1(弐)
「一体あの方はなんなのかしら。『ちから』がある事をとても誇らしげに語っていらしたわ。どうして『ちから』を持っていることが誇らしいのかしら」
帝大から駒込西片町の自宅へと戻る途中、香代は一人で怒りを巻き散らかしながら歩いていた。怒りにまかせて頭を振っているためか、綺麗なまがれいとに結ばれている頭の髪飾りがさやさやと衣擦れを起こしている。怒りに呼応するように佳奈が握っていた手を更にぎゅっと強く握りしめながら、頷く。
「本当。香代の言う通りだと私も思うの。別にこの『ちから』を使っても殆ど役には立たないわ。かろうじて、暑い時や寒い時などにほんの少しお水を温めたり冷やしたり出来るだけですものね」
「ええ、姉さまの言う通りだと思いますわ。……本当に、それくらいしか役に立たないのですもの」
小さく香代が呟いた。
彼女たちが互いの能力──『ちから』──の存在に気づいたのは、まだとても小さな頃であった。母親を早くに亡くし、父親は大学の実験などで忙しい日々を送っていて、ばあやがいるにはいたが忙しく、二人はお互いの存在が全てであったと言っても過言ではなかった。
彼女たちの場合、能力に応じて瞳の色が変わるという特性を持っていたため、互いが互いの能力に気づくことが出来たのだ。
本当はずっと二人だけの秘密にしようと思っていた。だが、二年ほど前に偶然父親に見つかってしまい、以来、女学校が終わると大学に赴いて父親の実験に付き合わされていた。
そう、今現在二人にとっては『ちから』を持つ自分たちの存在は、あまり好ましくはなかったのである。だからこそ、今日あの場にいた雪崩山と言う少年の存在が、香代には少し不快なものであったし、佳奈には恐怖でしかなかった。自分の中に秘められたものを誇らしげに操る人間は、彼女たちの前には一人もいなかったから。
軽いため息を吐きだしつつ、二人は自宅へとたどり着いた。
ここ、西片町は学者の住まう街として世の中に知られている。その中のさほど広くない土地に、相応に建てられた本間家があった。母親は双子が生まれてすぐに亡くなり、母の代わりに家の中を仕切っているばあや、数名の女中と共に生活をしていたのである。
ここは父親の本間助教授にとっては大学までほんのひとときの程度で通える場所であり、また、佳奈と香代の姉妹にとっては小石川柳町にある女学校へ通うのに大変便利な土地なのであった。
「ただ今戻りました」
二人出迎えてくれたばあやに揃って挨拶をし、二階の二人の居室へと戻る。着替えを済ませ、夕飯の手伝いをしに階下へと向かおうとしていた時、表玄関の引き戸が開かれる音が耳に届いた。
「あら?」
「父さま、もうお戻りなのかしら? 少し早くありませんこと?」
お互い顔を見合わせて不審がる。父は大抵二人が夕飯を済ませ風呂に入り、いざ寝ようと言う時刻くらいまで帰っては来ない。電気をたくさん使う事が当然な大学にいると、世間はとっくに暗くなっている、と言う事実に気付かないらしい。
何はともあれ、家長が帰ってきたのだから全員で出迎えをしなければならない。二人は急いで階段を下りて行った。
玄関には既にばあやたちが手をついている。あわてて見習おうとした二人の視界に飛び込んできた人、それは。
「あ、あなたは……!」
香代は大きな声をあげてしまった。否、あげずにはおれなかった。なぜなら父親の横には先程大学構内で別れた少年、雪崩山清一郎が立っていたのだから。
「これ香代さん、はしたない声をあげるものではありません! 旦那さまがお客様を連れてこられたのですから、もう少しおとなしくなさって下さいませ」
いつも通りばあやの厳しい意見が飛び出す。こういった礼儀作法や常識と言うものに関して、香代は大抵無頓着であったりする。佳奈の方は言われた事を水を吸う土のように何でも吸収してしまうので、ばあやとしては嬉しい限りであった。ただ、極度の人見知りさえ除けば。
現に、今香代はお客人の前でも堂々と(というより呆然と)立ち尽くしているし、佳奈は脱兎の如く逃げ出し、廊下の隅の柱の影から玄関先に突如現れた見知らぬ(本当は見知っているのだが)客人をそっと覗き見る事しか出来ない。
ばあやはそんな対照的な二人を見遣って軽く嘆息した。
客人の少年は、かぶっていた帽子を脱いで深々とお辞儀をした。横からこの家の主がばあやに向かって少年を指し示し紹介をする。
「ばあや、こちらは雪崩山清一郎君、一八歳の中学生だ。横濱の方に住んでいてね、今日から私の仕事の手伝いをしにわざわざ東京までいらして頂いたのだ。で、実は急で申し訳ないのだが……」
ばあやにとても申し訳なさそうな顔で、本間助教授は言葉を続けた。
「これからしばらく、うちから大学に通わせたいから、うちに書生という形でおいておきたいのだが。どうだろう?」
この言葉を聞いて、真っ先に反応したのは話しかけられたばあやではなく、最初の姿勢のままで立ち尽くしていた香代であった。慌てて父親の元に駆け寄り、声を荒げる。
「そんないきなりすぎますわ、父さま。私はともかく、姉さまの人見知りの事を考えましたら、少し性急すぎやしないでしょうか?」
娘の問いかけに、父親は苦笑する。
「だから、今日先に構内でお前たちに会わせたのだよ。あそこで会っておけば大丈夫だろうと。……まあ、まだ大丈夫ではないが、二、三日もしたら慣れるだろうて」
