「今年も会えるかな、あの人」
少年が、手を引く母親を見上げながら訊く。腰のあたりまでしかない少年の頭を空いた手で撫でながら、若き母親は微笑んで返した。
「そうね、きっと会えるわ。そっか、もう、あの人の歌が聴ける時期になるのね」
母親の眼は、少年の顔を離れて通りの反対側を見ていた。雪祭りのころには一面が積雪で真っ白になる大通り公園も、今年はまだそこまで降り積もっていない。チェーンを穿いた4WDがアスファルトの上の雪を掻き、僅かな雪をすべて踏み砕いて溶かしてしまっている。
「祐希もあの人を見るの、三度目になるのかな」
母親の眼が眇められる。視線の先にあるのは、降雪の少ないグレーの街並みではなく、純白のヴェールに覆われた幻想的なイルミネーションで着飾った街だった。思い出は美しい。記憶は歪められ、美化され、簡略化されていく。
以前から、その噂は彼女の耳にも届いていた。雪祭りの数日前から、札幌市内に現れる雪上の路上演奏家──この雪の降りしきる時期に、その男はふらりとやって来て、アコースティックギターをつま弾いて一曲だけ歌い、客の様子も顧みずに姿を消すのだという。その歌を最初から最後まで訊くことができたら、その客は幸せになれるという──都市伝説のような眉唾ものの話だったが、彼女が以前勤めていた会社の女性従業員の間でもその噂は有名だった。
彼女たちは雪祭りの時期になると、彼を求めて街を徘徊する。毎年毎回決まった場所に立っているわけでなく、また目深にかぶったニット帽の奥の素顔を知るものもいない。頼りは、全身を黒でコーディネートした、ギターを持った青年という外観情報だけだった。そんな頼りない情報だけで、彼女たちは街に繰り出し、二手に分かれて青年を探し歩きていた。無論、そんなあてどない捜索で目的の人物に巡り合えるわけもなかった。
母親──まだそのころ、彼女は母親ではなかった──もまた、そんなミーハーなOLのひとりとして、極寒の街を徘徊したことがある。
夜も一〇時を回り、心身ともに冷えて疲れ切った彼女たちの根が尽きて解散となったころ、ひとりになって帰途についた彼女は不思議な青年と出会った。頬骨が浮き上がるほど痩せていて、乱れた髪が無造作に長く、およそいい男とは呼べない目の落ちくぼんだ無精髭の彼は、通りの端にある街灯の当たらないベンチに横たわっていた。その身体の上にはうっすらと雪が積もっている。身体から、アルコールの匂いが立ち昇っていた。酔って寝ているとしたらかなり豪胆な男だ、と彼女は冗談交じりに思う。そう、今ならそう思うこともできる。だが、仲間と別れ、ひとりになってから彼を発見した彼女は、そんな悠長な言葉を吐く余裕を全く持ち合わせてはいなかった。
自分の身体の中のどこにそんな力があったのか──今となっては不思議でならないが、その時の彼女の活躍は目を見張るものがあった。男を担ぎ上げると、表通りまでの十数メートルを滑らぬように慎重かつ素早く歩き、流しのタクシーを捕まえると、豪胆にも男を自分のアパートに連れ帰ってしまったのだ。
息子の頭にそっと手を置く。掌に、さらさらとした髪の感触が伝わる。唐突に視界がぼやけ始める。彼女は目尻にうっすらと涙を浮かべている自分を発見し、慌てて息子の頭から手を離して涙を拭った。
この髪の感触……。
忘れられない感触だった。
たった一度だけ。
その瞬間に、彼女の運命は決定づけられていたに相違ない。
でも、後悔はなかった。
彼女は知っているのだから。
今年もまた、彼は会いに来てくれる。
きっと来てくれる。
あの美しい調べとともに──。
深夜。
街灯の僅かな明かりが視界に入り、矢のように背後に走り去る。その先は、闇。次の街灯がやってくる数秒間は、目前の路上を照らすヘッドライトだけが明かりと呼べる唯一のもの。
右手で絞るスロットルはほぼ全開だった。ギアをトップに入れてから、すでに数時間が経過している。仄かに光るガスランプはまだ燃料に残があることを語っていたが、それでも目的地までに数回のスタンドインが必要なのは明らかだった。
降雪量の少なさが唯一の救いだった。いかなモンスターマシンでも、雪が深く降り積もる高速道路をフルスロットルで疾走するのは不可能であり、また紫煙はそこまで命知らずの男でもなかった。
