切なる願い
昨日、お母さまにご用事を頼まれて、谷中の伯母の所にお届けものをした帰り道。
そう、確かあれは東京帝国大学の前でしたでしょうか。なにやら言い争っている声が聞こえましたの。わたくし聞き覚えのあるお声だわ、と思いましてひょいとそちらを見やりましたら、同じ級の本間香代さんが、わたくしたちよりほんの少し年上の男の方と激しく言い争っておられました。
横にいた双子の姉の本間佳奈さんは、いつものようにおろおろとしながら香代さんの袖をくいくいと引っ張るのですけれど、彼女はそれに気づかないくらいの勢いでお話しているのです。
周りを歩いていらっしゃった大人の方々は、微笑ましそうな瞳で見つめていたり、こんな所ではしたないと言った非難の瞳で見つめていらしている方が殆どでしたのですけれど、わたくしは他の方とは違った瞳で見つめておりました。
だって、わたくしあんなに生き生きとしている香代さん、見た事がなかったのですもの。相手の男の方はご存じなかったのですけれど、彼は言い方がきつい事はきついのですが、瞳に込められた感情は、確実に香代さんへの思慕にしか見えませんでした。
まあ素敵。きっとあの二人は思いを交わした相手に違いない。きっとそうですわ。
わたくしも家族に内証で思いを交わした相手がいたりするので、他の方の事もよく判ってしまうのです。
本当はどうなるのか最後まで見ていたかったのですけれど、お時間がないので仕方なく立ち去りました。
でも実はその場で一番気になったもの、それは二人を見つめる佳奈さんの瞳でした。もの悲しい、且つ何か思い詰めていらっしゃるような……。
「小雪さん、一体どうなさったのですか? お身体の調子でも悪いのですか?」
夕食の時。箸があまり進まないわたくしを心配なさってか、お母さまが声をかけて下さいました。けれども今日のできごとは誰にも言ってはいけないような気がしていたので、首を振ることしか出来ませんでした。
「ご心配おかけして申し訳ありません、お母さま。少し考えものをしていたんですの」
「小雪、考え事は後にして今は食べる事だけに集中しなさい」
横からお父さまが会話の中に入って参りました。お二人に心配をかけさせてしまって申し訳なく感じたわたくしは、とりあえず食べる事だけに集中しようと思いました。
けれど、やはり思い浮かぶのは佳奈さんのあのお顔ばかり。
どうしてあそこで悲しいお顔をしていたのか判るからこそ胸が詰まって、ごはんを残してしまいました。
そして夜。
床に就いたあとも、わたくしはずっと佳奈さんの事を考えておりました。
佳奈さんは、同い年とは思えないほどの奥ゆかしさで、級の皆様が一堂に会して騒いでおられるときも、香代さんの後ろに隠れて、小さな声でお話をするばかり。
学校にいらっしゃるときも、いつも香代さんと手をお繋ぎになり、教室につくまでぎゅっと握っていらっしゃる。その姿が可愛いと、上級のお姉さまたちは暖かい目でご覧になっていらっしゃる。
けれども、実は香代さんと二人でいらっしゃる時は、ちゃんと姉としての自覚もある、と言う事をわたくしは知っているのです。
そう、あれは確かまだ女学校に入学したての頃……。
「姉さま、もうこの時間になればどなたもお教室にはいらっしゃらないわ。早く」
「待って香代。廊下は走ってはいけません。転んだら大変ですわよ」
あの日、放課の時間に先生のお手伝いをしていたわたくしは、ふと気づいたらもう空が夕闇の色を混じらせている事に驚きを覚えておろおろしておりました。すると目の前を佳奈さんと香代さんの二人が駆けていくのが見えたのです。
二人の事は、同じ級でしたからよく見知っておりました。いえ、同じ級でなかったとしても、多分知っていたに違いありません。なぜなら全く同じ愛くるしい顔をお持ちの双子が入学なさったと言うのは、この女学校に入った当初から騒がれておりましたから。
ともかく、二人は頭についているお揃いのリボンをはためかせ、紫の袴の裾を軽く持ち上げて邪魔にならないようにしながら走ってわたくしたちの教室に入っていったんですの。
何事かと思いまして追いましたら、二人はつっかえ棒などして教室を閉め切ってしまっていたのです。中からは二人の楽しそうな声が聞こえてきますので、気になって見てみたいとあれこれ思案しまして、外に出て窓の方から覗いてみようと思いましたの。
窓の下に来て、自分の背と同じくらいの窓を背伸びしてちらりと覗きましたら、硝子の向こうに二人の姿が見えました。直接聞くよりは不明瞭ではありますが、かすかに声も聞こえてきます。
「はい、お水」
「ありがとう、姉さま」
お水を入れた器を受け取った香代さんは、それを机の上にそっと置きました。二人でそれを覗き込んでいます。
「今日は、どちらから使ってみます?」
「この間はわたしが先でしたから、今日は香代が先で大丈夫。それに、わたし香代が凍らせる所はあまり見た事がないから、いつもより長めにやってみせて」
はて? と私は首を傾げました。二人の言っている事がいまいち理解出来ない事であったのです。何をどのように使って凍らせるのでしょう? 疑問が頭の中を渦巻いていましたが、きっとこの先の二人を見ていれば答えは見えてくる、と思い、先程より更に息を潜めて見つめておりました。
すると。
