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「だから、そう意味じゃないといつも言っているではありませんか。どうして香代さんはいつもいつも僕の言う事をちゃんと理解してくれないのですか?」
「毎回毎回言ってますけれど、私は自分の中で憶えがないことばが出たから、清さまに教えて頂こうとお伺いしただけではありませんか。どうして私が頭の悪い子だと決めつけるのです?」
「だってその単語は教えましたよ、つい先日の夕飯時に。だからこそ、僕は嫌がってるのではないですか。もう少しものを憶える力を身につけてから僕と話すようにしたらいいのでないですか?」
「……ひどい! そこまで言わなくたっていいではないですかっ」
「……二人とも、家の中ならいざ知らず、こちらは往来の中なのですから、もう少し静かにお話なさった方がよろしいかと思うのですけれど……」
 あの大学での出会いから数ヶ月。
 季節が一つ巡り、やわらかな春の陽がきつい日差しに変化した頃には、清一郎と二人はすっかり打ち解けて仲良くなっていた。否、仲良くなったと言うのは語弊があるだろうか。佳奈はすっかり彼の前で顔を隠したりしないで話せるようになった程度で、香代に至っては、喧嘩仲間が出来たと言わんばかりに毎日のように清一郎と言い争いをしていた。
 まあ大抵けんかの原因が清一郎が年長者であるのをいい事に香代が知らない単語を使って説明し、それを彼女が問い掛けると小馬鹿にした態度を取るので香代が苛立を抑えきれずに叫ぶ、と言うのがお決まりだった。
 清一郎が頭が良い事は、ほんの数日一緒に生活をしているだけで伺い知る事が出来た。
 二人の父親との会話は、聞いていても何を話しているのかさっぱりであったし、女学校の勉強で判らない事があった時、尋ねれば打てば響く太鼓のように的確な答えが返ってくる。
 ただ、その頭の良さを鼻にかけるしゃべり方をするのが香代には気に入らないらしく、いつも彼の言葉に反論していくのだ。
 まあ、結局の所それはお互いが悪いのであるから仕方がないにしても、問題は口喧嘩が日課のようになっている、ということなのであった。
 繰り返される言葉の闘いに、父親は呆れてものも言わないし、ばあやはがみがみ小言だけで解決にはなっていないし、佳奈はちゃんと止めには入るのだが、遠慮がちなために大抵二人の耳をかすめもしない。現に今注意した声は、やはり耳には入っていないようだ。
 全く、この二人は本当にどうしたものかしら、と、佳奈はまた自分の意見が聞き入れてもらえなかった事に、深くため息をつく。
 自宅でならまだ良い。外まで聞こえるほどの大声でけんかをしなければ。しかしなんと言っても、ここは天下の東京帝国大学正門前なのだ。通り過ぎる人々は皆、興味深げな視線を送ってくる。自分が当事者という訳ではないのだが、やはり気恥ずかしい事には変わりない。
 ──大抵の視線は微笑ましいものを見ている視線なのだが、中には『あんな所で年頃の男女がけんかだなんて、全くどのような教育を受けてこられたのかしら』と言わんばかりの非難を含んだ視線がたまに投げかけられてくる。その視線を受けるたび、自分が視線の中心にいるのではないはずなのに佳奈は縮こまってしまうのだ。
 他人のふりをしてみようかと何度となく思ったが、どう考えても瓜二つの顔が近くにあれば、それは他人ではないのは容易に想像されてしまうので、結局の所、佳奈は香代の着物の裾をぐいっと引っ張って態度で注意を促すだけしか出来なかったのであった。
 ──それにしても、と佳奈は思いを巡らす。
 今までの香代であれば、ほんの少しでも袖を引いただけで『どうなさったの? 姉さま』と大仰なくらいに心配してくれていたはずなのに。今では袖を引いている事さえも気づかずに、清さまとお話をしている。近頃の妹はなんだか遠くに行ってしまったようで、寂しい。
 生まれたときからどこで何をするにも常に一緒であり、他より強い人見知りのために必要以上に臆病になってしまった自分に、妹は過剰なほどの愛を注いでくれていた。それに甘えている部分も、確かに少しはあったと思う。
 けれど。
 今、香代に離れられてしまったら、わたしは生きていく事が出来ないに違いない。どんなものより大切な妹が、ほんの少し遠くに行ってしまったように感じられただけで、こんなに苦しいのに……。
 考える事によって、思いが身体への影響を及ぼしたのだろうか、本当に急に息苦しくなってしまい、佳奈は思わず胸を押さえて往来にしゃがみ込んでしまった。これにはけんかをしていたはずの香代と清一郎もぴたりと争うのをやめ、駆け寄ってきた。
「姉さま、一体どうなされたの? お胸が苦しいの?」
「とりあえず、家まで運んだ方が良いかもしれない。佳奈さん、立てますか?」
 清一郎と香代が手を出すのに掴まり、ようやく立ち上がる事は出来たものの、一歩進もうとするとふらついてしまう。見かねた清一郎が、くるりと背中を向けておぶっていこうと言う態度を見せるが、佳奈はふるふると首を横に振る。恥ずかしいのと、何となくの嫌悪感、様々な思いが複雑に絡み合って佳奈の心を支配しているようであった。
「……清さま、姉さまは私が運びます。大丈夫ですから」
 佳奈の表情を見て心中を察したのだろう、香代が腕を伸ばしてきて佳奈の身体を支えた。そして小さく、謝罪をしてくる。
「ごめんなさい、姉さま。姉さまの事を忘れてしまうだなんて、私、悪い子でしたわ」
「いいのよ、わたしが悪いのですもの。もう少し気を遣ってあげればよろしいのですけれど。香代も、わたしを気にしないで一人でどんな事でも出来るようになりたいでしょう?」
「そんなことありませんわ。私はいつでも姉さまの横にいますから。お嫁入りなんてしないで、ずっと」
 香代は力強く頷きながら決意を述べるのだが、佳奈にはその約束がとても薄い紙のような印象を受けてしまって仕方がないのであった。