物見遊山なら、航空機で行けばいい。旅情を愉しみたいのなら、夜行列車で行けばいい。だが、紫煙は北に向けて黒い愛車を走らせていた。彼にはこのバイクが必要だったのだ。彼には相棒と呼べるものはこの単車しかなかった。生きるも死ぬも、揺籠であり、棺桶でもあるこの固いシートだけが知っているのだ。
時折落ちてくる細かな雪が風圧で切り裂かれ、飛沫となって〈ニンジャ〉の背後に飛び去っていく。巡航速度をスピードメータで確認する。針はメータのてっぺんをやや右に触れた位置から微動だにしない。
頭上を情報指示板が飛び去る。紫煙の眼に、花巻の文字が一瞬だけ関知される。この先から、チェーン規制区間になるはずだ。もう、今までのように時速二〇〇キロで巡航することはできなくなる。時間が惜しい──右手に力を加える。それに呼応するかのように、〈ニンジャ〉の一一〇〇CCのエンジンがさらに一段高い咆哮を上げる。
誰一人いない深夜の東北道を、黒い矢が飛び去っていく。完全封鎖された、紫煙のための高速道路。邪魔者はなく、見るものも訝しがるものも、咎め立てるものもいない。日本の法律さえも凍りつき、その機能を失った番外地。紫煙は走った。無言で走った。その先にある地獄を見るために。その先にある悪夢に引導を渡すために。それが紫煙の存在価値。それが彼の唯一の存在理由。
シートカウルに縛りつけた黒いパラシュートクロスのバッグが雪の飛沫を浴びて、まるで紫煙の代わりに泣いているかのように水滴を後方に投げ出していた。
前方に進むことにのみ集中していた紫煙は、後方から近づくものがあることに気づかない。
紫煙と同じように、まるでマシンの耐久限界に挑戦するかのようにフルスロットルで近づく影。それもまた、バイクにまたがる人影であった。
紫煙が黒い矢なら、その影は銀の刃だった。闇を切り裂く白刃の切先──〈カタナ〉もまた、一一〇〇CCのエンジンの持てる総てを振り絞って走った。マシンの能力としての最高巡航速度は、紫煙の乗る〈ニンジャ〉に適わない。さらに一段階高い加速をかけた紫煙に追いつくことは今の状態では不可能だと悟ったのか、〈カタナ〉は深追いをやめ、自らの巡航速度を保ったまま少しずつ紫煙との距離を開け始めていた。
フードがファーで覆われた白いエナメルのショートダウンパーカー、黒い起毛のハイネックセーター、ナチュラルブラウンのタイトミニにダークブラウンのロングブーツ。一一〇〇CCのモンスターマシンにまたがり、時速二〇〇キロで巡航する人物の格好ではおよそない。ヘルメットもしていない。長い漆黒の髪が、飛びすさる雪と相まって、煌々と輝いて宙を舞っている。サングラスの中の眼は僅かに眇められている。紅いルージュの口許に悔しさとも自嘲とも取れる微笑みを浮かべ、彼女は〈カタナ〉に語りかける。
「よく頑張ったね……お互いに」
見失わなければいいのだ。彼女は心の中で、独りごちた。
男の名は、御岳祥雄と言った。
背格好から判断するなら、三〇代の半ばほどだろう。背は一七五ほどあるのだろうが、極端な猫背なため、もっと小さく見える。肌は青白く、痩せていて眼が落ちくぼみ、細い顎の回りは無精髭で覆われ、その第一印象は決して良好ではない。
昼間に彼を見たことのある住人は、このアパートには皆無だった。夜の仕事だ、と本人は言うが、それでも昼間は自室に篭りっぱなしの彼を気味悪く思う隣人がいるのもまた事実だった。
祥雄も社交的な性格だとは言いがたかったが、しかしながら外界と遮断された生活を特に好んでいるわけでもなかった。彼は自分の職業を話したがらなかったが、友人がいないわけではなく、朝方に人を連れて帰ってくる酔ってご機嫌な彼を見たものも少なからず存在していた。
そんな彼だが、ここ数日の彼の豹変振りには、アパートの住人たちもいささか驚きの域を超え、あきれ返るようになっていた。
深夜の口論。怒鳴り声。暴れているとしか思えない騒音。二階建てで総部屋数八室の小さな木造モルタルアパートのこと、その騒動は漏れなく総ての部屋に伝わっていた。そして翌朝には、アパートの総ての部屋を漏れなく回って平謝りする彼の姿。無愛想で挨拶もろくに交わせなかった数日前の彼からは想像もできない変化は、逆に住人たちに言い知れぬ不安を与えていた。
何があったのか?
