4(三)
「──ん」
何やらまぶしくて、香代は目を開けて辺りを見回した。薄ぼんやりとした視界には、見慣れた天井が映っていた。どうして眠っていたのかしら、と疑問に思いながら左横を見ると、佳奈が大きな目を更に見開かんばかりにしていた。いっぱいに涙を溜めながら。右横には看病の道具一式とばあやの姿があった。目が開いたのを知ると、ばあやは急ぎ家長にこのことを告げに走っていった。
「ああ! 良かった。ようやく目が覚めましたのね。三日三晩も眠っていたので、どうなってしまうかと心配でしたわ」
佳奈は言って布団から出ていた左手を握りしめ、ぽろぽろと涙をこぼしながら語りかけてくる。記憶が混乱している香代は、そっと姉に問い掛けた。
「姉さま、私どうしてお布団に寝ているんですの……?」
泣いている佳奈は、ただただ首を横に振るしか出来ない。しょうがなくぼんやりしたままの頭で思いをめぐらせ──そしてようやく、答えに行き当たった。慌ててがば、と起き上がろうとして痛みで果たせず、横にいた佳奈に身体を支えてもらう。
「いけないよ香代。思った以上に大怪我をしているのだから。あばらの骨を折ってしまったし、背中には大きな切り傷がある。全身すり傷だらけで、全治に三か月もかかるんだよ。おとなしく横になっていないと」
ばあやから聞いて駆けつけた本間助教授が、部屋に入りながら香代をたしなめた。そんなに大怪我をしてしまったのか、と香代は少ししょんぼりする。が、次の瞬間本来ならばいるべき人物がこの場にいないことに気付き、父親にそっと確かめる。
「父さま、清さまは一体どこにいらっしゃいますの?」
香代の質問に、何とも複雑な表情を浮かべ、あごひげを撫で付けながら答えに窮する姿に、無言で答えを突きつけられたような気がした。
「清さまは、もうこのお家にはいらっしゃらないのですね……?」
「ええ香代。清さまは自分でこのお家を出て行かれたの。香代にあのようなことをしてすまなかった、合わせる顔はないと仰って、香代の無事をお医者さまから聞いた翌日にはもう、荷物をまとめて出て行かれてしまったわ。大学には来ますが、もう逢うことはないでしょう、と伝えて下さいと仰ってた」
佳奈は、観念したように清一郎の所在を告げた。
「そう……」
何とも言えない空虚感を心に感じながら、また静かに香代は横になって瞳を閉じた。逢うことが出来ないことを歯がゆく思いながら。でももし会いに行けたとしても、清一郎はきっと逢ってはくれないだろう。真面目な清一郎のことだから。責任を一人で全て背負っていなくなったのだから。
目を閉じた香代がやがて静かな寝息をたて始め、横で息を詰めて様子をうかがっていた佳奈は安堵した。本当に香代が倒れてから先程目が覚めるまで気が気ではなかったのだ。だから本当に目が覚めて嬉しくてしょうがない。
(でも……)
やはりまず清一郎の行方を聞いたことに多少の苛立ちを感じてしまった。この場にいない人物がまだ香代の心の中にいっぱいいるのかと思うと、少し苛立つ。けれど、清一郎さえいなければ香代はきっと元の彼女に戻るだろう。愛しい妹は自分の傍に戻ってきてくれたのだ。佳奈は胸を撫で下ろし、寝顔をそっと見守るのであった。
その後。本当に全く清一郎と顔を合わせることはしばらくなく、次第に香代の心の中の清一郎は淡い思い出へと変わってしまったのであった……。
四年後。上空がだんだんと春の空色に変わりつつあるある日の午後。いつものように実験室に向かうため女学校から直接帝大へと向かい、正門前にさしかかる。と、急に佳奈が立ち止まった。
「どうなさったの姉さま?」
突然の行動に驚いていると、佳奈はてくてくと歩いていって、正門の門柱に寄りかかって立っていた一人の軍人の前で立ち止まった。いつもの彼女ならありえない行動である。香代はびっくりして、姉の動向に気を配っていた。
「お久しぶりです」
すると佳奈はぺこりとその人物に向かって深いお辞儀をしたのだ。何がなんだか判らず狼狽えてしまう。すると軍人も帽子を取り、深々と礼をした。その横顔に、微かな面影を感じ取り、香代は思わず叫んでしまった。
「……清さま!」
声を聞きつけ、彼はこちらにも向かって礼をする。明らかに大人びていたが、それはまさしく三年半前に姿を消した雪崩山清一郎その人であった。久しぶりの再会に、香代は驚きを隠せずただ立ちすくんでいるだけであった。
「良く、僕のことが判りましたね、佳奈さん」
「ええ、わたしはこそりと清さまが大学にいらしている所を見ていましたもの。ですからすぐに判ったんですわ」
