店と店の間にできた、小さな路地に彼女は身を隠すように逃げ込んだ。
 繁華街の喧騒は薄れ、日の当たらない場所特有の湿った土の匂いがする。
 左手でかきむしるように頭を押さえ、足元はアルコールで酩酊しているのかと錯覚するほど、ふらついていた。
「こんなときに……なんてことなの……調子が良かったあとは、いつもこれだ」
 氷室雪花は胸元からピルケースを取り出すと、中に入っているタブレットを水も使わず口の中に押し込んだ。
「グッ……あ、あたまが……」
 壁づたいに身体を預ける。ラメの入った黒のイブニングドレスは場違いなところに迷い込んだ代償に白く煤けていた。
 唇は紅を刷いているにもかかわらず青ざめ、黒い瞳は狂気を孕んだように大きく見開かれている。だが、それも彼女の美しさを損なうものではなかった。むしろ常軌を逸しているぶん、巫女めいた狂信的な美を孕んでいる。
 定まらない視線がふと凍りつく。すぐ目の前に、もやもやとした黒い霧がわだかまっていた。それは異界の生き物のごとく蠢動し、ゆっくりと人の形をとってゆく。
 黒い影の手の中に、刃渡り15センチほどのナイフが握られていた。影と同じ霧でできているはずなのに、その刀身だけが真っ赤に染まっている。
 雪花は知っていた。
 滴り落ちる血。そう、アレはあたしを刺したナイフだ。
 あたしを殺した?……違う。自分と同じ顔を持ったもう一人のボクを殺した……
 ボク? 違う。あたしは雪花だ。
 急激に頭の痛みが増した。脳の中を蛆に似た蟲が、這いずり、食い荒らしているかのような黒く、激烈な苦痛。
「や、やめろ……このっ、があぁっっ」
 絶叫とともに、彼女の背後の空間が裂けた。そこに覗く水銀でできた水面から、ゆらりと何かが突き出した。
 いくつもの腕。そして、その中心には三つの仮面を持つ頭があった。その中のひとつ憤怒の表情をした仮面だけが目を開き、他の二枚は眠っているように目を閉じていた。青黒い肌とそこに描かれた朱塗りの文様。まるで曼荼羅の中から抜け出したヒンドゥーの神だ。
 ボーグU。氷室雪花が操る三面六臂の人型ボーグ。いや、人ではない。それは、まさしく神を具現化させたボーグなのだ。
 上半身だけを空間から出現させたかたちで、ボーグUは腕の一つからリング状の物体を放った。
 リニアチャクラム――魔を調伏する輪鈷杵を模したその武器は、光の尾を引きながら飛翔し黒い影を真っ二つに切り裂いた。
 否。切り裂いたように見えただけだった。その証拠に、影はまだそこに立っているではないか。
 影は、まるで自らが傷つかないとわかったかのように、雪花に向かって歩き始めた。
 黒かった影は一歩近づくごとに色彩を帯び、人間の様相を呈していく。足が、腕が、胴が実体を持ち始めた。
「来るな……来るなぁぁぁぁ」
 頭痛はもはや極限まで達していた。吐き気を伴う眩暈が襲い、雪花はもう一歩も動けず、その場にへたり込んでしまう。
 あの時と同じだ。再びあたしは殺される。
 違う。殺されるのはボクだ。ボクじゃない、あたしよ……
 意識が混濁していく。もはや、自分がわたしなのかボクなのかさえ、はっきりしない。
 コントロールを失ったボーグUが、ゆっくりと虚空へ吸い込まれていく。
 黒い影は今やはっきりとした人となって、雪花の前に立ちはだかった。
 血みどろの真っ赤なナイフが、彼女の腹部めがけて刺しこまれた。
 ルージュを引いていないだけで、雪花とよく似た唇が、そっと開く。美しい笑みが黄昏に咲く。それは、またぞっとする死神の嘲笑でもある。そう、彼の顔に浮かんでいるのは、この上もなく邪悪な微笑だったのだ。
「オマエガ、死ネバヨカッタンダ……」
 薄れゆく意識の中で雪花が見たのは、自分とうりふたつの少年だった。
「なぜ……?」
 その問いかけに答えるものはいなかった。重石をつけられ海に投げ込まれたように彼女の心は深い底へ沈んでいった。
 ――ブラックアウト。

 真っ二つに切り裂かれた自動販売機が、白い煙を上げていた。
 切れたケーブルが地面に広がる赤い液体に振れるたびに、青い火花をスパークさせている。一瞬、血だまりに見えるそれは、販売機で売られていたトマトジュースのなれの果てだった。
 路地から人影は消えていた。残されたのは、空になったピルケースと脱ぎ捨てられたイブニングドレス。
 どこかで猫が鳴いた。黄昏がゆっくりと蒼に変わろうとしていた。

「御厨……亜夜」
 オクツは声にならない声で、その名を反芻した。
 目の前の手の届く範囲にエミコの仇がいる。けれど、果たして今の自分が人形と人形使い相手に勝てるのだろうか?
