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 その日、東京の街は浮き足立っていた。
 毎年恒例の両国川開きに伴う花火大会が開催される日であったためだ。街を歩く人も、勉学に励む学生も、家で家事を取り仕切る女も、全てが夜の花火大会へと心を馳せていると言っても過言ではなかった。
 もちろん本間家でも例外ではない。女中たちもこの花火大会の時は仕事を忘れて楽しむ事が許されていたし、ばあやはうちに残ると言いつつも、自宅から聞こえるであろう花火の音と小さいながらも見える夜空に開く光の花を心待ちにしていた。
 ましてや東京に来て初めての夏を迎える清一郎にとっては、これ以上ない興奮と期待感に体中が満ちあふれていた。花火は夕方からだと言うのにまだ昼過ぎからいそいそと出掛ける準備を始めようとし、何から手をつけていいか判らず一階の廊下を行ったり来たりしていると、二階からひょいと顔を出した香代に笑いながらたしなめられる。
「清さま、夜はまだまだ先ですわよ。今時分からそんなに焦らなくてもよろしいのではなくて?」
 慌てて言い訳しようと顔を上げた清一郎の目に飛び込んで来たのは、白地に撫子の小花を散らしてある浴衣をまとった香代の姿であった。思わず清一郎もくすりと笑いを漏らす。
「香代さん、あなたも僕のことをとやかく言える筋合いではないと思うのですが」
 軽い皮肉が込められた返答で、香代は自分がどのような格好であったかを思い出したらしい。さっと頬を染めたかと思うと一瞬で引っ込んでしまった。
 何か微笑ましい気持ちになりつつ、香代の忠告も忘れ結局忙しなく廊下を走り回って準備をしてしまう清一郎なのであった。
 ──そしていざ、出発予定の時刻。
 出掛けるのが待ち遠しくて三十分以上も前から庭でうろうろしていた清一郎は、夕闇が迫り、蒸し暑い空気の中で汗ばんでしまった顔を手ぬぐいで拭いながら表玄関へと向かった。戸の傍では二つの後ろ姿が団扇を片手に佇みながらおしゃべりをしていた。遠目からは暗さで見えないが、背の大きさから双子だろうと踏んで歩み寄った清一郎は、近づくにつれ、いつもと全く違う雰囲気を漂わせている少女たちに不覚ながらも鼓動を早めてしまった。
 普段なら結いながしであったりまがれいとであったりと、いわゆる女学生の髪結いをしている佳奈と香代であったが、今日は浴衣と言うこともあってか、ばあやに頼んで日本髪に結ってもらったらしい。いつもならあまり見えないうなじがほの暗い夕闇の中に浮かび上がっていたのであった。
 戸惑いを隠し、いつも通りに冷静な自分になるべく一つ深呼吸をし、二人の脇へと歩を進めた。足音で人が来たことに気付いたのだろう、ついと片方の少女が振り返る。撫子柄の浴衣の裾がほんの少しだけふわりと揺れ、夜目でもはっきりと判る足がちらりと見え、清一郎の鼓動はますます早まってしまった。きっと不覚ながら顔も少し赤くなってしまっているに違いない。
「あら清さま、どちらにいらしていたんですの? 姿が見えないのでお父さまが探していましてよ?」
 団扇を手に問い掛ける香代の姿に、少女特有の色香を感じ、それに当てられて何も言葉を返せなくなった清一郎はただ首を横に振ることしか出なかった。
「……清さま、どうなさったの? なんだかいつもの清さまらしくありませんわ」
 香代が向いた方をやはり向き、清一郎の姿を認めた佳奈が小首をかしげながら問うてきた。こちらは紺地に大きな牡丹の花を染め抜いた浴衣を着ていた。
「い、いや、そんなことはないですよ。少し暑さに当てられただけです」
 慌てて手で首筋を扇いで誤摩化すと、佳奈は多少疑問が残るものの納得したらしい。片頬の辺りに訝しげな雰囲気を残しつつもまたくるりと香代の方を向き、先程のおしゃべりの続きを再開した。清一郎は二人の他愛のない話を聞きながら、ただ頬の火照りをさますしか出来なかった──。
 
