序章
世間は師匠も走るといわれる師走の最終日。厳寒の中師匠どころかその更にお偉いさんまでも走り回っているであろうこの日に、雪崩山は自宅の居間にあるこたつに潜り込み、だらだらと寝転びながら内容が殆どないテレビ番組をぼーっと見ていた。
別に目的があった訳ではない。ただ暇なだけである。
年末年始にAPの仲間で集まって何かしようという話は出ていなかったし、麗子と二年参りの話は出ているが、待ち合わせの時刻は当然夜中である。まだ日が沈みかけたこの時間から出かけても寒いだけなので、結果的にこうしてうちでゴロゴロしているしかなかったのだ。
だがしかし、それは母親である圭子にとってはあまり好ましい事ではなかったようだ。少し厳しい口調で勇次に声をかけてくる。
「勇次さん」
菓子鉢に盛ってあるみかんに手を伸ばしかけていた雪崩山は、いつもより棘のある母親の声に少し驚き、ぴたっと手を止め、顔だけを声の方に向ける。
「……なんだい、母さん」
「勇次さんは大掃除は終わりました?」
ピリッとした厳しい問いかけに、勇次は苦笑しながら答える。
「そんなに汚れてないじゃないか。ささっと掃除するだけなら年が明けてからでも出来るだろ」
「ダメです。今年の汚れは今年のうちに払っておくと来年への心構えもできるってものです。ですから年内に大掃除は済ませておいてくださいね、勇次さん」
「……判ったよ、やるよ」
有無を言わさぬ口調と笑顔に気圧され、仕方なく雪崩山は自分の部屋の掃除を始めた。とはいえ、ほぼ夜寝るためだけにしか使っていない自室は、あまり汚れてはいない。家具を拭いて動かし、掃除機をかけてから無造作に置かれていた不要な物を分ける、それで終わりだ。
普段読むことは滅多にないが、どうしても捨てることが出来ない本などは屋根裏に持っていくしかないなと思い、結束した本を二つほどぶら下げ、家の一番奥にある屋根裏へ続く細く暗い梯子階段を上っていった。
中程まで上った時、雪崩山は屋根裏部屋に人の気配を感じた。母親は階下で居間の掃除をしているはずだ。母子二人きりで過ごしているこの屋敷に、これ以上人の気配があるわけがない。ではここにいるのは誰だ?
慌てて上部に視線を向け、ただ一つある小窓の外から仄かに入る光を頼りに目を凝らす。一番奥に一つだけひっそりと置いてある柳行李。その上にちょこんと腰掛けて足を組み、ひたすら愛おしげに何かを眺めている少女の姿に雪崩山は見覚えがあった。
忘れもしない、春に起こった出来事。その中枢にいたと言える人物。全てが終わった後、彼女は自分たちの前から行方をくらました。どこへ行ったかは彼女の姉さえも知ることができなかったというのに。何故ここにいるのだ?
「……ナグ……か?」
雪崩山が驚きのまま発した声は、最小限且つ微かに響く程度であった。だが、今までの静寂を破る初めての音に彼女は顔を上げ、そこに人がいることを認識するかのようにいくつか素早く瞬きを繰り返した。しばらくしてようやく合点がいったように、しみじみと声を発する。
「いやね、ナグって呼ばないでってあなたには言ったじゃないの。あたしには香代って名前があるんだから。で、どうしたの? 何かご用?」
にっこりと微笑む彼女。
「ここは俺のウチだぞ。『何かご用?』ってのはこっちのセリフだ。何でお前がここにいるんだ? そして何をやっているんだ」
雪崩山はあきれてしまった。人様の家に上がり込んで悪びれる様子もなくこの堂々とした態度。怒るより先にため息が漏れ出てしまう。それを察した香代は、くすくす忍び笑いを漏らしながら質問に答えた。
「あたし、あなたのお母様の許可はしっかりと頂いてきたわよ。先々代と知り合いだったから、ちょっと彼のお写真見せていただけないでしょうか? って」
ようやく梯子階段を上りきり柳行李の横に本の束を置きながら、彼女の言った『先々代』の意味する所に気づき、雪崩山は驚愕し香代の顔を凝視した。
「じいちゃんの写真?」
「うん。ほら、これ」
香代は持っていた写真を掌に載せ、ふうっと軽く息を吹きかけた。写真はふわふわと頼りなく漂いながら雪崩山の足下に落ちていく。裏返っていたそれを拾い上げながら何気なく書かれた文字に目が留まった。瞬間、彼の思考は停止する。そこに書かれた文字、それは──。
急ぎ写真を表に返すと、そこには雪崩山が想像したとおりの人物がモノクロの風景の中に収まっていた。自分の祖父の若かりし頃、そして。
「びっくりした? でも間違いなく、あたしと姉さまはあなたのおじいちゃん、雪崩山清一郎と知り合いだった」
淡々と衝撃の事実を告げる香代。その言葉通り祖父を挟むようにして笑顔で写っているのは目の前の少女、そして不機嫌そうに少し頬を脹らませている彼女とうり二つの少女。髪形や衣服は違えど、間違いなく雪崩山が知っている佳奈と香代の双子の姉妹だったのだ。
彼女たちは百年近く生きているのだから、この写真の中にいてもいいことなのだと、しばらく考えてようやくそれに気づく。
立て続けに起きた出来事への驚きで、雪崩山の思考は完全に混乱した。
そんな彼を尻目に香代は組んだ足の上に肘をついて顎を乗せ、小窓の方を見やっていた。但しその瞳は景色を映してはいない。過去の出来事に思いを馳せているようであった。しばらくして、ぽつりぽつりと言葉を口に乗せていく。
「あの頃は、多少の力を持っていたとはいえ、あたしたちは普通の人間として生きてたわ。色々な出来事があったけれど、それでも──」
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