 〈AJ〉もティーゲル・トラウムもない。あるのは、シルバーシンクスと傷ついた己の肉体のみだ。
 それでもオクツはやるつもりだった。
 前の戦闘で亜夜のボーグはかなりのダメージを受けているはずだ。満足に戦えない、いや動くことすらやっとだろう。ボーグさえいなければ人形使いなど、恐るるに足らない存在だ。
 姿を消した雪花のことが気になった。
 ――あたいを囮にして、何をしようっていうんだい。
 そうは言っても、今の彼女には、それをあれこれと考える余裕などない。オクツはドレスの端を右手で軽くつかむと亜夜との距離を詰める。
「チッ……」
 忌々しげに舌を打つ。ヒールはそれほど高くないが、やはりパンプスは走りずらい。
 それでも訓練されたオクツの脚力は、常人のそれを遥かに凌駕していた。しなやかに街のジャングルを駆け抜ける雌豹。
 人ごみをかき分けて進む彼女に、みんな一瞬足を止めて振りかえる。
 まるで銀幕の向こう側から現れたヒロインを見るような視線だ。
 これじゃ、王子サマを追いかける人魚姫。いや王子サマから逃げるシンデレラか? どちらにしろ、自分にはえらく不釣合いなように思えた。
 一瞬の躊躇、その刹那、視界の隅から亜夜の姿が消えた。
 ――まさか気づかれた?
 オクツは亜夜が見えなくなった場所まで来ると、周囲を見渡した。
 果たして亜夜たちはショッピングモールの中にいた。この中を突っ切るのが駅への近道らしい。
 楽しげに、少女たちはたわむれ合っている。
 胸の中に隠し持っていたシルバーリンクスを左手に握った。シースから抜き放つとそれは鈍い銀色に輝いた。
 ドレスの裾に刃を入れると、動きやすいように膝の上までスカートを切り裂いた。鍛えられた美しい脚のラインがあらわになる。
 ――決着をつける。
 彼女の瞳には、もはや亜夜の姿しか映っていない。
「待ちなよ。御厨亜夜!」
 オクツは咽喉の奥から声を絞り出した。
 前を行く亜夜の足がぴたりと止まった。スローモーションの映像のように亜夜がゆっくりと振りかえる。
 そこだけが周囲と時間の流れが異なっていた。
 怪訝そうな亜夜の顔。イブニングドレスという、およそこれまでのオクツからかけ離れた姿に、彼女はそれが自分の敵だという事実を、まだ認識できないでいる。
 パンプスを脱ぎ捨てると、オクツが地を蹴った。
 銀色の閃光を描き、まるで意思を持っているかのようにシルバーリンクスが亜夜の心臓へ向かって吸い込まれていく。
 凍りついたように亜夜はその場から動けなかった。
「亜夜ちゃん!?」
 咄嗟に真弓は亜夜を突き飛ばした。
 ………………。
 刻が凍りつく。
 床に落ちる赤い雫。壊れた蛇口のようにそれは、ゆっくりと滴り落ちていたが、徐々にその間隔が短くなっていく。
 それ自体が生き物のごとくに、赤い液体は床を侵食し始める。
 尻餅をついて座る亜夜の指先に広がる生暖かい感触。その手を目の前にかざした。
 モノクロームの世界の中で、その色だけがリアリティーだった。
 緋色――血の色だ。
 機械仕掛けのようなスピードで亜夜の首が振り向いた。
「真弓ちゃんっ!」
 亜夜の絶叫に、止まっていた刻が再び動き出す。
「チッ、」
 真弓の背後の空間から霧のように黒い影が浮かびあがる。オクツは真弓の身体からシルバーリンクスを引き抜いた。
 がっくりと膝をついて真弓の身体が崩れる。
 オクツが後方へ跳ぼうとした瞬間、悪魔の尻尾のひとなぎが強烈に叩きつける。
 吹き飛ばされた彼女は、ものの見事にショーウインドウを破壊した。
 砕け散るガラスの破片が、煌きながら静寂の闇に舞う。
 衝撃の強さにオクツの肺は一気に空気を吐き出した。息ができない。肺は余計に空気を吸い込もうとしてあえいでいる。
 その隙をついて亜夜が真弓を抱き起こした。
「真弓ちゃん、真弓ちゃん――」
 音が飛んだCDのように何度も彼女の名前を繰り返す。
 真弓は弱々しく微笑み返した。肌は急速にその色を失い死蝋のように白くなっている。オクツの一撃は、人形使いにとっては、致命的なDエンジンを傷つけていた。それは、心臓付近の動脈をも傷つけ、多量の血を流出させていた。
「だい……じょうぶ、だから……ね」
 唇が微かに言葉を紡いだ。何かをつかもうと宙をさまよう手を、亜夜が握り返す。
