4(弐)
さて翌日。本間助教授とお付きのばあや、無表情な佳奈に少し寝不足気味の香代と清一郎の五人は、いざ浅草へと出掛けた。この間両国に向かった際に利用したのと同じ馬車鉄道を利用し、浅草まで向かう。
江戸期にはあったとされる雷門跡を通り抜け、十五年ほど前に建てられたと言う二階建て煉瓦造りの物珍しい仲見世を見物しながら(途中清一郎が『実家に』と土産物を買っていた)浅草公園内へ突入した。
その広い園内に、皆は興奮した。向かって右には五重塔、左の少し奥には有名な十二階がそびえ立ち、広い空には鳶が輪を描いて飛んでいた。観光客はやはり大勢いて、前回皆とはぐれてしまった清一郎は、今度は離れないようにと注意しつつ行動していた。
しっかりと浅草寺にお参りし、昆虫館と水族館を物珍しげに見学して、六区にあるそば屋でお昼を頂いた後、今度は日本パノラマ館へと向かった。日清戦争の展示は素晴らしいもので、じっくりと眺め出来映えに感嘆の声をあげた。
大池を経由し、やはりここは必ず行くであろう十二階に登って、東京市をぐるりと見渡す。昨日の雨が嘘のように晴れ渡った空の下の東京市を眺めた清一郎は、高い所に登った優越感に浸ってしまう。
下に降り、花屋敷に行こうと言う助教授の言葉に従い皆であちらこちら見ながら歩いていると、ふと写真館の多さが目に留まった。そう言えば、過去に水雷爆破の瞬間をとらえて一躍有名人になり、今では経済人としても有名な江崎礼二が浅草に写真館を出して以来、浅草は早撮り写真の中心地として栄えていた、と言う話を清一郎は思い出す。現に目の前にあるのは『江崎写真館』と書かれた看板だ。店の前には女性が立って客引きをしていた。
「そうだ、三人で写真を撮ったらどうかね?」
この光景を見て今思いついたらしく、本間助教授が後ろを歩いていた子どもたちに突然声をかけた。
「今日の記念に撮ると後々まで残っていいかもしれないよ」
記念、の単語を聞いて、香代の瞳がきらきら輝いた。清さまと一緒にお写真を撮ることが出来るなんて。父さまはなんて素敵な提案をなさるのかしら。
「ええ、是非撮りましょうよ清さま。佳奈も早く行きましょう」
右手で清一郎、左手で佳奈の手を捕まえた香代は、喜び勇んで客引きの女性に向かって駆け出した。
「──ええと、ではまずこちらを見て下さい」
しばらくのち。やわらかな午後の陽の光が差し込む写場では、今まさに撮影が行われようとしていた。椅子に腰掛けた清一郎の脇に、佳奈と香代が立つ。
若い写真師(この写真館の経営者ではないようだ)は、若い三人をいかにうまく写そうかと躍起になっているようであった。ここが腕の見せ所だ、と言わんばかりに助手にあれこれ指示を出したり、背景の壁紙の位置や椅子の向きを細かく直したり。三人を並べてから十分ほども経ってから、ようやくカメラを覗き込んだ。
「じゃあ、こちらを見て、いい顔をなさって下さい」
写真師の言葉に皆一様に緊張する。カメラの向こうからくぐもった声がした。
「そんなに硬くならなくて大丈夫です」
硬くならない、とはどのような状態のことを言うのであろうか? 香代は疑問に思いしゃっきりと背筋を伸ばしてすましている清一郎に小声でささやいた。
「清さま清さま、硬くならないってどういう表情をなさればいいか、判りまして?」
けれども清一郎から返事が返ってくることはなかった。ぷうっとふくれつつ、今度は横にいる姉に声をかける。
「姉さま姉さま、こういうときって笑ってしまってもよろしいのかしら?」
しかし、佳奈からも返事が返ってくることはなかった。こちらは中空を見つめたまま、微動だにしない。緊張している訳ではなさそうだ。けれども返事をしてくれないのは同じなので、結局香代は一人でしばし悩み、決めかねたまま前を向いた。
「はい、では行きます──」 写真館を出て、一行は最後の目的地である花屋敷へと向かった。香代の手には先程撮った写真が封筒に入れられて大事に抱えられている。他の皆の見たいと言う言葉には一切耳を貸さなかった。自分があのような顔で写真を撮られたことに、いささか疑問を感じていたからであった。
今日の最終目的はここ、花屋敷であった。植物に造詣が深い本間助教授たっての願いであった。入ると広がる庭園、そびえる奥山閣、遠くから聞こえる動物たちの声。浅草でもここはまた、違った雰囲気の場所であった。
まず皆で、ゆったりと庭園を眺めた。さすが江戸の頃から続く庭園、それはとても見事であった。
歩いていくと、向こうに何やら人だかりがある。急ぎ近寄って見ると、そこには虎がいて、皆はそれを眺めてやんややんやとはやし立てているのであった。元から近づくことなど決してない佳奈はともかく、清一郎も香代もこればかりは足がすくんでどうにも動けなくなってしまった。
更に歩くと見世物小屋の前に出た。これは香代の希望であった。どうしても、生人形が見たいのだと昨晩からずっと言い続けていたのだ。ちょうど始まる前であったのでこれ幸いと小屋に入り、桟敷に座る。香代に至っては始まる前だと言うのに手すりから身を乗り出して興奮した様子で今か今かと待っていた。その目の端に人影が動き、去っていくのをとらえたが、目にも留めなかった。人影は更に動いて小屋の外に出て、小走りに走り出していった。
──それは、佳奈であった。彼女は今日出掛けてから一言も言葉を発していなかった。けれどもそれに気付いた人は誰一人としていなかったのだ。完全に忘れられている、と彼女は思い込んでいた。それが何とも悔しくいたたまれなくなり、彼女は小屋を飛び出したのだ。
しかし、彼女が飛び出した事実に誰一人気付いている様子ではなかった。それがまた、佳奈の神経を逆撫でするのだ。香代は本当に変わってしまったのだ。わたしなんかいなくなったとしても、悲しむことは決してないのだわ。思えば思うほど悔しくなり、涙がこぼれて振袖の胸元に小さなしみを作っていた。
走って走って走り回って、ふと気付いた時佳奈はよく判らない所に入り込んでいた。あちらこちらに散らばる木片や古い看板、埃のつもった道具に壊れた人形。
(ここは一体……?)
