1
午前八時五五分。予鈴が狭いフロアに鳴り響いた。
「課朝礼でーす。みんな前に集まって」
須藤課長の号令で、課員がばらばらと課長席の周囲に集まってくる。
課長は課員の顔を眺めると、ひとりのOLに視線を投げた。鋭い眼に射られたOLは、ぺたぺたとサンダルを鳴らしながら課長に近づき、反転すると課員に向かって深々と一礼する。
「えーと、暑くなってきましたね。わたしは今までビールが呑めなくて、宴会でも乾杯のときは焼酎だったんですけど、今年からビールがおいしく感じられるようになりました。みなさんも、一杯を限度に晩酌などされて、日ごろのストレスを発散して仕事に取り組みまれてはいかがでしょうか」
言い終わると、恥ずかしさで上気した頬を隠すかのように、さらに深々とお辞儀をする。そんな彼女の背を見ながら、課長はにこりともせずに手にした書類を読み上げた。
「えーと、今日はお休みの人はいません。会社からの報告事項も特にありません。みなさん、一日よろしくお願いします。以上!」
OLたちがのろのろと自分たちの席に戻っていく。意味不明な朝礼をしたOLを、周囲のOLたちが突っ込み始める声が聞こえてくるが、須藤課長はにこりともしない。
「エゴちゃん、発音が違うよ」
「そうそう、一杯じゃなくっていっぱい、でしょ?」
この意味のわからない課朝礼が始まってから、一ヶ月が経過していた。今年の春からこの課のメンバーとなったアリカから見ても、会社の仕事にいったいどんなメリットがあるのかさっぱり判らない。無論、課長を除く課員全員が大なり小なり疑問を感じていたのだろう。着席前に小さな声で交わされる雑談のほとんどは、つまりは文句のたぐいだ。
席に着き、アリカはほうっとひとつため息をついた。
社会人になって、知らないことや判らないことがあまりに多すぎる。高校までの自分の知識や見識といったものがまるで通用しないのだ。電話の対応ひとつ取っても、研修で聞いたものと現場のそれはまったく異なっていた。
これが、社会というものなのか──。
孫南アリカは株式会社ファイテックコーポレーション販売部業務課の唯一の新入社員である。課員は課長の須藤麗華を含め、一一人全員が女性で構成されている。
銀色の短髪が凛々しい須藤課長は、彼女が入社する際の面接を受け持った女性だった。ファイテック社の誇る凄腕管理職である彼女は生産部門、販売部門、そして内務の部門のすべてを経験し、各部門の弱点を体験した上で改善し、建て直しを完了するとまた部署を移動する──社長以下、経営陣がもっとも期待をかけるスーパーウーマンだった。
彼女が四〇歳を超えてついに到達した会社内最大の弱点──それが、この販売部業務課だったのだ。
若い女性課員たちは仕事こそまじめに取り組むものの、その目的意識は低く、また少しでも自分が関わっている仕事から外れたことは知ろうともしない。世間の一般常識すら関心がなく、須藤から見ればこの部署は小学校以下の「子ども教室」だった。
「叩き直したい。筋道を立てて行きたい。そのもうひとつ上のステージへ──目的意識を常に持つ段階へ引っ張り上げて行きたい。その手伝いをしてほしい」
その須藤が面接でアリカに言ったことを、アリカは忘れることができない。
入社したばかりのアリカに、何かができるわけではない。
だが、須藤課長は自分に期待している──アリカは会社で緊張せざるを得なかった。
「なにボーっとしちゃってるのよ、アリちゃん」
ばん、と背中を叩かれて、アリカははっと顔を上げた。
そこには、やや垂れ気味ではあるが切れ長の眼が魅惑的な女性が立っていた。長く艶やかな髪は煌々と輝き、どういった手入れをすればこのような美しい髪が存在できるのかアリカにはまったく想像もつかない。
「朝っぱらから元気ないよ。しゃきっと行こうね、しゃきっと。ほら、部朝礼始まるよ!」
そうだ。
あたしはこの人に憧れて、この職場を希望したんだ。
内定後の会社説明会のとき、この本社を案内してくれた美しく素敵な女性。
はっきりと物を言い、すばやく行動を起こし、失敗してもへこたれない。
敏腕の須藤課長からも、全幅の信頼を得ている若き係長。
あたしの理想の人──アリカがそんなことをぼんやりを考えながらようやく立ち上がったとき、執務室の両脇に設えられたスピーカーから部長席の前にあるマイクの声が増幅されて聞こえてきた。
「おはようございます。今日の朝礼は、業務課の神垣が担当します」
業務課業務係係長・神垣麗──彼女はマイクの前で、長い黒髪をさっと掻きあげる。紅く彩られた唇が挨拶の言葉を紡ぎ出していた。
2
「ありがとうございました」
フックボタンを押し、通話を切る。ついつい、そこでため息が出てしまう。
アリカがこの業務課に正式配属になったのは、五月二一日のことだった。研修を終え、正式に業務課業務係に配属になった彼女が最初にぶつかった難関は、電話での応対だった。
女性課員全員がインカムをつけ、かかってきた電話にすばやく応対する。目の前にあるふたつの一七インチ液晶モニタのうち、左側にはかかってきた顧客の電話番号が表示され、データベースと合致すれば取引先のデータが呼び出される。電話を受けた課員はデータから得意先の情報を得、必要に応じて右側の液晶モニタに在庫データや営業担当のデータを検索・表示させて顧客からの質問や注文に応じるのだ。
アリカは電話接客を専門に習ったことがなかった。引っ込み思案だとまでは言わないが、自分が決して前に出る性格でないことは熟知していた。だからこそ、まったく見知らぬ相手と電話で正確に遣り取りすることの緊張感に慣れず、緊張はそのまま疲労につながり、ケアレスミスを生む温床にもなっていた。
「よいしょっと」
