アミューズメント・パーティOnLine

18 秘密のどうくつ


 五六は走った。力の限り、走った。心臓が張り裂けるかと思うほどに、走った。
 手には、鈍く黄金色に光る結界器。
 背後で起きていることは、なるべくなら考えたくなかった。しかし、その脳は酸素不足からくる眩暈にも負けることなく想像力を働かせ、その妄想は膨らむ一方だった。
 五六の背後を追うように駆ける麗子も、その想像を抑えられないでいた。形よく盛り上がった胸が大きく上下するのは、この心配で張り裂けそうな気持ちを代弁しているのではないかと錯覚するほどだ。
 雪崩山は今、翼曽と直接対決している。
 漆黒の巨人と対峙している。
 超常の悪魔と戦っているのだ。
 結界器──〈光の都〉喫茶セレファイスに設置されていた「超常能力遮断装置」。それはセレファイスのマスターであり、アミューズメント・パーティの初代部長だった澤田欣二の発明品である。ピラミッドの如く黄金比を形成する地・水・火・風・空の五つのポイントに設置することで結界を張る装置。敵対する超能力者の能力を遮断し、無力化させるシステム。学園紛争時、今はなき第十二準備室──雪崩山研究室を超能力者の攻撃から守るために造られた、そしてセレファイスを永きに渡ってE研から「見えない」ようにしていたアイテム。
『結界器作戦』は学園紛争時、まさに結界器が設置されていた校内の五つのポイントにそれを設置し、結界の中に翼曽を隔離して〈異次元の色彩〉から彼を分離し、戦いを有利に導こうという作戦である。
〈異次元の色彩〉によってその力を増大させ、今また精神の崩壊から復活した漆黒の魔神を倒すには、それしかないのだ。
 五つのポイントは麗子が澤田から訊き出し、メンバーはそれぞれそこに向かって走っている。
 駆け出した彼ら──五六、藻間、麗子、名東、瀬川、藻間に腕を引かれたイグ──はすぐに空間分離されていた他のメンバーと合流した。五六と麗子の指示で、彼らは四つのグループに分かれ、ふたたび走り出していた。
「地」に五六と麗子が。
「水」に瀬川と名東と小川が。
「火」に加藤と割澤が。
「風」に藻間とイグが。
 地・水・火・風の四ポイントは、総て校舎の一階にある。風はグラウンドの一角になるが、位置的には地上一階の高さである。しかし、空のポイントだけは校舎の四階にある。頂点の部分だから、高階層に位置するのだ。地上四ポイントを設置後、空の結界器を雪崩山が設置し、結界の内部で飯島と里美の〈神格〉が翼曽を押しつぶす──それが『結界器作戦』の全貌だ。
 しかし、それにはリスクも大きい。
 分身が使えなくなった今、翼曽が多方面に同時攻撃をすることは難しいだろう。地上の四ポイントに結界器を配置することは、作戦起案当初よりは容易になったと見ていい。
 しかし、問題はある。
 空のポイントに結界器を設置するのは、作戦では雪崩山の仕事である。しかし、彼は今、翼曽と対峙している。雪崩山が結界器を持って走ることは、すなわち翼曽を結界空間から逃がすことを意味する。飯島がテレポーテーションを自由に使えれば設置は容易だが、〈異次元の色彩〉の影響で転移距離に制限を持たされている彼には荷が重い話だ。第一、飯島と里美は〈神格〉を発動させるためには離れられない。
 さらに根本的な問題がある。確かに飯島と里美の〈神格〉は麻都を破り、翼曽を一度は退けた超常能力である。今までの経緯から、その能力は密閉された空間で最大の力を発揮できると推測される。しかし、その力を彼らの意志で発動させたことは一度もないのだ。この『結界器作戦』が、彼らにとって初めての、自らの意志で〈神格〉を発動させる場となる。
 しかし、それが本当に可能なのか?
 自らの意志で〈神格〉を発動させることは本当に可能なのか?
