うどんが好きかそばが好きかで、生まれた地方が判るという。 うどんの文化圏は西日本、そばのそれは東日本、と言われている。 昶の実家は浜松にある。おおきな浜名湖によって強大な名古屋文化にかろうじて侵されずに済んだ、東海道側における東日本文化の最西端である。 自分が「うどん派」なのか「そば派」なのか――昶の記憶にあるのは、豊橋の予備校に通っていたときの映像だ。 駅の改札口のわきにある立ち食いうどんの店で、かけうどんに葱を山盛りにして掻き込む、若き日の自分である。 浜名湖を越した西側に位置する豊橋市は立ち食い「うどん」圏、浜名湖の東にある浜松市は立ち食い「そば」圏であった。 だが、ぎりぎりのそば圏に住んではいたものの、彼の家族は「うどん派」だったようだ。 日曜の夜、家族で外食に出かける時も、彼の父親は釜揚げうどんの店に昶を連れていった。 そば屋に行った記憶はない。連れて行ってくれとせがんだ記憶もない。彼の母親は大のラーメン好きであったが、「そばを食べたい」と言ったことはなかったように思える。 彼が中学のころ、カップラーメン界にカップうどんの一大センセーションが巻き起こった。「マルちゃん赤いきつね」うどんの登場である。 先行する「きつねどん兵衛うどん」が妙に薬品臭いスープを使っていたのに比べ、「赤いきつね」は粉鰹節(というよりは煮干や鯖節に近いものだったが)を効果的に使い、だしの香りを演出して「どん兵衛」に真っ向から勝負を挑んだのだった。 昶は「赤いきつね」が大の好物だった。「どん兵衛」の薬臭さに辟易していた彼は、すぐさま「赤いきつね」に飛びついた。後発の「緑のたぬき」そばが発売されても、彼は見向きもせずに「赤いきつね」だけを食べていた。 こういった状況証拠を見る限り、子供の時から予備校に通うころまで、昶は明らかに「うどん派」であったらしいと言えるし、自分でもそう思っていた。 その昶が大学に合格し上京したころから、状況は少しずつ変化していく。 学生のころは貧乏で、大したものも食っていなかったが、いつの間にか昼飯は立ち食いそばチェーン・富士そばの五目そばになっていた。 「うどん派」だった彼がいつ変転し、「そば派」になったのかは定かではない。 昶にも判っていたことだが、立ち食いそば屋のそばはたいていが不味い。麺は妙に固いか、逆に妙に柔らかくてぬるぬるしているか。変に甘くて、そばらしからぬ味。のどごしも何もあったものではない。手打ちの名店で質の良いそばを食べたなら、立ち食いそばなど二度と御免被る――そんな気持ちにならざるを得ない。 ただ、富士そばのそばは、彼にとって「許容範囲の味を持つそば」だった。「そば本来の味ではないが、彼好みの味のそば」である、とも言えた。小さなかきあげ天と温泉たまご、葱のせ放題で三百円の五目そばは、貧乏な昶には必要かつ不可欠な栄養源だったのだ。 理由はともかく、彼は東京でそばをパートナーとして選んでいた。
昶が上京してから、八年の歳月が流れていた。 大学を卒業し、バブルの波に乗って彼は百貨店の外商部門に商品を紹介・提供するギフト関連の商事会社に就職していた。 その業界では「ギフトボックス誠光」といえば、名入れバラ捲き商品扱い業者のトップクラスである。 ただ、昨今はバブルもはじけ、最大顧客である製薬会社や自動車産業界も売上ダウンで景気は冷え込み、官公庁も軒並み予算を削減。一時期のような莫迦な大口特注は影を潜め、もっぱら小口な取り引きに終始していた。 この業界では、顧客に購買意欲がなくては話にならない。プレミアムやバラ捲きは企業にとって必需ではないから、真っ先に必要経費から削られる。金がなくてはプロジェクトは組めない。いきおい、需要は激減する。