何が起こっているのか?
彼は何者なのか?
この言い知れぬ不安は何なのか?
住人たちの間に、疑念の渦が湧き起こる。
それは、祥雄にも痛いほど判っていた。
世間とのつき合い方が下手なばかりに、このような騒動を巻き起こしてしまう自分に忸怩たるものを感じる。自責の念ばかりが膨らみ、ここ数日は布団をかぶっても寝つけない。夜が来れば仕事が待っているが、それを拒めば再びアパートにやつらがやってくるだろう。それは避けたい。ささやかな幸せを、このアパートに住み続けるという本当にささやかな夢を、そんなことでなくしたくはない。
祥雄は落ちくぼんだ眼を見開き、思う。そうだ、もうこれ以上はここの人たちに迷惑はかけられない。こちらから行こう。直接言うんだ。駄目で元々、こちらから働き掛けなければ物事は好転しないんだ。積極、積極……口の中で「積極、積極」と呟きながら、彼は布団を出て枕元にある目覚まし時計のデジタル表示を見た。
17:32──午後五時三二分。すでに日没している時刻。もう出ても大丈夫だ──祥雄はゆっくりと身を起こした。
着たきり雀の一張羅に着替える。防寒のためのハイネックのトレーナーも黒ならば、ジーンズも黒。闇に溶け込む黒いコートに、黒いトレッキングシューズを履き、最後に黒いニット帽を目深にかぶる。首にはご丁寧に、漆黒のマフラーをさらにぐるぐると巻く用意周到さだ。
アパートの部屋は二階の角部屋で、廊下は建物の中にある。祥雄がここに住み始めた一〇年ほど前は簡素な屋根があるだけの吹きさらしの廊下だったのだが、雪害で何度も屋根が落ち、また雪でドアが開かないことも多く、数年前に住人のカンパを集って壁と強固な屋根を取りつけてもらっていたのだ。祥雄は扉の隙間から、一万円札の数枚入った封筒を集金にきた発起人の住人に渡した記憶がある。今となっては、発起人が何号室の誰だったかも思い出せない。当時は住人になど興味がなかったのだろう。今の自分なら、という思いが祥雄にまた忸怩たる思いを募らせる。
鉄製の階段を下りると、外はうっすらと雪化粧を施していた。すっかり陽は落ちていたが、雪の白さと街灯の明るさが日没を感じさせない。空気は澄み渡り、肺の中に清々しい空気が入り込む。祥雄は大きく深呼吸すると、バス停に向かって歩み始めた。
バスで二〇分ほどのところに、祥雄が毎晩のように出入りしているバーがある。六時から営業しているから、バスがすぐに来ても到着するころには店は開いているはずだ。時刻表を見ると、タイミングのいいことに駅前行きがすぐに来るようだ。祥雄はコートに入れてあった携帯電話で時刻を確認しようとして、そこに着信履歴が出ていることに気づいた。二つ折りの携帯を開くと、液晶パネルにバックライトが灯る。
今夜、会いたい相手からの着信だった。祥雄は留守番電話サービスに接続すると、携帯を耳に当てて伝言を聞いた。バスが角を曲がってやってくるのを眼で追いながら、空いた右手を挙げてバスに合図する。バスは祥雄のいるバス停の前でゆるやかに減速した。
「我々はあなたの行動にかなり眼を瞑ってきました。それは、あなたが優秀で、仕事熱心な上に失敗がなかったからです」
ロックアイスがグラスの中でからん、と大きな音を立てた。乳白色の液体が虹のような光を放って揺らめいている。えらの張った偉丈夫は、小さな眼をしばたたかせながら隣に座った祥雄とグラスを交互に見る。睨みつけているのかもしれなかったが、その眼はあまりに小さく、祥雄には視線を感じることができないほどであった。
