3(弐)
花火が見やすい場所へと上流の方に移動中、人ごみの中をすり抜けている時、ぶつかるまいと庇って頭に手をやった際香代はとある事実に気付き焦った。
この日のためにと、お気に入りであった菊の花飾りのついた簪をつけてもらっていたのだが、それがあるべき場所にないのだ。他の位置にずれたのかも、と思い繋がれていない右手で頭全体を確認してみるが、やはりそれらしきものが触れることはなかった。
(きっと、あの時落としてしまったのだわ……)
先程清一郎を追いかけている時、彼の動向に夢中になるあまり何度か人にぶつかっていた。きっとその時に引っかかって滑り落ちてしまったに違いない。自分の不注意なのだから致し方ないにしても、受けた衝撃は大きかった。他人から見ればおもちゃに近い簪ではあったのだが、あれは幼い時に亡き母に買ってもらった大事な簪であり、形見の一つと言っても差し支えないものであったからだ。
そんな大事なものを落とした自分の不注意さへと、この人ごみの中ではいくら探しても見つかるまいと落胆した、両方の意味合いで思わずため息をついた香代に、清一郎が疑問の視線をちらりと投げ掛けてくる。言ってもどうしようもないことなので押し黙っていると、繋いでいた手をぐいぐいと引っ張られ、土手を外れ人の流れが途切れている小路まで連れてこられた。そのまま清一郎は香代と自分の目線が合う所まで腰を落とし、香代の瞳を凝っとみつめた。
「香代さん、どうしたのです、何かありましたか?」
きっと落胆しているであろう瞳を見られてしまうことが恥ずかしくて、あわてて視線を外しながら、ぽつりと呟く。
「……簪を、どこかに落としてしまったみたいですの」
その言葉に清一郎は思いをめぐらすように中空を見つめた。
「僕が香代さんに見つけて頂いた時には、簪は頭にはなかったようです」
ややあって、自分と再会した時にはつけていなかった旨を伝えてきた。やはり、と香代はがくりと肩を落とす。その様子から簪がどんなものか気になったのだろう、清一郎が問い掛けてきた。
「あの簪は、それほど大事なものだったのですか?」
問われるままに亡き母に小さい時に買ってもらった大事なものだと答えると、清一郎の顔色がみるみる変わった。即座に駆け出そうとする。香代はあわてて未だ繋がれたままの手を引っ張って清一郎を引き止めた。不審げな顔をした彼が振り返る。
「何故止めるのですか? 急いで探しにいけば見つかるかもしれないではないですか」
「先程清さまを追いかけている時、何度か人にぶつかったんですの。その時にきっと引っかかって落ちてしまったと思うのです。でも、どこでぶつかったかなんて憶えていませんし。落ちていたとしても既に人に踏まれて壊れているに違いないですわ。こんな人ごみの中を歩くと判っていながらつけてきてしまった私の責任ですもの、清さまが探しにいかれることはないと思いますの」
香代の言葉に、清一郎はしばし悩んでいたようだが、ややあって何かを思いついたような瞳になった。
「香代さん、しばらくこちらで待っていて頂けますか? 探しにいくわけではありませんから、あまり時間はかからないと思いますので」
それだけ言うと、静かに手を外して香代の返事も待たずに彼は駆け出してしまった。咄嗟の出来事に香代は対応出来ず、しばし呆然としてしまう。
(清さまは、一体どちらに行かれたのかしら……)
探しにいくわけではないとすれば、一体彼はどこに行ってしまったのだろう。また迷ってしまったりはしないだろうか。
やきもきしながら十分ほども待ったであろうか、ようやく清一郎が小走りに戻ってきた。手には何か握りしめている。
「……香代さん、これを」
息を切らせながら清一郎が差し出してきたものは、小さな赤い玉がついた簪であった。この簪に香代は見覚えがあった。ここからそれほど離れてない所にあった出店に並べられていたものだ。
「清さま、これは?」
問い掛けると、清一郎は少し口早に疑問に答えた。
「僕のせいで、香代さんは大切な簪をなくしてしまったでしょう。その簪の代わりにはならないかもしれませんが、お詫びと……お礼の意味を込めて買ってきたのです。受け取って頂けないでしょうか?」
「これを、私に……?」
香代は驚いた。と同時に清一郎の行動をとても嬉しく思った。無くしてしまったのは自分自身の責任なのに、気にかけてわざわざ代わりを買ってきてくれた、その気持ちが嬉しかった。
「ありがとうございます。是非下さいな」
言って微笑み、差し出された簪に手を伸ばす。受け取ろうとしたその時、ふ、と二人の指先と指先が触れ合った。思わず知らずびくっとなり、あわてて手を引っ込め、清一郎を見遣る。ふっ、と、二人の視線が絡まりあった。
しばし、見つめあう。存外に強い清一郎の瞳の強さに、香代は視線を外すことが出来なくなってしまった。収まっていたはずの心の高鳴りが、また戻ってきたのを感じる。
──どれほどの時、見つめあっていただろうか。
人々の歓声が一段と大きくなった、瞬間。それを合図かにするように清一郎がふっと視線を外した。
(私、どうして清さまの手が触れただけで、瞳を見ただけで心が暖かくなるのかしら……?)