どうやら花屋敷の資材置き場の付近に入り込んでしまったらしい。何やら妖しげな雰囲気に、佳奈は知らず身震いした。と。
ぎゃあ。
不意に奥の方から微かな悲鳴が聞こえた気がした。肩をすくめ、身構える。すぐに元の静寂が戻ったが、佳奈は先程の叫び声がどうしても気になって仕方なかった。
「確か、あちらの方から聞こえましたわよね……?」
いつもの自分だったら絶対に行かないような所。でも今日の佳奈は自棄になっていた。いつもの臆病な彼女ではなかった。怒りで我を失っていたと言っても過言ではない。そろりそろりと歩を進め、あちらこちらを覗き込み、そしてようやく声の正体の前にたどり着く。
「な、なに……?」
そこには猿を何倍にも大きくした生き物が、ぎょろりと目を剥いて檻の柵を掴み立ち上がっていた……。
これまで見たことのない生物に、佳奈は狼狽し、ただただ立ちすくむだけであった──。
「あら? 父さま、姉さまを見かけませんでしたこと?」
ふと幕間に姉の姿がいないことに気がついた香代は、横にいたはずの父に尋ねた。しかし父親は覚えがないと言う。ばあやにも聞いたがこちらも芳しい返事は聞かれなかった。清一郎は自分の横にいて、演目について語り合いながら一緒に見ていたので知るはずもない。では姉は、一体どこに行ってしまったのか。
とてつもない不安が、香代の胸をよぎった。すっくと立ち上がり、一目散に外へと駆け出す。驚いた清一郎が数歩遅れて香代の後を追いかけ始めた。
「どうしたんですか?」
後ろから聞こえてくる疑問符を無視したまま、香代は走った。外に出た辺りから嫌な予感が胸の辺りで渦を巻いている。一刻の猶予もない。
(姉さまの身に何かがあったんだわ!)
これまでも何度か、何故かお互いの危機を察知し、救ったことが幾度かある。今感じている予感はその際感じたものと全く同種だったのだ。本能の赴くままに走り、見世物小屋の裏手に回り込む。更にがらくたの山を乗り越え、花屋敷の一番奥に入り込んでいった。
果たして佳奈はそこにいた。怯えきった瞳を正面に向け、微動だにしない。いや、動くことが出来ないのだ。佳奈の視線の先、ほんの十メートル先になにやら得体の知れない生き物が立ち上がって威嚇をしていたのだ。体長はおおよそ四、五歳の子どもほどであろうか。大きな口を開け、キーキーと叫び声をあげながら、じりじりとにじり寄っている。その生き物が入っていた檻は鍵が壊れていたらしく、南京錠がぶらりと下がっているだけであった。
「あれは、ヒヒではないですか」
ようやく香代に追いついた清一郎が、大きな声をあげる。
「先日、新聞で読みました。この間花屋敷でヒヒが醜態を演じて観覧停止となった、と言う記事を。あれはきっとそのヒヒです!」
そのような恐ろしいものが何故ここにいるのか。既に二か月が経っていると言うのに、未だに花屋敷の中で変われているのは何故なのか。そんな疑問が清一郎の頭をかすめるが、今は明らかにそれどころではない。
ヒヒは歯をむき出しにして、今にも佳奈を襲わんと四肢を曲げ飛び上がらん勢いだ。清一郎は慌てて『ちから』をヒヒに向けて放出しようと身構えた。
佳奈に当たらないようしっかり狙いを定め、深呼吸し、次の瞬間、息を吐きだすと同時に一気に『ちから』を放つ。
「はっ!」
瞬間、清一郎は驚愕した。ありえない出来事が目の前に展開されていた。力を放ったより一瞬早くヒヒと佳奈の前に立ちはだかる人影がいた。それが誰かなのかを悟った彼は声を枯らさん勢いで叫んだ。叫ぶしか出来なかった。
「香代さんっ!」
次の瞬間。
見えない何かに背中を叩かれるかのように背中をありえない方向に曲げたのち、突っ伏す少女の姿があった。ヒヒはその勢いに気圧されたようで、慌てて檻に戻って隅で震えていた。
「──香代、香代しっかりして! お願い、目を開けて!」
先程まで立ちすくんでいた佳奈は、もう香代しか見えないと言った風情で彼女の横にしゃがみ込み、振袖が汚れるのも構わず地面に横たわり全く動かない香代を抱き上げていた。香代の身体はぴくりとも動かない。結い上げていた髪は思うさま乱れ、振袖は片袖が破れ遠くに飛び散っていた。背中には大きな焦げの跡。顔は青ざめ倒れた時に切れたのか、口から赤いものが流れていた。
恐る恐る近寄り、着物の端で口の血を拭き取る。その際呼吸を感じたので、かろうじて生きているのは理解出来たが、そこまでだった。
清一郎はただただ呆然と、二人の少女を見つめ無言で立ち尽くすことしか出来なかったのであった。
後ろでは異変を察知した本間助教授とばあやが、ようやく駆けつけてきた所であった。
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