取引店から入った電話注文を、右の画面の別ウインドウから直接入力していく。これが終われば緊張から瞬間とはいえ開放されるのだ。入力を終え、間違いを目視で確認し、伝送──再びため息。一ヶ月経った今でも、まだまだ慣れない。
「緊張しすぎだってば、アリちゃん」
アリカの隣の席に座るナベちゃんは、神垣係長よりも社歴が長い。だが、アリカには彼女が三〇歳を超えているとはとても信じられなかった。背はアリカより低く、顔はアリカより幼く、身体はちいさくうすっぺらい。しゃべる口調も可愛らしく、それでいて以前の部署では社長賞をもらったことがあると言われるほどの切れ者で、営業職の課長たちからは可愛がられている存在だった。
「でも、まだ慣れません」
「仕事なんてテキトーでいいのよテキトーで。誰かかきっとフォローしてくれるからさ」
ベテランは簡単に言ってのけるが、新人にはそう簡単な話ではない。
今でも電話に出ると焦るし、失敗がないかどうか緊張するし、電話を切ってもなかなか元の状態には戻れない。呆然とする時間が永く感じられるが、身体は義務感からすぐに他の電話を取ってしまう。緊張、疲労の繰り返し。
「最近ちょっとヤバめなのよね」
「ダイエッターの名が廃っちゃいますよー」
向かいに座る先輩社員たちの雑談がうらやましいとさえ感じる。雑談の内容が、ではない。雑談の途中で苦もなく電話に出て、応対を終えてすぐにまた雑談に興ずることのできる彼女たちがすごい存在に見えてしまうのだ。
「ねえねえ、ダンショクっていいらしいわよ」
「あ、なんかで聞いたことあるー」
聞き慣れない言葉が耳に届く。
「ぷちダンショクってやつ?」
「あと、週末ダンショクとかねー」
何を言っているのか、瞬間的には理解できない。
「リンパチ、タエちゃん、何の話?」
電話を切ってキーボードを叩きながら、ナベちゃんが訊く。向かいにいたふたりは顔を見合わせ、いま話していた内容を復唱した。
「ダイエットですよダイエット」
「健康にもいいらしいですよー。いま時代はぷちダンショクですー」
ぴん、と来た。
ナベちゃんは理解できないようだった。わずかにアリカのほうを見て、小首をかしげている。
アリカはしびれた脳の奥で突っ込まざるを得なかった。
(それって「断食」ですよね、先輩がた……)
3
正午を告げるチャイムが鳴る。
アリカの永い戦いに、ようやくひとつのピリオドが打たれた。全身に疲労と倦怠をまとい、ゆっくりとアリカは席から立ち上がる。新人社員ゆえに、いちばん最初に席を立って食事に行くわけにはいかない。だからといって、ここにいつまでもいるわけにもいかないのだ。
だからゆっくり、ゆっくりと立ち上がり、アリカは周囲とのタイミングを計る。
「アリちゃん、お昼食べに行こっか」
そんなアリカに、ナベちゃんが明るい声をかける。渡りに船ではあるが、同時に苦行でもある。比較的年齢層の高い集団での外食に参加するということは、簡単に言えば昼食費の高騰につながるのだ。
「神垣係長もいっしょにいいですよね」
「行こう行こう」
麗もすくっと立ち上がり、バッグから馬具の意匠のちりばめられた莫迦でかい財布を取り出す。隣の席でその財布を見たイクちゃんが言う。
「神垣さん、今日はおごりですか?」
無論、冗談である。イクちゃんは業務課でもっとも古株の社員で、アリカが知る限りナベちゃんの次にお姉さん社員だった。結婚しているが、旦那さんが種子島でロケットを扱う職業についている関係で、挙式後まだ一度も新居でふたりきりになったことがないという噂を聞いたことがある。
「いいよー。でもね、明日はイクちゃんのおごりー」
麗は茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべ、黒髪をざっと広げながら身を翻して廊下に向かって歩き始めた。その後をナベちゃん、イクちゃん、そしてわずかに遅れてアリカがついていく。
営業部業務課のある四階フロアから階段を使って外に出る。初夏の日差しの中、四人は行きつけである中華料理店「百楽天」に向かった。アリカもすでに三度ほど来ている店だった。
夜は高級中華を出すのだろうが、ランチタイムは銀座界隈でありながらリーズナブルな定食類を出してくる。アリカはいつも一番安い日替わりA定食を頼んでいた。
「アリちゃんいつもそれね。今日はなあに?」
イクちゃんが訊いてくる。安いから頼んでいるのであって、今日のA定食が何なのかを知らないアリカは適当に微笑んでごまかすしかなかった。
「あたし、今日はエビチリ」
「じゃ、あたしはカニ玉ー」
麗とナベちゃんは比較的すばやく注文を決めるのだが、イクちゃんは熟考派だ。まだ悩んでいる。昼休みは五〇分間あるが、店に到達するまでに五分を消費し、帰途に五分、五分前に予鈴が鳴るので、昼食に使える時間は実質三五分しかない。
「えーとね、今夜のおかずは焼魚やる予定だし、昨日は焼肉食べたし、あとは、えーと、でも脂っこくないものがいいし、でもすぐおなか空いちゃうといけないし」
横で店のお姉さんが伝票片手にイクちゃんを睨んでいる。店は混み出し、客も店員も一分一秒を無駄にできない緊張感でぴりぴりしている。だが、イクちゃんはまだ悩んでいる。昼の定食は六種類しかないのに、である。
「あたしが選んであげる、イクちゃんはB定食に決定!」
麗の一言で店員がボールペンを動かし、無言で踵を返して去ってしまう。イクちゃんはアリカ同様に苦笑いとも照れ笑いともつかない表情で皆を見る。いつものことだ、と達観できるナベちゃんとは違って、アリカはやはりはらはらしてしまう。
ちなみにA定食はご飯と中華スープ、一品料理の組み合わせで一ヶ月決してメニューがダブらないのを売り文句にしている人気メニューだ。いつかはアリカの嫌いなレバニラも回ってくるだろうが、その確率は非常に低いと言ってよかった。逆にB定食はアリカでも憶えられる、ラーメンとギョーザに半ライスのセットだった。イクちゃんはB定食を食べたことがなかったらしく、何がくるのかメニューで確認しようとしている。