我に返った時、香代は自分の心臓が激しく鼓動を打っているのに気がついた。すぐ傍にいる清一郎に聞こえてしまうのではないかと思うほど、どくどくと言う音が耳に響いていた。と同時に頬が熱くなっていくのが判り、誤摩化すために下をむいた。
(いま初めて判ったかもしれない……)
この瞬間、香代は清一郎への自分の心の苛立ちの理由の全てが、見えた気がした。
彼にこれまで冷たい態度をとっていた理由、そして出会った時からの苛立つような気持ち、全て彼が気になっていたからだ、と言うことに。初めて会った時、彼の瞳を見たに瞬間から思わず知らず惹かれていたから。それを自分で気付きたくなくて、裏腹な態度をとっていたのだ、ということに。
──香代が自分の気持ちに気付いたとほぼ同時期、清一郎もまた、自分の心の一部を覗き見した気分になっていた。
香代の瞳を見た途端、視線が外せなくなった。ずっと見ていたい衝動に駆られた。
この気持ちに明確な答えを出すことは時期尚早かもしれないが、何となく理解は出来た。
何となくすっきりとした気分になりながら、大川の方向に意識を向けると、人々の話し声から今から大仕掛けの花火をやるらしいと言うことが聞き取れた。清一郎はごくごく自然な感じに香代の手を取る。
「そろそろ川の方に戻りましょう。このままでは全く花火を見ずに今日が終わってしまいますから」
急な清一郎の行動に驚愕し固まってしまった香代だったが、ややあって心持ち下を向きながら、でも嬉しそうな声を出した。
「……ええ、ぜひ」
「父さま、本当に香代たちを探しにいかなくていいんですの?」
佳奈の何度目かの問いに、本間助教授はため息を漏らした。歩みを止めて少しかがみ、佳奈に視線を合わせ、言い聞かせるように何度も言った言葉を繰り返す。
「佳奈、この人ごみの中では香代たちを見つけるのは海岸で砂粒の中から数珠玉を見つけるのと同じ位難しいことなのだよ。香代は何度もこちらに来ているから、帰り道も判るだろう。だから敢えて探すことはしないのだよ」
「でも……」
佳奈は反論しようとした言葉を途中で飲み込んだ。このやり取りは先程から何度も何度も繰り返している。反論をしても、『大丈夫だから』と先程までと同じ答えが返ってくるのは火を見るよりも明らかだったため、彼女は諦めて口をつぐんだのだ。
けれども、お腹の中ではぐるぐると疑問が渦巻いていた。否、疑問ではない。香代と清一郎に対する不満が渦巻いていたのだ。
本当ならば何を置いても二人を捜しに行きたい所なのだが、こう人が多いと皆が恐い生き物に思えて、父親の手を握りしめているのが精一杯なのであった。
(香代はどうして清さまを追いかけていってしまったのかしら……)
理由がはっきりとしていても、妹が自分を置いていってしまったことが、どうしても腑に落ちない佳奈なのであった。
何せ、清一郎と出会うまではぴたりと佳奈の傍を離れないのが常であった香代が、今はどうだろう。清一郎が関わると、自分を置いて清一郎と仲良くしている。ひどい時には自分の存在を忘れてしまうことさえある。あの香代が!
わたし、どうしたらいいのでしょう……。
佳奈は今すぐこの場に座り込み、顔を覆ってしまいたい衝動に駆られた。ただ、往来でそんな行動がとれるはずもなく、きゅっと唇を噛み締めるだけに留める。
(……清さまがいらっしゃらなくなれば、以前と全く変わらないのではないかしら?)