 岩崎医師らに指摘された「命を削る行為」を、飯島も里美も発動することができるのか?
 そこまで考え、五六はかぶりを振った。考えても意味がないのだ。正解など判らない。誰にも判らないのだ。麗子もまた、頭の中は疑問で渦巻いていた。翼曽の前で無力に倒されていく飯島や里美や雪崩山の姿を瞬間的に想像してしまう自分を否定しながら、二人はひた走りに走った。
 教務課の裏手、ロッカーのある一角──その柱の下に小さな扉を見つけるのにさして時間はかからなかった。五六は扉の小さな取っ手を荒々しく引く。ぼこっという鈍い音とともに埃が巻き上がる。素早く中の空間に結界器を設置し、扉を蹴って閉めた。
 五六は顔を上げて麗子の表情を見た。彼女が自分と全く同じ心境でいることが、手に取るように判る。
「戻ろう、石原さん。やっぱり心配だ」
 その背後で、柱の下から発動機が唸るような起動音が聞こえる。
「勇次クン……!」
 五六の言葉に応えることなく、麗子は再び走り出していた。


「すまねえ……もう走れねえ。先に行ってくれ」
 瀬川が廊下に膝を突いた。翼曽に吹き飛ばされたときの痛みが全身に戻ってきていた。日ごろの運動不足も祟ってか、もう立ち上がる気力も残されていない。
 走っていた小川が足を止める。名東も足を止めたが、小川がそれを制するように叫ぶ。
「名東くん、もう翼曽の分身は来ないと見ていい。君だけで走れ! そして、必ず結界器を設置してくるんだ!」
「判りました、小川さん! でも油断はしないで……」
 語尾をはっきり発音する前に、名東は駆け出していた。小川はその背中を見守ると、おもむろに振り返り、廊下の壁に背をもたれかけている瀬川を見た。
「すまねえな……足手まといで。まさか、こんな命がけのおおごとだとは思ってもみなかった……」
「言うな。仕方ないさ。俺だっていまだに半信半疑だ」
 煙草に火をつけると、紫煙を吐きながら小川は言った。
「安っぽい言い方かもしれんが……運命ってやつかもな」
「運命?」
 額に汗を光らせた瀬川が、煙をよけるように身体をひねって小川を見やる。
「ああ。今の人間が忘れてしまった、生きるか死ぬかの瀬戸際……ファイト・オア・フライトの瞬間……非現実的だと思っていた超能力による犯罪……そして自分がその運命を背負っていると気づいた瞬間……」
「相変わらず哲学的だな」
 瀬川の皮肉に小川は苦笑いの表情を作る。煙草から灰がぽとりと落ち、廊下に張られたリノリウムが僅かに焦げる。
「哲学なんてもんじゃないが……もっと人間って楽に生きていけるもんだと思っていたよ。つい先日まではな」
「それは同感だね。俺なんか、つい数時間前まではそう思っていたよ」
 小川も背を壁にもたれかけさせた。同時に、瀬川はずるずると座り込んでしまう。煙草をくわえたまま、小川は続けた。
「俺たちも普通の人間から見れば、一種の化け物だ。魔術師だ。隠さなきゃならない能力がある。それに疲れた時期もあった……」
 ぽん、と吸い殻を投げる。吸い殻は廊下に設置してあった吸い殻入れの胴体に当たり、床に落ちてしまう。小川はゆっくりと壁から身体を離し、吸い殻に近づいていった。
「だが、飯島くんや山崎さんを見ていて、少々気持ちが変わった。というか、偏屈な自分に気づかされた、と言うべきか」
 吸い殻を拾い、赤い缶に投入する。じゅっと、缶の中の水が応えた。
「こういうのを青春って言うんだなあ、ってさ」
「……おっさんか、お前?」
 瀬川の眉間に皺が寄った。構わず、小川は続ける。
「〈雷羅〉がどんな組織なのかは判らん。だが、そういう存在があることを知ってしまった。超能力を悪用する人間が集団で存在することを、な。自分がそんな非現実的な争いに巻き込まれるなんて、思いも寄らなかった」
「俺はいまだに信じられないね。自分の力だって催眠術に毛が生えたようなもんだと思っているし」
 そう言いながらも、小川の物言いに瀬川は苛つく自分を見ていた。小川はこの騒動を、自分より早い段階で体験している。自分は蚊帳の外だった。飯島も雪崩山も、自分には何の相談もなかった。E研である小川には話をしておきながら、なぜ直接の先輩である自分には何も話さなかったのか?
