学生ホールを出た里美は、ちょっと気分良く駅の方向に向かっていった。麗子と雪崩山の話を聞いているうちに、何となく自分がどうしたらいいのかがつかめてきたような気がしていた。まだ心のあちこちに散らばっている感じがするのだが、それもきっと飯島のアパートに向かうまでには何とかまとまるのではないかと思う。
それがとても嬉しくて、里美はうきうきしながら駅前の文房具屋へと足を運んだ。文房具が好きな彼女は大学の講義がある日は必ずといっていい程この店に行き、様々な商品を見てはうっとりするのが日課なのであった。
今日は見るだけにしようと思っていたが、とても気に入った製図用シャープを見つけてしまい、しばし悩んで結局手に入れてしまった。少し高かったけど、でもまあ、今日の記念になるからいいかな、と自分を納得させて店を出て駅に向かおうと身体を回転させた時、目の端に見覚えのある大きな身体をとらえた。
もしかして、と思い視線をそちらの方向にスライドさせる。すると里美の考えていた人物が今まさに文房具屋のとなりの本屋に入ろうとしている所だった。
やっぱり先輩を見かけたら挨拶しないとなぁ、と思いながら自動ドアを超えて中に入っていく背中に呼びかけた。
「藻間さん、お久しぶりです」
くるりとこちらに顔を向けてきたのは里美の想像どおり、藻間であった。いつものようにニコニコしながらこちらに声をかけてくる。
「こんにちは、山崎さん。今日はどうしたの?」
「えっと、ちょっと欲しいシャーペンがあったので買ってしまった所なんですよ。藻間さんこそ今日はどうしたんです?」
里美の質問に、藻間はにっこり微笑んだ。とても幸せそうな顔で。
「佳奈が、凝った料理を作ってみたいと言い出してたから、一応参考にでもなればいいかなぁとおもって料理の本を探しに行く所なんだけど、どこにあるか分からなくてどうしようかなぁ、と思っていた所なんだ。あ、そうだ。山崎さんは料理関連の本ってどこに配置されているか分かるかい?」
「あ、それなら分かります。あたしでよければ一緒に探しましょうか?」
里美の申し出に、藻間は照れくさそうに頬ををかいた。
「そうしてくれるとありがたい。ちょっと一人だと気恥ずかしいもんだから」
そして二人は本屋の料理本コーナーで何冊かの本を物色し、中華料理と和食の料理本を2冊程セレクトした。レジでお金を払い外に出たときに藻間が声をかけてきた。
「山崎さん、まだ時間あるかい? 一緒に探してくれたお礼にお茶でもおごるよ」
里美は一瞬考えを巡らせた。まだご飯を作るには少し早い時間だし、先輩からおごってもらうんだからお断りするなんて失礼、と言う結論に達し、藻間の好意に甘える事にした。早速二人は隣のビルの2階のレストランに入る。
向かい合って座り、ウェイトレスに注文をした後、里美は藻間に話しかけた。
「佳奈は元気ですか? 近頃なかなか白楽天に行く機会がなくてご無沙汰なんですけど」
「元気だよ。さっきも言ったけど近頃は料理の腕をあげるんだとか言って、おやじさんに色々料理を教わってる。見てると結構微笑ましいんだ」
……そういや佳奈は藻間さんのことを名字で読んでいたような。藻間さんはそれに対してどう思っているのかしら?
里美に答えを返してきた藻間の幸せそうな笑顔を見ているうちに、里美はふと、今日麗子と雪崩山に対して問いかけた質問を、彼にもしてみようと思い立った。
「藻間さん、お聞きしたいことがあるんですけど、いいですか?」
里美の突然の話題変換にも藻間は動じなかった。「どんな質問?」と聞き返してくる。
「あたし、今悩んでいるんです。飯島さんの事なんですけど。彼のこと今ずっと名字で呼んでて、でも、名前で呼んでみたいんですけど呼べないんです、恥ずかしくて。男の人って名前で呼んでもらった方がいいんでしょうか? 藻間さんのところって佳奈は『藻間さん』って名字で呼んでますよね。それって藻間さんの立場から考えるとどう思います? 名字じゃなくて名前で呼んでもらった方がうれしいと思います?」
麗子と雪崩山にいろいろと聞いたせいだろうか、里美は今までと違って質問事項を滑らかに口に出す事ができた。そんな自分にびっくりしつつも、里美は藻間の返事を待つ。
「山崎さんは、名前で呼ぶ事で何かが変わっていくと思ってる?」
藻間に逆に質問されて一瞬里美は戸惑うが、思った事をそのまま話しだす。
「あたしは……名前で呼ぶ事でちょっとだけ距離が近くなるんじゃないかな、って、そんな風に考えてます。心の距離がちょっとだけ、ほんのちょっとだけでも近付くんじゃないのかなって。それに、飯島さんはあたしのこと『里美』って呼んでて。そう呼ばれる事がとっても心地よくて。だったら飯島さんにも同じ事をしてあげたいなぁ、って、そう思ったんです」