 それでも真弓は、デビルくん――ボーグMのコントロールを放棄しなかった。
 真弓たち――というよりも亜夜をかばうように、黒い山羊は立ちはだかる。
 だが、デビルくんは少し変だった。動きに精彩を欠いている。まるで壊れかけたおもちゃのようにギクシャクとした感じだ。
 ――あたしが、亜夜ちゃんを守らなくちゃ。
 真弓は消えて無くなりそうな意識の中で、必死にデビルくんを制御しようとしていた。
 オクツがふらりと立ちあがる。苦痛に顔をしかめるが、それも一瞬のことだ。すぐに呼吸は整い、全身から闘気とも呼べる気配が噴出す。
「ケッ、いい気味だよ」
 オクツは嗤った。
 精神が高揚している。さっきまでの負け犬になりかけていたオクツは、もういない。
「エミコはいい奴だった。仲間であると同時に、あたいの大切な友人でもあった……いや、チーム・キャッズアイは、あたいのスベテだったのさ。それを、それを……オマエたち、バケモノのせいで……」
 オクツは、ぎりっとシルバーリンクスを握る手に力をこめた。感情を吐き出すことで、更に自分を高めようとしているかのようだ。
「エミコの仇、取らせてもらう!」
 復讐――それ以外、もはや彼女に残されたものはなかった。
 ティーゲル・トラウムはないがオクツはその瞬間、紛れも無い虎になった。
 大地を蹴ると、その鋭い爪たるシルバーリンクスを一閃する。
「お願いっ、デビルくん!」
 虚空を飛びデビルくんがそれを受けた。
 金属と金属が触れ合う澄んだ音が響き、オレンジ色の火花が咲く。オクツは、さっと後方へ退くと、シルバーリンクスを構えなおし再び襲いかかる。
 疾い。
 デビルくんの動きが、わずかに遅れた。コンマ数ミリ秒――だが、この状態ではその遅れが致命的となる。
 オクツの体重を乗せた一撃が、デビルくんを弾き飛ばした。床に叩きつけられたデビルくんがバウンドする。
 ボディにはほとんど損傷はないが、それを操る真弓のほうが限界だった。
「人形使いのいない人形、人形のない人形使い……どちらかが、欠ければ、おまえたちは、まさに本当の木偶っていうことさ」
 嘲り含んだ声。だが、それも今の亜夜には届いてない。
「真弓ちゃん、真弓ちゃん、しっかりして……真弓ちゃん」
 亜夜の声は、今にも泣き出しそうなほど震えていた。
 生命が、真弓の生命がどんどん流れ出していくのを止められない。
「ゴメン……まだまだ案内したいところ、沢山あったのに……あたし、あたし……」
 真弓の目から透明な雫が浮かんだ。虚ろな瞳は、まっすぐに宙を見つめたまま動かない。
「だめだよ。また今度って、また今度来ようねって……言ったじゃない」
 亜夜がぎゅっと真弓の手を握り締めた。けれど、彼女には、もう握り返す力は残っていない。ほんのわずか、手が震えるだけだ。
「嫌だよ……そんなの。せっかく友達になったばかりなのに」
 ぽとん、ぽとん、と真弓の顔に泪が落ちた。それは、暖かい流れとなって、彼女の頬を伝わっていく。
「……亜夜ちゃん。これからも、あたしたち……ずっと、ずっと友達……よ……ねっ……」
 真弓の手が力なく落ちた。
 そして、デビルくん――ボーグMもまた停止した。操りの糸の切れたマリオネットは動けない。涙を流すこともまた出来ない。
「どうだい? あたいの痛みが少しはわかっただろう。エミコはね、今のお前たちよりも何倍も何倍も苦しそうな顔をして死んでいったんだよ」
 オクツの顔にはサディスティックな笑みがはりついていた。自分と同じ苦しみを今、亜夜が味わっているのがわかると、いくらか気分がよかった。
 だが、それでもオクツの心にできた隙間を満たすことはできない。やはり亜夜を、ひいてはスベテの人形使いを、この手で葬らなければ。
「さあ、次はあんたの番だよ。御厨亜夜――」
 今でも目蓋の裏には、あのときの光景が焼き付いている。エミコの額に深々と突き刺さったシルバーリンクス。オクツは亜夜をエミコがやられたのと同じやり方で殺してやろうと思った。
 亜夜の額をしっかりとポイントすると、左手が鮮やかな軌跡を描く。
 銀色の光が、まっすぐに疾った。
 シュン――
 オクツと亜夜の間に影が割り込んだ。オクツの顔に驚愕の表情が浮かぶ。
 ――まさか、人形か?