「後退催眠か……瀬川、お前の疑問と憤りはよく判る。だがな、事はAPとE研のいざこざのレヴェルを超えてしまった。〈雷羅〉のことさえ知らなければ、こんな生きるか死ぬかの世界に足を突っ込まなくてもよかったんだ」
 小川は二本目の煙草に火をつけた。今度は吸い殻入れのある壁面によりかかる。瀬川は再び眉間に皺を寄せた。
「また無断で俺の心を読んだな」
「読まなくても眉間の皺で全部判るよ」
 紫煙を吐きながら、小川は応えた。
「もう、普通の生活には戻れないぞ……逃げ出したら、それこそ寝覚めが悪くなってしまう」
「全くだ。この事件が解決しないと……」
 瀬川はここで言葉を切った。事件が解決? それは何を意味するのか? 目の前の驚異──翼曽通が消え去ってしまえば終わりなのか? 組織──〈雷羅〉は山崎里美を狙っている。翼曽を退けたところで、第三第四の刺客が来ないという保証はない。いや、むしろ来ないほうがおかしい。では、事件が解決とはいったい……。
「その通りだ。我々が安らぎを完全に取り戻す方法は二つしかない。山崎さんを〈雷羅〉に引き渡して自らの記憶を封印するか、戦い続けて最終的に〈雷羅〉を潰すか、だ」
「だから俺の心を勝手に読むなって!」
「すまんすまん。でも、そんなに気持ちを外に放射していたら、読みたくないものまで読めてしまうぞ」
 小川の物言いに、再び瀬川は苛ついた。
「……小川、一本くれ」
「珍しいな」
「煙草でも喫わなきゃ、冷静になれん」
 小川はラッキーストライクの箱と使い込んだジッポを瀬川に投げた。
『小川さん、結界器、無事にセットできました!』
「ご苦労さん、名東くん。まださっきのところにいるから、戻ってきてくれ」
 紫煙を吐いて呟く小川に、瀬川はぼそっと言った。
「……えらいキツい煙草喫ってんなあ、お前……」
 瀬川は人生で、最初で最後の煙草を喫った。


『やったな、名東』
『おう、そっちの方はどうだ?』
『それがな、設置場所まで来たんだが、肝心のセットポイントが……』
「割澤、もうちょっとそっち行けないか?」
 加藤のその声で割澤は名東とのテレパシー通信をいったん閉じ、声の方に向き直った。
「あ、すいません、まだ行けますよ」
 割澤と加藤は学生食堂に通ずる階段前に来ていた。麗子から訊いた設置場所は階段の踊り場の壁──だが、そこには学園紛争当時にはなかった巨大なロッカーが置かれていた。何が入っているのか不明だが、そのスチールの鍵のかかったロッカーは重く、大学生男子二人の力を持ってしても簡単に移動できるものではなかった。
「割澤、名東たちはどうだった? もし終わっているなら、この重たい荷物を動かす手伝いに来てもらえないかなあ……俺たちだけじゃちょっと無理っぽいや」
 加藤にしては弱気な発言だが、この『結界器作戦』を完遂するためには時間を惜しまねばならない。僅かなミスが命取りになる可能性があるからだ。
「判りました。連絡してみます」
 割澤は言うと、素早く名東のチャンネルに語りかけた。
『名東、すまない。こっちはセットポイントに邪魔物があって、二人では動かすことも難しいんだ。手伝いに来られるか?』
『オッケー。小川さんと瀬川さんに会ったら、さっそく行くよ』
『え、小川さんと瀬川さんに会ったらって……一緒にいるんだろ?』
『瀬川さんがへばっちゃって、途中で小川さんと別れちゃったんだ。俺は一人だよ』
『大丈夫か? 瀬川さんも心配だけど、君のチームには攻撃型サイコキノがいない。それがさらにばらばらになっちゃって……』
