『何の用だ?』
『あのね、おじいちゃんがこの人を見つけてさらってこいって言ってるの。あたしの力じゃどうにもならないし、ってことで召還したんだけど。お願いできるかなぁ?』
『俺にできない事はない。こんな小娘一人くらい、あっという間に連れて来れるさ』
『でも殺しちゃダメだし、傷つけてもダメよ。無傷で連れてきてね。彼女は特別な存在なの。いつもみたいに能力や生命力を奪うための存在じゃないから』
『そうか……少し面倒だな』
『あ、でも万が一邪魔する人がいたら遠慮なく殺しちゃっていいからね。邪魔しないなら言う事ないんだけどね。何はともあれよろしくね、麻都』
『任せておけ、イグ』


 ──あたしはハッと飛び起きた。起きて初めて夢なんだって気付く。けれども今まで見ていた映像が身体に大きな影響を与えていた。震えが止まらない。
 今のは……忌わしい過去。あたしがイグと呼ばれていた時、写本の管理をしていた時におじいちゃんに言われて麻都を召還し、里美さんをおじいちゃんの所に連れてこいと命令した時の。
 あれはイグという亜邪神の口から出たものであって、あたし──佳奈──の口から出たものじゃあ、ない。でも、彼女と記憶を共有していたあたしの中にそれは深く刻み込まれているのだ。
 無邪気な口調と邪魔する者は平気で排除しようと言う残忍さとのギャップが、今となってはただただ恐怖でしかない。
 震えを止めなきゃと自分で自分を抱きしめながら布団の傍にある目覚まし時計に手を伸ばし、時刻を確かめる。デジタルの無機質な数字が、今が午前2時35分だと言う事を教えてくれた。
 また今日もこのまま眠れないのかなぁ……。知らず知らずにほう、とため息をつく。
 この家に住むようになって早10日が過ぎていた。でも、まともに眠れたためしがない。眠ると昔の記憶が夢に出てきてあたしを苛む。起きた後は自分の罪の深さを思い知って眠れなくなるのだ。
 今、ここにこうして暮らしている事に後悔はない。むしろ起きている時は至上の幸福を感じる。罪の意識を感じてる暇がないくらいの。すぐそばに一番大切な人がいて微笑んでくれてる……でも、その幸せの裏に自分の罪が同居しているのかと思うと、たまに吐き気すら覚える。
 香代のことだって、そう。あたしを蓮から解放するために香代の心でナグの力を使ったあの子には、ナグの力の欠片が残ってしまっている。
 他にも、あたしたちが能力を奪うために殺してしまった人たちなんか、数えきれないくらいいる。
 本間佳奈と言う人間が起こした事じゃないってのは分かってる。でも、あたしはそれを経験している。手にかけた人たちの顔だって、思い浮かべる事ができる。この身体にはたくさんの罪がのしかかっていて、それが、眠りを妨げるのだ。
 隣で寝ていた藻間さんを起こさないようにしながら布団から出て、そっと窓辺ににじり寄った。少し欠けた満月が、あたしの顔を照らし出す。
 どうすればあたしは自分の罪を償う事ができるんだろう……。
 一体、どうすればいいの?
 こんな罪深い人間は、藻間さんの傍にいちゃいけないのかもしれない……。
 それがとても悲しくて、思わず涙が出てきた。泣く資格も無いはずなんだからな泣いちゃダメ、と上を向いて雫がこぼれないようにしたその時、ふと後ろで身じろぎする音が聞こえ、しばらく経って藻間さんの声が聞こえた。
「……どうしたんだい? 何かあった?」
 彼の心配する優しげな声に、あたしはますます自分の罪を自覚した。ああ、本当は自分はこの声に甘える事もできない存在なんだ……。
 ぽろりと、我慢していた涙が一つこぼれ落ちた。それをきっかけに、次々と涙が瞳から溢れ出て、頬を濡らしていく。
 返事がないのを変に思ったのか、藻間さんはあたしの顔を覗き込み、そのまま固まった。彼に心配かけさせちゃいけない、そう思いながらも涙は止まらなかった。
「どうした、何があった?」
 彼はあたしの肩を掴み、自分の方に向き直させる。心配そうに覗き込んでくる瞳。その瞳さえ見つめられなくて、思わず視線をそらした。
 どうしたらいいのか、あたしは全く考えられなかった。脳の奥がしびれたようになって、ただただ、泣く事しかできなかった。自分の罪を自覚するようになってから、毎晩泣いていた。──泣くしかできない自分がもどかしかった。泣いたってこの身体にしみ込んだ罪は消えない──。考えるのは、もう限界だった。
「言わないと分からないよ。言ってみて」
 藻間さんの言葉に、我慢の糸がぷちん、と切れる。あたしはそのまま藻間さんにしがみついて叫んだ。
「どうしたらいいのか分からないの。藻間さん、助けて!」 あたしは藻間さんの腕の中で、かすれる声を振り絞るようにして心の中を訴えた。
「あのね、毎晩毎晩夢を見るの。自分が犯した罪の夢。能力を吸い取るために連れてきた人の夢や、麻都を召還した時の夢。それから……香代の夢。見るたびに気付かされるの。あたしは罪深い人間なんだって。……自分自身で起こしたものじゃないって分かってる。でもね、あたしの記憶に、身体に、腕にそれが全て残ってるの。ここでこうしてのんびりと生きてちゃダメなんだって自覚させられる。どうしたらいいのか本当に分からないの」
 あたしを落ち着かせるかのようにに髪の毛を梳いてくれていた藻間さんの腕が、止まった。あたしはそこに更に言葉を重ねてく。
「ねえ藻間さん、あたしはここでこうしてていいの? 皆に犯した罪を償わなきゃダメなんじゃないの? ねえ」
 藻間さんは、だまったままだ。辛くて、苦しくて、全てを吐き出したくて、あたしは絞り出すように叫んだ。
「あたしは、どうやって犯した罪を償えばいいの? 教えて、藻間さん!!」
 涙に濡れた瞳で、初めてあたしは彼を見た。泣きじゃくりながら、言葉だけじゃなく瞳で訴えた。
 ……しばらく、二人の間に沈黙が流れた。しばらくして、口を開いたのは藻間さんだった。
「俺は、佳奈が罪を犯したとは思ってないよ」
 その言葉に、あたしは静かに首を振る。
「ううん、それは違う。あたしは確かに直接手を下してない。でもね、残ってるの。身体中に」
 さっき繰り返した言葉を、もう一度言う。背中を寒気が走り、ぶるっと震えがくる。それに気付いた彼が、あたしをぎゅっと抱きしめた。
「それも分かる。佳奈の罪じゃないのも分かるし、でもその罪を背負っているのも分かる。正直俺は、佳奈がどうやって罪を償おうと思ってるか分からない。でも、俺は君がそうやって人間として生きていく事も、罪滅ぼしになるんじゃないかと思ってる」
 その言葉に、疑問の視線を向けた。あたしが人間として生きる事が、罪滅ぼし? その視線に答えるように、彼がまた口を開く。
「人間として、幸せに生きて。でも、自分の罪を振り返って思い出して、その重荷を感じてるだけで。それだけで充分だと思う」
「でも、里美さんと……香代には?」
「山崎さんにはいつもどおり接するだけでいいと思う。彼女はそんな事は気にしない人だし。香代ちゃんは……会えた時に、人として、本間香代と言う人間として向き合ってあげればいいと思う。佳奈が考えている以上に、香代ちゃんは自分に残った能力を嫌がっているはずだから」
 そっとあたしの頬に手を這わせながら、彼は言葉を続ける。
「今、この時間だけでそれを解決しようと言うのは多分無理だと思う。俺のさっきの言葉も気休めみたいなものだと思う。でも、これからずっと一緒なんだから、二人で考えていけばいいんじゃないかな? 佳奈が一人で抱える問題じゃない。俺も一緒なんだから、俺も考える。佳奈が一人で悩んでる姿を見るのは……辛いから」
 そう言った藻間さんの顔は、本当に辛そうだった。そこで初めて、あたしはもう一つの罪を犯していた事に気付いた。それは……藻間さんに心配をかけさせる事。あたしの一番大切な人に辛い顔をさせる事。
 頬にあった彼の手に自分の手を重ねる。ぎゅっうと握る。
「ごめんなさい。心配掛けさせちゃって。藻間さんの言う事はもっともだと思う。やっぱりこの罪は消えないけど。でも、今度は一人で悩んだりしない」
 その言葉に、彼は満足そうにうなずいた。
「そろそろ寝よう。明日も早いよ」
 その言葉に、あたしはちょっとだけ不安になった。眠れるかどうか。また夢を見て起きちゃわないか。その不安の色が顔に出たんだと思う。藻間さんはあたしをぎゅっと腕の中に閉じ込めたまま、横になった。
「大丈夫。俺が傍にいるから。ずっと抱きしめてあげるから」
 その言葉を信じて、あたしは瞳を閉じた。
 