姉と清一郎の会話もあまり耳には入ってこない。正門前でぼっと立ちすくむ少女の姿に、通行人たちは不審げな視線を投げ掛けていた。それに気付いた清一郎は苦笑する。そっと香代の元に近づき、もう一度無言で礼をした。
「……お、お元気そうで何よりですわ、清さま」
「香代さんこそ、お元気そうで何よりです。気にかけてはいましたが、本間助教授から容態などは聞いてましたので、心配はしていませんでした」
彼の台詞に三年半前の出来事を思い出し、ほんの少し香代は落ち込んでしまう。清一郎も少し暗い表情になったが、きりりと顔を上げ佳奈に向かって言い放った。
「少し香代さんとお話がありますので、佳奈さんには先に研究室に行って頂いていてよろしいでしょうか?」
「ええ、よろしくてよ」
姉の了解を得た彼は、当の本人への了承も得ず、さっさと歩き出してしまった。香代は慌てて追いかける。二人を見届けた佳奈は一人、構内へと入っていった──。
しばらく後、香代と清一郎は構内にある池の畔に来ていた。芽吹く前の何もない木々や、枯れたままの草たちが生い茂っていた。ここまで終始無言であった二人だが、誰もいなくなったと言うことで、ようやく口を開く。
「清さま、何故今回はお声をかけて下さったんですの? ……二度とお話は出来ないと、そう思ってましたのに」
香代の少しむくれたような言葉に、清一郎は微笑する。
「今回は、本間助教授の方にもお尋ねして、お話する許可を頂いたからこうしてお誘いしたのですよ。──実は、今週末にロシアの方に参ります。日本軍陸軍兵士として」
ああ、やはり……と香代は嘆息する。清一郎が来ているのは日本軍の軍服である。と言うことは軍人となって戦いに赴くと言うのは当然の帰結である。だからこそため息をついたのだ。
「無事に……お帰り下さいませ」
そっと静かに一礼し、香代は武運を祈った。敬礼で返す清一郎。しばしそのままで、二人は池のほとりに佇んでいた。
香代が頭を上げると、清一郎も敬礼を解き、じっとこちらを見つめてきた。なんだろうと思っていると、硬い表情でぽつりとつぶやきを漏らした。
「香代さんは、あのときのことを恨んでやしませんか?」
「恨む? いえ、あの時の出来事は今ではいい思い出ですわ。そもそも清さま一人が悪いと思っていませんもの、私。飛び出した私の不注意もあったことですし」
にこりと微笑む香代。実際本当であった。清一郎を恨むと言うより、清一郎に去られたと言う事実の方に頭がいっぱいで、恨むことなど出来なかったのだ。
返答に満足したのか、清一郎の顔がやわらかな表情になる。香代と楽しく遊んでいた、あの時のように。やわらかな雰囲気を纏ったままかすむ空を見上げつつ、清一郎は四年前の思い出話を始めた。
「もう、初めてお会いしてから四年も経ってしまうのですね。あの時、たった半年限りでしたが本当に楽しかった」
「ですわね。あの頃このようにゆったりと二人で空を眺めることが出来るだなんて、思いも寄りませんでしたわ」
強い風に髪を煽られてしまい、結い髪を抑えながら香代も呟く。
「そういえば」
ふと、何かを思い出したようにこちらに向かって清一郎が尋ねてきた。
「……浅草に出掛けた前日、憶えていますか? あの夜、僕は心に秘めた想いを伝えようと思っていたのですが、色々あって伝えられなかった、もし伝えていたら何か変わっていたのでしょうか?」
ああ、やはり彼も私のことを想っていて下さったのだ……三年半前の思いを今知ることが出来、香代はとても嬉しくなった。ただ、それはもう思い出でしかないのだ。確かにあの時に伝えられていたら、今現在思い出語りをする二人は存在しなかったろう。そう、全ては過去のものなのだ。だから香代は淡々と、伝える
「ええ、私もあの時、清さまに心を打ち明けようと思っていましたもの。ですからきっと、変わっていたと思いますわ」
口調で香代の心の内が判ったのだろう。清一郎はただ、頷くだけであった。
「こうしてゆったりと語ることが出来ると言うことは、二人の中ではあの時の想いはもう、思い出でしかないのでしょうね」
香代が呟いた。
「でも、とてもいい思い出です。きっと一生忘れることはないでしょう」
と清一郎も相づちを打って返しながら、懐から取り出した懐中時計に目を落とす。
「……もう、行かなければ」
妙にしんみりとしている声に、香代は精一杯の笑顔を返した。
「そうですか。では、もしまたお会い出来ましたなら逢ってやって下さいませ」
お互い、深々とお辞儀をする。
そして二人は池の傍で、静かに別れたのであった──。
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