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「清さま、ちょうど良い所にいらして下さいましたわ。今日、女学校で出された問題があまりよく判りませんの。よろしければこちらで教えて下さるとありがたいのですが」
「それは是非。香代さんの頼みとあれば今すぐにでも」
「ふふ、それは嬉しいですわ。では早速お願いいたします」
 机の上でほおづえをつきながら佳奈はじっと、隣の机で楽しく談笑している香代と清一郎を見ていた。仕草が違う、言葉の色が違う、そして何より、ふと瞳を合わせたときの見つめ方が違う──。
 あの日、二人で花火大会から帰ってきた次の日から、明らかに二人の距離が変化してきているのを佳奈は感じていた。今現在だってそうだ。宿題を教わっているのはいいが、ここは自宅ではない。実験の終了した帝大の研究室の中である。家族だけがいる自宅とは違い、ここには山川教授だって同席しているのだ。なのにこの二人の態度。人は、ここまで変わることが出来るのか、と呆れを通り越して、感心することもしばし。
 一人取り残された彼女は、こうして目の前の二人を見て嘆息することしか出来ないのであった。
「香代さんと清一郎君は、とても仲が良くなったのだね」
 後ろから突然響いてきた声に、佳奈は心中驚きつつ後ろを振り返った。そこには山川教授が一人、パイプを燻らせながら隣の机で仲良く課題を解いている二人を見つめていた。佳奈は無言で、こくん、と頷く。
「佳奈さんはあの二人を見て、どう思う?」
 どうしてそんなことを訊くの? と佳奈は心の底で呟いた。あの二人が仲が良いことは今ここにいる人たち(とはいっても当人たちと佳奈、山川教授に自分の父親のみだが)からしてみれば既に当たり前のことになりつつあるのに。過去の自分たちのことを知っていれば、わたしが怒っているのは判るはずなのにどうして? と問い返したい衝動に駆られたが、目上の人に問えるはずもなく。結局しばし悩んでありきたりな返事をした。
「……わたし、よく判らないですわ」
 けれども呟きはだいぶ拗ねた調子に聞こえたのだろう。教授は瞳に優しい光を浮かべ笑いながら佳奈の頭を撫でた。
「はっはっは。そうだね。佳奈さんは香代さんを清一郎君に取られてしまったようなものだから」
「……笑いごとじゃ、ありませんのに」
 ぽつりと、教授にも聞こえないような声で反論した時、ちょうどこちらを向いていた香代と目が合った。楽しそうに微笑みながら、香代はこちらに向かって手招きをする。
「姉さまもこちらにいらっしゃったらいかがです? 清さまがとても素晴らしく丁寧に問題を教えて下さるんですのよ。今日出された問題など、あっという間ですわ」
 彼女は佳奈が荒んでいるのに全く気付いていない様子である。目の前にある自分の幸せが薄く紗のように周りをおおっている状態だ、と佳奈はそう判断した。
「わたしはそこで聞かなくても大丈夫。香代は今しっかりと清さまに教わって下さいな」
 返答の言葉と声に少し嫌みをまぶしたのだったが、やはり周りに紗のかかった妹は全く気付く様子もなく、にこりと微笑んだ。
「判りましたわ姉さま。ではもう少しお待ち下さいませね」
 そうしてまた、くるりと清一郎の方を向き、自分に一所懸命に問題を教えている彼をじっと見つめていた。ほんのり、頬を赤く染めながら。そして清一郎と瞳が出会うと、とても嬉しそうに微笑むのだ。するとそれを見た清一郎が照れながらそっぽを向く──。これの繰り返し。
 一連の行動を見ているだけで胸がむかついてくるのですぐさま帰ってしまいたいのだが、いかんせん外がすでに夕闇のため一人で帰ることが出来ず、結局二人をじっと見つめるしか出来ることがない佳奈なのであった。
 
 
 さてそれから半月ほど経ったとある夕暮れ時。佳奈は帝大のいつも実験を行う部屋の横にある小部屋で一人、湯のみに溜めた水を使い、ひとりで『ちから』を使って水を温めて遊んでいた。元来なら『ちから』を使うのはほぼ実験のみの佳奈なのであったが、今日は実験室で父と香代と清一郎が一緒に談笑をしていて、『是非一緒にお話を』と言う三人の誘いを断るため「わたし近頃『ちから』をうまく使うことが出来ないので、一人で練習してきますわ」と言い訳めいた返事で抜け出してきたのだ。
 父さまが混じっていたって、結局あの二人は二人だけの世界を作ってしまうのですもの。そんなの見ていたくないですわ。そもそも、最初にお話をしていたのはわたしと香代だったのに。ふと気付いたら清さまが混じっておられるんですもの。それに興味を示した父さままでもが現れてしまうし。お家でさえ香代と話す機会はめっきり減ってしまったと言うのに。どうしてここでまで香代と二人きりでお話をさせて下さらないのかしら。
