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「ねぇ、もう行っちゃうの?」
菜摘のカン高い声が、広い背中にぶつかって拡散する。けだるそうな眼をした女の顔を想像しながら、男はゆっくりとシャツを着る。
――姦しい女だ――
菜摘の声を無視するかのように、果心は起ち上がった。背は百七十五センチほどだが、細身の体躯とちいさな顔の持ち主は、もっと大きい男に見えた。
「どこ行くのよぅ」
ベッドからゆっくりと起き上がる気配。ふわっと体臭。ぼとっと落下音。菜摘はいつも、ベッドを右足から降りる。
果心は振り返らず、右手に持ったマルボロの箱を大仰に振り上げ、ぐっと握りつぶした。乾いた摩擦音が、六畳一間に虚しく響く。
「たばこ……」
その背後の言葉を最後まで聞くことなく、果心は部屋を出ていた。頑丈さだけが取り柄の、重い鉄の扉をゆっくりと閉じる。正面に見える東の空が、ほんのりと赤くなっていた。身体を右に回転させ、鉄の階段を音を立てないようにゆっくりと降りる。ブラックジーンズに覆われた細く長い足が、一歩一歩を確かめるかのように動く。
――もうここに来るのもやめよう――
果心は独りごちた。顔にかかった前髪を右手の人指し指と中指でそっ、と払う。全体的に短く刈り込んだ黒い髪の前髪だけが、まるで果心の視界を外界から隔絶させるかのように垂れ下がっている。
果心はゆっくりと私鉄の駅方面へと歩んだ。始発の動き出すにはまだ早い時刻だったが、そんなことは今の果心にはまったく関心がない。
ざっくりと着た大きなチェック柄のシャツに阻まれ、果心の身体は華奢に見える。軽くたくし上げられた袖から覗く腕も、細い。歩く姿も軽々しく、外見から年齢や職業を特定できる要素は何一つない。強いて言えば、遊び人風の若者、とでも言うのか……。
まだ照明の明々とついた駅舎に近づくに連れ、その周囲にただならぬ気配が蠢いていることが判る。
いまどきは「暴走族」などとは言わないのだろうが――バイクを止めた若者達が、自動販売機を破壊して小銭を取り出している。近所に交番もあるのだろうが、果心の視界からは警官の存在は確認できない。
ゆっくりと歩を進める。駅までは、この街灯の少ない一本道しかないのだ。果心はまったく臆することなく、六人の若者達の中に割って入っていった。
「おい……」
髪を金色に染め、ぶざまに唇のピアスを動かしながら、ひとりの若者が果心に近づいた。果心は彼等を避けようとはしなかったが、しかし何かをしようとしたのでもなかった。果心はただ、その道を通りたかっただけなのだ。
「待てよ、兄ちゃん……」
金髪の後ろから、モヒカンにサングラスというアナクロな出で立ちの男が現れる。手にはチェーンを持っており、ときおりそれを軽く振ってみせる。
果心は、歩みを止めた。モヒカンにその前方を閉ざされたからだ。
気づくと、果心を取り巻くようにして、六人の若者が臭い息を彼に向けている。金髪、モヒカン、ソリコミ、パンチ、頬傷、そしてロン毛。ロン毛はナイフをちらつかせていた。
「見たな、アンちゃん。ずいぶん堂々としてんじゃねーか、あぁ?」
モヒカンが、擦り切れそうなボロ革ジャンの袖をたくし上げ、チェーンを振る。その腕には筋肉はなく、ただ悲しくペーパータトゥーが貼られていた。視線には狂気や威圧感はなく、どちらかと言えば怯えが光っていた。
そんなモヒカンを見てか、ロン毛がずいっと輪の中に入ってくる。果心の背後から右回りにゆっくりと歩き、正面に来る。ロン毛はかなり役がかった目つきをして、ナイフを翳してみせる。
「いいんだよ、言わないって約束してくれればね……うっそだよーん!」
ノーモーションで、ロン毛はナイフを突いてきた。フェイント、のつもりだったのだろう。
しかし、突いた先に果心の喉もとはなかった。
果心は素早く動いた。しかし、他の取り巻き五人には、それは非常にスローモーに見えた。
鼻先をかすめるナイフ。果心はスウェイバックしてナイフをやり過ごし、そのままロン毛の右腕を自らの両手で掴んだ。そして、跳躍!
果心の両腿はロン毛の右腕を挟み込み、その勢いのまま、彼の身体はふわりと上がる。まるで、ロン毛の右腕で逆上がりをしているかのようだ。
そして、その回転力で体を入れ換える。挟んだ股はロン毛の右肩に密着し、右足が胸を、左足が頭を押さえる。遠心力の方向が、この瞬間に回転から落下に切り替わる。
いつの間にか、果心の身体はロン毛の右腕とともにアスファルトの上にあった。ロン毛の右腕は肘の関節を曲がらない方向に極められ、既にその機能を破壊されていた。ナイフはおろか、箸すらもう、二度と握れない。
絶叫が、朝焼けに燃える街にこだました。
「兄貴!」
「野郎!!」
男どもが絶叫に躍らされ、果心に殺到しようとしたとき、駅方面から爆音と光芒が同時に襲いかかってきた。たちまち二人ほどがもんどり打って倒れ込む。レッドロックマイカの赤が美しい近未来デザインの4WD、いすゞビークロスだ。二百十五馬力の三・二リッターエンジンが、暴漢どもを次々に蹴散らしていく。
不意に、ビークロスのエンジン音が静まった。ゴムの焼ける臭いが鼻を突く。白煙の中、起ち上がっている者は誰独りとしていない。
……いや、独りだけ、いた。果心だ。
「《和尚》……」
「探しましたよ、果心さん」
ビークロスから降りてきた人物は、その車からは想像もつかない風体の男だった。小柄、小太り、蛭子顔、剃髪、そして茶色のスリーピース。年齢の程は五十絡みほどであろうか。もちろん、《和尚》という名前は本名ではない。果心も彼の本名は知らないし、第一知る必要もなかった。
「仕事か……」
何事もなかったかのように衿を合わせ、果心は天を仰いだ。
高村果心、二十七歳。職業、私立探偵――。
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