フロントからの電話が男の集中を破った。
『国際電話が入っておりますが、如何なさいますか』
「取り次ぎをお願いします」
 男は口調の切り替えを確かめるかのように丁寧な答えを返した。簡単な返事の後取次音が聞こえて来る。彼の居場所を知り電話を掛けて来れる人物などそう沢山いるわけではない。千木良真弓の後見をまかされてよりこのかた一度たりとも居場所を明らかにすることなどなかったのである。受話器の向こうの人物など想像するのは容易なことであった。
『首尾はどうだ息子よ』
「多少の誤算も生じましたが概ね順調です。ただし、オリジナルの方とのコンタクトはまだ取れていませんがね。所で何の用です? 親子の会話をする為の電話でもないでしょう」
 息子と呼ばれ彼は答えながら意地悪く笑った。
『これからの行動と、本物の御厨暁への対応だ。アレは自分は売っても血の繋がらない妹まで売る気はないのだろう? 始末するのか? それとも……』
「彼には手を出さない。彼の義妹にもだ! 彼等は彼等のやりたいようにすればいい。少なくとも私は彼に手はだせない」
 声を荒げる彼に受話器の向こうの男はクツクツと笑った。
『それで恩を返すつもりならそれで結構、幸か不幸かアレとの目的は同じだ。さしたる邪魔にはなるまいからな。だが、ボーグRの方はどうする? すでにアレは我等のもとよりDr.グレイオンを引き抜き、一体のボーグのみでDr.鷺宮に匹敵するだけの力を得ている。御厨亜夜はメンタルな部分で戦士として不十分だが、彼女の戦力は十分に戦士のそれだ。我々の目的を達成するためには彼女は不可欠だが?』
 滔々と話す男の耳に溜息が聞こえた。
「彼を本気で怒らせるのは賢くありませんよ。もう暫く様子を見ましょう」
(彼が我々に手を貸すなどあり得ないが……)一番言いたい部分を外して彼は言葉を切った。電話を切った彼の秀麗な顔が、哀しみに歪む。自分を助けて呉れた……否……彼自身を育てて呉れた人物に……対して彼は裏切りしか与えていないことに疲れさえ覚えていたのだ。

《兄さん、泣かないで彼はきっと貴方を憎みはしないから。僕はずっと貴方の側にいるから……》
 何時の間にか彼の側にはもう一人の彼が居た。彼の肩を抱き慈しむように包み込む。
《彼は、言ったよ。貴方が生きていけるように、淋しさに潰れてしまわないように、僕に支えていて欲しいって。貴方が彼に何をしてもそれが貴方が生き延びる為に必要なことなら彼は笑って許せるからって。だから、その為に彼は僕を作って貴方に渡したんだから…ねぇ、そうでしょう兄さん》
 何度も聞いた慰め、彼自身には一度も掛けてもらえなかった言葉。それが、御厨暁のプライド故だったことなど明らかである。だから……彼の分身に伝えたのだ。
 この、人間ではあり得ない作り物の彼に……。
「分かっていても悲しいんだ。だって、彼は私の父であり、兄であったのだから……。彼が居なければ私はあの日、あの炎の中で死んでいた。産みの母に切り捨てられたあの日に私の人生は終わっていた」
 もう何度も蘇るヴィジョン。御厨暁と会った日の……鮮やかな緋色の景色、その時から彼の瞳の中に在ったのは、御厨暁の背中だけだった。父を灼いた炎で焼きつけたその後ろ姿だけを追い掛けてここまで這い上がって来た。何度も何度も彼を裏切りながら。