『大丈夫さ、結界器の設置までの間に邪魔が入らなかったってことは、翼曽はもう分身を使えないって証拠だし、設置して起動した結界器を翼曽の分身が取り出すことも不可能だろう』
『君はいつも冷静だな』
『おまえに言われたくないね。危ない橋は渡らないくせに』
『僕は自分をそうやっていつも塗りつぶして生きてきたからね。そう簡単には直らないよ』
『おやおや、その性格を直す必要はないんじゃないの? 冷静沈着、寡黙にして知恵袋。APの懐刀はそうやってどっしりと構えていればいいじゃん』
『そう言ってくれるのは君だけだよ。僕は暗い、要らない知識しか持たない役立たずの人間さ。君のように楽天的に生きられたらどんなに楽しいことか』
『よく言うよ。俺のどこが楽天的なのさ? 俺はただのお調子者さ。深い考えもない、自分の考えもない、人からはいいように使われる、一生誰かの下っ端の人間さ。でも、俺はそういう自分の位置が大好きなんだけどね』
『本心か?』
『これだけ深層まで意識を繋ぎあっているんだ。嘘も本心もあるかい。それくらい、お前だって「感じて」るだろ?』
『君は幸せだ。本心を言うことができる。僕は君のような親友にまで、心の最後の鍵を開けようとしない』
『ばーか。そんなのあったり前だろ? テレパスは人の心を「読んでいい」人種じゃない。「読めちゃう」人種だ。そんな神の傲りを許しちゃいけない。俺たちは「心泥棒」なんだから』
『そこまで開き直れる君がうらやましいよ』
『開き直るっていうか、深層テレパシーで開き直るもくそもないんだけどな』
『僕はきっとそんな君に憧れているんだな。僕にないものを持つ、明るいテレパスの君に。僕はネガティブだ。テレパスであることに気づいたとき、この能力を呪った。他人が抱いている自分への悪感情を敏感に察知してしまうこの感覚が大嫌いだった。親と離れて、兄貴の下宿に居候させてもらったのも、実際親が僕のこの能力を薄気味悪がっていることを知ってしまったからだし……』
『テレパスが迫害されるのは世の常だからな。気にするなって』
『でも、理解者は周りにいなかった。兄貴を頼って東京に出てきて、大検を取って受験するまでの2年間は悪夢のようだった。兄貴は表裏のない性格だったからよかったが、それ以外に他人と会話することすら遮断していたんだから』
『だから身体が弱いんだな。もっと陽の光を浴びなきゃ』
『確かに、体内のビタミンDをエステゴリンに換える作業は怠っていたな。でも、大学に入ってAPの存在を知り、君と出会ったことで僕の人生は180度変わった。初めて共感できる人間に出会えたんだから』
『なんだかこそばゆいな。確かにテレパスがテレパスと出会える確率なんて、めちゃめちゃ低いだろうけど。でも、俺はたとえお前がテレパスでなかったとしても、きっと友達になってたと思うぜ』
『なぜそんなことが言えるんだ?』
『そういう巡り合いなのさ。親友ってやつはどっかでつながっていて、引かれあうのさ。こんなふうにな』
 最後の「こんなふうにな」が耳から聞こえたような気がして、割澤は振り向いた。そこには、息を切らせて走って来た名東が立っていた。廊下の端には小川と瀬川の姿も見える。
「すまんな名東、手伝ってくれ!」
 加藤の指示が踊り場に反響した。


「疲れた?」
 藻間はイグの様子に今さらながら気づいた自分に嫌悪感を感じた。イグは真っ青な顔色で、肩で荒く息をし、その額は冷や汗でびっしりと覆われていた。こんな都合のいい台詞を吐いて彼女に自分を「いい人間」に見せてどうする? 