「だーめ。来てからのお楽しみ」
意地悪そうな台詞ではあったが、ナベちゃんに悪意があったわけではない。それはイクちゃんも判ってはいるのだが、それでもなんとなく落ち着かなくてテーブルに敷かれたラミネート加工のメニューシートをちらちらと見ている。
「ねえ、神垣さん。B定食っていつもなんですか?」
麗はセーラムを銜えながら、イクちゃんの言葉を無視して思い出したように言う。
「いいの。それよりイクちゃん、今日の送別会のことなんだけど。部長と社長も来るって言ってたよ」
「あ、そうなんですか? 狭くて暗いとこですけど、いいんですかね」
「地図あとであげてきてね」
ナベちゃんも鼻から紫煙を噴きながら続ける。
「幹事はエゴちゃんとブーちゃんの宴会コンビだからさ」
「あー。ま、若い子にはかなわないから」
「でも忘年会からはアリちゃんだよね、幹事は」
いきなり振られて、アリカは口に含んでいた水を吹き出しそうになる。
「え、幹事って、宴会の幹事ってやつですか?」
にこにこ笑顔を崩さないナベちゃんが、吸殻をガラス製の灰皿にぎゅっと押しつけてアリカに告げた。
「新入社員の役目らしいよ」
らしいって。そんなアバウトな──そう口に出そうとしたアリカの目の前に、湯気を盛大に上げたレバニラ炒めが置かれた。アリカは眼を剥き、我知らず舌打ちしていた。
4
「それではー、リンパチさんの今後のご健勝とー、ファイテックコーポレーションのますますの発展を祈念してー」
「かんぱーい!」
エゴちゃんとブーちゃんの乾杯の音頭で宴会が開始されたのは、予定を三〇分も押した午後7時半のことだった。有楽町でも最近できたばかり、各地の焼酎と泡盛の在庫を豊富に持った東京アレンジの沖縄料理の店──と聞いていたのだが、アリカの目の前にやってきたお通しはなぜか揚げえびせんべいだった。
「普通、乾杯の音頭って部長とか社長とか、偉い方にお願いするのでは……」
「ま、そこがエゴちゃん流ってやつで。ほら、ハゲ社長もご満悦でしょ?」
席の隅で紫煙を吐きながら、麗はアリカに言う。なるほど、中央のテーブルの真ん中、上座とも下座とも取れない位置に座った光る頭頂を持つ筋肉質の巨漢──テレビでこんな感じのプロレスラーを見たことがあったような気がする──は、眼を細めうれしそうに横のエゴちゃんに話しかけている。
「社長がいいって言うんだからいいのよ。うちはそういう部署なの」
麗は吸殻を南部鉄の吸殻入れに置き、長い髪を掻き揚げた。たおやかに組まれた脚がさっと伸ばされ、次の瞬間アリカははっと息を呑んでしまう。
アリカのすぐそばですっくと立った麗の美しさは、形容しがたい。
モデルのそれとは違う。アイドルとか映画スターとか、そういうものでもない。
だからといって、ルネッサンス期の彫刻像を連想するわけでもない。
神ではない。だが、人でもない。この息を呑む美を、どう表現したらいいのか。
社長や専務や部長たちが、彼女の元に日参しては莫迦ばなしを繰り返し、こっぴどく窘められてはにやにやして去っていく──あの光景をどう言い表せばいいのか。
アリカは考えていた。呑みなれぬビールを脇に押しやり、甘そうなカクテルを注文しなおしてから、ずっと、ずっとそればかりを考えていた。
麗は無駄に大声を出さない。だが、よく通る澄んだ声は、この雑音の反響する穴倉のような店でも綺麗に直進していく。伝達係数に減衰はない。
「あ、ブラックルシアンこっちねー。ジントニックもー」
店員がすばやく麗のそばまでやってくる。心なしか、紺色のエプロンをした青年は頬を染め、息を荒くしているようにも見える。かしずき、テーブルにドリンクを置くことがそんなに楽しいのだろうか──アリカには理解できない。だが、よもや、と考え直して麗の顔を見上げてみる。
笑っていた。
艶然、というのだろうか。これは妖しい──男を惑わすニンフの笑みだ。
だが、決して不快な笑みではない。艶然としていながら、癒しの雰囲気すら漂わせている──菩薩が実在したなら、このような存在なのかもしれない。アリカの連想は留まるところをしらない。
「はい、アリちゃん。これなら呑めるでしょ?」
麗はアリカが頼んだものではない透明な液体の満ちたグラスをテーブルに置き、自分はロックグラスに入った真っ黒な酒に口をつけていた。
「神垣さん、いつものアレはアリちゃんには話してあげないんですか?」
横に移動してきたナベちゃんが嬉しそうに眼を半月にして言う。手にはコップではなく、火のついた煙草がある。立ち昇る副流煙から、つーんとメンソールの臭いがやってくる。
「あたしはいいんだけど。ほら、課長が睨んでるからさ」
麗がグラスで指したその先には、ショートの銀髪の眼光するどい女性課長がいた。「余計なことは言うな」光線が飛んできてもおかしくないほどの、強烈な睨み顔だ。アリカは慌てて眼をそらし、麗とナベちゃんを見て口元にあいまいな笑みを浮かべた。
「莫迦話だけどね。真に受けるひとが毎年いるから課長もああいう顔になっちゃうのよ」
麗は笑みを崩さず、ブラックルシアンをあおるように呑る。アリカは眼を丸くし、隣のナベちゃんを見やる。ナベちゃんは姫カットの前髪をさわさわと揺らしながら、さも嬉しそうに頬をあげてアリカに告げるのだった。
「神垣さんの前の彼氏はね、にわとりだったのよ」
アリカはどういう表情をつくっていいのか判らず、ただ眼を剥いて固まってしまった。
「冗談よ。でもね、神垣さんがにわとりの写真を彼氏の写真だって言って持っているのは事実なの。言ってる意味、判る?」
判るはずもない。どういうリアクションを取れば、この自分と同世代にしか見えない先輩は喜んでくれるのだろうか?