「でもね、御岳くん。もう限界なんですよ。わたしの部下がお宅にお伺いして何度もご忠告申し上げているとは思いますが、わたしの口から再度言わせてもらいます。今年はやめてください。君の道楽は危険すぎます」
「なぜ自由に歌わせてくれないんですか」
店内に入って二〇分、挨拶とオーダー以外で口を開くのはこれが初めてだった。祥雄は意を決した表情で、やや上ずりながら男に言った。
「年に一度、それだけですよ。別に、あんたたちに迷惑を掛けたわけじゃない。確かに、おれは自分のこの声が危険な、諸刃の剣だってことは承知ですよ。夜しか出歩けないこの身体になって、もう一〇年が経とうとしている。その間、おれはかなり忠実な部下だったでしょ? 唯一の趣味というか、息抜きというか……一年でたった数日間しかやらない、本当にそれだけのささやかなことじゃないですか。それまで取り上げるんですか」
男は小さな眼をさらに細め、しわの中に埋没させてしまう。その表情は珍妙で、怒っているようにも悲しんでいるようにも、はたまた呆れているようにも見える。祥雄はリアクションが取れなくなり、再びビアグラスを傾けてカウンタの中に向き直る。
洞穴のように長細いバーだった。L字型のカウンタに丸椅子が八席、奥にテーブル席が二つ。店内の席はそれだけだった。洋酒とカクテルのヴァリエーションは豊富だったが、強い酒や甘い酒を好まない祥雄は国産のビールしか飲んだことがない。男はここで会うと、いつも甘そうな香りのするリキュールを飲んでいる。
「言ってくださいよ。何がいけないんですか。どこが危険なんですか。おれの、どこに落ち度があるんですか」
視線をカウンタの中でオードブルを作るチーフコックに合わせたまま、祥雄は呟くように言った。男が聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりの声量だ。無論、生春巻を巻くコックの耳には届くまい。男はホワイトルシアンを飲み干すと、グラスを静かに置いて祥雄に向き直った。
「はっきり言いましょう。あなた、ご自分の噂を訊いたことがないとは言わせませんよ」
祥雄の手が、ビアグラスを知らず握りしめる。
「雪祭りの数日前、忽然と姿を現して観客を幸せにする幻のストリートミュージシャン……噂はまずいのです。我々は噂になどなってはいけないのです」
男は空になったグラスを持ち上げ、カウンタ越しに店員にお替わりを要求した。その手から空のコップがなくなるのを確認してから、男は手を組んでその上に額を載せ、くぐもった声で言葉を続けた。
「あなたの声は、人間を操る特殊な超音波を含んでいます。その力を、あなたは組織の考えとは正反対の方向に使っている。束縛ではなく開放、従属ではなく自由、統一された幸福ではなく我侭な理想。あなたの声は、そんなことのためにあるのではありません。わずか数日の、ほんの一瞬のことかもしれません。それでも、それは組織への裏切りになるのです」
祥雄の手に、さらに力がこもる。これ以上男の言葉を聞いていたら、ビアグラスを握りつぶしてしまうかもしれない──まだ祥雄にはそこまでの思慮が残っていた。気持ちを落ち着けるために残されたビールを一気に飲み干すと、グラスをカウンタの端に叩きつけるように置いた。カウンタの中の店員がちらりと祥雄を見るが、声高に咎めるようなことはしない。手にしたホワイトルシアンを男の前に置き、祥雄の空いたグラスを回収した。
「それともう一つ。我々はあなたがたに家族を持つことを容認していますが、あなたがたは我々にそれを報告する義務があります。あなた、報告を怠っていますね」
乳白色のカクテルを口にしながら、男がちいさな瞳を祥雄に向ける。祥雄は何も言えない。ただ惜し黙って、額に汗をかく。