買い手に予算ややる気がなくては、いくら天下の百貨店でも売り上げを立てることは出来ない。商売の話は、素地がゼロのところからは決して生まれないものだ。ないところから依頼が来るわけもなく、依頼がなければいくら新製品やプレゼンテーションの方法を提案したところで梨の礫である。 昶の営業成績は、しだいに落ち込んでいった。 彼の性格からいえば、成績の下落はなんら彼を心配せしめる要因となってはいなかった。無論、会社での立場は弱い。営業マンにとって数字は絶対であり、唯一の評価ポイントである。しかし、営業成績の落ち込みと反比例するように、営業時間内の昶の気持ちは時を経るにしたがって上向いていった。 営業中の唯一にして最大の愉しみ――「どこで昼飯を食うか」、「持てる最小の予算でいかにうまい昼飯を食うか」。一種のシミュレーションゲームにも似たこの毎日の行為に、彼の全能力は注がれていたのだ。 ラーメンもいい。ステーキは金がかかるがたまには食いたい。寿司、天麩羅、中華に洋食、コーヒーに軽くサンドウィッチ。暑いときにはアイスコーヒーのついたランチのあるファミリーレストランに、寒いときには小鍋だての粋な小料理屋に。昼食代の平均を千円とするなら、それを極力超えないで、いかに満足のいく食事を摂るか。腹具合を計算に入れ、量で攻めるか質で攻めるか。財布の中にはいくらあるのか、給料日まであと何日あるのか……昶の頭は十一時半を回ると、こういった雑念でいっぱいになる。もちろん、その雑念は彼にとって煩わしいわけではない。 そんな行動を繰り返した末に彼が手打ちそばに辿り着いたのも、また一つの帰結と呼べるものだったのかもしれない。 そばは窮極の昼食メニューである。「ソラカ族」という言葉もあるくらいだ。「ソラカ族」の「ソラカ」とはそば、ラーメン、カレーを意味し、「今日はラーメンでも食っかあ」といった熟慮なく選択される昼食メニューの総称を簡略化した言葉であり、「〜族」とはそういった熟慮なき昼食を繰り返すサラリーマン諸氏を差す。 だが、ラーメンだってそばだってカレーだって、あだやおろそかにはできぬ国民食の代表選手であり、旨い店は本当に旨い。それも、良心的な値段で旨いのだから、ファンは増える一方であろう。「ソラカ族」は自嘲の意を含んだ言葉だが、ソラカには卑下や中傷に値する罪はまったくない。むしろ感謝すべき存在と言えた。 事実、昶の選んだそば屋のそばは旨い。 その店は、池袋は東武百貨店に隣接するメトロポリタンプラザの七階にあった。 そこは東武の旭屋書店のフロアとつながった、いわゆるレストラン街である。 名だたる老舗の百貨店であれば、銀座の一流店の支店や有名シェフを抱え込むレストランがテナントに入っていることもあろう。ただ、そういった店は本店や高級レストランで食べるよりは割安だが、サラリーマンの懐具合からいえば決してリーズナブルとは言い難い。 東武百貨店は新生東武として蘇って以来、「伝統を受け継ぎ守る老舗」としてではなく今を生きる「ナウだが派手すぎない」落ち着いた魅力が受け、「西の東武、東の西武」と並び称された池袋の王者・西武百貨店を追い落とすまでに成長した。 東武のテナントは、無理がない。背伸びした高級感は日本橋や銀座に任せ、あくまでリーズナブルでファッショナブル、一般庶民でも手の届く商品の魅力を紹介する――これが東武の戦略である。 西武が「若者のナウを追い求めた店」ならば、東武は「老若男女の誕生から死までを無理しない範囲で煌めかせる店」である。 その東武百貨店に隣接するメトロポリタンプラザとて、例外ではない。東武にない特徴は持たせてはいるが、あくまで基本は超高級ではなく手の届く高級感、リーズナブル路線だ。