 藻間とイグの向かう結界器の設置場所「風」は、校舎から出たグラウンドの一角にあった。学園紛争時には建物があった場所だが、いまはそこには芝生が植えられ、人の訪れることのない静寂な空間となっていた。
「大丈夫です……大丈夫だから、走って……」
 呼気荒くイグが応える。ちいさな胸が膨縮を繰り返している。藻間のストロークの長い走りについて走ったからだけではない。ナグの施した邪封印の痛みも影響している。
「すまない……君は休んでいてくれ。俺は行かねばならない」
「いやっ!」
 その言葉に弾かれたように、イグは跳躍して藻間にすがりついた。少女のちいさな身体が取りついた程度では藻間の巨体はふらつきもしないが、さすがにその走行速度は低下した。藻間は仕方なく歩みを止め、イグを見る。
 おおきな眼が涙でいっぱいだった。
「お願い、離れないで……ひとりにしないで……頑張って走るから……走るから……」
 哀願する少女に、藻間は驚きを隠せなかった。
「もう帰るところもない……ひとりになったら、きっとナグが私を殺しに来る……それが〈雷羅〉の掟……亜邪神の宿命……」
「〈雷羅〉……亜邪神……」
 イグは泣きじゃくった。髪が乱れ、額に貼りつく。宿命に躍らされた少女は、初めて感じた暖かい胸の中で思いっきり泣いていた。
「守って、藻間さん……私を守って……」
 藻間はいつしか、イグを抱きしめていた。
「やつらはいったい君に何をしたんだ? イグ……可哀想なイグ……」
 抱きしめあうにはあまりに身長差の大きなふたりだったが、その心はお互いを包みあっていた。藻間の手の中で、結界器が太陽の光を受けて鈍く光っている。
 風が吹いた。生暖かい風だ。不吉な予兆を乗せて吹く南風だった。イグの右の掌に刻印された赤黒い逆五芒星に熱がこもる。不意に空間が引き裂かれ、イグに瓜二つの、ショートカットの少女が顔をのぞかせる。
「お姉さま、ご覚悟はよくって?」
「ナグ!」
 イグはその声に驚き、縮こまってしまう。藻間は裂けた空間を凝視し、手にした結界器をかざすと大声で叫んだ。
「イグは渡さん!」
「あらあら、ナイトぶっちゃって。みっともなくてよ、藻間さん。お姉さまも、もっといい男を選べばいいものを」
 ナグはひとつ悪態をつくと、空間の裂け目からするりと抜け出し、グラウンドの土の上にそのエメラルドグリーンに輝く爪先を降ろした。
「ご心配なく。あたしはイグを殺す権限を持っていないわ」
 ナグは意味あり気な微笑を湛えて言う。
「亜邪神を殺す権限があるのはおじいちゃんだけ……」
 ナグは手ぶらだったはずの左手を藻間に向ける。そこにはいつの間にか、古書が握られていた。藻間の視線は古書とナグを行き来する。
「あなた方は知りすぎたわ……おじいちゃんの考えとはちょっと違うけど、やっぱり死んでもらったほうがよさそうね。亜邪神は殺せないけど、人間は殺せるわよ」
「殺す……そんな可愛い口から出る言葉じゃないな……今まで何人の人間をそうやって殺してきた?」
「あら、心外ね。あたしはブレーンよ。本当はこんな現場に来る立場じゃないの。殺すって言ったのは言葉の綾よ。実際に動くのはコ・マ」
 声にならない声で嗤う目の前の少女に、藻間は次第に怒りの沸点を上げていく。超能力を悪事に使い、服従しない人間は平気で殺してきた〈雷羅〉──そこから逃げ出してきたイグもまたその毒牙にかけられてしまう──藻間の語気は荒くなる一方だった。
「コマだと? 殺人の手先か! お前が指示すれば、麻都や翼曽のような人間が人殺しをするというのか? いったいお前たちの目的は何だ? 山崎さんを手に入れてどうするつもりだ?」
「だから、質問はナ・シ。〈写本〉の呪願で死にたい? それともあたしに亜邪神として使われて、第二の人生を歩みたいのかしら?」
 ナグの眼がきゅーっと細められた。麻都や翼曽と同じ、亜邪神独特の悦びの表情だ。
