1


 時は、西洋文化が花開かれし頃。
 三月にしては寒い風が吹きすさぶ、東京は本郷区の中心に広大な敷地を有する学び舎、東京帝国大学の正門前に、二つの人影があった。
 近くの公明な女学校に通っている証の紫の袴を着け、黒く長い髪を西洋巻きに結わえ、風呂敷包みを小脇に抱えた姿。気品漂う姿は世間でいう所のお嬢様、の雰囲気を醸し出している。
 着物の色と髪形が多少違う以外は、外見上は全く変わらない二人の少女は、普通の人間であれば気後れしてしまうであろう正門を容易にくぐり抜け、理学部校舎のある方向へと歩いていった。一直線に目的の建物に進んでいる姿はどうやらここが初めてでない事を伺わせる。
 ただ、よく見ると、薄紅の振袖を身にまとった少女は、淡萌黄色の振袖に身を包んだ少女の陰に完全に隠れるようにして歩いている。足下が見えないためか少しふらふらとしている姿を心配に思ったのだろう、前を歩いている少女が声をかけた。
「姉さま、私の袂から顔を出さないと、前が見えないから石につまずいたりして転んでしまいますわ。それに、あまり顔を入れすぎると、髪の毛が乱れますわよ」
 淡萌黄の少女は、後ろに向かって声をかける。すると袂の向こうに見える少し乱れた結いながしの後頭部が、ふるふると横に振られた。一緒に結ばれた髪飾りもふるふると揺れる。
「ごめんなさい、香代。でもわたし、やはり気恥ずかしいの。どなたか知らない方に出会ってしまったら顔が真っ赤になってしまって目をつむって転んでしまうもの。でしたら、こうやって香代の袂からそっと足下を見つめている方が安全だわ」
 香代は、ふうっと息を吐く。姉の佳奈の恥ずかしがりやは相当なものである。もう、ここには数えきれない程来ていると言うのに、いっかな慣れる気配がない。いくらなんでも、せめてそろそろ顔を出して歩いて下さってもいい頃なのに、と少し文句を頭の中で並べてみる。
 しかし、その姉が袖に掴まっている状態でないと実は安心して構内を歩けなかったりする香代もまた、佳奈ほどではないにしろ恥ずかしがりやなのであった。
 やがて、二人は一つの大きな建物の中に入って行く。階段を上がって一番奥の部屋に行かねばならないのだが、この気高さと不気味さが混在している建物内は、何度となく通ってきていても、少女たちにとっては恐怖以外の何ものでもなかった。
 早く通り過ぎてしまいたいのだけれど、何が出てくるか判らないので歩を進める事が出来ない。一つでも小さな物音がすれば、たちまちのうちに足が止まる。怖くてしばらく立ちすくみ、何も出ない事を確認すると、また一足一足を前に出す。更に、前が見えていない状態の佳奈が香代にしがみついているため、その歩みはますます遅くなっているのであった。
「香代、わたし怖くて先に行きたくない……」
 震える姉の言葉に改めて恐怖を感じ、身震いする香代なのであった。


 佳奈と香代が廊下をおそるおそる歩いていた頃、理学校舎三階の一番端、物理学の教室では人の気配はあるのに瞬間的に無音の状態になっていた。声を発する事も出来ず、ただただ目の前にある一尺大の漬け物石を見つめている大人が二名。そして、無表情のまま漬け物石を見つめている少年が、一人。
 全員が見つめているその石は、なんの支えもなく浮いていた。
 机から二尺付近の中空でぴたりと止まったまま、既に二〇秒ほどが経過していた。
 ──ふ、と少年の右手が軽く振られる。すると、石は右手が示した方向に移動した。それは数回続けられ、最後には少し細身の男性のすぐそばで動きを止めた。
「本間先生、受け取って下さい」
 少年の口から発せられた言葉に、反射的にその男は両手を構える。直後、どさりという音とともに石は本間と呼ばれた男の腕の中に落ちた。
「山川教授、本間助教授。僕の力の方、理解して頂けましたでしょうか」
 二人はただただ、無言で頷いていた。心の中は自分たちの計画の想像以上の成果に打ち震えながら。
 山川教授が本間助教授と共にここ、東京帝国大学には秘密裏で進めている計画、それは『人に本来あらざる力』を持った人間を軍で利用する事が出来るかどうか、人物を捜し出して調査する、という事であった。