 が、違っていた。そこに立ちふさがったのは、以前にオクツが見たことのある男の姿だった。男は、なんと飛来するシルバーリンクスを素手で掴んでいた。しかも刀身ではない柄の部分をだ。偶然か? いや違う。その外見からは想像できないほどに、この男は数々の修羅場をくぐり抜けたきたのだ。
「……御厨暁」
 呪詛でも吐き捨てるように忌々しげに言った。
 しかし相手が人間である以上、オクツは負ける気がしなかった。全身の筋肉に力をこめる。
 オクツの身体が引き絞られた弓のようにたわんだ。ぎりぎりまで溜めた力が放たれようとした瞬間、オクツの両腕は黒い影に掴まれた。
「なにっ!?」
 それは、まるで闇から生じたように黒い姿をしていた。いや、闇そのものと言っても過言ではない。黒一色の強化服に黒いマント。顔には奇怪な模様が描かれた黒いマスクをはめている。マスクの模様以外、寸分違わぬ二つの影は、たいして力を入れてるようにはみえないが、オクツの腕をしっかりと極めていた。
「ZAP!」
 オクツがその名をつぶやいた。
 ZAP……シャドウブレイザーズの中にあっても彼女たちの存在は謎に満ちていた。名前はおろか、そのマスクの下の素顔を見たものは誰もいない。ただ、その覆面の額にある文字からZAP・I、ZAP・Tと呼ばれるだけだ。
 通常の作戦には参加せず、オクツも言葉を交わしたことがない。いや、そもそもZAPが喋っているところさえ、見たものはいなかった。
「そこまでにしておくのだな、オクツ」
 聞き覚えのある声が背後からした。キッ、と首だけ振りかえったオクツの瞳に映ったのは、彼女の上官の姿だった。
「ロッシー」
「命令違反並びに反逆の容疑で、お前を拘束する」
 六道四郎は、厳しい口調で告げた。
 迂闊だった。
 既に、ショッピングモールに民間人の姿は一人も見当たらない。つまり、このへん一帯がシャドウブレイザーズの管制下に入っているということだ。
 無論、普段のオクツならそれに気づかないはずはない。それだけ彼女は冷静さを欠いていたことになる。
「アヤコは? ミカは、どーなったんだい?」
 反射的に仲間の安否を尋ねた。
「彼女たちは謹慎中だ。それにしてもサキエ技官も困ったことをしてくれたものだ」
 オクツがうなだれた。その表情はわからない。捕らえているZAPたちの腕にかすかな震えだけが伝わってきた。
 六道はオクツと並ぶ場所まで歩いてくる。その視線が、一瞬だけ亜夜に向けられた後、彼の前にたたずむ男に転じられた。
「部下の勝手な行動をお赦しください」
 六道は軽く頭を下げた。けれど、言葉には慇懃さに隠された刺がある。
「……赦さない」
 小さなつぶやきが聞こえた。
 真弓を優しく横たえると、亜夜は立ちあがった。
「赦さない。みんな……みんな赦さない……」
 亜夜の奥に眠っていた昏い炎が一気に燃え上がった。Dエンジンが激しいビートを刻む。凄まじい勢いで叩く、悲しみのドラム。
 怒り、憎しみ、哀しみ――戦うことに、人を傷つけることに躊躇いを覚えていた亜夜だが、こんなにも相手を憎いと、殺したいと思ったことはなかった。
 空間がきしみをあげる。
 見えないガラスが割れたように虚空に亀裂が走った。
「やめろ、亜夜っ! 待つんだ」
 亜夜の前に立っていた男が振りかえる。
 パシッ――。
 男の平手が、亜夜の頬を叩いた。
「――亜夜。そのボーグRで、どう戦うというのだ?」
 その声に亜夜がふと我に返る。空間からわずかに顔を出したボーグRは、満足に戦うことなど到底かなわぬ姿だった。
 人工皮膚は剥がれ落ち、いたるところにメタリックな輝きを覗かせる。これで動くというほうが不思議なぐらいだ。
 男の声は、子供を叱りつけるような厳しさがあった。
 亜夜の中で限界まで高まりつつあった憎しみが急速に萎えていく。ただ後には、真弓を失ったことによる哀しみと戦いに巻きこんでしまった自分への怒りが残るばかり。