「第三の亜邪神のためのボディを探していたのも事実だしね……あなたに蓮透を降臨させましょうか……」
「やめて、ナグ! この人には手を出さないで!」
 藻間の胸の中で縮こまりながらも、イグは渾身の力を振り絞って言った。イグには想像できたのだ。藻間が苦しみ、今の人格を封印され、そこに別人格を埋め込まれる様が……亜邪神に改造されてしまう様が……。
 イグはこわばる身体をゆっくりと解きほぐすように深呼吸し、そっと藻間から離れた。足下がおぼつかないのは走ったことによる疲労か、邪封印による束縛か、あるいは恐怖のためか。
「ナグ、もうやめよう……おじいちゃんのしていることはおかしいよ……能力者狩りなんか繰り返しても、亜邪神が使えるようになっても、やっぱりおじいちゃんの言っているような世の中にはならないよ……」
「あら、どの口がそんなことを言うのかしら。もう何年おじいちゃんの側にいて、何人の能力者の命を吸ってきたのかしら? 亜邪神イグ!」
 ナグは訊く耳を持たない。イグはその言葉に怯みながらも、言葉を切ろうとはしなかった。
「いいえ、私は自分の罪を見なかったことにして欲しいなんて言わないわ! 確かにあなたも私も亜邪神、おじいちゃんに忠誠を誓った身よ。でも、やっぱり無理よ! 理想なんて! おじいちゃんはおかしいのよ! 邪神復活なんて不可能だわ!」
「まだ言うの? あなたもその邪神の出来損ないだってことを忘れないことね。もう普通の人間じゃないのよ。ねえ藻間さん、あなたもイグが人間だったらあなたよりずーっと年上だって言ったら嫌でしょ?」
 藻間はナグの言葉を瞬時に理解できないでいた。ナグはいったい何を言っているのか? このちいさな女の子が自分より「人間として年上」? どういう意味か?
「亜邪神は歳をとらないわ。あたしもイグも、あなたよりずーっと永く生きているのよ。あたしが降ろした亜邪神はまだまだ不完全だけど、おじいちゃんが降ろしたイグとナグは、おじいちゃんがこの〈写本〉を消滅させない限り、永遠にイグとナグのままなのよ」
 髪に手を入れ、かるく掻き上げる。少女特有の芳香が周囲に発散される。ナグはその香りを愉しんでいるようにも見えた。
「ナグ! だったら〈写本〉を焼いて! もう耐えられない! 私たち、姉妹でしょ?」
「お姉さま、お忘れ? 双子の姉妹なのはイグとナグ。いまやイグの力を封印されてしまったあなたとは、もう姉妹でもなんでもないのよ」
「違う! ナグ、忘れたの? あなたは私の双子の妹──」
「忘れたわ。いったい何十年前の話をしてるの? こんなことなら、記憶のある亜邪神なんておじいちゃんも作らなければよかったのに。余計なことを考えるばっかりだわ……さあ、遊びの時間はおしまい。結界器を出しなさい。それとも二人で天国にハネムーンと洒落込む?」
 ナグは古書を紐解く。あるページで右手がぴたりと止まった。細い指が文字をなぞる。その可愛らしい口から、表記不能な言葉が紡ぎ出される。
「藻間さん、逃げて!」
 イグが叫ぶ。しかし、藻間は動じなかった。視線を一瞬だけ、グラウンドの一角──芝生のなかにある百葉箱に向ける。そして、再びその視線をナグに向けたとき、事態は一変していた。
 藻間の手の中にあった結界器は消失し、かわりにそこには古書があった。
「な……ッ!」
 ナグは、その手の中から忽然と消えた古書の行方に驚愕し、イグは泣き顔から一変して破顔していた。藻間のアポーツが、ナグが呪文を読む無防備な瞬間を逃さなかったのだ。
「ナグ、結界器はセットした。こうして〈写本〉とかいう本も俺の手の中だ。形勢逆転ってとこかな」
「藻間さん!」
 イグは藻間に飛びついていた。この最大のピンチに、なんて頼れるひとだろう! 彼女は自分の選択眼に間違いがないことをこの瞬間、確信した。