「ほら」
そんなアリカの背後から、麗のたおやかな手が伸びてくる。指先には財布と対になる馬蹄の意匠のちりばめられたパスケースがあった。
開かれた内側の窓には──写真があった。
少女のころの麗が、そこにはいた。
微笑んでいる。
ポニーテールに結わえた髪がふわりと風になびいている。
その眼が、隣の人物を追っていた。
視線は水平ではない。かなり高い位置にある。
隣にいる人物は、分厚い胸板を薄手のジャンパーで覆い、黒いハーフフィンガーのドライバーズグローブで覆われた大きな手を麗の前で拡げている。その手の位置はあいまいで、いったい何をしたくてそこに置かれているのか、アリカには咄嗟には判断できない。
だが。
問題はそこではなかった。
その胸板の厚い人物の顔が──写真の上端で半分に切れてしまっている。
そこから覗くものは。
白い毛に覆われたあごと──黄色いくちばしと──垂れ下がる二枚の赤い肉のひだ──。
5
「お疲れさまでしたー!」
アリカは勢いよく叫ぶと、ふらつく足もとを気にすることなくすたすたと店外へ歩き出した。
他の先輩社員たちは徒党を組んで三々五々散っていくのだが、アリカは誰がどの方向に住んでいるのかを知らない。とにかく自分は自宅に帰らねばならないのだ。でも、ここがどこで、どうやってどの電車に乗れば東大島に帰れるのか──酔いの回ったアリカにはまったく判らなかった。
冗談で笑わされ、経験したことのない量のアルコールを摂取し、おいしい豚料理を堪能し、社長と部長に顔と名前を憶えられ、さらに課長からは「溶け込むのが早い」と褒められて有頂天になり──そして今、ここに記憶の曖昧な自分がいる。
「にわとりのあごの下の赤いひだは、確か肉髯というんだったよな」
無駄な知識が口からまろび出る。独り事にしては含蓄が過ぎると自分でも思うのだが、アリカは確かめなくてはならない。口に出さないと、確証が得られないような気になっていたのだ。
「神垣さんがにわとりとつき合ったことがある、というのはつまり、あのめっちゃリアルなにわとりの被り物をしたマッチョマンとつき合っていた、というオチなんだよな」
なぜかアリカは指折り数え始める。何を数えているのかは、当の本人にも意味不明だ。
「どうしてみんなそれを信じてしまうのか、と言うか、なんであの写真で『神垣さんとにわとりがつき合っていた』という曲解された情報に行き着いてしまうのか」
肩から提げたトートバッグをぐ、っと持ち上げる。たいしたものは入っていないはずだったが、その時のアリカにはなぜか重く感じてしまう。
「というか、あのリアルな被り物のできのよさに驚くべきなのか、それともそういう被り物を平気でするあのマッチョマンを褒めるべきなのか、だいいちあの写真を見せた神垣さんは周りにどんなリアクションを期待しているのか、ああああああああああ」
周囲がぐるぐると回り始める。夜の闇に黄色やオレンジやエメラルドグリーンの渦が走り、アリカの視覚を奪い去っていく。その次にアリカが失ったのは、平衡感覚だった。足元は大丈夫なはずだったのに──なにかに躓いたわけでもないのに、アリカの身体はバランスを失ってアスファルトの路面に向かって急接近を開始していた。
すとん。
激突の衝撃のわりには、音もなければ痛みもない。
アリカは自分の状態を把握しきれない。
アスファルトにはまだ一メートル近くありそうだ。
身体が斜めに立っている。自分の足には体重はほとんどかかっていない。
唯一、自重をたっぷり感じる部位は──右の脇、だ。
「大丈夫? アリちゃん」
背後から声がした。凛とした、張りのある声だ。
渦巻く色彩の中、背後の人物の顔がようやくアリカの網膜に結像される。
「神垣……さん……」
アリカはトートバッグによって宙吊りにされていたのだ。バッグをさらに引き、麗はアリカの身体を垂直の位置まで持ってくる。ひとつ息を吐くと、きょとんとするアリカに向かってこう告げるのだった。
「ちょっと酔い醒まししていこうか!」
アリカに拒む理由はなかった。
こくこくとうなずくと、大股で歩き出す麗の背後を愛犬のごとく頭をたれたままとぼとぼと着いていく。
おそらく一〇分は歩かなかったはずだ。だか、時間感覚のなくなったアリカにはそれがどれほどの距離なのか、まったく把握できない。
夜の街は昼間のそれと違って、表情を一変させている。酔って物が見えなくなっているアリカには当然、そこがどこなのか判らない。
ただ、ひとつだけ理解できることがある。
そこは、大きな大きな公園だ、ということだ。
いつの間にか、前を行く麗の両の手には、五〇〇ミリリットルのペットボトルが握りこまれている。わずか数分前に路上の自動販売機で麗が購入したのだが、アリカにはその具体的な記憶がない。魔法でも見るかのような目つきで無言で凝視するアリカに、さすがの麗も苦笑せざるを得ない。
「ほら、そこで休もっか」
麗がペットボトルで指した先には、ちいさなベンチがひとつ、明かりに照らされてぽつんと設置されていた。ベンチは比較的新しく設置されたもののようで、木でできた長い座席を鉄製の手すりが三人分の席に切り分けているタイプだった。
「ほら、座って。大丈夫、おしり汚れたりしないって」
麗はベンチの上をさっと手で払うと、すばやく左端の席に腰を下ろしてアリカの着座を待った。アリカはなぜか腰を下ろすそぶりを見せず、なんとなくそわそわした動きを繰り返している。
「座るのきらい? それとも……」
麗はそこで言葉を切り。くすっと笑うと手にしたペットボトルをベンチの上に置き、周囲をぐるりと見回してからアリカに向き直って告げた。
「トイレ、あっちだよ」
アリカは無言でうなずき、ゆっくりと誘蛾灯の下にあるコンクリートの小屋に向かって歩き出した。麗はその腰の引けた動きに、さらに苦笑を重ねる。自分のペットボトルのキャップをひねり、眼でアリカを追いながらぐっとウーロン茶をのどに流し込んだ。