「私生児のことなど判らない、と思われましたか? 組織も舐められたものです」
男はグラスをヘンプのコースターに置くと、その手を背広の内側に這わせた。そこから取り出されたのは、数葉の写真だった。祥雄の眼は、そこに映し出されていた被写体に釘づけになってしまう。
「麻生理奈、二五歳。パートタイマー。四年前、男児を出産。父親は不明。麻生祐希、四歳。先天性の難治療疾患を持ち、現在北海道大学病院血液内科特別病棟にて入院治療中。ただし、未だに病名の特定ができない」
「病名が?」
額の汗を拭おうともせず、祥雄は訊く。男の口が再び開かれるのを、凝っと待つ。
「そう、現代の医学で彼の病名を特定するのはまず無理でしょう。医師たちは白血病と類似した派生種だと考えているようですが、恐らくお手上げの状態のはずです」
グラスを持ち上げたまま、男は思い出したように言う。
「昼間が耐えられないんですよ。陽の光を浴びると意識を失ってしまう。心肺が停止したこともあったそうです」
祥雄の視界が急激に狭まる。視野狭窄だ。精神的なダメージが彼を急激に襲い始めていた。
「あなたの子ですからね──今にこの子も、生き血を吸わないと生きていけない身体になるかもしれませんよ」
ホワイトルシアンがグラスから減っていくのを、祥雄はただ呆然と見守っていた。
「我々はあなたを赦そうというのですよ。今までのあなたの功績を重んじて……だから、今年からもう、あのような噂になる行為はやめてもらいたいのです。判ってください、御岳さん」
そう言うと、男は空のグラスを置き、席を立った。コートを置いたままにしているので、退席するわけではないようだ。どこに行くのかを眼で追おうとするが、その視界に写真が入ってきてしまう。祥雄はそこで凝固してしまった。
写真の中で、女性と子供が微笑んでいる。カメラに向けて微笑みを返しているということは、この写真を撮った者は彼女の知己だ、ということだ。それは詰まるところ、彼女がすでに組織の監視下に置かれていることを示している。
祥雄は知っていた。あの時のあの女性に、自分の子供が宿っていることを。そして、あれ以来、毎年どこかで調べてきたのか、必ず自分が演奏する場所に来て歌声を聴いていくことも。だが、自分から声はかけられなかった。名乗れる立場になかったからだ。手をついて平謝りしても足りないだろう。正直、どうしていいのか全く判らない。だが、彼女は来た。翌年も、来た。次の年には、子供を背負っていた。その次の年には、子供は手を引かれて立っていた。あの子が自分の子供である可能性を完全に否定したい自分と、否定できない自分の葛藤が彼を呵んだ。
──おれに子供をつくる能力があるのか?
以前、さりげなく男に訊いたことがあった。男はその時、すでに自分の隠していたこの事実を知っていたのかも知れない──男は親切に説明をしてくれた。
改造人間には二種類が存在する。人間であることを捨てて純粋戦闘用に強化されたタイプと、人間でありながら人間を超えるべく強化されたタイプと。祥雄は後者だった。彼は自己の強化された遺伝子を残すことが可能な、より人間に近い改造人間だったのだ。
写真の中で微笑む女性。肌の白さが際立つものの、元気に笑みを作る少年。これがおれの子、おれの遺伝子を継いでしまった子……視界がぼやける。写真が滲み出し、テーブルとの輪郭が曖昧になっていく。
過ち。組織に忠実で、世間から隠れてこそこそと生きてきた自分が唯一犯した過ち。そのたった一度の過ちが、この女の一生を変えてしまった。少年に過酷な生を与えてしまった。
どうすればいい?