「渡しなさい! その本は普通の人間が持っていっても何の役にも立たないわ!」
 狼狽するナグに、藻間は極めて冷静に言い放った。
「確かに、こんなミミズがのたくっているような本は読めやしないし、持ってるだけで臭くなりそうだ。神保町でも買い取ってもらえないだろうさ。でもな、この本がなかったら、亜邪神は成立しないんだろ? 翼曽を消滅──あんたたちの言葉を借りれば〈精神分離〉できるわけだ。あいにく今は火種を持っていないが、後で煙草喫いにライターを借りて燃やしてしまおう」
「やめろ! 翼曽やあたしだけでなく、イグも分離されてしまうということを忘れるな!」
 ナグは普段の言葉遣いをかなぐり捨てて絶叫していた。
「亜邪神の制御ができなくなるってことの本当の意味も知らないで……その本は、〈写本〉は、持つべき人間が未来永劫持ってなきゃならない本なんだよ!」
「藻間さん、私のことは心配しないで。精神を分離されても肉体が死滅するわけじゃないわ。憑依していた邪神の記憶が除去されるだけ。私は恐れないわ。ナグはナグの記憶を失うことを恐れているけど、私はイグでなくなっても藻間さんのことは忘れない。だから……」
 イグは意を決したかのように言った。
「〈写本〉を焼いて!」


「飯島くん、雪崩山くん、無駄な行為はそろそろおしまいにしたらどうだね? 私ももう何度同じ台詞を吐いたことか……そろそろ飽きてきたところだ」
 翼曽は硫黄臭い息を吐き、さもつまらなさそうに呟いた。
「結界器がこの空間を遮断できたとして、それが何になる? 私の力を弱めることに成功したとして、それが何になる? 飯島くんは自由にあの力を出せない。雪崩山くんはもう限界だろう。つまり、このオリジナルにして偉大なる超・人間能力者である翼曽通の前に立ちはだかること自体が無駄だということが、なぜ聡明なる君たちに判らないのか?」
 邪眼が飯島、雪崩山、里美の順に舐める。
「……雪崩、作戦通りだ。結界器を持って四階に行ってくれ」
「飯島!」
 背後からの意外な声に、敵を眼前にして雪崩山はつい振り向いてしまう。そこには、意を決して仁王立ちする飯島の姿があった。
「翼曽を封印するためには、それしかない……俺のテレポートは距離を跳べない。里美と離れることもできない。翼曽を倒すためには、それしかないんだ」
「いい心がけだ!」
 翼曽が茶化すように言う。
「ここから先は消化試合だ。行きたまえ、雪崩山くん。君のような好敵手に会えて嬉しかったよ。もう二度と出会うことはないだろうがね」
「飯島……お前……」
「愛するものは自分の手で守るよ」
 サングラス越しの厳しい視線に、飯島は眼を反らすことなく答えた。
「確かに俺と里美の〈神格〉は、自由に制御できる代物じゃない。互いの命を削りあっているかもしれない。でも……でも、翼曽を倒さなければ、俺たちに未来はない。麻都と同じように、翼曽も退けなきゃならないんだ……自分の手で……里美のためにも……」
「その意気や良し!」
 再び翼曽が茶化した。
「そこまで言うならいいだろう。来たまえ、飯島くん! そして行きたまえ、雪崩山くん! エレベータはそこの角だよ!」
 翼曽はそう言うと、赤い長い爪の生えた人差し指を学生ホールの一角に向けた。そこには、貨物用のエレベータがクリーム色の巨大なシャッターを携えて置かれていた。
 雪崩山は口を開こうとしたが、動きを止めると右手に握りしめた結界器を見た。今ごろ、ほかの四個の結界器は設置されているだろう。最後の「空」──四階にあるセットポイントにこれを置けば、力場が発生し、この空間は結界によって遮断される。その結界が、空を覆う〈異次元の色彩〉を遮り、翼曽の力を半減してくれる。そこに〈神格〉で攻撃すれば──しかし、しかし。
 いま自分がここを離れ、四階に行く間に飯島が倒されてしまったら?