 直接山川教授が大学側には内緒で、軍から呼び出しを受け打診されたのだ。
 本来そういった類いの能力の実験は、心理学の方面で元良教授などによって研究がなされていた。しかし、軍が欲っしているのは不測の事態などに即座に使える実践型の力を持ったものだったため、慎重に調べを進めている心理学方面には頼めない、と言う事であった。
 今までにも数名、軍や二人の知人が連れてきた人間に対して調査や実験を行った事はある。ただ、それはいずれも芳しくない結果で終わっていた。力を持っていたとしてもいつ出るか判らないものであったり、とても微弱すぎて実践向きではないものばかりであったためだ。
 あまりにも結果がでない状況に焦りが見え始めた頃、本間助教授の双子の娘たちに能力がある事が判明した。あまり乗り気でなかった本間助教授は、事実が判った日から積極的に調査に参加する事となる。
 姉の佳奈は、ものを凝視する事によりその物体を暖める事が出来る能力。妹の香代は逆に物を冷やす事が出来る、と言う能力であった。
 力としてはあまり強力ではなく、時間もかかり、軍部に役に立てるかどうかは甚だ謎であったが、ただ彼女たちの能力は恐ろしく安定していた。どんな状況でも、どんな状態でも常に最大限の能力を顕すことが出来た。且つ助教授の娘と言う事もあり、すんなりと実験に参加させる事が出来たのであった。
 それだけでも充分に喜ばしい事であったのに、今目の前にいる、山川教授の知人が連れてきた少年は、二人の理にかなった能力の持ち主であった。
彼──雪崩山清一郎はまだ一八歳ながら、今まさに手を触れずに一〇貫(一貫=三・七五キログラム)近くのものを一瞬で持ち上げ、更に軽々と動かす事さえもやってのけたのだ。
 博士たちは驚愕した。これほど実用的な力を持った人間が実際にいると言う事実に、ただただ無言で少年を見つめる事しか出来なかった。
 力を使い終えた清一郎が、ふっと肩の力を抜き、何も言わずに見つめていた二人の真正面に向き直った時、扉を数度叩く音が聞こえた。本間助教授は、音で我に返る。
「二人とも、入ってきなさい」
 来客が誰だか理解しているらしく、扉の方も見ずに抱えていた漬け物石を机の上に置きつつ、本間助教授は声をかける。数秒の後、そっと取っ手が動き少女が顔を出した。いつものように妹の香代の顔だけが見える。姉の佳奈の顔は当然のように見えない。いつもここに入る時、彼女の顔は握りしめた妹の袂に隠されたままなのだ。今はただ、薄紅の袂と紫の袴がゆらゆらと揺れているのが見て取れるだけだ。
 そのまましずしずと入ってきた二人であったが、少年の存在に気づくと、その足はぴたりと止まってしまった。
 基本的に彼女たちは人見知りの傾向が強い。父親や毎日ここで会っている山川教授ならまだしも、知らない人間、しかも自分たちと年齢が近い男性と言う存在は恐怖以外の何ものでもなかった。佳奈の淡萌黄の袂を握っていた手はいっそう強く握られる。香代はかろうじて平静を保ってはいたが、視線を少年の方に向けようとはしない。ひたすら自分の足下をじっと見つめている事しか出来なかった。唇がきゅっと引き結ばれ軽く噛み締められる。
 父親である本間助教授には二人の様子がよく理解出来たのであろう、さりげなく彼女たちの視界から少年の姿を隠し、頭をそっと撫でてくれる。それでようやっと安堵したのか、香代は父親の腕越しにちらりと姿を捉えた。
 少年らしい顔立ちだが、結ばれている口角が上がっているところに茶目っ気が伺える。背は高くなく低くなく、着ている服も帽子も道を歩いている学生が使用しているものと同じで、全く普通の少年にしか見えなかった。ただ、瞳の光が香代の知りうるどの人とも違っているように感じられた。鋭い光、と言うのだろうか、見つめられると怖さを覚えるが、惹きつけられずにはいられない光──。
「佳奈、香代。この人は雪崩山清一郎君といって、山川教授のお知り合いが連れてきた少年だよ。君たち二人が持っている『ちから』よりとても強い『ちから』を持っている人間なんだ」