どうやって償えばいい?
祥雄は苦悩する。
答えは出ない。そんな簡単には出ない。そんな簡単な問題ではない。
破壊と逃避に明け暮れた彼に、人を生かして幸せにする方法など思いつくはずもなかった。
そんな彼の背後に、人の気配があった。男のものではない。祥雄は涙を拭い去ると、狭いテーブル席の方向を向いた。
女だ。
髪が長い。くすんだオレンジの明かりで照らされた暗い店内でもはっきり判るほど、艶やかで滑らかな黒髪だった。肌は透き通るように白く、逆につくりもののような冷たさを覚える。その表情は眼を覆うゴーグルのような大きなサングラスで遮断され、はっきりと読み取ることができない。身体に貼りつくような起毛のハイネックセーターの胸元は大きく盛り上がり、黒い布地の上に銀の逆十字架がぶら下がっている。腰はあくまで細く、その下のタイトなミニスカートから伸びる白い太股は、祥雄のような朴念仁の心をも揺さぶるような美しさだった。
紅い唇から、言葉が神託のように祥雄の脳天に降り注ぐ。
「さあ、どうする?」
口許に笑みが浮かぶ。この女が初めて見せる、人間らしい感情表現だ。
「組織に忠誠を誓って、二度と街で歌わないようにするか……でも、それは多分、二度と子供にも彼女にも会えないってことよね」
女は腰を折り、祥雄に近づく。吐息がかかりそうなほどに頬を寄せ、指先でカウンタに置かれた写真に触れた。最初は女性、続いて子供──指先が人物をなぞる。
「それしかないとは思うのよね。まさか、たったそれだけのために、組織を裏切って子供のところに走るわけにもいかないものね……あら、可愛い子ね。丈夫に育ってくれればいいけど」
どうする。
どうすればいい。
人間として。
人間として?
人間であることを捨てたおれが、人間として何をすると?
人間として、何ができると?
祥雄の心は千々に乱れた。
「あたし、知ってるのよね。彼女の連絡先」
かっと眼を開く。一瞬、息が止まる。ワンテンポ遅れて、首の筋肉が反応した。顔を右に捻ると、女の鼻が祥雄の鼻に当たった。吐息がかかる。甘い匂いがした。
「会いたい?」
女の言葉に、脊髄反射よろしく即答する。
「もちろんだ」
「じゃ、これ」
女は顔を放すと、祥雄の前に携帯電話を差し出す。回転式の携帯電話の大きな液晶には、バックライトに照らされて電話番号が浮かび上がっていた。
「お前……何者だ?」
「当たり」
女は携帯電話の通話ボタンを押しながら、祥雄には理解できないことを言う。
「それがあたしの名前……これから先、あなたがどうするかは自己責任ね」
小雪がちらついていた。本格的に積もる質のものではないが、舞い上がる雪で視界が悪くなる。寒空の下、祥雄は走っていた。女が誰であるのか、なぜこのような段取りを組むことができたのか、それは判らない。だが、祥雄には判っていた。これが最初で最後のチャンスなのだと。組織に歯向かって、幸せになれた者はいない。脱走者には死、あるのみだ。それでも、と思う。祥雄は初めて、幸せを掴もうとしている。生を受けて三五年、改造人間となって一〇年。幸せとは、誰とも濃密な関係を持たず、ひっそりとできることをこなしてくことだと思っていた。自分はそれでよかった。このまま、組織に言われた仕事をこつこつとこなし、朽ちていけばいいのだと朧げながらに思っていた。
二度と表の世界には戻れない身体になったと知った時、祥雄の気持ちに僅かに変化が起きていた。もう昼間、外に出ることはできない。そのような特殊能力を持ってしまったことを悔やんでも仕方なかった。仕事は順調だったが、気持ちに余裕のできた彼が思いついた息抜きは、学生時代に憧れたミュージシャンの真似事だった。
