きせき


 ──1つでもボタンを掛け違えていたら、きっと、あの人には出会えなかったから──
 
 
 修了式が終わって春休みに入ったと言うのに、友美は思わずいつもの時間に目覚めてしまった。このまま布団に入ってのんびりしていようかなと言う考えが一瞬頭を過ったが、ちょっともったいないかな、と思い直し結局起きてダイニングへと向かった。
 父親はもう会社に出かけてしまっていないらしく、食卓の上には二人分のご飯が並べられていた。母親に「おはよう」と挨拶をすませ、自分の席に座る。
「お姉ちゃん、まだ起きてこないんだ」
 台所でまだ何か作っているらしい母親に向かって問いかけた。東京の大学に行っている姉が戻ってきたのは数日前、しかし友美は朝食の席で姉の姿を見かけた事がなかった。大学に入れればこんなにのんびりとした生活ができるのかなぁ……来年受験の彼女は漠然とそんな事を思った。
「そうなの、いつものことなんだけど、今日はちょっと早く起こしちゃいましょ」
 友美の質問に答えた母親は、次の瞬間大きな声で2階に寝ている姉に向かって呼びかけた。
「里美、ぐずぐずしてるとご飯冷めちゃうわよ」
 何度か呼びかけると、ようやくくぐもった声が聞こえてきた。
「はーい、今行く」
 しばらくして、姉が姿を現した。起き抜けにもかかわらず意識はハッキリしているようで、母と友美に元気に「おはよ」と声をかけ、友美の向かいに腰掛けた。準備されていたご飯に手を合わせ軽く一礼してから箸を取り、そしてふと疑問を覚えたのか、こちらに目を遣る。
「あれ、今日学校はどうしたの?」
 その言葉に友美はあきれた視線を里美に投げ掛けた。
「いやだなぁ、お姉ちゃん。学校は昨日が終了式。今日から春休みだってば。全く大学生ってばお休みの感覚ないんだから」
 きつい友美の言い様に、里美はぺろっと軽く舌を出して照れ笑いをする。今の返事に棘がある事を彼女は全く気付いていないようだ。その事実に友美はあきれてため息をついた。
「相変わらずお姉ちゃんって我が道をいく、って感じだよねぇ。向こうでもいつもそうなの?」
「我が道って?」
「自分勝手って意味じゃなくて、お姉ちゃん時間があるってこと。きっと周りの人間も大変なんだろうなぁ」
 友美の言葉に何か引っかかりを覚えたのか、里美は考え込みはじめた。視線が宙をさまよう。本当にお姉ちゃんって変なの、と思いながら友美が目の前の姉の所業を見ていると、ふいに姉の目が変わった気がした。考え込んでいる瞳じゃなく、どこかに想いを馳せている目。とってもとっても大事なものを思い出している瞳。
 もしかして……。友美ははたと一つの考えに行き当たった。驚いた表情で里美を見遣るが、彼女はそんな妹には気付きもせず、ぼぉっとしていた。母親がそんな里美を諌める。
「ほらほら、ぼーっとしない。ご飯、冷めちゃうでしょ」
 はっと我に返り、里美は慌てて味噌汁に箸をつける。味噌汁が冷えていたのかちょっと嫌そうな表情を浮かべながらご飯を食べていく。
 ──これは、ちょっとあとでせっついてみようかな。
 姉を観察していたおかげでやはり冷めてしまった味噌汁を飲みながら、友美は一つの決意を固めた。
 
