
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