自分の頭の中でもやもやとこんがらがっていた事がスラスラ出てきてしまって、里美は更にビックリしてしまう。
そう、そうなのだ。飯島はいつも自分の事を名前で呼んでくれる。それがちょっとのくすぐったさと心地良さをもたらしてくれる、呼んでくれる度に飯島への想いが深まっていく自分を実感できるのだ。
だから、一回だけでも彼の事を名前で呼びたくて、でも恥ずかしさの方が増してしまってできなくて──。
「佳奈はね、俺の事を『藻間さん』って呼ぶよ。それっは山崎さんも知ってるよね。でも、名字だからって距離があるとは到底思えないんだ」
藻間は、里美が言いたい事を言い切って一息ついたのを確認してから、こう切り出した。
「佳奈の事は愛おしいよ。どんな事をしても、何があっても。それは声をかけてくれる、そっと手を握ってくれる、俺が困った事があって悩んでいる時、『どうしたの?』って心配してくれる。行動や言葉全てに佳奈が想いを込めてくれてるからじゃないかな、と思う。人の想いは一挙手一投足全てに込められているんじゃないかな、と俺は佳奈と付き合うようになって実感するようになった」
ちょうどそこへウェイトレスが注文したものを持って来た。一旦会話が中断される。やって来たアメリカンコーヒーを一口飲んだ後、藻間は会話を再開した。
「結局、俺が言いたいのは山崎さんが飯島の事をどれだけ好きかを全ての行動にのせる事ができるなら、名前云々は正直どうでもいい事なんじゃないかな。別に無理して飯島のことを名前で呼ぶ必要はないのかもしれないよ。俺は山崎さんがさっきから言ってる『飯島さん』にも愛はこもってると思うし」
藻間の意見に真剣に聞き入っていた里美だったが、最後の部分で思わずのんでいたオレンジジュースでむせてしまった。けほけほ咳をしていると、背中をさすってくれる手がある。
あれ、藻間さんは向かいにいるんだからできないし……後ろの席の人かしら? お礼を言わなきゃとくるりと振り返ると、可愛らしい制服に身を包んだウェイトレスが背中をさすってくれていた。けれども、彼女の顔に里美は見覚えがあった。思わず目を丸くして絶句する。それは、里美の向かいにいて正面からウェイトレスの顔を見る事ができる藻間も、同じ事であった。
「ナグ!」
ハモった二人のセリフに、ナグはにこっと笑うと里美のとなりにすとん腰を下ろした。
「ナグって呼ばないでよ。能力は残っちゃったとは言え、あたしは香代よ。ちょっと面白そうな話題が出てたみたいだから出てきちゃった」
クスクス笑いながら、ナグは一人で話を進めていく。
「名前で呼びたいのに……ねぇ。あなたって本当に純粋なのね。前々から思っていたけれど、今日の事でますますそれが明るみに出たって感じね。……姉さまとおんなじ」
「佳奈と一緒?」
またしても藻間と里美のセリフがハモる。それにナグはこくん、とうなずいた。
「姉さまも純粋よね。だってあそこまで人に愛情を尽くす人を、あたしは知らない。昔はそんな色恋沙汰なんかほとんどなかったから、あたしは姉さまがどんな恋をするのか、すごく興味があった。そして今しみじみと姉さまとこの人が一緒にいる所見たら、あたしは……裸足で逃げ出すしかないって思えたわよ。それくらい姉さまは純粋で一直線の恋をしていると思う。『藻間さん』って名字で読んでるのは姉さま恥ずかしいから名字で呼ぶんだなぁ、と言うのも分かっちゃうしね。本当にあなたと一緒よ、山崎里美」
……ナグに『純粋』と言われてちょっと恥ずかしくなった里美は顔に血が昇っていくのを感じていた。それを察知したナグは里美の顔を覗き込む。
「ほら、本当に純粋。あたしちょっと羨ましいかもしれない。……さてと、そろそろ行くわ。バイバーイ」
ナグは自分が話したい事だけさっさと喋ると厨房の方に向かって歩き出した。
里美と藻間は嵐のようにやってきて嵐のように去っていった彼女を、無言で見送る事しかできなかった。
しばし静寂の時が、二人の間に流れる。ようやく口を開いたのは、里美の方であった。
「……なんだったんでしょうかね。ナグは」
「……多分、山崎さんが気になったのと、佳奈の事が気になって思わず出てきた、と言う感じだろうね」
ですよねぇ、と里美はため息とともに言葉を吐き出し、残っていたオレンジジュースを一気に飲み干した。
藻間も冷めてしまったコーヒーをぐいっと飲む。
「結局の所」
藻間が、ナグが現れた事で中断されていた会話を再開した。
「山崎さんの心の赴くままに飯島の名前を呼ぶ事が俺は大事だと思う。いいんだよ、無理はしなくて。いつか自然に呼べる日が来ると思うよ。俺はそう思ってる」