 ──この人が、私たちより強い『ちから』を持っているの? 香代は驚愕のあまり父親の腕の間から顔を突き出して、まじまじと少年を見つめてしまった。視線に気付いたのか、清一郎もまた香代に視線を投げかけた。ふっ、と瞳と瞳が出会う。しばし見つめあう二人──。
「先程、君たち二人が来る前に雪崩山君の『ちから』を見せてもらっていたんだが……いや、これほどまでとは思わなかった。なにせ、あの石を手を触れる事なく軽々と持ち上げ、動かしたのだよ」
 山川教授が先程の石を指し示しながら説明を追加していくのだが、その言葉も入らないくらい、香代は少年の瞳に惹きつけられていた。少年もまたじっと香代を見つめていたが、ふいっと唐突に逸らされてしまった。何故かその行動に怒りを覚えたが、初対面の男性に自分から声をかけられるはずもなく、香代はぎゅっと手を握りしめる事しか出来なかった。
「山川教授、この二人はどなたなのですか?」
 清一郎が問いかける。山川教授はそこではたと気がついたと言うようにぽんと手を打って香代たちの傍らに近づいてきた。頭だけ出している香代と、袖しか見えない佳奈を指差しながら紹介をする。
「こちらはここにいる本間君の娘さんたちだ。佳奈さんと香代さん。共に小石川の女学校に通っておる学生だ。そして、君と同じく『ちから』の持ち主だ」
 その紹介に、清一郎の眉が微かに持ち上がった。
「……それは驚きですね。このような力を持っているのは僕だけだと、ずっと思っていました。で、どのくらいのものを持ち上げたりする事が出来るのですか?」
 性急な問いかけに、香代が小さな、けれどもきっぱりとした声で反論する。
「違います。私たちの力は、ものを持ち上げたりする事ではありませんわ。勘違いなさっていませんか? いわゆる『ちから』はものを持ち上げたり動かしたりすることだけが全てではありませんのよ」
 そうして、そっと父親に耳打ちをする。すると、本間助教授は教室内の水道から一つの湯のみに水を入れて戻ってきた。その間、瞳を閉じて意識を集中させていた香代は、湯のみが置かれた音を確認すると、目を開いてじっと音の方向にあったものを見つめる。全員、しばしの沈黙。
 最初の数秒はなんの変化も起きなかったが、一〇秒ほど経つと、中からぴき、ぴき、と何やら音がしだした。何事かと清一郎が湯のみを持って覗き込むと。
 中の水が、凍り始めていた。何か仕掛けがあるのではないかと咄嗟に香代に疑いの目を向けた清一郎の目に飛び込んできたのは、藍色の瞳を持つ少女──香代の姿だった。見られた事に気づいた彼女は、ぱっと袖で顔を覆ってしまう。そうして、父親の陰に急いで飛び込んで、隠れている姉に何事かを耳打ちした。
 少しの間を置いて、おずおずと父親の腕の脇から佳奈が姿を現した。清一郎がいる方の手をかざし、袖で顔を覆い彼を視界に入れないようにしながらであったが。そして彼女もまた、湯のみを見つめる。また、しばしの沈黙。
 二〇秒ほど経ってから再び清一郎が手に取って確認をしてみると、先程まで凍っていた水は今度は白湯程度の温度にまでなっていた。くるりと振り返ると、今度は赤い瞳の少女の顔を見つける。佳奈は少年に顔を見られた事に気づき、「きゃっ」と小さな叫び声をあげて父親の陰に隠れていた香代の後ろに逃げ込んだ。
「……なるほど、こういった力もあるのですね」
 感心した声で清一郎が呟く。
「理解して下さいまして? 私たちの『ちから』は確かにものに直にどうこう出来るものではないのです」
 父親のからだ越しに、香代が声をかける。その声はほんの少しの苛立ちが込められていた。気づいた父親が、二人に自宅に戻るように話しかける。佳奈は一刻も早く立ち去りたいようなそぶりを見せたが、香代は清一郎に何か言いたげなそぶりを見せ、留まろうとした。
「また、それは次の機会にしなさい、香代。彼にはしばらくこちらに来てもらうし、それに……」
 言葉尻を濁しながら、本間助教授は二人を理学校舎の出入り口まで送って行ったのだった。


 BACK