 
「ねえ、お姉ちゃん、何か東京の方であったでしょ?」
 友美が里美の自室に押し掛けてきて開口一番にそのセリフを発したのは、朝食を食べ終わって自室に戻った直後だった。友美の真意を測りかねて里美が黙ったままでいると、友美は更に言葉を重ねた。
「お姉ちゃん、彼氏とかできたんじゃない?」
 里美は思いきり両手をぶんぶんと振って否定しようとするが、頬の赤さが雄弁に物語っていた。その事に友美はちょっと驚く。
 ここで暮らしていた時の里美は、常に冷静さを持っている人だった。友美が中学の時にすぐ下の妹が病気で死んだ時、友美はただ泣きじゃくる事しかできなかったが、里美は放心状態で何もできない母親の代わりに家の中を取り仕切り、友美を慰め、父親と共に葬儀の準備をする程だった。それでいて悲しんでないと言うわけでもなく、感情を内に押さえ込む事ができる人だった。そんな姉を友美は尊敬していたが、少し疑問に思う事もあった。お姉ちゃんは思いきり怒ったり悲しんだり、照れたりなんかできないのかな──と。
 だからこそ、今目の前で真っ赤な顔をして俯いている姉を見ていると、もっとからかいたくなる感情を抑える事はできなかった。ベッドに腰掛け頬を真っ赤にしている姉の横に座り、その顔を覗き込む。
「隠したって無駄よ。妹は何でもお見通し、なんだから。で、どんな人なの?」
「え、ふ、普通の人よ……」
 そう言いながら里美の頬はますます赤くなる。そんな姉に友美は「可愛らしい」と言う感情さえ抱いてしまう。
 もともと、里美は近所で知らない人はいない、と言うほどの有名人だった。友美が高校に入った時、里美は同じ学校の3年生だったのだが、入学直後には姉の存在を知らない男子生徒はいないと言う事実に気がついた。それくらいの容姿なのだから、照れる姿が可愛らしいと言うのはもっともな事だ。
「普通の人だなんてそう言うのはダメ。出会いは? どうしてその人に惚れたの? 告白はどっちから? なんで今一緒にいないの? 教えて」
 その言葉に里美は顔を上げて友美の顔を見た。話してくれるんだ──悟った友美は思わずベッドの上に正座した。じっと、姉の言葉を待つ。
「出会いはね、暴漢に襲われそうになった時に彼と彼の友人が助けてくれたの。飯島さんに──あ、これは彼の名前なんだけど──惹かれたのは……分からない。でもね、多分一目惚れだったんじゃないかな? 告白は……えっと……お互い同時、かな? 最後の質問は、今飯島さんも実家に戻ってるから一緒にいれないの。──本当は少しでも離れていたくないんだけどね」
 ひとつひとつ言葉を選びながら、とつとつと語る里美の言葉には、相手への想いがあふれていた。愛おしくて愛おしくてしょうがない、そんな暖かさが見えていた。友美は感嘆のため息を漏らす。
「うわぁ……。お姉ちゃん、その人の事が本当に好きなんだねぇ」
「うん。好きよ。大好き」
 頬に朱をのぼらせつつ満面の笑みをたたえてそう言い切った姉は、どんな人より美しいと友美は感じた。恋愛が人を綺麗に見せる、その言葉は嘘じゃないと思った。
「いいなぁ。あたしもお姉ちゃんみたいに至上の恋愛、してみたいなぁ」
 友美の口から思わず漏れた言葉に里美は微笑んで言った。
「あのね、あたし飯島さんに会えた事は奇跡なんだって、ずっと思ってた。でもね、近頃こう思うようになったの。出会えて、こうして一番傍にいる事は奇跡なんじゃなくて、運命なんだって。一つでもボタンを掛け違えていたら、一か所でもパズルのピースを間違えていたら、今こうして彼の事を想っている事はできなかったんじゃないかなぁって。今までの事があったからこそ、出会えて、色々な事を体験して、今に至る道さえきっとあたしの中に組み込まれていたものなんだって思うの。だからきっと友美にも素敵な恋が待っているんじゃないのかな」
「すごいね、お姉ちゃん。あたし感動しちゃった」
 友美は心底姉の考えに感動した。世の中には『運命の出会い』などという言葉がしばしみられるが、友美にはそんなものは信じられなかった。自分の恋愛は自分でつかみ取る、それこそが一番なのだと信じていた。けれども姉の言葉にはそれを覆させてしまう程の力を秘めていた。
 きっと、自分はこの先いくつもの恋愛を体験するだろう、けれどもその先に何があったとしても、後悔と言う言葉は自分の中には存在しないだろう。『今までの経験がそこに至るためのもの』だったとしたら。
 恋愛だけではなく、全ての生活においてもそれは効果を発揮するに違いない。
 友美はにっこり微笑んでぎゅっと隣の姉に抱きついた。突然の事に里美は面食らッ多表情を見せる。
「お姉ちゃん、大好き」
 そんな妹の頭を里美は撫でてくれた。
 その時呼び鈴の音がした。下で母親と誰かが話している声がして、しばらくしてから母親の少し困惑している声が響いてきた。
「里美、なんかお客さまがいらしてるんだけど。飯島さんっておっしゃる男の方」
 途端に里美が顔に笑顔をたたえる。それを見て取った友美は急いで姉の腕から抜け出した。バタバタと部屋を抜け、ドアを開けようとしてくるりと里美の方を向く。
「お姉ちゃん自慢の彼氏の顔、先に見させてもらうからね」
 ちょ、ちょっと待ってよ、と言う里美の声を後ろに聞きながら友美はドアを閉め、軽い足取りで下へ降りていった。
 姉を変えた人を早く見てみたいな、そう思いながら。

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