秘めごと
春の気配がそこまで忍び寄りつつもまだ冷たい空気がそれを実感させない、とある日。
雪崩山は大学に休み前に提出できなかった書類を出しに来た。簡単な手続きを終わらせOKを出された後、彼は白楽天に寄る事を思い付いた。
(近頃おやじさんの飯、食ってないもんなぁ)
試験だ休みだとバタバタしているうちに、数カ月白楽天に寄る事が出来ていなかった。久々におやじさんや藻間たちと話せる事を楽しみに思いながら白楽天の前に立つ。相変わらず立て付けの悪い引き戸をガタガタと揺らして開けると、いきなり雪崩山の鼻孔を甘い香りが突き抜けた。
「あー、雪崩山さんだ」
「ホントだ。こんにちは、雪崩山さん」
カウンターの奥からひょこりと二つの顔が出てくる。片方はここの住人なので当然なのだが、もう一人は雪崩山にとって実に意外な人物だった。立て続けに起きた予想外の出来事に雪崩山はすっかり固まってしまっていた。
「……お、おやじさんは? 藻間さんは?」
かろうじて声だけは出せた。その声に二人はクスクスと笑い声をたてる。
「雪崩山さん、表の張り紙見てなかったんですね。今日はお店はお休みだから、おやじさんいませんよ。ほら、そこからでも透けて見えると思うんですけど」
「あと、藻間さんは今日まで会社の研修なんです」
首だけを動かし引き戸を見遣る。すると二人の言う通り引き戸には張り紙がしてあり、『本日臨時休業』と油性マ−カーで書かれた文字が逆さまに見て取れた。それを確認した後もう一度首を動かし、カウンターに視線を戻す。二人は何やらキャーキャー言いながら厨房で何かをしていた。
「で、二人はそこで何をしているんだ?」
雪崩山のその言葉にカウンターの二人は顔を見合わせ、その後同時に彼の方に顔を向け、にっこり微笑んで言った。
「乙女の秘密ですっ」
「乙女の秘密って……俺に見つかったら乙女の秘密でもなんでもないんじゃないのか、山崎さんにイグ」
雪崩山は苦笑しながら二人に言い放つ。その言葉に「あっ」と声を揃える二人。確かに雪崩山に見つかったらそれは「乙女」の秘密でもなんでもない。彼女たちは雪崩山に見えないように厨房にしゃがみ込み、うんうん唸り出した。
しばらくしてイグの方が何事かを思い付き、里美に耳打ちする。里美はふふっと悪戯を思い付いた子どものような笑顔を浮かべると、カウンターから出てきて雪崩山の腕を取った。
「そういう時は、雪崩山さんも秘密に巻き込んじゃえばいいんですよね。ささ、どうぞどうぞ」
半ば強引に里美はカウンターの席に雪崩山を座らせる。「あ、お冷や持ってきますから」そう言いながら里美は雪崩山が開け放したままだった引き戸を閉め、いそいそとカウンターの方に戻っていった。
カウンターに座らされた事で、厨房の中の様子を確認する事が出来、ようやく甘い匂いの正体と二人が何をしていたのかが見て取れた。どうやらチョコレートを溶かして何やら作っていたようだ。それでようやく合点がいった。今日は2月13日、バレンタインの前日だ。二人はどうやらお互いの彼氏に渡すチョコレートの製作にいそしんでいたらしい。
「はい、どうぞ」
イグが運んできたものを雪崩山に渡す。それを見た雪崩山の頭には疑問符が浮かぶ。何故なら彼女が持ってきたのはお冷やではなくコーヒーだったからだ。
「この際、雪崩山さんを思いきり巻き込もうかと思って」
微妙な表情の変化を読み取ったらしい里美が、カウンターの向こうから声をかける。イグがその言葉を引き継ぐ。
「あのね、雪崩山さんに試食してもらおうかって里美さんと決めたんです」
……チョ、チョコの試食? 心の中で彼は叫んでしまった。
正直な所、雪崩山は甘いものはあまり好みではない。それなのにチョコの試食とは……えらい時に来ちまったなぁ、と思わず彼女たちに見えないように嘆息した。見られたら最後、何を言われるか分かったものではない。
反対に里美とイグは、雪崩山の心の内も知らず喜んでいた。何しろお互い彼氏の好みはある程度までは分かってはいるものの、まだ知り合って一年経ってない。そう言った意味では長年飯島や藻間との付き合っている彼は、格好の餌食になったのだ。
「えへ、いい時に雪崩山さん来ましたね」
イグの言葉に里美はにっこり微笑んだ。
「……えっと、じゃあ、まずはこれ食べてみてくれますか?」
最初にイグが自分で作ったものをカウンターの上に置いた。トリュフのようだ。藻間からイグの料理の腕前を聞いて(それは決して悪い評価ではなかったのだが、惚れた相手の事の事はあばたもえくぼだからと話半分で聞いてていたのだ)、自分の中で彼女の料理の腕前を決めつけていた雪崩山は、とりあえず食べられないものではない事に少しだけほっとし、皿の上から一つつまんで、口に運ぶ。