「かわいいねえ。若いってのはそれだけでうらやましい」
独りごちると、天を仰ぐ。
空には、真円に輝く満月があった。
月の明かりと都会の明かりで、そのほかの星はまったく見えない。
麗は月を見ていた。
思い出の、あの月を──。
6
アリカがベンチに戻ってきたのは、麗が月を見上げてから五分ほどが経過したのちだった。
顔を真っ赤にして、かわいらしいハンカチで手を拭きながら小走りに駆けてくるアリカに、麗は満面の笑みを見せる。
「はい、どうぞ。水分足りなくなってるでしょ?」
アリカは麗から差し出されたアクエリアス・アクティブダイエットを受け取り、俯いてキャップをひねった。そして、勢いよくペットボトルを持ち上げると、胃の腑に液体を轟々と注ぎ込みはじめる。
数秒間、息もつかぬままアリカは飲んで飲んで飲みつづけた。息苦しくなり、ぷはっと大きく息を吐きながらペットボトルから口を離したとき、ボトルの中のアクエリアスはすでに半分量を移動完了していた。
「いいのよ、そんなに焦らなくても。まだ時間あるでしょ?」
麗は微笑むと左の手首を見る。銀色に輝くブルガリのウォッチは、その針を二一時ちょうどのあたりに置いていた。
「え、ええ、でも、すみません、なんていうか」
やや混乱しながら、酩酊と羞恥と焦燥の入り交じったアリカは無理やり口を開けのどを鳴らし、舌を回転させて言葉をつむごうとする。
「いいのよ、とにかく落ちついてよアリちゃん」
そんなアリカの様子を、麗は本当にかわいいと思う。そして、自分にもそんなころがあったのだと今さらながらに思い出すのだ。手にしたペットボトルをベンチの脇にとん、と置き、麗は天を見上げながら語り出した。
「ねえアリちゃん、こうやって月を眺めたことってある?」
アリカは深呼吸を繰り返し、何とか落ち着きを取り戻そうと躍起になってしまい、麗の言葉に即答する機会を逃してしまう。口を半開きにしたまま、上司の顔をただのぞき込む。
「月に思い出ってある?」
再度の質問にも、アリカは答えられない。いきなり月夜を眺め、月に思い出があるかと問われても、今のアリカの痺れた脳では咄嗟に言葉など産まれ出ずるはずもなかった。
「酔っ払いの莫迦話だと思って聴いて」
麗はひとこと断りを入れてから、何かを懐かしむような表情を作ってみせる。
「あたしね、月を見ると思い出すの。そう、今まででいちばん好きだったひとのことを。いっしょに暮らし、いっしょに戦い、そして──いっしょに生命をかけた彼のことを」
手を月光にかざす。左の掌を思いっきり開き、麗は指の隙間から月を見ている。
「アリちゃんたちには信じられないでしょうけど、あたし、親兄弟って知らないのよ。子どものころにさらわれて、物心ついたころにはもう彼といっしょにいたの」
月光がわずかに滲みはじめる。
「彼はあたしを救い、そして育ててくれたわ。ただ育てたんじゃない、この生まれ故郷に戻って来ても立派に過ごせるように──強く、たくましく生きていけるように。でも、あたしはここに戻りたかったわけじゃない」
麗の視線は、いつしか隙間の月光ではなく、自らの左の薬指に集中していた。
「あたしはずっと、彼といっしょにいたかった。彼は戦うことを職業にし、戦うことで正義を貫いていた。だから、あたしの恩返しは彼のお手伝いをすること、彼のパートナーになること、彼といっしょに戦うことだった」
見えないものが、麗に見えてくる。かざした指を、アリカもつい見入ってしまう。アリカには無論、麗に見えているものは見えない。
「そしてついにあたしは彼と──ここに帰ってきた。生まれ故郷のこの場所に。でも、それは彼の仕事の一環だった。彼も、その時にあたしをここに置いて行こうとは思わなかった」
麗の口元が止まる。
言葉が途切れ、静寂がベンチの周囲を支配する。
アリカは自分が呑み込んだ固唾の音に驚きながらも、それでも麗の指から目を離せない。
「あたしは戦ったわ。彼と一緒に戦った。彼は勝利し、あたしと彼はこの地を共に去った。そう、二度と戻らないと思ってた。パートナーは永遠だと思っていたの」
もう、麗の眼には、自らの指の輪郭すらも曖昧になっていた。
「アリちゃん、人生の先輩から、ひとつだけ言っておくわね」
アリカは緊張の面持ちで麗を見た。
「ぜったい手放してはいけないひとと出会ったら、命を掛けてでも引き止めること──いいわね」
麗の両の頬を、光る涙がひとすじ伝い落ちている。
アリカはその涙を、美しい、と思った。
7
携帯電話の着信音が、ふたりの静寂を掻き消した。モーツァルトのレクイエム──二短調〈ディレス・イレ〉が麗のバッグの中から奏でられていた。麗は濡れた頬をぐいっと拭いてから、すばやくバックの中の携帯電話を取り出し、スライドボディを開く。しゃきん、という効果音とともにボディが伸び、同時に着信相手との通話可能モードに転じる。
「はい、課長。神垣です」
アリカはその声に目を剥く。たった今まで、涙ながらに思い出話を静かに、そして淡々と語っていた麗はもうそこにはいない。かといって、職場でみせる、凛としながらもどこか優しさに満ちた係長の顔でもない。
──このひとは、なにものだ?
「酩酊とは言いませんが、アルコールの入った状態です。規定内許諾が出るとは思えません。緊急事態なのは判ります、でもあたしの装備はもう──」
そこまで言ってから、麗は口をつぐみ、電話の声に聞き入る。
「この惑星には、他に捜査官はいないんですか?」
──惑星? 捜査官?
「いいですか、司令。あたしは非常勤に移ってから、かれこれ一〇年以上装備を纏ったことがありません。それも、自分専用の装備もない状態で緊急出動と言われましても──」
──司令? 非常勤? 装備? 緊急出動?
「ここですか! ここに拳達鬼が! どうしてたった今まで判らなかったんですか? デッドリードライヴは生きているのでしょう? サーチシステムを掻い潜ったとでも?」
──拳達鬼? デッドリードライヴ? サーチシステム?
