──ふと、鼻孔を覚えのない匂いがくすぐった。なんだろうと思っているうちに、頬をかすった冷たい感触。
「あ……雨」
 初めはぽつりぽつりと落ちてきていた雨は、次第に勢いを増していき、それはすぐにあたしの身体をぐっしょりと濡らすまでになった。それと同時にかすかだった匂いを強く感じた。下から立ち昇る、陽だまりのような──。
 それが真夏の日ざしがじりじり当たっていたアスファルトからのものだと気付くのには数分を要した。あたしが夕立ちの時に外に出るなんて事はここ数十年なかった事だったし、出ていた頃にアスファルトなんてものは存在しなかった。一面土だった記憶しかない。
 そもそも、あたしが雨に濡れると言うのも久しぶりの事だ。あたしが人間として生活していたのは世界がやれ初代内閣総理大臣だ、鉄道がどこまで延びた、露西亜との戦争だの、そんな時代。その後はほとんどを洞窟で暮らしていたし。雨の日はうっとうしくて出る事もなかった。出なくてもいい生活を送っていたし。
 でも、そんなあたしにも一つだけ雨の記憶が残ってる。まだ、あたしたち双子が香代と佳奈だった頃の記憶。
 あれも確か真夏の出来事だった。父に頼まれて、知り合いの家にお使いに行った帰り道。確か海のそばだった記憶がある。やっぱり今日と同じように、いきなり夕立ちに襲われた。道ぞいにあった大きな松の木の下で雨宿りをしていて、なかなか勢いが衰えない雨にちょっと苛立ち始めた時、姉さまがふと海の方を指して言った。
「ねえ香代、なんか雨が海から立ち昇っているみたい」
 そう言われて海の方を見てみたら、本当に姉さまの言った通りだった。あまりの勢いで雨が降るもんだから、荒れた海の波しぶきと同化していて、雨が降っているんだか波が雨になっているんだか全く分からなくて、あまりのすごさに二人して雨宿りも忘れて海の傍まで走り出て、ずっと見入っていた。全身びしょぬれになって帰って後で父にお小言を貰った記憶がある。
 多分、それがあたしにとって最後の雨の記憶。それから一気に、今、この時になる。
 
 
 今、一人でいる事に疑問を覚える事はない。昔だったらどうして姉さまが傍にいないのか、どうしていてくれないのかと怒っていた事だろう。
 でも、あたしは自分から姉さまの元を離れた。今、幸せな生活を送っている姉さまの元になんか帰れるわけがない。香代に戻ってもナグの力が身体中に残り香のように残ってしまっているあたしは、姉さまの傍にいたら、きっと苦しめるだけ。過去の罪に苛まれ、泣き叫んでいた姉さまを垣間見た時に、あたしの心は決まったのだ。
 ──姉さまから離れよう、と。
 もしかしたらこれは逃げなのかもしれない。姉さまだけ昔のままの姉さまに戻り、そして大好きな人と一緒に暮らしているのを、あたしは見たくないだけなのかもしれない。見ていたらきっと耐えられなくなってしまう。「どうしてあたしだけ」と姉さまをなじり、困らせてしまうだろう。
 
 
 もし、神様と呼ばれるものが本当にこの世にいるのなら。
 あたしの中の全てをこの雨で洗い流して下さい。
 罪も、忌わしい記憶も。力も。全て流れて元の香代に戻れればいいのに──。
 
 
 あたしは空を見上げ、雨に向かって両手を広げた。今の想いが、叶えられる事を願って。

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