 佳奈はじっと湯のみを見つめながら、怒りを水にぶつけていた。いつもいつも自分と香代の間に平気で割り込んでくる清一郎に、怒りを感じずにはいられなかった。
 小部屋の中にはたくさん蒸発した水のおかげで異様なほどに湯気が立ちこめていた。佳奈の勢いは、それほどまでに激しかったのだ。
 ……とりあえず八回目の湯のみの中身を蒸発させ、九回目の水を汲みに行っていざ始めようとしたちょうどその時。
 ちらりと目の端に、父親の姿が見えた。この小部屋は実験室と教授の部屋に挟まれている。見えたのは教授の部屋側だ。どうやら山川教授に呼び出されてきたらしい。実験室側では、助教授がいなくなったからか、先程よりも親密な香代と清一郎の声が聞こえてくる。二人の声を聞きたくない、と言う強い思いがあったため、佳奈は教授の部屋と繋がっている扉の傍へと歩み寄り、聞き耳を立てることにした。
 話の内容は、ここにいる三人の『ちから』のことのようだ。香代の力が安定している、清一郎はそこまでは変わらない、逆に佳奈が不安定で発揮出来る場合と出来ない場合がある、と言った具合のものであった。
 ふう、と佳奈は嘆息する。そうなのだ。この実験室で父親と山川教授の実験に参加するようになって初めてと言っていいくらい、今現在の佳奈の『ちから』は不安定なのであった。いざ『ちから』を出そうとしても、全く水温が暖まらないこともあれば、一瞬で水を蒸発させてしまい、湯のみにひびをいれてしまうこともたびたび起こっていたのだ。
 だが香代の方は絶好調で、ぴたり十秒で水を氷に、などと高等な技を一発でやってのけたりすることが多かった。今自分が練習と言ってこの部屋に籠っているのも、あながち嘘ではなかったりするのだ。
 だいぶ落ち込んでしまい、どうしようという思いがぐるぐると頭を回っていた時。
(えっ?)
 思いがけない単語が耳に入り、思わずびくりと身体を震わせた。
「まあ、結婚は時期尚早だとは思いますが、そうなってほしいと言うのはありますな」
 本間助教授が発した言葉はあまりにも衝撃的であった。
「確かに、能力者同士が結ばれたのであれば、もしかしたら素晴らしく秀でた『ちから』の持ち主が生まれる可能性があるかもしれない」
 山川教授もふむふむと頷きつつ続ける。
 二人の会話のあまりの衝撃に佳奈はただ、その場でわなわなと震えていた。父親の考えがどこにあるかを知り、激しく絶望した。
(父さまも、香代と清さまの仲をお認めになるなんて……)
 父親が認めたとなると、本間家の中で自分一人が孤立した、という結果になる。佳奈だけが反対しても二人の間を壊すことは出来ない、と言う事実を突きつけられたも同然であった。
 佳奈が持っている湯のみの水はさざ波の如く揺れ、中に映り込んでいる少女の顔は怒りの形相にうち震えていた──。


「清一郎君、どこか、出掛けてみたい所はあるかね?」
 おもむろに本間助教授が切り出してきたのは、九月に入り、ほんの少し帝都の気温が和らいだ時期の夕食時であった。ざわざわしていた食堂の空気が一瞬しんと静まり返る。
「父さまったら急にどうなさったの? 清さまも驚いていらっしゃいましてよ?」
 くすくす笑いながら香代が清一郎の代弁をする。現に清一郎はいきなり突拍子もないことを振られたためか、口をぽかんと開けて助教授の顔を凝視していた。数分後、懐から手拭いを取り出し額からこぼれ落ちる汗を拭い、目をしばしばさせつつようやっと口を開いた。
「……あ、はい。どこへ行きたいかと急に言われましても……」
「いや、すぐでなくて良いよ。ほら、何しろ清一郎君は春にこちらに来て以来、花火大会くらいしか遠出をしたことがないだろう。それではいけないと気付いたのでね。たまには家族総出で出掛けるのも良いだろうと。ちょうど明日休暇を頂いたからね」
 一旦休めていた箸を持つ手を動かし、白身魚の煮付をすいっと切りつつこの家の家長は突拍子もない提案のきっかけを語りだした。
 花火大会、と口に出した時にぴくりと硬直する長女の姿を目の端に捉えるが、いっかな気にも留めない。
「だったら、浅草が良いです」
 思い出したと言った風情で清一郎が目を輝かせてきた。どうやら前々から行ってみたい所だったようだ。確かに浅草は観光地としては東京市の中でも一、二を争う場所だ。地方から出て来た身としては行きたくて仕方がない所なのであろう。
 もっとも、本間家で浅草に観光に出掛けたことがあるのは誰もいなかったりするのであるが。やはり身近にある観光地と言うのはなかなか行かないものである。なので香代も清一郎と同じ位瞳を輝かせた。
「それは素敵ですわ。ぜひとも浅草に行きましょうよ父さま」
 箸を乱暴に置き、父親の方に身を乗り出さんばかりにして訴えてきた。横に控えていたばあやがごほん、と一つ咳払いをして行儀の悪さを指摘しているが、全く聞こえている節はない。