「では司令、ひとつだけお願いを聞いてください。わたし専用の装備がないのは当然ですが──CHの大気内仕様は生きてますね?」
そこまで言うと、麗はすっくと起ち上がった。アリカは驚き、ついつられて一緒に起ち上がってしまう。
「あれにはあたしの展開プログラムも入っているはずです。緊急コードを使っていいですか? 無論、B装備も含めての許可願いです。半径三〇〇メートルに不可知フィールドを」
言うが早いか、麗はスライド携帯を押し縮めていた。かちゃんとスライドが戻り、通話は強制的に切られてしまう。ひとつため息をつき、厳しかった眼になんとか優しさを取り戻そうと、大きく深呼吸をする。ベンチに置いてあったバッグを側で見守っていたアリカに差し出し、半ば無理やりな笑顔で告げた。
「ごめん、アリちゃん。ちょっと持っててもらっていい?」
アリカは拒む理由もなく、バッグを受け取る。そして視線を麗の顔とバッグとに、何度も何度も往復させるのだった。
「で、ホント申し訳ないんだけど、あのトイレの建物のところにいてくれないかなあ」
麗が指差したところには、アリカが先ほど飛び込んだコンクリート造りのちいさな建物があった。
「で、五分でいいや。待っててくれる? その間、近づかないように。今からあそこの怖いお姉さんとお話があるの」
言われ、アリカは初めて気づいた。ベンチから数十メートルの位置──舗装された道路と公園の木々を隔てる植え込みのあたりに、ひとりの女がこちらを窺っているではないか。長い黒髪を顔の前にたらし、表情どころか生きているのか、人形などではなく本当に人間なのかも判断できない。
「昔と違って、寄生生命体も進化したってことかしら?」
麗は暗がりの女に話しかける。女は髪をかき上げ、不敵に笑う。白い肌と割けた口元が、女の不気味さをさらに強く印象づける。
「ただこの惑星で何の秩序も乱さずにひっそりと生きたいだけだ。それでもお前たちは我々を星間犯罪者に祭り上げ、処刑していく。どんな権利があってだ?」
女の言葉にも、麗は怯まない。胸を張って腰に手を当て、堂々と返答を帰した。
「おまえたちは寄生生命体だ。あらゆる惑星の高等生命体に宿り、内部から秩序を破壊していく。おまえたちが増えることはすなわち、そこに住むすべての生命体の秩序を乱すことだ。無に還れ、拳達鬼よ。おまえたちに与える肉体はこの世にはない!」
「それが答えか、処刑特捜!」
女の身体が膨れ上がり、次第に人間からかけ離れた異形のものへと変化していく。アリカはその光景に、足をすくませ身動きできない。
「アリちゃん、お願い! 走って!」
麗は言い放ち、変形していく女に向かって突進した。そのまま体当たりをかまし、ふたりは公園の木々の間へと転がり込んでいく。周囲の草木が次第に枯れ出し、地面は水分が蒸発したかのように干からびていく。麗は素早く立ち上がり、女──すでに女と呼べない形になったものから距離を取る。
異形のものは、身を震わせて起ち上がる。
それは、形容しがたい生き物だった。
犬の特徴もある。
猫の特徴もある。
人間のような二足歩行をする。
だが、それ以上の形容の術を、アリカは持たない。
無理やり言うなら──猫四割、犬三割、人間三割。そんな化け物だ。
「〈猫狗〉、か……」
麗は舌打ちした。
8
麗は携帯電話のスライドを開き、バックライトに輝く液晶画面を見た。ついさっきまで三本立っていたアンテナマークが消え、今は「圏外」の表示が出ている。
「不可知フィールド展開完了」
呟き、スライドを戻して携帯電話をアリカに向かって投げる。慌てて携帯電話を拾うアリカを尻目に、麗は肥大化した肉体を揺する〈猫狗〉に指差しながら言い放った。
「非常勤の処刑特捜をなめんじゃないわよ! コードセット、緊急指令! CHタイプB!」
麗はタイトのミニスカートのスリットを切り裂かんばかりに脚を拡げ、両の腕を周囲に大きく回転させてから、天に届けとばかりに右の掌を高く突き上げて叫んだ。
「装甲展開!」
周囲にプラズマフィールドが発生し、まばゆいばかりの青白い光が半球の形をもって麗を包み込んだ。〈猫狗〉はフィールドの圧力にたじろぎ、三歩下がって視界を左手で覆う。
球電が拡散し、水蒸気の上がる場所に──麗の姿はなかった。
そこにいたのは。
形容しがたい鎧をまとった、細身の戦士。
両の肩には、頭よりおおきな球状の装置をとりつけている。その球が、ぶるん、と身震いしている。
身体はどのような素材なのか、白磁に似た輝きを持つ装甲に蒼穹のラインが入っている。
ヘルメットの中央には鶏冠のように五本の角が縦に並び、赤い輝きを帯びて起ち上がっていた。その頂点から、スチームが排出される。同時に両眼が黄金の輝きを放ち、ふたたび両肩に乗る球状の機関が身震いを始めた。
右手に持った長大なる剣が、その球状の機関の身震いに合わせてゆっくりと輝きを帯び出す。アリカにはなぜ剣が光るのかは判らない。ただ、ひとつだけ、彼女にも理解できる事実があった。
これは異常事態だ、と──。
「アリちゃん、ごめんね。フィールドの中に入っちゃってたみたいね」
仮面に覆われた顔が、ゆっくりとアリカの方向に向けられた。両眼がぎらり、と輝いている。口にあたる部分には人間のものと相違ない唇のモジュールが立体的に掘り込まれてはいるが、その口が動いていくのではなく──その部分に、外側からでは判らないようにスピーカーでも仕込まれているのだろう。肉声とはトーンの異なる、ややくぐもった声が流れ出していた。
「あと三分だけ我慢してね。すぐに終わらせるわ」
凛とした声だ。
強さと優しさを兼ね備えた声だ。
あのひとの声だ。
──やっぱり、この装甲服の中には神垣さんがいるんだ!