「藻間さんはいつから彼女の事を名前で呼んでたんですか?」
里美の疑問に、藻間は照れくさそうに頭を掻きながら答えた。
「出会って、名前を知った直後から。一目惚れだった。この子しか俺にはいないとすぐに信じたから。惚れた瞬間から、って事になるのかな?」
気恥ずかしそうに言う藻間の姿が、とても素敵なものに里美には見えた。
うきうきしながら里美は飯島のアパートへと向かった。明確な答えは得られなかったが、皆から聞いたいろいろな答えは里美の中で確かに根付いていた。呼び方が重要なんかじゃない、あたしの飯島さんへの想いが一番重要なんだ──そう考えるだけで心が弾んでいく。
勝手知ったる我が家のように合鍵で鍵を開け、作業をしている飯島の邪魔にならないようにこっそり入って夕飯の支度をする。飯島は作業が大詰めなのか、寝室の方に入ったまま全く出てくる気配はない。
ご飯ができたら呼びにいこう、そう思って手早く里美は準備をすませた。そおっとふすまを開けて入り込み、飯島の傍に近寄って声をかけた。
「ただいま。ご飯できましたよ」
「あ、おかえり。もうそんな時間なんだ」
里美がここに毎日通ってご飯を作って一緒に食べてから帰るのが日常になって、既に2か月近く経っていた。当たり前のように交わされていたこの会話も、今日の里美にはなんだか新鮮であった。自分が飯島に向けて発する言葉に、意識して心の中の想いを入れ込んで紡ぎ出していくことが、こんなにも心地よいものだとは思わなかった。それがなんだか嬉しくて思わずくすりと笑ってしまった里美に、飯島が疑問を投げかける。
「ん、どうしたの急に笑ったりして。大学で面白いことでもあったのかい?」
飯島に話すべきかどうか一瞬迷った。けれども『いいや、この人なら何を言っても大丈夫』そう判断して返事をした。
「……後でお話しするね」 そして里美はご飯を食べながら今日の出来事を話した。どうしてそんな話になってしまったかも、全て。そうじゃなければ皆から話してもらったものは無意味になっちゃうかも、そう思えたから。
全員が全員、「呼びたいように呼べばいい」と言った事を話した時、飯島は微笑した。
「どうして笑うんですか? 皆変な事は言ってませんよ。最初麗子さんに言われた時はどうしてか分からなかったけど、雪崩山さん、藻間さんと同じ事を違う観点でお話ししてもらって、あたしはすごーくよく分かったんですけど」
笑いが腑に落ちなくて飯島に向かって多少反論してみると、「そうじゃないんだよ」と答えが返ってくる。
「皆が皆ね、色々な恋愛をしているけど同じ答えが返ってくるってことは、同じような恋愛観の持ち主なのかなぁ、と思ったんだよ。性格結構違うと思うんだけどな、あの三人は」
などといいながらまた笑っている。
「ところで、三人の意見について飯島さんはどう思います? やっぱり呼び方って関係ないんですか?」
里美は今度は飯島にもそう切り出してみた。大胆かなぁとは思ったが、ここまで色々な人の意見を聞いて、どうしても飯島本人にも聞いてみたいと考えたから。
──それに、結局の所飯島さんの意見が一番あたしを左右しちゃうから。どう答えてくれるのかしら。
里美はドキドキしながら飯島の答えを待つ。
「俺もね、皆と同じ意見だよ。さっき笑っちゃったのはあの人たちと恋愛観が一緒なのかなぁ、と思えたってのもあるんだよ」
そうか、と里美は安堵する。けれど、「でもね」と続いた言葉に里美は少し緊張し、ちょっと崩していた足を戻し、居住まいを正して続きを待つ。
「その……ある時期が来たら、名字で呼ぶのはどうしてもやめてほしいんだけど……」
少し言葉を濁ながら喋る飯島のセリフが、里美には上手く理解できない。ハッキリ言って、と言う風に視線を合わせると、意を決したようにキッパリと言い切った。
「同じ名字になったら、『飯島さん』って呼ぶと訳分からなるだろう。だからそうなったらちゃんと名前で呼んでくれるといいかな、って考えてる」
「そ、それって……」
里美にも、ようやく飯島の言っている事が飲み込めた。驚いて力を失った手から滑り出た箸が、コロンと音を立てて畳の上に転がっていく。
「それまでだったら『飯島さん』でいいから」
その言葉に里美はこくこくと首を振って肯定した。だんだん嬉しさが込み上げてくる。それを言葉に出したらもったいない気がして、里美は飯島に抱きついて、耳元でささやいた。
「ありがとう飯島さん。大好きっ」
こうして、里美の長い一日は幕を閉じたのであった。
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