香代さんが机から数尺離れた所にあった椅子に腰掛けてじっと器を見つめ始めたのです。数瞬の沈黙。その際にとある事に気づいたわたくしは、思わず大きな声をあげそうになったのをとっさに口を押さえて止めました。
なぜなら香代さんの瞳がいつもの透き通った茶色の瞳から、藍色へと変化なさっていたのです。ほんの少しの変化でしたが、わたくしには充分すぎるほどの驚きでした。恐怖を覚えましたが、それより二人が何をやっているかの好奇心の方が勝ちまして、結局覗き続けたのです。
「どう、姉さま。今回は上手くいったかしら?」
しばらくして立ち上がった香代さんが、器のそばにいた佳奈さんに問い掛けました。
「ええ、今日は大丈夫のようよ。逆さにしてみましょうか」
すると佳奈さんは、なんと水の入っていた器を逆さまにしたのです。お水が佳奈さんにかかってしまう! とわたくしは咄嗟に顔を伏せました。しばらくしてから伏せた顔を上げましたら。
まあ、なんと言う事でしょう! お水は一滴もこぼれ落ちてはいませんでした。器を置いた佳奈さんが手に息を吹きかけている所を見ている限り、どうやら器の中のお水は凍ってしまったようです。
わたくしの頭の中は、ますます疑問が増え、ぎゅうぎゅうの状態になってしまいました。そして更に。
「じゃあ、今度は姉さまね」
と言う香代さんの声とともに、今度は佳奈さんが椅子に座り、同じような行動をとったのです。その際、佳奈さんの瞳が煌めく夕日の色と同じになりました。
しばらくしてから香代さんが手に取った器からは、仄かな湯気が出ておりました。そう、香代さんはお水を氷に、佳奈さんは凍った水をお湯に変化させたのです。
驚きの連続で、わたくしははしたない事に口をぽかんと開けたままで、お二人をじっと凝視しておりました。一体これはどんなからくりなのか、見極める事は出来ませんでした。
「姉さま、ところで『ちから』はどうして人がいる所で使ってはいけないの? 別にいいと思うんですけれど。だって、何か悪い事をしている訳ではないでしょう?」
器のお湯から立ち上る湯気を見つめながら、香代さんは佳奈さんに問い掛けました。すると佳奈さんは、とても悲しそうな瞳をなさったんです。
「だって、もしこの『ちから』を使っている所がわたしたち以外の知る所になったら、引き離されて見世物小屋などに連れられてしまったり、世間の笑い者になってしまうかもしれないわ。わたしはともかく、香代がそんなひどい目にあってしまったら、一生泣き濡れて暮らしていく事になってしまう。香代の身を案じるからこそ、これはわたしたち姉妹の秘密にしていかなければならないの」
言いながら、佳奈さんの瞳からは一筋の涙が流れ落ちました。
その姿に、胸を突かれました。なんて妹思いな佳奈さんなのだろう、と思わず涙が浮かんできて、わたくしは袂でそっと涙を拭いました。
いつなんどきでも、あの時の瞳の佳奈さんを思い出すたび、胸が痛むのです。真摯に妹を愛し、心配しているその姿が、すぐに浮かんでくるのです。
あの後すぐに、わたくしは二人とお友達になりました。窓から見たからくりの件は、忘れる事にいたしました。いえ、憶えてはいますけれど、あえて問い掛ける事をしませんでした。佳奈さんの仰っていた言葉の意味を考えましたら、わたくしから訊くのは酷な事と思われたからです。
お友達になって二人とお付き合いすればするほど、お互いを思いやる気持ちが深い姉妹だと言う事を実感させられました。あの時の佳奈さんが見せた姉らしさ、と言うものは見る事は出来ませんでしたが、でも端々に香代さんへの思いやりは伺えました。
香代さんの佳奈さんへの思いの方が前面に出ていらっしゃるので、周りの人が気づく事は滅多にないのですけれど、佳奈さんが香代さんを慕う気持ちの方がより強い、と言う事を、お付き合いをしていくうちに知りました。
だからこそ、今日帝大正門前で見かけた佳奈さんの瞳が忘れられないのです。思い詰めた、行き場のない視線が気になるのです。
わたくしがどうにかしてあげる事は出来ないものか悩みましたけれども、結局は二人の問題なのだから口出しする事は良くない──そう気づいた時は布団に入ってから何刻も過ぎた頃でした……。
「香代さん、昨日のお話聞かせて頂けませんこと?」
次の日、とりあえず佳奈さんの事は何も見ていない事にして通学路で見つけた二人の前に駆け寄った時、しっかと手と手が握られている事に、わたくしは大変安堵しました。
香代さんから昨日のお話を聞いている時、ちらりちらりと佳奈さんの方を見やりましたら、いつもと同じ少し気恥ずかしそうな微笑みを浮かべていました。
よかったと安心いたしましたけれども、ふと思い返しますと、表面上はともかく昨日までの佳奈さんと、今の彼女の心の中は何かが変わってしまったのではないかと思えて仕方ありませんでした。
多分、佳奈さんは今まで姉として見ていた感情と別に、何か違う気持ちをお持ちになったのではないでしょうか。もっと別の暗い感情を。
今はまだ、香代さんを思う気持ちの方が強いので何事にも至っていないようですが、もしこの均衡が崩れてしまったとき、佳奈さんは一体どうなってしまうのでしょう……。
わたくしは佳奈さんの幸せを、心から願うことしかできませんでした──。
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