切なる想い



 その二人の関係がいつもと違って見えたのは、先程の学校でのお裁縫の時間でした。
 わたくしが知る限り、お二人の関係はとても仲の良い、それこそ双子という同じ時にこの世に生まれ出た関係以上の仲睦まじさだと、ずっと思っておりました。
 けれどもその日は違って見えました。
 佳奈さんは、お裁縫の時間に惚けてしまって先生からお叱りを受けていた香代さんを、いつもと違った視線で見ていらっしゃったのです。あれは、そう、例えていうのであれば妬くというものなのでしょうか。恋い慕う方が自分の方を見つめて下さらない時に思わず向けてしまう視線のような、ほの暗い瞳。
 それは昨日見かけた帝大前でのあの視線より、ますます強いものに感じ取れました。行き場の無い思いが出口を探してさまよい、溢れ返りそうになっているような──。
 たった一日で人はここまで変わってしまえるものなのでしょうか。今までの均衡は実はとうの昔に壊れてしまっているのではないでしょうか? そこまで、佳奈さんの思いは香代さんには伝わっていないのでしょうか?
 放課後に香代さんが呼び出されているのを先生の言葉で知ったわたくしは、とにもかくにも自分が出来ることがあるのなら、といつもでしたら家路に急ぐ所をあえて教室に残ることにいたしました。
 佳奈さんが一人香代さんのことを待つであろう、ということを期待して。
 