言ってから細身の体躯に似合わぬ大きな声で豪快に笑う。こうなってしまったら、香代に反対出来る余地はない。佳奈は怯えきったまま物陰に隠れているし、ばあやは当然のように言う事を聞く訳で。
「……判りましたわ、父さま」
現実を受け入れるためにひと呼吸置いてから、香代は今度は清一郎に向き直る。にこりと笑おうとするが、頬は引きつってしまい動かないままであった。しょうがなく顔を強ばらせたそのままで挨拶する。
「清一郎さま、これから宜しくお願い致します」
次の日。香代のまがれいとにつけられた髪飾りはいつにも増して盛大に揺れていた。風呂敷包みを持つ手も大きく振られている。揺れてないのは、大好きで大事な姉の手を握っている左手だけだ。
表情からも怒りが盛大なのが見て取れる。横を歩いている佳奈も怯えがちだ。
香代は、あの後皆で夕食を摂っている時からずっと怒っていた。だが家で怒りを表に出す訳にもいかないので、結局、佳奈しかいない通学の途中でしか発散させる事が出来なかったのだ。
しかし『どうして怒っているのか』を誰かに問い掛けられてもきっと答える事が出来ない。なぜなら自分自身にも理由が判らないから。最初は父親の勝手な物言いに驚いて怒りが湧いてきて、その後は人見知りの佳奈の気持ちも考えずにうちの中を探検するが如くうろつき回っていた清一郎の存在に怒りが込み上げ……でも朝には治まっていたはずなのに。
……一体、この気持ちはなんなのかしら? 香代はよく判らない感情に苛ついていた。
そう、実際彼女が怒っていたのは自分自身の内なる理解不能な感情なのであった。
家から一五分ほどで、女学校の前の道に出る。そこにはたくさんの女学生が歩いていた。皆、思い思いの振袖に身を包み、一様に紫の袴をはいて歩いている姿は、さながら花畑の真ん中に入り込んだように見えるだろう。
ただ、ここを通っている学生は皆、自宅から歩いて学校に来る事が出来る距離に住んでいる学生たちである。この女学校は『お塾』と呼ばれる寄宿舎を持っていて、大抵の子女はここに入るのが決まりなのであった。
「佳奈さん、香代さん、ごきげんよう」
後ろから同じ級の石川小雪が声を掛けてきた。二人ともにこりと笑顔で挨拶をする。
「ごきげんよう、小雪さん」
そうして三人は肩を並べて歩き出した。すると小雪が辺りを見渡して、知人がいないのを確認するとそっと二人に耳打ちをしてきた。
「そうですわ、お二人ともお聞きになって? ほら、お隣の級に小林梅子さんとおっしゃる方がおられるでしょう?あの方、もうすぐ学校をお辞めになるのですって。なんでも、お嫁入りのお話が出ていらっしゃるとかで」
「まあ! 梅子さんは知っていてよ。あの方おいくつでしたっけ? そんなお年じゃなかったと思うのですけれど」
よほど驚いたのだろう、いつもなら自分から会話に加わる事のない佳奈が、話に入ってきた。後を追うように、香代も会話に参加する。
「ええと……私が知っている限り、あの方確か一四歳だったはずですわ。まだお若いのに……」
若い身空で嫁入りしなければならない同級生の身を案じて、三人で袂で瞳の端に浮かんだ涙を拭う。
「でも一四でお嫁入りなんて……一体お相手はどなたなのかしら?」
香代の素朴な疑問に、小雪がますます身を二人に近づけた。よほど聞かれたくないのか、そこで更に小さな声で答えを返す。
「なんでも、どこぞやの子爵さまなのですって。ほら、梅子さんの所は財はあっても地位は……だから、みたいですの」
「まあ……」
香代も佳奈も、二人とも言葉を失った。父親の権威のために嫁に出される娘……。どんな言葉を言ったとしても、同情や哀れみに聞こえてしまうのでは、と思い、二人とも沈黙した。
「そういえば」
それに気づいたのであろう、小雪もまた話題を変える。ただ、微妙に同じような話題ではあったが。
「香代さんや佳奈さんって、そういったご結婚のお話は出たりなさらないの?」
佳奈と香代は、顔を見合わせて思わず吹き出してしまった。くすくすと笑いながら香代が答える。
「さすがに、そのような話題は出ていなくてよ。だって私たちまだ一二歳でしてよ。ただでさえあまり背が伸びなくて、この袴をはいていなかったら尋常小学校の生徒と間違われてしまうくらいですのに」
「でも、雰囲気はとても大人びていらっしゃるから、充分そのようなお話が出てもおかしくないとは思うのですけれど」
「そういう小雪さんこそ、そういったお話は出てらっしゃらないの?」
今度は香代が小雪に対して切り返してきた。風呂敷包みを持った手をぶんぶんと振りながら、思いきり小雪は否定する。心なしか顔が赤い。
「え、ええ、そのようなお話は出ていなくてよ。いやですわ香代さん、そんな意地悪を仰るなんて」
「あら、でしたら素敵な人がいらっしゃるのかしら」
「……香代、あまり小雪さんに意地悪してはいけませんことよ」
照れた小雪に追い討ちをかけるように、意地悪な質問をした香代に、佳奈が小さいながらもキッパリとした口調で妹を止めに入る。……これがいつもの風景であった。
「そこの三人、我が学校の学生らしく登校時はもう少しおしとやかにお歩きになられたらいかがでしょう?」
そして、毎回校門の前に立っている当番の先生に注意され、しょんぼりと気落ちしてしまう。これもいつもの風景なのであった。