 
 眠っている間、また夢を見た。でも、今度は過去は出てこなかった。ただ香代が、ずっと泣いていた。
『姉さま、困らせてごめんね』
 それだけ言って泣いていた。
 
 
 起きた時、あたしは夢が現実だった事を知る。目の前においてあった小さなメモの走り書き。そこには『ごめんね』と香代の字で書かれていた。
 藻間さんはもう起きてて、あたしの頭をずっと撫でていてくれてた。その彼に視線を合わせると、ちょっと悲しげな瞳を揺らしていた。
「起きたらそのメモがあったんだ。きっと昨日の出来事、見てたんだね、香代ちゃん」
「うん……」
 あとは言葉にならなかった。後から後から涙だけが溢れてきた。
 
 
 自分は罪深い人間だと思う。でも、もし藻間さんが言っていた『人間として生きて、この罪を重荷として一生背負う』事が殺してしまった人たちへの贖罪になるのなら、そうしていきたいと思う。
 そして香代へは。今度帰ってきた瞬間に抱きしめてずっと離さない。
「イグ〜っ。今日天気いいからちょっと買い物行かない?」
 窓の外から声がする。身を乗り出して確認すると、いつもの、優しい笑顔の里美さん。
 彼女には、いつものように接しよう。普段のあたしでいる事が彼女への罪滅ぼしだと言ってくれた藻間さんを信じて。
「わぁ、いいですねぇ。どこに行くんですか?」
「ちょっとお洋服見たいの。そうなると新宿かなぁ」
「行きます行きますっ! すぐ着替えちゃうから待ってて下さい」
 里美さんに返事をして、くるっと後ろを向いて。
「じゃあ藻間さん、行ってきていいですか?」
 許可を貰うあたしに、彼はにっこり微笑んだ。
「うんいいよ。行っておいで」
 そして藻間さんには。
「じゃ。行ってきますね」
 彼の前で挨拶した時に、素早く彼の唇に自分の唇を寄せた。一瞬だけ触れあう、唇同士。
「!!!」
 声にならない叫びをあげている藻間さんを尻目に、あたしは階段を駆けおりた。

 
 ──彼を愛する事が、きっと彼への罪滅ぼし。

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