 
 やがて本間助教授も現れ、四人は両国橋方面に向かった。数年前にあった事故で橋自体はないが、花火が打ち上がるのは架け替え最中の橋辺りだと言うことで、そちらに向かうこととなっていた。
 自宅から上野広小路まで歩き、そこからは馬車鉄道を利用して浅草広小路、さらに乗り継いで浅草橋に着いて、両国橋まではまた歩いて向かう。既に馬車鉄道は満員で、浅草橋に着き、降りた途端に二人の少女はため息をついていた。車内がおしくらまんじゅう並の密度だったので、人いきれしてしまったらしい。
 しかし、清一郎は何のその、きょろきょろとあちこちを見渡しては.人の波に感嘆の声をあげ、大川に近づくにつれてぽつぽつと並びはじめている出店一つ一つに視線を投げているのであった。このままでは危ないと、本間助教授は注意を促す。
「清一郎君、気をつけないとはぐれてしまうかもしれないから、注意した方がいい」
「ありがとうございます先生。気をつけます」
 頷きながらも、やはりあちこちを見回すことがやめられない清一郎なのであった。
 無理もない。何せ彼が東京に来てから行ったことがあるのは新橋から上野広小路までと、帝大と本間邸だけなのだから。毎日『ちから』の実験に明け暮れていた教授たちに付き合わされていたので、外に出る機会など全くなかったからだ。はしゃいでしまうのは当然のことと言えよう。
 花火を見に行く人々の波は両国橋が近づくにつれてますます増えていき、右を見ても左を見ても、人だらけになってしまった。これにはきょろきょろ周りを見ていた清一郎も、衿を正してくるりと他の皆がいるはずの方向を向き──絶句した。
 そこには、あるべきはずの姿が全く見えなかった。とりあえずとくるりと自分の周りを見渡して確かめてみるが、やはり影も形も確認出来ない。
 皆とはぐれてしまった──あってはならない事実に清一郎は頭を抱えてしまった。何しろ自分は東京の地理に全く詳しくない。ここではぐれてしまったら、どうやって西片の本間家に帰るのか皆目見当がつかない。
 そして何より、自分がいなくなったことに気付いた皆にどれだけ迷惑をかけてしまうのか、想像するだけで心が痛む。
 ……とりあえず、これからどうするかを考えねば。
 動揺して考えがまとまらなくなった清一郎は、とりあえずこの喧噪から逃れようと見物客があまりいない土手の隅に座り込み、ふうと息を吐きだした。
 花火が打ち上がる音を微かに身体で感じながら帽子を脇に置き、頭をぐしゃぐしゃをかきむしり、この後どういう行動を取ればいいのかを思案し始めた、その時。
「清さま!」
 聞き慣れた声が目の前に落ちてきた。
 はっとして顔を上げた清一郎の前に、撫子の小花を散らした見覚えのある浴衣が飛び込んできた。
「香代さん……」
 
 
 それは、ほんの一瞬の出来事だった。
 清一郎が何かに気を取られ立ち止まっているうちに、川の方で物音がしたため、観客がすわ花火の開始かと一斉に動き出し、その流れに流されてしまった香代たちは、止まったままの清一郎との距離がどんどん離れていってしまったのだ。
(いけない、このままでは清さまが迷ってしまう!)
 香代は横に立っている父に向かい素早く言い放った。
「父さま、私、清さまを追いかけますわ。このままでは大変なことになってしまいますから」
 それだけを残し、香代は人の流れに逆らうようにただ、清一郎の背中を追いかけた。
 自分でも、どうして一人で追いかけたのかよく判っていなかった。ただ彼が迷ってしまうことだけは避けねばと、必死だった。花火のことも、姉のことも綺麗さっぱり抜け落ちていた。
 身長差のある彼を追いかけることは容易ではなかった。あっという間に息が上がり、胸が苦しくなってくる。それでもひたすら、近づいたり離れたりする清一郎の背中だけを見つめ、見失わないように集中していた。
 しばらくして、清一郎が人の波から抜け出し、土手の隅に座り込んでいる所にようやくたどり着いた。やっと追いついた、と香代は安堵の息を漏らし、ゆっくりと清一郎の前に近づき声をかける。
 自分の声にこちらを振り向いて驚愕の表情を浮かべている清一郎の横に回り、自身もすとんと腰を下ろす。
 ぜいはぁと肩で息をしている香代の顔を清一郎が覗き込んできた。その瞳はいつも自分と話をしている時とは全く違い、からかいの色は一切なかった。
「香代さん、申し訳ありません」
 清一郎が自分を見つめたまま、謝ってくる。真摯な視線が少し照れくさくなって、香代はそっぽを向いた。
「気になさらないでいいんですのよ。私が勝手に清さまを追いかけてきただけですし」
 言いながら、自分でも言い訳じみた返事だな、と思う。清一郎も同じことを感じたのか、くすりと笑いを漏らした。いつもだったらなんだか癪に触って言い返すのが常なのだが、今は怒る気にもなれなくて香代もくすりと笑いを漏らす。そうして二人、しばし土手の脇で笑いあっていた。
「……これから、どうしましょう」
 しばらく笑いあったあと、清一郎が申し訳なさそうに問い掛けてきた。香代は清一郎が迷ってしまった負い目を感じないようにとおとがいに手を当てて悩み、ややあって明るくさらりと返した。
「この人ごみの中を姉さまや父さまを探して歩くのは無駄足になってしまうと思いますの。慌てていたので待ち合わせ場所など決めていませんし。でしたら家までの帰り道は私が知っていますから、花火を観終わったら帰ってしまうのがいいと思いますわ」
「でもそれでは先生や佳奈さんに悪いのでは……」
 恐縮した返事に、香代はふふ、といたずらを思いついた子どものように無邪気な笑顔で言い放った。
「二人きりで、花火を観るというのも悪くないと思うんですけど」
 ──実際、それでもいい、否、寧ろその方がいいと思ってしまったのだ。何故かは判らない。心の赴くままに出てきた答えだった。この人ごみの中では二人でいることを咎める人は殆どいないから、と言うのもあったとは思うが。
 それを聞いた清一郎は、真っ赤になってしまう。ただ、否とは唱えなかった。彼の赤くなった頬を見た香代はなんだかとても嬉しくなる。
「では、そうと決まれば花火がしっかり見える所まで行きましょう」
 うきうきしながらきびすを返して人ごみの中に入ろうとした途端、左手をぎゅ、と握られた。反射的に振り返ると、清一郎が香代の左手を握りしめていた。心臓が、どきりと跳ね上がる。
「……また迷子になってしまうといけませんから、手を握っていてもいいでしょうか?」
 跳ね上がったあと、早い鼓動を打ち始めた心臓の音を気にしないようにしながら、香代はただ頷くしか出来なかった。


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