「……ど、どうですか?」
イグが恐る恐る雪崩山に尋ねた。彼は口をもごもごと動かしながら、首を縦に振った。イグの顔がぱあっと破顔する。
「雪崩山さん、こっちもいいですか?」
今度は里美がカウンターにチョコを乗っけた皿を置いた。こちらはイチゴにチョコをコーティングしたものと、バナナチョコだった。二人とも本当は器用なんだなぁ、そんな事(二人が知ったら怒りそうが)を思いながら、それを口へ運ぶ。
「二人とも、料理上手なんだな」
ぽろりと本音が口から出る。二つとも本当に美味しかったのだ。その言葉に里美とイグは「きゃ〜っ!」と歓声を上げ、手を繋いでぴょんぴょん跳ねた。
「でも」
けれども続いて出た言葉に二人はぴたっと動きを止める。じーっと雪崩山の方を見て、次の言葉を待つ。
「二人の趣味、正反対なんだけど。藻間さんは果物好きだし、飯島は酒好きだし」
「え、そうなんですかっ?」
異口同音で言葉を発する彼女たち。それを見て苦笑しつつ、更に雪崩山は言葉を重ねた。
「そしてさらに欲を言えば、トリュフの方はもうちょっとラム効かせた方が飯島の好みだと思う。あと藻間さんはバナナとイチゴだったら多分イチゴしか食べないんじゃないかなぁ」
「……これ、作り直しですね」
イグが調理台の上に置かれたチョコレートの山を見て、ため息をついた。里美も調理台に寄ってきて、自分の作ったものを一つつまんで口に運び、もごもごさせながら言った。
「ホント。これ、どうしよっか。まさかお互いのチョコ取り替えるわけにはいかないもの。だからといって捨てるわけにもいかないし。まだ材料あるから、取り替えれば渡す方は何とかなるけど、こればっかりは……そうだわ!」
ふと里美が大声を出した。その声にイグはビクッとし、雪崩山は口に含んでいたコーヒーを吹き出してしまった。慌てて里美の方を見遣ると、彼女は含み笑いをしている。
「ど……どうしたんですか?」
イグが訊ねると、里美はイグの耳に何事かを吹き込んだ。途端にイグも含み笑いをし始める。その姿に雪崩山は嫌なものを感じた。ぞくぞくと寒気が背中から昇ってくる。こりゃ、早目にここから退散した方がよさそうだな、そう思って椅子から降りようとすると、厨房から二人が出てきて、がっしと彼の腕を掴んだ。
「あ、俺そろそろ帰るから……」
「だめですっ!」
雪崩山の言い訳も、二人の声によって一蹴されてしまった。ずるずると引きずられ、もう一度椅子に座らさせられる。里美が雪崩山を押さえ込んでいる間に、イグが厨房からチョコの山を持ってきて、ドンと雪崩山の前に置いた。
「これ、乙女の秘密の口止め料です。どうぞ食べて下さいね」
「あ、これ食べ終わるまで帰っちゃダメですよぉ」
二人はニコニコと微笑みながら雪崩山を脅す。彼には二人の笑顔が悪魔の微笑みに見えた。逃げ出そうにも里美がさり気なく雪崩山を押さえ、イグが入り口の引き戸を押さえているので逃げ出す事も出来そうにない。
しかたがない、男は度胸だ! そう自分に言い聞かせ、彼はそのチョコの山に手を伸ばした──。
次の日。胃薬と友達になるほどの胸やけと戦いながら、彼は御茶ノ水へと向かった。麗子とデートの約束があったからだ。大学のある方の出口を出ると、切符売り場の横の柱に寄りかかった麗子の姿を見つけた。
「よぉ」
その声で雪崩山と気付いた麗子は慌てて鞄の中をあさり、包装紙で綺麗にラッピングされた包みを「はい」と言って手渡した。
それを見た雪崩山は思わず固まる。昨日の悪夢が脳裏をよぎる。その彼の表情を見た麗子は、怪訝な表情で近付いてきた。
「ん、どしたの勇次クン。ほら、今日はバレンタインだから、チョコなんだけど。これ、わざわざ銀座のお店で予約して買ってきたのよ」
今の雪崩山には、『チョコ』という単語さえ、禁句だった。固まったまま動けない。心では彼女からのプレゼントなんだから受け取らなければいけないと思うが、身体がそれを拒否している。
「すまん麗子。……チョコは、しばらくもういいや」
その言葉に麗子は顔色を変えた。つかつかと雪崩山の前に歩み寄り、右手を振り上げた。──ぺちん、と駅前に小気味良い音が響く。
「ひどいっ。あたしのチョコはいらないのに、他の人から貰ったチョコは食べたのね。もう知らないっ!」
瞳に涙を浮かべながら、麗子は走り去ってしまった。雪崩山の足下にチョコレートの包みを残したまま。それを拾いながら雪崩山は嘆息した。身体を曲げた途端吐き気が襲ったため、そのまましゃがみ込む。
悔しさと情けなさ、それと吐き気が身体中をぐるぐると回る。
もう絶対、麗子から以外のチョコは食わねぇぞ!
しゃがみ込んだまま、彼はそう心の中で誓ったのだった。