長大なる剣を肩に掛け、麗は空いた左の人差し指を〈猫狗〉に向け言い放つ。
「拳達鬼〈猫狗〉、銀河連邦警察処刑特捜班惑星捜査別動隊、神垣麗がお前を処刑する!」
「させるか! 非常勤に!」
〈猫狗〉は両の手の先から金属製の爪を伸ばし、大きく両の手を振り回して威嚇してくる。ざ、と爪先が宙を薙ぎ、居合切りにあった藁束のごとく樹木が切り倒されていく。
「切れ味勝負なら負けないわよ!」
言うが早いか、麗は肩にかついでいた剣を下ろし、正眼に構える。両肩のプラズマジェネレーターが唸りを上げ、掌にあるコネクターからプラズマエネルギーが剣に流れ込んでいく。青白く発光する剣──B装備最大の武器、ルミナル・ブレイカーが地球時間にして二〇年の時を経て臨界起動を開始していた。
「プラズマ・ブレイカー!」
剣先を大きく振り降ろす。切っ先が敵に届く位置ではない。だが──輝く剣からは、その輝きをさらに倍加したプラズマの火球が振り降ろされた勢いで衝撃波を伴って飛び出していく。〈猫狗〉はその軌道を読む──が、避けることを諦めてその爪を交差し、火球を真っ正面から受け止めた。
まるでそこに太陽が発生したかのような明るさだった。アリカはその眩しさに耐えられない。麗のバッグで顔を覆い、その場で背中から豪快にひっくり返ってしまう。まるで光そのものに圧力があるかのような──そんな力が拡散し、アリカの背後でなぜか不可視の壁に遮られ、そのまま舞い上がっていく。
ドーム上になった不可視フィールドの内部全体が、夜光虫の群れを集めたかのような輝きを帯びていた。
「ほらみろ! 現役じゃないお前に、その装備本来の力が出せるわけがない!」
〈猫狗〉が毒づく。だが、両手の指先から伸びていた金属製の長い爪はひび割れ、いまにも割れ砕けて落ちそうになっている。予想以上のパワーを受けたことは確かだった──それでも〈猫狗〉は吼える。
「もうおしまいか? 足もとがふらついてるぞ、処刑特捜!」
麗は剣を杖代わりにし、わななく膝を押さえるのに必死になっていた。両の肩からは轟々と水蒸気を上げ、ヘルメットの鶏冠からも水蒸気が噴き出している。
──制御できない、か。
麗は正面を見る。かすむ視界に、割れた爪を地面に落とし、新たな爪を生やした〈猫狗〉の笑い顔が入ってくる。
──負けない。あたしは、負けない。
「プラズマ臨界制御。コードアルファ、スラッシュモードの安全装置を解除」
音声入力でロックを解き、再度その長大なる剣を正眼に構え直す。
「接近戦かい。うれしいねえ。あたしの素早さについてこられるなら、だけどね──」
語尾が流れ、麗は肉眼で〈猫狗〉を追えなくなったことを悟る。工学追尾装置と音波追尾装置が後頭部でかすなか唸りを上げるが、麗の両眼を覆うモニタには〈猫狗〉の姿は入ってこない。
敵は音速を超えたのだ──この半径数百メートルの不可知フィールドから出ることはできないが、その中でヤツは超高速で動き回っている!
9
風が巻きはじめていた。
落ち葉が舞い上がり、土くれが渦を巻き、木々が啼く。
麗の眼には〈猫狗〉の姿は捕えられない。
電子機器も、〈猫狗〉の位置を把握しきれない。
渦巻く風の中から、光る爪が伸ばされる。
身体に衝撃が走り、装甲が削られる嫌な音が直接麗の耳に届く。
動けない。
動いたところで、〈猫狗〉は見えない。
無闇に剣を振り回したところで、致命的な隙をつくるだけだ。
こうやって正眼に構え、隙を最小限にしているからこそ、敵は装甲服の弱点に絞った攻撃ができないのだ。
問題は──そう永くはもたない、ということだった。
麗は眼を閉じる。
瞼の裏側に結像するものを待つ。
この数秒が怖い。
この数瞬で生命を落とすことになかもしれないからだ。
怖い。
怖い。
怖い──。
「きゃーっ!」
強化された聴覚が、背後の悲鳴を聞きつける。
フィールドの中にはアリカがいるのだ。
装甲服に護られていない、生身の身体であるアリカが。
彼女が──危ない!
火花が散った。
顔面を打たれた。
装甲が裂けたのではないかと錯覚するような衝撃──その時。
瞼の裏に、待っていた画が結像した。
天からのアドヴァイス──地からの勇気──そして、人からの、愛!
「麗、あれを使え!」
ありえない声がヘルメットの中にこだました。
同時に、麗は最後の封印を解くキーワードを発した。
「電送! 〈蒼穹斬〉!」
左の掌が天に向けられた。
雷光がその拳に集中する。
眩い。その光量は、プラズマ・ブレイカーの比ではない。
その光が途切れたとき──麗の手には、二本の剣が握られていた。
右手には、ルミナル・ブレイカーが。
左には、麗の身長を大きく超える巨大な剣──〈蒼穹斬〉が。
柄と握りにちりばめられた七つの宝珠が、握る麗にその所持を許可したかのように──妖しく輝いていた。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
雄叫びが不可知ドームの中の空気を震わせる。〈猫狗〉が起こした嵐をさらに上回るようなプレッシャーが発生していた。同時に両肩のプラズマジェネレーターが赤く焼けはじめる。エネルギーの産出が臨界点を超えたのだ。左掌のコネクターが解放され、〈蒼穹斬〉がプラズマ・ブレイカーを上回る輝きを帯びはじめた。
「こけおどしがああああ!」
〈猫狗〉はその速度を落とすどころか、生命体としての限界に挑戦すべくさらなる跳躍を開始していた。マッハの爪が麗に向かい──弾かれた。
「なにっ?」
〈蒼穹斬〉から発せられる光には、プラズマのそれとは異なる圧力があった。すでに〈猫狗〉の爪は、麗の身体に触れることもできない──。
「ルミナル・チャージ!」
麗は左手一本で〈蒼穹斬〉を持ち上げると、その剣先を右手に持つルミナル・ブレイカーの柄に当て、ゆっくり、ゆっくりと剣先をすり合わせていく。〈蒼穹斬〉に宿っていたエネルギーが徐々にルミナル・ブレイカーに移動していく。その光景を何と形容すればいいのか──薄れゆく意識の中で、アリカはそれを美しいと思っていた。