人前で歌を歌うなど、恥ずかしくてできたものではないと思っていた。始めたばかりのころは、客がいるかどうかすら見ることができなかった。目立たないようにということばかり考えていた。闇に隠れて生きる自分だったが、どこかで誰かに見ていてほしかった、存在を知っていて欲しかったのかもしれない。
祥雄は自分に言い聞かせていた。歌を歌うのは、自分のために歌を歌うのは、生身の身体を失ったあの日──正確な日付は今となっては思い出せないが、雪祭りの数日前だけにしよう、と。一年でその晩だけは、自分に言い訳を許そう、と。人間だった時のことを思い出そう、と。
女の指定した時刻は、夜の一〇時。雪祭りの会場となる中央通りの設営で明るい、札幌テレビ塔の真下だった。電話を代わった時、祥雄は震えていた。どんな修羅場の時よりも、震えていた。初めて組織の作戦に参加し、何人もの人間を目の前で操ったときよりも──初めてこの手で、喉の渇きを癒すために人間を殺したときよりも──どのときよりも、震えが止まらなかった。
彼女は涙声になりながらも、祥雄に会いたいと言ってくれた。息子を──祐希を病院から連れ出すのに許可がいるから、少し時刻を遅くして欲しいとも言った。外泊許可は簡単に下りるからと言う彼女の声は明るく弾んでいた。
会いたい。会って、謝りたい。そして、例えそれが不可能だとしても──これだけは直接言いたい。
──おれと一緒に逃げてくれ。
バスで行ってもよかった。タクシーを捕まえることも考えた。だが、祥雄は走り出していた。ゆっくりと何かを待つことが、今の彼にはできなかったのだ。幸いにして、彼は改造人間である。人間のように、数分走っただけで息が上がるようなことはない。交通機関を凌駕するような高速走行を行う能力は持ち合わせていないが、いざとなれば彼には翼が──めったに使わないが、滑空するための翼があるのだ。
ビルとビルの間の路地を選んで、祥雄は人間離れした脚力で駆けていく。もうすぐ会える、もうすぐ──。
「止まれ」
声がビルの谷間に響いた。祥雄は慌てて脚を止める。前方に、逆光を浴びてシルエットになった何かが進路を塞いでいた。眼を眇め、それが何であるかを知ろうとする祥雄に、影が再び言う。
「そこまでだ」
大型バイクに男が跨がっている。丸いヘルメットの眼にあたる部分が、大きな赤い光の球になっている。口許は剥き出した歯のように鋭く尖り、その開いた部分からさらに人の口が覗いていた。そこから、何か筒状のものが突き出して見える。
男は煙草を銜えているのだ。
吐き出された白い煙が、彼の首元に纏わりつく。まるで白いマフラーがたなびくようだ──そこまで見て、祥雄は気づく。
脳に埋め込まれた補助チップが、警告を発していることを。
普段なら絶対にありえない、警報レヴェル5──回避不能につき証拠を隠滅して自死せよ──が脳内に鳴り響いている。
「組織への裏切りは死──知らない、とは言わせないぞ。蝙蝠男九四式」
センサが、男を自分と同じ改造人間だと告げる。メモリに男のデータはない。だが、最高レヴェルの警報が発令されている。このようなケース、あるとしたら一つしかない。祥雄は呻くように呟く。
「処刑人、か……」
その呟きとほぼ同時に、金属音がビルの谷間に鳴り響く。開かれていた金属の顎が閉じられ、煙草がぽろりと路上に落ちた。
「どけ、処刑人! おれは行かねばならないんだ!」
祥雄は力を解放した。黒いコートの下から、身体の数倍の大きさの禍々しい翼が飛び出す。この場から逃れるだけなら容易いはずだ。相手がいかな百戦錬磨の処刑人だとしても、空を飛ぶ自分に追いつく方法はない──一度飛び立ってしまえば、それでいい。祥雄は大きく屈伸し、超常の力を持って跳躍した。
