37.5

 

 う〜ん、今日もいい天気。
 あたしは、晴れ渡った空を見上げた。まだ世間が動き出してからあまり時間が経っていないためか、空気が澄んでて空の碧さが心に染み渡る。
 秋もだいぶ深まって空気は刺々しさを持つようになってきたけど、あたしはこのくらいが好き。肺にいっぱい空気を吸い込むと、清々しさを感じるから。
 とりあえず、ゆっくりとお店の前で深呼吸した。寝起きでぼんやりとした気持ちを引き締め、ほうきを手に取り、掃除を始める。
 上の方ではばたばたとせわしない音が聞こえてくる。きっとこれからお出かけなのかな? そんな事を考えながらお店の前を掃いていると、トントンと階段をおりる音がして、しばらくして引き戸をがたがたと言わせながら、藻間さんが顔を出した。
「じゃあ佳奈、ちょっと出かけてくるから」
 いつものように藻間さんが声をかけてくる。
 どれだけ忙しい時でも、どれだけ急いでいても、出かける時はいつもそう。前に彼が一度声をかけずに出かけてしまって、あたしが気付かなくて遠くまで探しに出ちゃった時から、彼は必ず声をかけてくれる。言ってみれば、これは出かける前の通過儀式。これがないと、なんだか落ち着かない。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
 お店の前を掃く事にに追われつつも、しっかりと彼の方を向いて挨拶をする、これもいつもの事。
 普段だったら藻間さんは目が合うとにっこりと微笑んで、それから出かけるんだけど、その日は違ってた。なんだか頬が赤いし、少し元気もないみたい。心配になって、あたしはほうきを握りしめたまま彼の背中を追いかけた。
「ん、どした、佳奈」
 追いかけて来たあたしを不審に思ったのか、道の真ん中で藻間さんが立ち止まる。その彼の額に確認のつもりで、ちょこんと手をあてた。
 熱い。
 そこが熱の発生源なんじゃないかと思う程に熱くて、手を額にあてたそのままで止まってしまった。──見つめあう事、しばし。
 ようやくあたしは我に返って、思わず叫んでしまった。
「ちょ、ちょっと藻間さん、熱あるじゃないですか。ダメですよ、そんな状態で出歩いたりしたらっ」
「でも、今日は飯島たちに呼ばれてて、大学に行かなきゃならないんだけど……」
 何やらぶつぶつ呟いてる彼の腕をとって、あたしは店の方へと歩き出した。
 心の中は心配一色で膨れ上がり、お店の開店準備をしていた事などすっかり忘れてしまっていた。一刻も早く寝かせなきゃ、その事ばかり考えていた。
 