「よし、では明日出掛けるよ。皆はそのつもりで」
 和気あいあいとする食堂の中、一人佳奈だけが小刻みに震えながら拳を握りしめて下を向いていた……。


 その晩は、昼間の気温があまり下がらずとても寝苦しい夜であった。且つ夜更けから降り出した雨が、蒸し暑さまで加えてしまう。暑苦しくてなかなか寝られず、更にのどの渇きを覚え起き上がった香代は、隣で寝ている姉を起こさないようにそうっと床を抜け出した。階下に降りて台所に行き、湯のみに水を汲み、しばし見つめた後くいっと一気にあおって飲み干す。ふう、と息を吐きながら湯のみをもとの場所に戻そうとした際。
「おや、香代さんではないですか」
 背後から急に声をかけられた。一瞬びくりとするが、すぐに清一郎の声だと判り、相好を崩す。くるりと振り返ると案の定、清一郎の姿があった。
「清さま。こんな夜更けにどうなさったんですの?」
「香代さんと同じだと思います。寝苦しくて、水を飲みにきたのですよ」
 微笑む清一郎の姿がなぜか正視出来なくて、香代はそうっと視線を地面に落とす。横で清一郎が水を汲んで飲む気配がした。そしてそのまま去っていこうとする足音が聞こえ、香代は慌てて顔を上げ、声をあげた。
「清さま」
 振り返った清一郎が疑問の視線を投げ掛けるのに、一所懸命に声をかけた。
「折角ですから、少しお話しませんこと?」
 ──食堂に場を移し、香代と清一郎は机に向かい合って座った。いつもと違い手燭の灯だけの食堂は薄闇の世界で、なんだか香代はどぎまぎとしてしまう。二人きりで話すことは花火大会の後からどんどん増えていたけれども、こんな夜中は初めてのことなのだ。それは清一郎も同じようだ。そわそわしつつ、しきりに頭を掻いていた。
 けれど、このまま何も話さず寝てしまおうとは思わなかった。香代は清一郎にどうしても訊きたい事があったのだ。人前ではどうしても尋ねられないことなので、実は密かに機会をうかがっていたのだ。今まさに尋ねるいい機会だと、香代は考えていた。
(清さまは、私のことをどう思っているのかしら?)
 香代が訊きたいのは、まさにこの一点であった。
 自分の気持ちに気付き、清一郎への態度をがらりと変えたあの日以来、清一郎も自分に対する態度が変わったとは気付いている。自分が変わったのは清一郎への想いに気付いたためだ。では彼は? 彼はどうしてあの日以来私に対する態度を変えてきたのか。
 何となく、想像はつく。でもその想像が実は独り善がりなんじゃないかしら、自惚れなんじゃないかしらと悩んでしまっていたのだ。
 だったら思い切って尋ねてしまった方がいい──香代はそう考え、機会を狙っていたのであった。
 ただ実際、いざ尋ねようとするとどのように話を切り出せばいいのか悩んでしまっていた。うんうんと唸りながら香代は必死に言葉を探す。横で清一郎は根気よく、彼女が話しだすのを待っている風情であった。
 どのくらい、時が経っただろうか。とても長い時間だったかもしれないし、刹那だったかもしれない。
 考えているうちになんだか頭の中がぐちゃぐちゃになってしまった香代は、ええい、ままよ、と口を開く。
「ええと、」
「香代さん」
 ちょうど清一郎が同時に言葉を発してしまい、あれ、と二人は顔を見合わせる。出端を挫かれた感が食堂に広がっていく。
 いや、ここでくじけちゃ駄目よ香代。ちゃんと清さまに問い掛けなきゃ! と香代はもう一度口を開こうとした。すると、不意にすきま風が流れ込み、お互いが持ってきた手燭の灯がふっと消えてしまった。真っ暗になってしまい、香代は慌ててしまう。思わず立ち上がり、一歩前に踏み出した。と、何かに足を引っかけつまずいてしまう。
「きゃ!」
 転ぶ! と思った瞬間、香代は何かにぶつかりどうにか転ぶのを免れた。しばしのち、ようやく目が慣れてきた彼女が見たものは、自分を抱きとめている清一郎の姿であった。
「大丈夫ですか香代さん。お怪我はありませんか?」
 耳元に流れ込む清一郎の低い声。身体の体温が上がり、頭がぽうっとなっていくのを香代は感じていた。触れている彼の着物の端をぎゅっと掴み、かすれた声で返事をする。
「だ、大丈夫ですわ。お手数おかけしてしまって申し訳ありません……」
「……あ、いえ、大丈夫だったら良かった」
 返ってきた清一郎の声もなんだかかすれていて、香代は先程の質問をするのは次に機会があったらにしようと考えた。
(今この瞬間が幸せだから、敢えて問い掛けるのはやめよう……)
 二人はしばらく、そのまま抱き合っていたのであった。



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