〈神格〉を発揮することなく飯島が死んでしまったら?
 信じるしかないのか……信じるしか……。
「雪崩、お前とは永いようで短いつきあいだが」
 飯島が口を開く。
「俺はお前を信じている。お前も俺を信じてくれないか?」
 何度も翼曽に飛ばされ、顔にも傷がある、全身あざだらけの飯島が、きっぱりと言った。信じてくれ、と。任せてくれ、と。
 いつも慎重で、行動可能なことしか口にしない男が、きっぱりと言った。
 口に出して、それが実行できなかったことのない男が、はっきりと言った。
「……判った」
 言うが早いか、雪崩山は走り出していた。エレベータに向かって突進していた。
 友を信じる。
 雪崩山が永い間、忘れていた言葉。
 高校時代にようやく「勉強」して習得した言葉。
 命を掛ける価値のある言葉。
 歴戦の勇士である雪崩山の、唯一信じる言葉。
 エレベータの扉はすぐに開いた。翼曽は本当に雪崩山を行かせるつもりなのだ。
「死ぬなよ……友よ」
 閉まりゆく扉越しに、雪崩山は呟いていた。
「さて、飯島くん。君との一騎打ちだ。もちろん、山崎里美……嬢にもお手伝い願おうか。なにせ普通の状態ではハンデがありすぎるからねえ」
 翼曽はさも嬉しそうな口調で言う。
「里美……いいね。行くよ」
「はいっ!」
 振り返らず言う飯島の背中に、里美の元気な、力強い返事が返ってきた。
 守る。
 ひとを、守る。
 愛する人を、守る。
 飯島が生きてきた短い人生の中で、最高のピンチ。
 そのピンチを一緒に戦ってくれるパートナー。
 愛。
 軽い言葉だと飯島は永い間、思っていた。
 少なくとも自分には意味のない言葉だと思っていた。
 人を愛する。
 人に愛される。
 それは重く、熾烈で、しかし最高の喜び。
 飯島は今、真の愛を理解した。
 彼女を守りたい。
 いつまでも一緒にいたい。
 光の中を、未来に歩んでいきたい。
 力が沸いてくるのを感じる。
 何かが満ちてくるのが判る。
 目の前の障害を取り除き、自分の道を、ふたりの道を取り戻したいと願う気持ちが明確になっていく。
 暗い洞窟の出口に立ちはだかる大きな影。その向こう側から、一条の光がやってくるのが判る。
 それが愛──!
「いくぞ、翼曽!」
 飯島はダッシュしていた。


 真の闇。
 生き物の気配のない闇。
 聞こえるのはただ、風の哭く音のみ。
 人間がいるとは到底思われないその洞窟に、老人はいた。
 瞑想するかのように微動だにしなかったその人影が、ふ、と動いた。
 真っ白な髭に覆われた口元が、ゆっくりと動く。
「……〈写本〉を奪われるとはな……」
 岩の上に座り込んだままの老人の右手が動く。細く、筋張ったその腕が宙に不可思議な文字を描く。
 何もない空間に描かれた文字が、金色に輝いて洞窟をほの明るくする。しかし、それもほんの瞬きひとつの間だった。
「〈写本〉を封印せねばならないとはな……ナグも使えないやつじゃのう……」
 老人──老テオバルドの眼がきゅーっと細くなった。

 
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