 
 とりあえず「約束が……」と呟いている彼のために、あたしは飯島さんの家に電話をかける事にした。藻間さんを布団に寝かせ体温計を渡し、熱を測らせている間を見計らって。いなかったら大学に行って誰かに連絡とらないと、と思いながらダイヤルをまわす。数コールの後、「もしもし」と女性の声が聞こえた。里美さんだ。
「もしもし、イグです」
「あら、どうしたの? イグが電話をかけてくるなんて珍しいじゃない。……もしかして、藻間さんに何かあった?」
 さすが里美さん、良く気付くなぁなどと、変な所で感心しつつ、あたしは里美さんの質問に答えた。
「うん。あのね、藻間さん、熱出してるの。今日なんか飯島さんたちと約束があるって聞いたんだけど」
「うそ……。ちょっと待ってて」
 里美さんが受話器を押さえ、何やら向こう側で話してる。きっと、飯島さんにどうすればいいか聞いてるのかな?
「もしもし、飯島ですけど」
 しばらくしてから電話に出たのは飯島さんだった。あたしはもう一度、事の次第を手短に飯島さんに言う。飯島さんはちょっと悩んだらしく、数秒の間をあけて答えた。
「今日中に渡したいものがあって藻間さんを呼んだんだけど……熱じゃしょうがないよな。治ったら連絡くれるように藻間さんに言っておいてくれるかい?」
「はい、伝えておきますね」
「もしかしたら後で皆で見舞いに行くかもしれないけど……大丈夫?」
 心配そうな声の響きに、あたしもますます藻間さんの事が心配になってしまった。声の力って、不思議。
「うん。多分大丈夫だと思う。もし良かったらもう一回連絡して下さい」
「わかった。じゃあ、お大事にって」
 そういって電話は切れた。
 ……そろそろ、体温測り終えたかな? 受話器を置いて1階の公衆電話の前から離れ、急いで2階の六畳間に走り込んだ。
 藻間さんはさっきよりも赤い顔をして、布団の中で苦しそうな呼吸してる。本当に大丈夫なのかな?
「藻間さん、体温計、見せて」
 口にくわえていた水銀式の体温計を取って見ると、銀のラインは38.2のところで止まっていた。……やっぱり、熱があったんだ。
「佳奈、飯島たちに連絡しておいてくれるかな。なんか今日は行けそうにないや」
「大丈夫です。もうさっき、飯島さんたちには連絡入れておきました。あとでお見舞いにきますって。お大事に、って言ってましたよ、飯島さんたち」
 あたしの言葉に、藻間さんは力なく微笑んだ。その顔に、胸がきゅんとなる。ときめいている場合じゃないのに。
「ありがとう……さすが佳奈だね」
 その言葉にも、胸が締め付けられる。この人が、いとおしくていとおしくてたまらないと言う事を実感させられる。なんだか傍にいたくなって、あたしは彼の手を握りしめた。
 ──ほら。
 触るだけで、あたしの鼓動は早くなる。あの時からずっと。毎日のようにこの人の傍にいるのに。日ごと日ごとに彼への想いは増していく。とどまる所を知らない。
 あの、今では信じられないような日々を過ごしていた時は、こんな安らぎや想いは感じた事はなかった。ただ、おじいちゃんの言う事を聞いて、お休みの時はたまに外に出て気分転換をする、それだけが世界の全てだった。
 それがあの時、横浜の埠頭で藻間さんに逢った瞬間、新たな世界が広がった。初めて人を愛しいと感じた。この人の傍にならずっといたって構わない、そう思うようになった。
 今、この人の一番近くでこうしている事が信じられない反面、これがずっと昔から続いているような錯覚を覚える。
 ふと藻間さんの方を見ると、目が合った。その視線ににっこりと微笑み返す。すると、心の片隅にに触れるかすかな感触。これからもずっと一番近くにいられるだろうという──。
「……ところで佳奈、店の方は大丈夫なのかい?」
 ふと、藻間さんが口にした疑問にあたしはハッとなった。このお店のおやじさんに、住まわしてもらう代わりにお店のお手伝いをする、そう言ってここにいさせてもらってる。で、開店前と後のお店の掃除と整頓はあたしの役目なのだけれど、朝のドタバタですっかりそれを放置してしまっていたのだ。
「とりあえず、準備だけは済ませてきちゃいますね。おやじさんに話して今日は休ませてもらいます。あ、これお薬。ちゃんと飲んで寝て下さいね」
 そういい残しあたしは急いで階下へと走り出した。 いつもより慌ただしく開店準備を終わらせ、おやじさんに許可を貰い、あたしはまた二階へと戻った。襖をそっと開けて中を覗いてみると、藻間さんは眠っていた。起こさないようにそっと傍により、額に置いておいた濡れタオルを交換し、首筋に吹き出した汗を拭い、そっと布団をかけ直す。
 とりあえず何か食べられるものがあればいいかな、と持ってきたリンゴの処遇をどうしようか考え始めた時、藻間さんの目がうっすらと開いた。
「起きちゃいました? ごめんなさい。食べるかなぁと思ってリンゴ貰ってきたんだけど、食べます?」
「うん、食べたいな。でも起きるのおっくうだから、食べさせてもらえるかい?」
 その言葉がすごく嬉しかった。いつもあたしが甘えてばかりで、こうやって藻間さんに甘えてもらうのがなんだか新鮮だった。
「うん。はい、どうぞ」
 持ってきたリンゴを全部食べた後、藻間さんはまた目を閉じた。
「もうちょっと、寝かせてもらうわ。ごめんな、佳奈」
 返事の代わりに、そっと彼の頭をなでる。しばらくして、静かな寝息が聞こえてきた。そっと覗き込み、彼がぐっすり寝ているのを確認した後、あたしは藻間さんの横にころんと転がった。畳の上に寝たからちょっと背中が痛かったけど、あまり気にしなかった。
 そっと、目の前の彼の顔を覗き込む。長いまつげがなんだか可愛い。規則正しい呼吸音だけが聞こえる。あまり苦しくはないみたい、かな?
 ほっとした途端、力が抜けた。一気に眠気が襲ってきた。耳元で一定のリズムで聞こえる藻間さんの呼吸音が、更にあたしを眠りに誘おうとしている。
 ……いいかな。このまま寝ちゃっても。そう思ってあたしは瞳を閉じた。眠りに落ちる直前に、手を何かが包み込んでくれた気もしたけれど、それさえもとっても心地よくて──。
「──グ、イグ、起きて」
 寝ていたのは、多分、ほんの数分だと思う。ふと、誰かの声があたしの耳朶をかすめた。藻間さんじゃない、おやじさんでもない、柔らかな女の人の声。うっすらと瞳をあけると、里美さんの顔が覗き込んでいた。途端、寝ぼけた頭は綺麗にクリアされる。
「さ、里美さん、ごめんなさいっ。あたし、寝ちゃって……」
 慌てて身体を起こそうとすると、里美さんは手で制した。疑問の視線を投げ掛けると、彼女はとある所を指で指し示す。その指の先を目で追っていくと、藻間さんがあたしの右手を握りしめて寝ていた。
 そうか、寝る前から感じた暖かさは、藻間さんだったんだ……。心も暖かさでいっぱいになった。
 でもとりあえず、お客さまが来ているのに寝ているのも悪いので、あたしは右手だけ動かさないように起き上がり、里美さんにぺこりと頭を下げた。
「お見舞いにきてくれたんですよね。ありがとうございます」
「ホントはね、皆で行こうかって話になったんだけど、あまりお邪魔して藻間さんに迷惑かけると悪いから、あたしと飯島さんが代表してきたの。呼びかけても返事ないから、勝手にあがっちゃったけど、ごめんね」
 里美さんの言葉に、辺りを見渡す。すると襖の向こう側から飯島さんの姿が見えかくれしてた。「飯島さん」と小声で呼びかけると、彼も入ってきた。手に紙袋を持っている。
「ごめんな、イグ。本当は見舞いに行くのもやめようかなぁって思ったんだけど、どうしても渡したいものがあったから」
 そう言って、彼はその紙袋を差し出した。左手のみでそれを受け取り、あたしは中を覗き込んだけど、よく分からなかった。
「それ、借りてた本なんだよ。藻間さんが今日明日中に使いたいって話をしてたから、急いで届けにきたんだ」
「あとね、お見舞いの果物もちょこっと入ってるから、後で食べてね」
「ありがとうございます。藻間さん、喜びますよ、きっと」
 里美さんと顔を合わせて微笑みあった時、藻間さんが小さく唸ってあたしの手を握りしめたまま、寝返りをうった。もちろん無事でいられるわけもなく、藻間さんの胸の上に倒れ込むようになってしまった。しかも、藻間さんはそのままあたしを抱え込むようにして布団の中に潜り込んでいく。
 助けを求めるように、起きてる飯島さんたちに視線を向けようとしたら、なんと二人はふすまの向こうで笑顔で小さく手を振っていた。
「ついでだから、イグももう一回寝た方がいいぞー」
 飯島さんは面白そうな、里美さんは、微笑ましく。その笑顔のまま、二人は帰っていってしまった。
 無理矢理抜け出そうかとも思ったけど、あまりにこの場所が心地いいものだから、あたしは飯島さんの言葉どおり、もう一度目を閉じた。
 一番安心できる場所で、あたしは今度こそ、深い眠りに落ちたのだった。
 