 あの日は、Xデーにはおよそ不似合いな程晴れていた。父と母の離婚が成立し、兄と弟は母親が引き取っていった。彼だけが父親の元に残されたのだ。誰も何も言わなかったが、彼はその理由を知っていた。彼は先天性の決して直ることのない障害を持っていたからだった。しかもそれは外見では区別することが不可能で、社会的には障害者とさえ認めてもらえない。
【クラインフェルター症】と【精巣性女性化症】それが彼の持っている障害の名前……。【性染色体異常者】それが彼の周囲の彼への反応……。【二形(ふたなり)の化け物】それが彼を捨てた両親の本心。彼の体のことを知った時、彼の母親は自分の将来を憂えて家を出た。慰謝料も養育費も貰わず、他の子を引き取る代わりに父親が彼を育てることだけを条件にして、気の弱い父はそれを受け入れたが、その時すでに父親としての義務さえも放棄していた。離婚届けを受け取った母親が二人の息子と家を出ると、彼は息子を花瓶で殴り倒し、家中にガソリンを撒いた、そして自らもガソリンを被り火を放つと首を吊って死んでしまった。奇跡的に息を吹き返した彼が見たのは、天井からぶら下がった炎の固まりと、今にも自分を舐めにかかろうとする大きな赤い津波だった。悲鳴を挙げることさえ出来なかった彼が助かったのは、一人の青年が彼の存在に気が付いてくれたからだった。何時の間にか現れた青年は呆然とする彼を抱え上げてその炎の中から彼を助け出してくれた。燃えさかる炎の中何故青年が自分の存在を知りえたのかは謎だったが、その時の彼にとってそんなことはどうでもよかった。油にまみれたその手で青年にしっかりとつかまり、その時初めて生きたいと思った。それから、数日間の記憶はハッキリしない。治療を受けていたと聞いてはいるがどこまでが真実なのかは知らない。気が付いた時には見知らぬ土地に居た。そこで一人の男と出会って親子となった。男は生まれたばかりの三人の娘を失ったばかりだった。男はある目的の為に彼を引き取った。青年は自分の復讐の為に男と手を組んだ。彼は自分のかくたる居場所と生き甲斐の為に彼等の計画に加わった。彼等は同じ目的の為財をなし、人を集め研究を重ねた。そして、彼は分身を獲、男は戦士を獲た。青年が彼等の元から姿を消したのはそんな時だった。元から鷺宮に探りを入れる為あちこちを飛び回っていた青年である、男にそのことを聞かされた時も本気にすることなど出来なかった。またすぐに帰って来てくれると信じていた。だからこそ真実を認識した時彼は鷺宮を心から呪った。増幅された怒りが幼い頃の彼のそれと重なり、行き場を失った。彼には本当の親に捨てられたのだと認識出来ても、すぐに新しい親が出来、それが本当の親子でもあるかのように慈しんでくれた事実があるだけに実の親を憎み切ることが出来なかった。確たる理由があるはずと信じて疑わなかった。やがて自分の事を認識できる程成長した時、彼は両親を許せる程までに安定していたのだ。だからこそ、彼の怒りは常に大きなものに(人はそれを神の力と呼び、魔法と呼び讃え育てて来たが)【科学(化学)】と言う文明にむけられていったのだ。近年殊に多くなったと言う畸形の動物・それは蛙であり蛇であり魚であり鳥でありまた人でもあった。無尽蔵に垂れ流された科学廃棄物の為に何千何万と言う生き物が形を変えていった。皮肉にも成長した文化より離れることが出来なくなった人の間にさえ、彼のような畸形の人間が産まれ始めた。そしてそういった遺伝子レベルの畸形の人間は総じて生殖能力が少ないのだ。人として生を受けながら人としての機能を持ち合わせない彼は、すでに人ではなかった。だから彼はあえて科学の洗礼を受けることを甘んじて受けたのだ。ホルモン剤を投与し、半ば以上女性化している体を男性体に保つのは用意ではない。出来ればそのまま女性として生きて行くことも考えないではなかったが、全てが終わるまで彼は今暫く男性を選んだのだ。
「ベリアル……。何故彼は私達から離れたのだろう。鷺宮を再起不能にすれば問題は片付くのではないのか?」
 自分の分身に彼は語りかける。暁の協力を得て鷺宮の技術を模倣して手に入れた分身は彼の唯一心を許せる仲間だった。ボーグとは似て非なるもの。彼の分身は自分の力で動くことが出来、その全力を持って主を助け、話すことも可能だった。彼の分身は医学を前提にした研究ではなく戦力として、武器として作られたものだった。そして強いていうなら対鷺宮用に研究されているのだ。尤も、彼にとってベリアルは分身であり、弟であり、家族だという認識が強いせいで訓練以上の戦闘など考えのうちにはないのだが……。
《大丈夫…きっと不幸な結果にはならないよ。それに…ほら、僕はずっと貴方の側にいるんだから。貴方には英良(インリャン)父さんもいるし…》
 優しく母親のような……それが彼が分身に求めたものだった。皮肉にもベリアルなどというコードが付いてしまったが……彼にとっては最後の砦……心のよりどころだった。
《もう休んで、貴方は何時も心を使い過ぎる。今日は寝てればいい明日からまた大変なんだから》
 囁くような声の海に意識が溺れる。疲れても元に戻ることなどもう出来ない。偽の御厨暁はもう動いているのだから。

 同じ頃。
「もう一人の俺だと? どういうことだ?」
 暁の声が上擦る。だが、興奮状態の亜夜の耳にそれを感じる余裕などなかった。
『どういうことですって? ふざけないで! 貴方の差し金なんでしょう? 貴方の下らない裏工作のせいで人が一人死んでいるのよ! しらばっくれるつもり!』
 何時の間にか運ばれていた自身の部屋で気が付いた亜夜が、目を覚ますなり携帯を持って飛び出し暁に電話を入れて来たのだ。
「とにかく調べて……」
『また逃げるの? あんたの名前知ってたのよ。あんたが関係しているとしか思えないじゃない……』
 いいつのる亜夜の声を無視して暁は電話を切った。また掛けてくることは分かっているので電源まで落としておく。
「……柳英良(リュウインリャン)かぁ相変わらずタイミングの悪い男だ……。あの様子じゃ政府の方に何か入れ知恵をしたな……また出方を考えるはめになったか……」
 目に見えて厄介な相手に溜息さえ出てしまう。
「相手が政府じゃ手を組む訳にもいかんな……まして使われているのが俺の名じゃぁ」
 出てこないわけないとは思いながらも意識の底で最悪の場合を考えていなかった自分に苦笑せざるを得ない。
「あの……。亜夜さまとおっしゃる方からお電話ですが」
 使用人の持って来たコードレスフォンに暁はがっくりと肩を落とす。納得の行く説明がもらえるまではどんな方法でも取りそうな亜夜に暁はおそるおそる受話器に手を伸ばした。

執筆:宮 万優美

つづく