この輝きなら、信じてもいいと──。
「プラズマ・ブレイカー! ムーン・スパイラル!」
光の剣が、斜めに大きく薙がれる。切り取られた半月が地を駆け、アスファルトを削り巻き上げながら突進していく。それは直線軌道ではない。いわば螺旋追尾──光の渦が〈猫狗〉の身体を呑み込もうとしている。マッハの逃げ足で軌道を躱そうとする〈猫狗〉だったが、そこに隙が生まれた。
「そこか!」
A地点からB地点へ直線移動する敵など、例え音速で動くものであったとしても造作なく撃ち落とすことができる──それが処刑特捜・神垣麗の力だ。。
「鶏、行くよ!」
エネルギーの切れたルミナル・ブレイカーを空に放つと、未だ光の漲る〈蒼穹斬〉を両手に持ち変え、麗はその切っ先を〈猫狗〉の逃避地点に突き出していた。
地から足を放して宙を逃げていた〈猫狗〉は、その切っ先を避ける術を持たなかった。ずぶり、と尖った剣先が〈猫狗〉の筋肉の鎧を突き破り、巨躯は〈蒼穹斬〉によって串刺しとなる。そのまま身体を下方に持って行かれ──〈猫狗〉はアスファルトの通路に、文字通り釘づけにされてしまった。
「とどめだ!」
宙を舞っていた剣を、麗は素早く掴み取って構え直す。再度プラズマジェネレーターが唸りを上げ、右掌のコネクターからエネルギーがルミナル・ブレイカーに流れ込んでいく。
「地獄で侘びろ! ルミナル・スラッシュ!」
もう逃げられない──プラズマの奔流が〈猫狗〉の右肩から食い込み、そのまま袈裟斬りに上半身が削り落とされた。切り口が瞬間的に溶解蒸散し、猫とも犬ともつかない異形の怪物は消滅していく。
それと同時に、嵐も去った。
アリカの意識も、そこでぷっつりと途絶えていた。
10
「ねーねー、もちゅうって何?」
ナッちゃんは基本的な日本語を知らない。それを周りの先輩社員が突っ込むわけだが、突っ込むほうも決して賢いとは言えない返事をしてしまったりもする。
「えー、それはちょっとヤバいんじゃない?」
まずは最年長のナベちゃんが突っ込む。
「もだよ、も。喪に服すとかって言うじゃん。誰か亡くなったら大人しくするってヤツだよ。年賀状も出せないしー」
次は最長キャリアのイクちゃんの番だ。ここまでは順調だった。
「えー、あたし、ずーっともちゅうのもって『子どものも』だと思ってた」
ナッちゃんの横にいるエゴちゃんからさらに不可思議な意見が飛び出し、ナベちゃんはヘッドセットを押さえながら首を傾げざるを得なくなってしまう。
「えー、どゆことそれー」
「何で子ども? しかも『こ』じゃなくて『も』?」
いつもは天然ボケの激しいイクちゃんも、これには突っ込むしかない。そんなふたりにエゴちゃんはただにやにやと笑い、返事をしようともしないのだった。
その間にも電話は鳴り、課員の女性たちはリズミカルに受け答えし、受注システムにデータを入力して電話を終える。
平和だ。
ここは平和だ。
いまは平和だ。
日本は平和だ。
東京は平和だ。
争いごともない。
破壊活動も、血の流れる衝突も、目に見える場所では起こっていない。
目に見える場所では。
アリカはそんな先輩たちの明るい会話を聞きながら、平和を噛み締める。
平和というのは、裏で護ってくれるひとがいるから保たれているのだろう。
幸せはひとりで作るものではなく、誰かの支えてくれた舞台でしか得られないものなのだろう。
縁の下の力持ち、という言葉がある。人知れず努力し、人の役に立ち、それが例え人に知られることなく褒め称えられることも報酬を得ることもないとしても、自分が満足すればそれでいい、という考え方。
アリカにはまだ判らない。
自分はいったい、何を目指して生きているのか。
誰かの役に立っているのか。
誰かを喜ばせてあげることができるのか。
電話応対ひとつろくにできず、呑めば酔って記憶を欠落させ、そして今もこうやって勤務中にも関わらず夢想を繰り返すことに、どんな意味があって、どんな価値があるというのか。
自分は何もできないのか。
自分は何ができるのか。
自分は何を成すべきなのか。
昨晩の出来事は、日比谷公園でのボヤ騒ぎ、という扱いになっていた。新聞にもテレビにも、あの信じがたい事件の内容は報じられていない。本当にあったことなのかと疑いたくなってしまうほど、世間ではひとことも語られていないのだ。
あれは何だったのか。
何が起こったのか。
神垣さんは何者なのか。
神垣さんは何と戦っているのか。
神垣さんは──。
「ほら、アリちゃん。ぼーっとしないの」
背後からこつん、と頭を叩かれる。
慌てて振り向くと、そこには黒髪の輝く美人がにっこりを微笑んで立っていた。
「なーに、宿酔い? 昨日そんなに呑んだの?」
「神垣さんがとなりにいたんだから、呑まなきゃいけなかったのよねー」
ナベちゃんが茶々を入れる。アリカはなぜか頬を赤らめ、無言でぶんぶんと顔を振って両手を宙空に踊らせるのだった。
麗は知っている。
ツインモニタの右側、在庫データウィンドウの下にある、さっきまでアリカの書き込んでいだメモ帳の画面──そこにある、無数に羅列された自分の名前を。
「忘れてくれとは言わないけど、そこらじゅうでしゃべられちゃったらかっこわるいわよね」
アリカに背を向け、係長席に戻った麗は独りごちる。続けて液晶モニタ内にポップアップしたノーツマインダーの受信ボタンを押し、ロータスノーツを呼び出す。
アリカは知らない。
そこにある須藤課長からのメールに書かれたひとことの意味を。
──レポートを提出したまえ。
麗は見慣れたこの文字に、ただ苦笑するしかなった。そしてモニタから眼を上げ、こちらを見ているアリカに目配せする。なぜ見ているのが判ったのか──アリカは慌てて視線を逸らそうとするが、そんなアリカに麗は親指を立ててみせていた。
END