2(弐)
「香代さん、昨日のお話聞かせて頂けませんこと?」
往来での大げんかの翌日、いつものように佳奈と香代が通学路を歩いていると、浮かれた声の調子の小雪が小走りにやってきた。よほどこの話をしたくてたまらなかったのだろう、いつもなら必ず交わす『ごきげんよう』の挨拶もなく、満面の笑みをたたえている。
「ごきげんよう、小雪さん。ところで昨日の事って、なんですの?」
よく判らない事を仰っているわね、小雪さんって、などと思いながら香代が挨拶がてら問い掛けると、小雪はまさに瞳を煌めかせながら含み笑いをしつつ言った。
「昨日、夕刻頃に所用で帝大の前を通り過ぎた時に、何やら言い争っている方々がいらっしゃったので見てみましたら、なんと香代さんが男の方と言い争っていらっしゃったではありませんか。まあなんて素敵、きっと思い交わした方との痴話喧嘩かしらと思ったのですけれど、お声がかけられなくて。わたくし事実をお伺いしたくって、昨日の晩はあまり良く眠れなかったんですのよ」
……小雪の想像逞しい言葉に、二人は思わず歩みを止めてしまった。昨日のけんかはかなりひどい状況だったと言う自覚はあるのだが、どこをどうとってみると、あれが痴話喧嘩に見えてしまうのだろうか。
佳奈が小声で香代の耳にささやいてきた。
「ほら、これだから往来での喧嘩はやめた方がいいと言う意味が判ったでしょう?」
香代は、こくこくと頷くしか出来ない。いくらなんでも痴話喧嘩であれば人通りの激しい往来でやろうとはさすがの香代も思わないのだが、あんな言い争いでさえも痴話喧嘩と思われてしまうのであれば、もう清さまとはお外で喧嘩はやめよう、と心に誓う。
心情を知ってか知らずか、ずずいっと小雪は更に顔を近づけてくる。その頬は上気しており、なにかしらの素敵な回答を得られるのではないかと思って興奮しているのは明らかであった。彼女にとっては期待はずれになるだろうと判りつつも、誤りを訂正しておきたかったので、正直な事を話す。
「小雪さん、あれは私の想い人などではありませんわ。あの方は父の書生で、昨日はちょっとした事で喧嘩になってしまっただけですのよ」
喧嘩の原因が、自分の国語力の不足だと言う点はさすがに伏せておく。
ちゃんと正直に答えたにもかかわらず、どうやら小雪自身が想像していたものと違っていたらしく、回答が不満らしい。彼女はぷうっと頬を脹らませた。
「あらいやだ、香代さんてば。しばらく立ち止まって見させて頂きましたけれど、あれはどう考えてもそんな単純なものではありませんでしたわよ。なんと言いますか、お互いの気持ちは判らないけれども、二人とも相手が気になってしまって仕方がない──といった風情でしたわ」
「そ、そ、そんな事ありませんわっ。清さまは確かに良い方ですけれど、あの方私の事、喧嘩相手としか思っていませんもの。完全に小雪さんの誤解ですことよ」
我知らず、どもってしまった事に疑問を感じつつ、ぶんぶんと風呂敷包みを振り回しながら香代は弁解した。これでは昨日の喧嘩と変わりがないかもしれないと、佳奈がいつものように袖を引く。だが勢いづいた風呂敷包みは急には止まれず、勢いあまって学校の門にこつんと当たってしまった。
「おしとやかに歩いてきて下さいと、何度もお願いしているのですが。どうして約束を守って頂けないのでしょうかねぇ」
不意に背中越しにかけられた聞き慣れた声に、三人の身体は硬直してしまう。全員が「しまった」という表情で恐る恐る振り返る。
果たして三人の背後には、当番の先生が引きつれた笑いを浮かべつつ立っていたのであった。
──私は、一体清さまの事をどういう風に思っているのだろうか。
お裁縫の授業中、課題である浴衣を縫いながら、香代は朝、小雪に言われた言葉について悩んでいた。
あの時どうして自分が狼狽えてしまったのか、皆目見当がつかない。今自分の心の中を掘り下げてみても、出てくる感情はからかわれて悔しい感情に、小馬鹿にされて苛つく感情が殆どを占めている。まあ、別にいつも喧嘩をしているわけではないので、慕っている感情も多少はあると思うが。小雪の言う所の『思い交わす』ような感情など、何一つない。
ただ、心の隅も隅、一番奥になんかしらのわだかまりがあるのは伺い知れた。そう、初めて清一郎にあった後の苛つく感情。瞳と瞳が出会ったときのどうしても顔をそらす事が出来なかった感情──。それが何かなのかは、香代には判る術がない。判っているなら今ここで苦悩したりなどしない。
一つだけ言える事、それは、清一郎の存在が香代の心の半分近くを覆い尽くしてしまっていると言う事……。
「いたっ」
ぼっとしていたのか、思わず針を刺してしまった。よほど深く刺してしまったのか、ぷくりと血が盛り上がってくる。
「またやってしまったわ……」
ひとりごちつつ、血を懐紙で拭き取ってから、また作業に戻る。今縫い上げている浴衣の生地は白地に紺の染めなのだ。血などついてしまっては、その部分だけ目立ってしまって大変である。
この浴衣は、来月に行われる大川の花火大会に着て出掛ける予定なのである。作業が遅れてしまっては、計画がふいになってしまう。ただでさえ裁縫は上手ではないのだから急がなきゃ、と香代はまた作業に集中し始めた。
だが人間、単純作業をこなせばその分頭の中は空っぽになり、よけいな考えばかりが浮かんでしまうものだ。この時の香代もやはりそうであった。
──そもそも、毎回清一郎があまりよく判らない話を持ちかけるのが悪いのだと思う。自分と彼は少なくとも年齢が離れているのだから。年上の清一郎の方が物事をたくさん知っているのは当然の事だと思うし、少なくとも自分自身まだまだ十二年と少ししか生きていないのだから、世の中を知らないと言う事も自覚している。だからこそ年長の威厳を振りかざして話しかけてくる清一郎の方が悪いのは当然で。決して自分が悪い訳ではない。
そう、全ては清さまの態度が原因であって、私が悪い訳ではないんだから!
原因全てを清一郎一人に押し付け、怒りにまかせてひたすら布を縫い続けていると。
「あら、香代さん、そこは袖口ですから、縫い合わせる必要はありませんのよ? 何を考え事をしていらしたのかしら?」
頭上から声が降ってきて、あわてて香代は顔を上げる。すると、朝の当番の先生──実は裁縫の教科を受け持っていたりする──が、にこにこしながら立っていた。ただ、よく見ると瞳は笑っていない。剣呑な光を放っている。
「放課の時間になりましたら、先生の所にいらして下さいね」
教室じゅうから笑いが起こる。恥ずかしくなってうつむいた香代の横を、先生は颯爽と歩いて横切って行った。
袖口を縫ってしまったのもなにもかも全て清さまがいけないんだわ! などと責任転嫁しつつ、香代は縫い合わせてしまった箇所をほどきにかかった。さほど遠くない後方で、佳奈が含みを持った目でじっと香代を見つめている事に気づきもせずに……。
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