血色の空が、巨大な翼の形にくりぬかれていた。
 これからはじまる、夜という世界を知らせる使者のようだった。
 人間ではない。
 かといって、動物でもない。
 あきらかに人類と酷似した形質をとどめつつ、頭と下半身は黒山羊のそれだった。雄々しく伸びる二本の角は天を睨み、ふくらはぎから蹄へと続くラインは優美に、力強く存在を主張している。背中に広がる夜魔の翼は、一瞬にして千里を駆け抜け抜けるに違いない。それは天に攻め込むための物だから。
 幽冥と現世の狭間にあって、不安定に明滅を繰り返す肉体は、ひとりの少女を裡に取り込み、手放そうとはしない。生け贄……そんな言葉が頭をよぎる。けれども、逞しい二本の腕は思いがけず真摯に少女を掻き抱いていたし、真弓の側にも畏れや不安は微塵にも見受けられなかった。
「……悪魔」
 誰かが、ポツリとつぶやいた。
 もとより、他に言葉が見つかるはずもない。
 ボーグM――それはいってしまえば、初期の獣型から、より洗練された人型へと繋ぐ架け橋のようなものだった。不吉な一三番目の機体でもあり、タブーへの挑戦という意味合いもあって、堕天使がモデルとされた。
 実験その物は成功とはいえなかった。機体は存在を安定させることができず、半ば以上、別次元に囚われたままだった。〈人形使い〉ともども、実験体としてのみデーターを提供し続けるはずだったのを、ひとりの男が救出し、その存在は闇へと葬り去られた……はずだった。
 血と戦いの気配は、悪魔を現世へと呼び戻したようだ。
「ハハハ……馬鹿げてる! ナンセンスだ!」
 狂的な嗤いが、オクツの唇から迸った。
 ティーゲル・トラウムの灼熱のボディと相まって、猛悪な人喰い虎が巨体をもたげた印象があった。ルージュの唇が鬼女のごとくつり上がり、唾液に濡れ光る犬歯が奥に覗く。喝と、怒りを迸らせた。
「せっかくの舞台を邪魔されてッ……それが、こんどは悪魔か!」
 凶気混じりの眼光で睨め付けた。
 舞い降りた悪魔は平然たるものだったが、腕の中の真弓は怯えたように身をすくませた。漆黒の翼が滑らかに動いて、視線に対する壁となる。黒山羊の貌は、一見して感情とは無縁の様子だったが、かすかな変化をも匂わせた。
「人形、人形ッ……〈人形〉どもがァ!」
 苦い敗北は、勝利によって塗り潰されるはずだった。
 事実、立ち上がろうとしているボーグRに歩み寄り、その首を切り落としてしまうことは、いまのオクツには容易い。呆然と立ち尽くす〈人形使い〉なら尚のこと……人間の肉体など、虎の牙には物の数ではない。
 けれど、忌むべき悪魔が行く手を遮ってしまった。
 そいつを越えずして、甘美な血と肉が手に入ることはない。
「真弓ちゃん……?」
 亜夜も驚きから抜け出せず、すぐには近づくことができなかった。
 悪魔を発生源とする瘴気も、躊躇いの一因だった。
 それに包まれているからなのか、真弓は屍蝋のごとき肌を覗かせつつも、思いがけずしっかりした笑みを返した。小さく首を左右に振る。
「ウソ、つくつもりじゃなかったの。あたしも、亜夜ちゃんも……だなんて、思いもしなかったから――」
 差し伸べられた手を拒む理由はなかった。
 結ばれた手が、万感を伝えてあまりあった。
 諦めてはいけない――生きるという言葉の意味が蘇り、亜夜は屹然と顔をもたげた。Dエンジンの律動を左の乳房に感じつつ、唇を汚す血をグイと拭い、傷ついた半身へ向けて叱咤の声を飛ばす。
「立って、ボーグR!」
 双眸に光が蘇り、ゆっくりと……だが確実に、ボーグRは大地を踏みしめた。傷だらけであっても、彼女たちは前に進まねばならない。
 一方で、そのダメージが甚大なのも見過ごせない事実だった。腰部の破損は行動力を激減させ、痛められた左腕は防御力をゼロに等しくしてしまっていた。だが、それでも右腕は残っている……攻撃の道が潰えたわけではない。
「退避だぞ、オクツ!」
 白衣の女が鋭く声を放った。
「次の機会を待て――戦力を見定められない!」
 熟練の戦士らしく、不測の状況でも冷静さを失わない声であったが、オクツは明らかな抵抗を覗かせた。また、その声に刺激されたかのように、手負いの〈AJ〉が飛び出した。片足を失い、手ひどく地面に叩きつけられてもなお、闘志は目減りしていない。
 戦うことが〈AJ〉の存在理由なのだ。
「……デビル君!」
 真弓の求めに応じて、魔王が音もなく前に進み出た。
 互いに相手を定めようという腹づもりらしい。
 片足のみであっても、〈AJ〉の突進力は重戦車を彷彿とさせた。迷いも衒いもなく、一直線に突っ込んでいく。
 大きく広げられた巨腕が、空気をもろともに圧殺しながら、悪魔を締め殺さんと襲いかかった。ひとたび、ベアハッグの形に捕らえられてしまったなら、未知のボーグであろうと、ひとたまりもあるまい。
 ひゅ……ん!
 奇妙に甲高い音が、鼓膜を震わせた。
 丸太に似た何かが宙を舞い、ひとつが白衣の前へと落下した。いまだ、殺意に身震いしている物体は〈AJ〉の腕に他ならなかった。
「バカな……早すぎるぞ」
 寸前、次元を割いて出現した、長鎌の仕業だった。
 真弓の指示により、召喚されたそれが旋回――剛腕を切って捨てたのだ。
 黒山羊の貌は勝利を祝うでもなく、足下に転がる巨体を淡々と見据えていた。ふと、なにがしかの気配を感じたように視線を動かす。
「……デビル君?」
 魔王からの返事はない。