ふ、とそんな恐ろしい考えが頭の中に浮かび上がった。一度考えだすとどんどんと膨らんでくる負の感情。佳奈は唇を噛み締め、父親の横にしっかと寄り添いながら思いをめぐらせていた。
──そもそも、何故香代はわたしの元から離れるようになったのかしら。それははっきりとしているわ。彼女自身は気付いていないみたいだけれど、わたしにははっきり判る。あの子は、香代は清さまに心惹かれている。一人の男の方として、清さまに心を奪われているのだわ。
それは清さまも同じ。香代に対して憎まれ口を叩いたり、からかったりしているのは慕っている心の裏返し。自分の気持ちを持て余して、それが素直に出せなくてああいう行動になっているのが判る。
そして、お互いがその距離を心地よいと思っている。だからこそ、その間にいないわたしのことは無視してしまうのだわ。
人見知りが強い分、様々な人の行動を慎重に見ていた佳奈だからこその、分析であった。それはある意味とても正しかった。
だからこそ、と佳奈は清一郎に憎しみの感情を憶えてしまう。
もし清一郎がうちに居候と言う形を取らなくなれば、いっそいなくなってしまえば、二人の距離が離れて今の状態を保てなくなってしまうだろう。そうしたら、そうしたら愛しい妹はわたしの元に帰ってきてくれるに違いない。──そうなってしまえばいいのに。
唇を噛み締めた力を、なおいっそう強くしながら、佳奈は停車場へ向かう父親に連れられて歩いていった。
もしここで、帰り道の途中で香代と清一郎に会うことが出来れば、多少は佳奈の苛立ちも晴れたことだろう。しかし、結局再会することはなかった。
佳奈が自分の感情を持て余しつつ西片の自宅に着くと、ばあやが心配そうな顔で玄関前で待ち構えていた。佳奈と本間助教授の姿を認め、安堵した表情を浮かべる。
「旦那さま、佳奈さん、お帰りなさいませ。清一郎さんからお話を聞きまして、どうしたものかと心配していた所でございます」
「二人はもう帰ってきているのかね?」
本間助教授の質問に、ばあやは三十分ほど前には帰宅している、との旨を伝えた。佳奈の方を振り返ったこの家の家長はにっこりと微笑んだ。
「ほら佳奈、私の言った通りだったろう?」
こくん、と首だけを動かして佳奈は返事に答えた。声を出そうにも出なかったのだ。無事なのは良かったが、二人が一緒に帰ってきていると言う事実に安堵し、苛立ちが頂点に達してしまったのだ。一言でも発すれば何を叫んでしまうか自分自身も判らないくらい。
無言のまま三和土を上がり、すたすたと二階に上がる。急いで寝間着に着替え、敷いてあった布団に潜り込んだ。もう、誰とも顔を合わせたくなかった。
明かりも消し、暑い中薄掛けを頭からすっぽりとかぶり、ただひたすら薄掛けの縫い目を見つめていた。何も考えないように。本当ならば眠ってしまえば楽だったのかもしれないが、怒りで眠ることなどどうしても出来なかった。
どれほどの間、そうしていただろうか。とても長い間に思えていたのだが、もしかしたら一瞬だったのかもしれない。
入り口の方から衣擦れの音が聞こえ、しばらくすると布団の傍に人の気配を感じられた。しばらくして、ささやき声が聞こえてきた。
「姉さま、もう眠ってしまわれた……?」
それは愛しい妹の声。一瞬起き上がりたくなるが、先程の怒りがまだ残っていたため、眠ってしまっている振りをしてさりげなく無視した。
しばらくは佳奈が起きてくるのを待っていたらしく、じっと横で待っていた気配がしたがやがて諦めたのか着替えの衣擦れの音がし、ややあって横の布団に人が潜り込んできた。どうしようか考えあぐねていると、香代が手探りで佳奈の手を探り当て、ぎゅっと握りしめてきた。
「……ごめんなさい、姉さま……」
握った手に力を込めながら、聞こえないと判っていつつ香代は謝罪の言葉を口にした。それを布団の中からしっかり聞き取った佳奈は、妹への愛しさを募らせると同時に、清一郎へ憎悪の念を燃やしてしまうのであった。
(香代の事は誰にも渡すものですか。清さまなんかに渡さない……)
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