七階、八階のレストラン街にも法外に高級な店はほとんど見つからず、納得のいく価格帯の昼食を摂ることが出来る。 その中に一軒、手打ちそばの店があった。 名を、小松庵という。 本店を駒込は染井に持つ、創業大正十一年の老舗である。 メトロポリタンにある店は、そこの支店、ということになる。 手打ちそばの店、といっても実演コーナーがあるわけではない。そばは毎朝、本店で打たれたものが入荷される。 手打ちそばではあるが、「こね」「のし」「きり」のうち、人力で行われるのは「こね」の作業のみ。「のし」と「きり」は機械で行う。もともとそばの歯ごたえや弾力を司るのが「こね」であり、三行程のなかでもっとも重要な作業である。「のし」や「きり」も人力でなければ手打ちではない、との反論もあろう。ただ、「のし」や「きり」は機械に代行させてもそばの風味を壊すことはないが、「こね」まで機械でやっては風味も何もあったものではない。それでは市井の、メーカーからそばを仕入れるそば屋と何ら変わるところがなくなってしまう。 小松庵のそばには、一本芯の通った旨さがあった。 人にはそれぞれ、好みというものがある。 とくに食べ物の「旨い」「不味い」は、人によって千差万別である。 曰く「○○のラーメンは絶品である」、曰く「○○の天麩羅はいい仕事が成されている」、曰く「○○の鯖の味噌煮は口中で蕩けるほどの煮込みがされていて極上である」……しかし、それは食べた人間の、その舌が判断したことだ。万人が「旨い」と感じる食べ物などは存在しない。 昶は、いわゆる「田舎そば」が嫌いだった。不揃いに切られたそば、なま暖かいもり、冷えていないつゆ。名店と呼ばれ、各評論家に絶賛されている店で食べた田舎そばは、彼にとっては耐え難い「不味い」そばでしかなかった。 食べ物の好みだけは、人に何と言われようがそうそう変えられるものではない。ある日突然開眼した、などというのは夢物語に過ぎない。 昶の好きなそばは、細く均等に切りそろえられた、冷えたもりである。 ゆでたてで冷えている、というもりは滅多にない。ゆでたてならば、普通の蕎麦屋なら当たり前のように、その麺はぬるい。ギンギンに冷やそうとしてへたに水に打ったままにしておけば、麺はふやけてそば自体のうま味すら抜けてしまうだろう。 しかし、小松庵のそばは違った。 昶の理想に最も近い蕎麦屋だったのだ。 小松庵の「せいろ」は通常でも二段重ねである。そこに横たわったそばは、抜群の弾力を持った、冷えたそばである。しかも、冷水の中に放置されていたときに発生する水気が、ほとんどない。適度に濡れてはいるが、けっして水っぽくない。 そばが解れやすい、というのも名店の条件である。池波正太郎がその著書「男の作法」の中で言及しているとおり、いい店のそばは真ん中の数本を掴んで持ち上げると、そのままするするとほどけて適量のそばが掴めるものだ。ここがこんがらがって、いつまでたっても猪口にそばが入れられないようでは、そばの旨い不味いもあったものではない。無論、小松庵のそばは適量が真ん中から解れてくる。 角が立った、固めのそばが喉を滑り落ちるとき、昶はひとつの幸せの頂点を味わったような気分になる。追加そばを頼んでも、せいろ三枚などわずか二分で胃の腑に収まる。二分間の至福の時が、彼の日常で最大の幸せの時でもあったのだ。 そして、付け合わせのいんげんの胡麻和えを頬張りながら、彼はもうひとつの幸せの到着を待つ。 そば湯である。 小松庵は関東の蕎麦屋であるから、当然のようにそのつゆは濃い。猪口に五分の一ほど入れただけで、昶はせいろ一枚を平らげる。つゆが最初の量の半分になったところで、同量のつゆを徳利から注ぐ。そして、あとはせいろ二枚をそのつゆで食べ干してしまう。 