「しょせん、デカブツだったか!」
 亜夜もまた、熾烈な戦闘のただ中にあった。
 オクツの猛攻に、ボーグRは倒れまいとするだけで精一杯だった。執念が形となったように、打撃のひとつひとつが鬼のように凶悪だ。
「……くっ」
 必殺の高周波ブレードを抜こうにも、チャンスを与えてくれない。
 こちらの手の内はすべて読まれてしまっている。
「オラァ……どうしたッ!」
 横殴りの蹴りが、ボーグRの下腹部を打つ。
 ぎしっ、と音が聞こえたかのように、ボーグRが硬直した。
「死ねよやァ!」
 愛刀シルバーリンクスが、その脳天めがけて襲いかかった。
 かろうじて、半身をずらすことによって、機能停止だけはまぬがれた。代償として、左の肩口を引き裂かれ、裂けた人工皮膚の奥に、ちりちりとした火花を覗かせる。亜夜は我が痛みのように感じた。
「……なに!?」
 その体勢から、ボーグRは大きく右足を引くと、渾身の力を込めた右拳を、ティーゲル・トラウムの顔面めがけて打ち込んだ。
「がぁ……っっ!」
 逆撃を喰らって、さしもの猛虎も地面に沈んだ。
「ボーグR、高周波ブレード!」
 この隙に、羽根飾りを模した必殺の凶器を引き抜かせた。高周波で震動する金属片は鋼板などバターのように切り裂いてのける。
 一瞬のチャンス……ただ、それだけを待っていた。
「亜夜……ぁぁ!」
 亡者さながらの声に、恐怖が背筋を伝った。
 殺しておかねば何度でも現れる――それを悟らせずにおかない声だった。
「エミコの仇……あたいのプライドをぉ!」
 ひび割れた面の奥に、灼熱の憎悪がたぎっていた。
 我知らず、亜夜は一歩を後ずさっていた。
 真弓の叫びも耳に入らない。
 真に恐るべきは人間の執念なのかもしれない……。

「大変です! 〈人形〉の反応が、新たに二体……!!」
 突如として、装甲トラックの中――情報収集に当たっていたアヤコが、マイク越しに悲鳴を放った。白衣の女が愕然と振り返り、乱入者を見定めようと忙しく視線を動かす。
「……どこからだ!?」
 瞬間、トラックの下をくぐり抜けて、一匹の獣が突入してきた。
 黒い……黒いブタだ。
 その姿形は、豚以外の何物でもありえない。
 さすがに呆気にとられる一同を尻目に、巻いた尻尾を忙しく振るや、ぶぅと気の抜けた鳴き声を放った。愛嬌のある仕草とは裏腹に、鼻から吹き出した白煙が恐ろしい早さで広がっていき、路地を瞬く間に埋め尽くした。
「いかん……!」
 毒ガスの可能性を疑って、サキエが警告を飛ばした。
 再度の撤退を叫ぼうとして――その目がカッと見開かれた。
 オクツの背後で空間が割れるや、白くたおやかな腕が差し伸べられ、ティーゲル・トラウムへと巻きついた。思いがけない力強さを発揮し、別空間へと引きずり込みにかかる。トタテグモという蜘蛛は巣にフタをし、獲物の隙を突いて襲いかかるというが、それを思わせる見事な手練だった。
「な……にィ!?」
 さしもの女戦士も、真後ろからの不意打ちは予想しておらず、また白い腕も予想以上の地力を有しているようで、さして抵抗させることなく呑み込んでしまった。
 空間の奥より、嘲笑の声が流れてきた。
「見所のある女性(ヒト)……この方は預からせて頂きますわ」
 まだ幼さを残した、少女と呼んで差し支えない声だった。しかしながら、女性に見られる、ある種の毒を飽和させてもいた。
「そして、御厨亜夜さん――貴女とはいずれ。そちらの汚らわしい悪魔ともども、すぐに誅戮してさしあげますわ」
 挑戦の言葉だけを残し、裂け目は閉じられた。
 それは亜夜にとっても予期しえない結末であった。
 同時に、殺人をまぬがれたことで、声の主にかすかな感謝を覚えてもいた。……もっとも、それが大いなる勘違いであることは、彼女にも理解できていたが。
「……亜夜ちゃん」
 半透明の蹄が地面を踏み、真弓が不安げに声をかけてきた。
 白煙が消え去ると、路地を塞ぐ大型トラックは魔法のように消え去っていた。〈AJ〉も手際よく回収されたようで、あたりには無惨な光景が残されるばかりだ。
「う……っ」
 張りつめていた神経が弛緩するや、全身に受けた傷が自己主張をはじめ、両脚は瘧にでもかかったように激しく震えた。グラリと光景が揺れ、膝から力が抜けるに任せ、友人の腕の中へと倒れ込んでいく。
「亜夜ちゃん……あやちゃん……?」
 問いかけに応じる気力もなく、か細く身体を震わせ続けた……。

執筆:ケブッチ

つづく