 男は再び六道へ視線を転じた。
「いやぁ、ホッとしました。封鎖しているとはいえ、こんな街中で暴れられても困るんでね」
 六道の目は笑っている。むしろ亜夜が暴走して、ボーグRが暴れてくれたほうが好都合といわんばかりだ。
「それでは六道さん、私たちはこれで失礼させてもらう。あなたも、例の作戦の開始時刻が迫ってる筈、こんなところで油を売ってる場合ではないのでは」
 男は〈例の〉という部分を強調して発音した。
「ご忠告ありがたく承るよ。ところで、ひとつ土産を置いていってくれませんか? 君は毎回手ぶらで来る、たまには菓子箱のひとつでも持ってくるのが礼儀というものだ」
 六道は不敵な微笑を浮かべた。
「土産? わたしがそちらに流した情報は、土産分を差し引いてもお釣りが来ると思うが」
 だが、そんな男の言葉を無視して、六道は、
「もちろん、こちらもそれなりの返礼はするつもりさ」
「返礼?」
「ここから、無事に帰れるという保証だよ。今の君たちが置かれている状況からすれば、十分すぎる品だと思うが」
 しばしの沈黙の後、男は六道の提案を受け入れた。
「わかった。そこに転がっているボーグは置いていこう……」
「では、亡くなった人形使いは、こちらで丁重に供養しておきましょう。彼女の親御さんにもこちらから、説明しておきます。そう、これは不幸な事故ということに」
 六道が、付け加えた。
 男の顔が一瞬だけ曇る。彼としても、破壊されているとはいえ、Dエンジンのサンプルを置いていきたくはない。だが、今は亜夜をこの場から無事に連れかえり、一刻も早くボーグRを修理することが先決だった。人形使いの死とともにデータバンクは破壊されているということが、せめてもの救いか。
「だめよ……真弓ちゃんをおいていくなんて。絶対にだめっ!」
 真弓の亡き骸を見つめながら亜夜が抗議する。
 男は振り向くこともせず、背中の亜夜に向かって言葉を吐いた。
「――亜夜、いいかげんにしろ! そんな弱い心で鷺宮に復讐なんてできないぞ。千木良真弓は死んだ。良く見ろ。そこにあるのは、ただの肉塊にすぎない。時間がたてば腐敗もするし、蛆も湧く」
 苛烈な言葉が、次々と亜夜の心に突き刺さる。亜夜は厭々をする子供みたいに激しく首を振った。そんなことはない。真弓は血の花のベッドで、このままずっと眠りつづけるのだ。
「悲しいと、悔しいと思ったら、強くなれ! お前は、くだらぬ感傷などに浸っている暇はない」
 亜夜の心が少しづつ現実に引き戻されていく。
 ふと、違和感があった。
 さっきから、自分に向かって何かを言っているこの男は誰?
 じっと、その背中を見つめるが亜夜に思い当たる人物は浮かばない。
「いやいや、これはまた見事な演技だ。まるで、舞台でも見ているようですよ」
 六道が小莫迦にしたような拍手を贈った。男は鋭い視線で六道を睨みつけると、亜夜の方へ向いた。
 六道に向けていた鋭い瞳の輝きはそこから消えている。代わりにそこにあったのは、亜夜を見守るような優しい眼差し。
 ――誰?
 どこか懐かしい。セピア色の記憶……だが、それは断片的なもので、彼女の中ではっきりとしたひとつの連なりを見せない。
「行くぞ、亜夜」
 男は亜夜を促すようにその肩へ手を置いた。そこから伝わる暖かい温もりに亜夜の中の荒涼とした気持ちが、わずかながら和らいだ気がした。
 六道は厭味とも聞こえる口調で、去ろうとする二人の背に語りかけた。
「これからも、友好的な関係を続けて行きたいものです。御厨暁さん――」
 ――みくりや・あきら!?
 亜夜がその名を反芻した。じっと、見上げた視線の先にいるのは亜夜の知らない御厨暁だった。
 アナタハダレナノ?
 声にならない声に、亜夜の唇がかすかに震えた。

 オペレーションSKY・HIが、今まさに始まろうとしていた……

執筆:夜人

つづく