三枚を終えると、つゆはほとんど底にへばりつく程度にまで減る。そこに、熱いそば湯を注ぎ込むのだ。 白濁したそば湯がわずかに茶に染まると、昶はそっと猪口に口をつけた。 ゆっくりとそば湯を飲み、大きく息をつくと、つい微笑みがにじみ出てしまう。 人に言わせれば、あまりに小さな幸せだろう。しかし、昶にはこの幸せは何物にも代え難いものなのだ。 至福のときを充実し、彼はレジに立つ。そこには、もうひとつの異なる至福が待っているのだ。 いつ頃からなのかは失念してしまっていたが、昶はこの店に好みの店員がいることに気づいた。 彼女は小さい。小さい、と言っても年齢ではなく、身長のことである。確かに年齢も、二十代の前半であることは間違いないだろう。だが、彼女の身長はその年齢層の女性の平均身長からみても明らかに低かった。 広い額に前髪が揺れる。ちょっと拗ねた幼児のような表情。しかし、別段仕事が嫌だとか、そういったそぶりはない。長い、黒のスカートが似合う華奢な肢体。後ろで束ねた髪が、振り返るたびにふわりと揺れる。 昶はその、自分の肩甲骨あたりまでしかない少女の、自信なさげな伏し目がちの視線が、いつしか気になっていた。 (笑った顔が見たいな) そばを食い、千円札を片手にレジの前に立ちながら、昶はいつも思う。もちろん、思うだけでひとことも発することはできないのだが。 昶は小松庵で毎日のように、暑い日も寒い日もせいろそば一枚追加を食べ続けた。いつしか彼は暖簾を潜る前に、「彼女いるかな」と店内を見渡すようになっていた。そして、彼女の勤務形態を少しずつ把握していく。月曜日と水曜日はいない、火曜日は昼過ぎに出勤する……。 そういった彼の不審な動きを知ってか知らずか、ある日、昶にとって感動的な事件が起こった。 事件、と言ってもそんな大仰なものではない。 その日、彼はいつものようにエレヴェータを下りると、まっすぐ小松庵を訪れた。 「いらっしゃいませ」 覇気のない声が発せられる。暖簾を潜ると、彼女が眼前にいた。 背が低いために、下から見上げる形になっている。上目使いに見られるというシチュエーションは、男にとっては仲々に刺激的である。 「御一人様ですか」 そうです、と言おうとしたが、なぜか昶は右手の人差指を一本立てただけで黙っていた。なぜ喋れないのか、自分でも不思議な気分だった。 「こちらへどうぞ」 奥のカウンターに案内される。真ん中に活け花をあしらった、ロの字型のカウンターだ。机の各辺に二名ずつ、合計で八名がぐるりと囲める造りだ。 そこの一角に腰を下ろすと、昶は鞄と上着を空いている席に置き、おもむろに彼女の方を向き直った。 その時、事件は起きた。 「お客様、せいろそばの一枚追加でよろしゅうございますか?」 座った彼に対し、彼女はわずかに腰を曲げて覗き込むようにして言った。 ――彼女は僕のいつもの注文を知っている! わずかな沈黙の後、昶は深くうなずいた。自然と笑みがこぼれてくる。 彼女はにこりともせずに、ハンディターミナルに「せいろそば 一枚追加」と入力すると、調理場に消えていった。 ふたつの感動が、彼の脳裏を駆け巡っていた。 ひとつは、彼がこの店で「常連」のお墨付を得たこと。 もうひとつは、誰あろう彼女にお墨付をもらったこと。 無論、彼女には深い考えなぞないだろう。ただ、毎日のように来る若いサラリーマンの注文を覚え、全く注文を変えない彼に対して、仕事上そう問いただしたにすぎないのだろう。 だが、昶の中では、そういう解釈は抑圧され、自分の都合の良い方向へと事実はねじ曲げられていった。