「とぉ!」
だが、跳躍力では処刑人のほうが上手だった。数十メートルあるはずのふたりの距離は、黒い処刑人の前ではないに等しいものだったのだ。一跳びで間合いを詰めると、アスファルトを蹴った処刑人は神速を以て祥雄に空中で追いついていた。
祥雄は追いすがる黒い影に、声を放つ。打撃のように直接相手を倒すことはできないが、その声には相手を操る特殊な超音波が含まれている。相手の動きを撹乱するだけの力はあるはずだった。哀しい歌声が発せられ、祥雄の足を今まさに掴まんとしていた処刑人は右腕を麻痺させて空を掴む。これで、もう追いつけない。逃げ切れる──そう思って更なる上昇のために翼を打ち振るおうとした祥雄は、あり得ない光景を見ることになる。
処刑人は落下した。それは見ずとも判る。だが、彼は落下しただけではなかった。着地し、落下のエネルギーをまるでばねが弾むかのように倍化させ、今自分が飛んでいる位置──ビルの窓の数を信じるなら、地上五階の高さ──まで再跳躍してきたのだ。そして、自分の脇をすり抜け、さらに上昇していく。高く、高く。
蝙蝠の翼は羽撃けない。滑空するに過ぎない代物だ。空中での急激な移動は苦手だった。加速もできない。減速もできない。左右に動くには、この路地は狭すぎた。祥雄は顔を上げ、舞い降りてくる男を超音波で迎撃する以外に手を持ち合わせていなかった。声を張り上げ、祥雄──蝙蝠男は最高の超音波をぶつけようとした。
「うわあああああああああああ!」
その眼に、処刑人の靴底が迫ってくる。
「ライダーキック!」
視界が真っ赤になり、真っ黒になり、急激に総ての感覚が失われていく──。
雪祭りの設営が急ピッチで進められていく。煌々と輝くサーチライト。身体じゅうから蒸気をあげて働く偉丈夫たち。唸りを上げる建設機械。雪像たちは物言わず、そこにあった。不思議と雪の冷たさは感じられない。白く、柔らかく、暖かな印象さえ与える。
ジッポを開く乾いた金属音に続いて、赤い炎が上がる。その明かりの中には、苦虫を噛み潰したような表情の紫煙がいた。〈ニンジャ〉に身体をもたれかけ、肺いっぱいに喫い、ゆっくりと吐く。白い煙が、紫煙の回りをもやもやと漂う。
視界の先には、大きな荷物を持った若い母親と、雪に負けないくらい肌の白い男の子が立っていた。楽しげに会話するたびに、両者の口から白い息が上がっている。会話の内容が聞こえる距離ではないが、紫煙は耳を塞ぎたくなる衝動を覚える。
「これがあたしたちの仕事じゃない」
路上から声がする。女のものだった。紫煙は振り返らない。親子を見つめたまま、微動だにしない。
「なぜお前がここにいる」
煙草のフィルタを噛みしめながら、紫煙は呟く。背後の女に聞かせるためではない。自分に向けての言葉だ。だが、女は耳ざとくそれを聞きつけてくる。
「必要があってここにいるのよ」
吸い殻となった煙草を口から離し、腰にぶら下げていた簡易灰皿にしまい込む。灰皿の蓋を閉める紫煙の耳に、セルスタートの音が聞こえてきた。
「シエン、どうしてあなたはあたしを好きになってくれないのかしら?」
言葉が紫煙の耳に届くのと、〈カタナ〉が発進するのはほぼ同時だった。
「お前は死神だからさ」
眼は、親子から離れようとしない。離しようがなかった。
「そして、俺もな」
仮面ライダーという名の、死神──紫煙はもう一度、苦虫を噛み潰したような表情を作っていた。
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