 
 目を覚ますと、辺りは真っ暗だった。どうやらだいぶ寝てたみたい。上目づかいで藻間さんを見ると、まだ寝ているようだった。起こさないようにこの腕の中から抜け出すのは至難の業と判断したあたしは、そっと彼を揺さぶった。
「藻間さん、そろそろ夕飯の準備するから、ここから抜けたいんです。起きて下さい」
 何度か揺さぶって、ようやく藻間さんは目を覚ました。腕の中にあたしがいる事にとても驚いた様子で「なんで佳奈がここで寝てるんだい?」と問いかけてきた。
「藻間さんがあたしを引きずり込んだんですよ。覚えて……ないですよね? 多分寝ぼけてたんだと思うんですけど」
「そっか……ごめんな」
 その言葉にぶんぶんと思いきり、首を振った。
 あたしがこの世で一番自分でいられる所で、ゆっくり眠ったんだもの。謝られる理由なんて何もない。
「あ、そうそう、体温測って下さい」
 ようやく腕の中から抜け出せたあたしは、体温計を探し出し藻間さんに渡し、目の前で測っている所を眺めていた。本当は夕飯の支度をしなくちゃいけなかったんだけど、なんだか離れたくなかった。
 あたしが立ち上がらないのを不審に思ったらしい藻間さんが、疑問の視線を投げ掛けてくる。この心を口で表すのは恥ずかしかったから、その視線に微笑みで答えた。
 その頬笑みの答えと言わんばかりに、彼はそっとあたしを抱き寄せた。途端に頬が熱くなる。幸せな気持ちでいっぱいになる。
「佳奈、心配させてごめんな。でも、もう大丈夫だから」
 腕の中でうっとりとしていると、藻間さんが口にくわえていた体温計をあたしに手渡してくれた。見ると、37.5度。まだちょっと微熱みたいだけどだいぶ下がったみたいで、あたしはほっとした。
 さてと、これで普通にご飯、作れるかな。立ち上がろうとするんだけど、藻間さんがあたしを離してくれない。
「も、藻間さん……」
「ん?」
「ご飯、作りたいんですけど。手、離して下さい」


 必死の哀願の答えは、さらにきつくなった腕。


「もうちょっとこのままでいたいんだけど」


 結局、ご飯は作れなくて、外に食べに行く事になってしまったのだった。

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