 

 その日の夜遅く。清一郎は食堂で一人、豪快におかずを頬張っていた。
 あの後、いざ佳奈を運ぼうと言う直前に山川教授たちに呼び出され、いつものように『能力』の実験に付き合い、帰宅すると双子はもう眠ってしまっていた。本間助教授はまだ大学で調べものをしているため帰っておらず、珍しく一人での夕飯と相成ったのである。
 建前上は書生と言う形で居候している清一郎ではあったが、実質は客人と変わらない待遇であったため、大抵夕飯は本間家の家族の皆と摂っていたのであった。まあもっとも家長である助教授は滅多に定められた時刻には帰ってこないので、いつも双子の姉妹と共にしていたのであるが。
 一人と言うのは存外に寂しいものなのだな、と魚の煮付けを口に運びながら清一郎は心の中で独りごちる。
 いや、実家ではいつも食事時は独りだった記憶がある。別に大層な理由で家族の中から外れていた、と言う事ではなく、やはり母親を早くに亡くし、父と二人きりの生活をしていたからなのだったが。
 だのに、ここまでの孤独感を覚えた事はない。では何故こんな感情を抱いてしまうのだろう、と箸を進めつつ思いをめぐらし、菜っ葉の煮浸しをつつき始めた頃にようやく答えに行き当たった。
 ──話す相手がいないからだ。
 この本間家に来て早数ヶ月。その間に、すっかり人と会話をしながら食べる事が日常茶飯事になってしまっていたようだ。最初双子たちはおどおどしていたりつんと澄まして無視されていたりもしたのだが、一週間もしないうちにわいわいと言いながら食事をするようになっていた。
 最初は他愛もない会話をしていたのだが、ここ最近は、自分の知識を教え、香代が理解するのに時間がかかる事に苛立ってしまい、清一郎に八つ当たりを始めて、佳奈が妹をたしなめつつ清一郎の補助に回ると言うのが定石であった。
 多少なりとも静かに食事をしない事実に、双子のしつけ一切をまかされているばあやは毎回眉をひそめているのだが、清一郎に対しては文句も言えないらしく、結局の所は野放し状態であったりする。
 と言う事で、本間家にしてみれば今までになくとてもにぎやかな食事の風景であるのだが、清一郎はこの事に関して一つだけ悩みを抱えていた。それは、本間家の双子の妹の香代の事である。
 何故か彼女に、冷たくと言うか、意地悪と言うか、そういった突き放した会話をしている事が、彼にとっては疑問だったのだ。
 実は、清一郎自身もこれには悩んでいたのである。おなごには優しく、と父に言われていた事もあり、今までの十八年間女性には常に優しく接して来た。今現在も、佳奈に対しては父の言いつけをちゃんと守っている。ただ、香代にだけは駄目なのだ。どうしても出来ないのだ。
 これまでにもいくつか理由を頭の中で考えうる限り考えてみたのだが、これだ、と自身で納得いくようなものは浮かんでこなかった。寧ろ明確な答えが出ない事によって思考が混乱してしまうのであった。その苛立ちがある事で、ますます香代には素っ気ない態度を取ってしまうのだ。
 きっと、最初からそうだったに違いない。と清一郎は初めて二人と出会った事を思い出す。あの時、香代と視線を交わした時にどうしても彼女の瞳から視線を外す事が出来なかった。吸い込まれそうな大きな瞳が、自分の心を縛り付けてしまうのではないかと錯覚した。あの時から、彼女に対してだけはいつもの自分になれないのだ。
 ── 一体、どうすればよいのだろう……。
 ひとかけらだけ残った漬け物を前に、箸を握りしめたまま悩んでしまう清一郎なのであった。



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