市役所のとなりの公園では、しきりに蝉が鳴いている。陽射しは熱く、焼けるような日々が続いていた。 公園には「阿波おどり実行委員会本部」のプレハブが建ち、市内のそこかしこでは毎夜のように熱の入った練習が繰り広げられていた。 窓から公園を見ながら、昶は手にした缶ビールを飲み干した。 缶の表面には、「キリン四国丸飲み生」――四国地方での限定販売のビールである。 もう、上着のいらない季節になっていた。 昶は深くため息をつくと、窓から離れて部屋に入った。 小松庵も、あの旨いそばも、小さな可愛い店員も、全ては遠い、遥か彼方の話である。 彼はこの七月から、徳島に転勤になっていた。 会社での営業成績の不振がたたって、四国の事務所に転勤されたのである。 徳島は関西圏である。 讃岐に近い、うどんの街である。 自分で、自分の好みの固さにうどんを茹であげる「セルフうどんの店」のある街である。 冷えたもりのない街である。 角の立ったそばのない街である。 これから自分がうどん派に転向するのか、それともそば派を固持するのか――昶には判らない。 ただ、そばを食べることはしばらくできそうもなかった。思い出してしまうかもしれないからだ。 生まれて初めて常連となれた店と彼女にわずかな未練を残しつつ、羽田からJASの徳島便に乗り込んだ夜のことを――。 結局、彼女には何も言えなかった。 そんな自分が腑甲斐ない――昶は少しだけ後悔していた。 ふ、と目を転ずる。広々とした、大した荷物も入っていない2LDKの真新しい部屋。鳴ることのない電話。台所に並ぶステンレス製のボウル――。 彼は思い出したように、一晩水に漬けておいた大正金時豆と大豆をザルにあけ、小さな穴の開いたポリ袋をかぶせた。 炊飯器からは、玄米の炊けた香ばしいにおいがしていた。 |
【あとがき】
小説もどきを書くようになって、10年以上が経ちました。 大学生の頃は、本気で小説家になりたい、とまで思っていました。 でも、それは所詮、小学生のとき文集に「将来なりたい職業――漫画家」と書いたときの、少年だった自分の延長でしかありませんでした。 愉しみのために、書く。 一時期、小説の執筆は筆者にとって「至高の悦び」でした。 最近はパソコン通信の普及によって、「キーボードを叩く愉しみ」は満たされています。ただし、「物語を書き上げる愉しみ」には、なかなか着手できません。 やり出したらハマるのが判り切っているので、なかなか一歩が踏み出せないのです。 愉しみのために、書く。 すでに「内から吹き出してくる抑えきれない欲求を文章にぶちまける」ような衝動はなくなってしまいました。それこそ学生のときは、ラジカセに矢継ぎ早にCDを入れ換えながら、何時間でもワープロを打ち、何十枚でも書くことができました。 そのころのパワーはもう、ありません。
本作品は、まったく掲載場所を考えずに書いたものです。 普段は、所属サークルであるダイナミック推理SF研究所(略称ダイナ研・会員募集中)の季刊基幹機関誌『テリオス』への掲載を考えて執筆するのですが、今回に限っては、ある「衝動」に駆られて書いたものです。 そう言う意味では、まったく計算のなされていない、設計図をまったく引かずに書いた代物なので、構成がアマアマでオチもむちゃくちゃです。 ですが、なぜか筆者は10年前の、あの無軌道な文章を乱発していた頃に戻れたような気がして、かなり気に入っていたりするのです。
読まれた方には失礼な言い方になりますが、こんな失敗作におつき合いいただきまして、誠にありがとうございます。 次回がいつの掲載になるのか未定ですが、本作品の「その後」を書いてみたいと思っています。
楽光一(たのし・こういち/Project T.A.C.) 1998年(あとがき執筆時期不明) |
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