 
 案の定佳奈さんは、放課後になり皆がお塾や家路に急ぐ中、ただじっと自分の定められた椅子に座っておりました。綺麗で白い手をそっと膝の上に置き、澄んでいる視線は中空の一点に留め、すっと姿勢を正して、ただひたすら香代さんが先生のお小言から解放されてここに戻ってこられるのを待っていらっしゃるようでした。ほんのひと時話しかけるのを躊躇ったのですが、話しかけたいという思いが勝り、わたくしは後ろから佳奈さんに声をおかけしました。
「あの、佳奈さん?」
 するとつややかな黒い髪を結いながしにした頭が、こちらをくるりと振り返りました。
「あら、小雪さん」
 わたくしをみとめて儚げに微笑まれたお顔に、わたくしは心を揺り動かされてしまいました。いつも佳奈さんの美しさは、わたくしに心の安らぎを与えて下さいます。けれども今日はその儚げなお顔が逆に不安を感じさせてならないものでした。
「どうなさいましたの? もう、他の級の皆様はお帰りになられていましてよ」
 小首をかしげてそう仰る佳奈さんに、わたくしは昨日から感じている思いをぶつけてみることにいたしました。
「佳奈さん、わたくし佳奈さんにお聞きしたいことがございますの」
 恐る恐る問い掛けますと、つ、と立ち上がりわたくしの前に歩いてこられました。はす向かいにまで歩いてこられ、わたくしを見上げてまいりました──佳奈さんの方がほんの少し私より背が低いので。
「お聞きしたいというのは一体どんなことですの?」
「──香代さんは、清一郎さまというお方のことをどう思っていらっしゃるのでしょう」
 はっとした表情を佳奈さんはされました。大きな目を更に見開き、凝っとこちらを見つめてきます。まるでわたくしが本当に言いたいことを探り当てるかのように。その視線の真剣さに、こちらが佳奈さんから視線を外し下を向いてしまいました。
「朝は違うと仰っておられましたけれど、香代さんは明らかに清一郎さまという方に心揺らいでいらっしゃるのがわたくしにはとてもよく判りましたわ。佳奈さんも気付いていらっしゃるのでしょう。 どうお思いになられて?」
 ぼかしてもどうしようもないので言いたいことを口に出して、わたくしは彼女からのお返事が来るのを待ちました。けれどもしばらく待ってもなかなか言葉が返っては来ませんでした。どうしたのかしらと佳奈さんに視線を向けた時、胸をつかれました。
 なぜなら佳奈さんは瞳にいっぱいの涙を溜めて、こちらをすがるように見つめていらっしゃったのでした。──わたくしの言葉が、佳奈さんの心に傷をつけてしまったのは火を見るよりも明らかでした。
「……やはり小雪さんの目から見られても、そうお思いになる?」
 あわてて謝ろうとした時にようやく返ってきたのは答えではなく疑問でした。でも、返事は求めてらっしゃらないようで、彼女は言葉を重ねてゆきました。
「わたし、清さまの存在が時々とても疎ましく思える時があるのです。それは大抵、清さまが香代と楽しそうにお話をなさっていらっしゃる時。──いえ、楽しそうというのとは違うのです、だって二人ともいつもけんかしているように話すのですもの。でもそれが、わたしには仲良く聞こえてしまうのです」
 それに、こくりと頷いてしました。それでけでは足りないと思い、言葉も付け足しました。
「ええ、あの二人を見たのは昨日が初めてでしたけれど、ほんのひと時でわたくしもそのように感じましたわ。だから朝、あのように香代さんにお声掛けしたのですもの」
「仲良くなさることに、わたしは反対しているわけではなくて。ただ……香代がわたしから離れていくように思えてならないの。わたしにとって香代は生きていくための支えと言ってもおかしくはないの。わたしは自分でも呆れてしまうほど人が怖くて。香代がいなかったらほとんどの方とお話することは出来ないわ。香代が横にいなくなってしまったらどうやって生きていけばいいのか今のわたしには考えることが出来ないの」
 こらえきれなくなった涙が、つうっとこぼれ落ちていくのを拭いもせず、佳奈さんは訥々と語ってゆきました。
「けれどもわたしは、この自分のわがままが香代を縛っているような気がしてならないの。清さまに惹かれているのはわたしにだって判るくらいなのですもの、ぜひ仲良くしてほしいと思っているのに」
 佳奈さんの悲しさがこちらにも伝わり、わたくしも思わず袖を濡らしてしまいました。香代さんを応援したいのに自分のわがままで応援出来ない、どうしたら良いのか判らずに思案していて行き場のなくなりつつある佳奈さんの悲しい心が。
 少しでもお慰めすることが出来ればと思い、わたくしはそうっと言葉を選びながら佳奈さんに話しかけました。
「佳奈さんは、佳奈さんの思う通りに生きてもよろしいのではなくて?」
「え?」
「佳奈さんは、どこでもいつも相手のことを最初に思いやってしまっていらっしゃると、わたくし常々思っておりましたの。級ではいつもそう。ですからきっとお家でもそうなのだろうと想像することが出来ますの。けれども、多少はわがままを言ってもよろしいと思うのです。自分の意見を述べても良いと思うのです。ですから香代さんにも、自分の思うがままを仰ってみるのがいいんじゃないんですこと?」
 佳奈さんは、ふしぎそうにわたくしの言葉を繰り返しました。そのことに初めて気付いた、と言った様子でございました。
「わがままを言ってもいいの? 小雪さん」
 わたくしはしっかと頷きました。心を落ち着かせてあげようとそっと佳奈さんの手を取り両手で包み込みながらにこりと笑いかけました。
「ええ、わがままというより佳奈さんの心の中をちゃんと香代さんに仰った方がいいと思いますの。そうしたらきっと、香代さんは清一郎さまのことを大事に思いながらも、佳奈さんのことを昔と同じように大事にして下さる、そう思われますわ」
 握られていない方の袂で涙を拭いながら、佳奈さんはわたくしの言葉一つ一つに丁寧に頷きながら聞いておられました。ややあって、ようやくにっこりとこちらに微笑まれました。さきほどの儚げな笑みとは違い、とても嬉しそうな笑顔で、わたくしはどきりといたしました。両手で包み込んでいる手はふわりと柔らかくてあたたかく、それがますますわたしの心を乱すのでした。
「ありがとう小雪さん。わたしのことを心配してくだすっていたのね。それで、あのようなことを訊かれてきたんですのね」
 佳奈さんは涙を拭っていた方の手をわたくしの両手にそっと添えられました。思わず頬を染めてしまいながら、お返事をしようとしたその時。
 
 
 廊下に小さな足音が響きました。わたくしたちはどちらからともなく手を離し、扉を見つめておりました。
 からり、と教室の扉が音を立てて開き、入ってきたのはやはりしょんぼりとなさったお顔の香代さんでした。けれども香代さんは佳奈さんがいらっしゃることに気付くと、満面に笑みをたたえながらこちらに近づいて参りました。
「姉さま、待っていて下すったのね。もうこんなに遅い時間ですのに」
 お返事の代わりににこりと佳奈さんは微笑まれました。それが当たり前のことだと言わんばかりに。
 わたくしは香代さんの言葉に改めて辺りを眺めました。夏の長い昼間がもう終わりかけ、夕日の色が教室中に広がっておりました。自分が思う以上に恐ろしく長い時間を佳奈さんと過ごしていたことに驚きを覚えました。
「……先生に、たくさんお小言を言われてしまいましたわ。途中からどうしていいか判らなくてずっと下を向いて聞いていましたの。小雪さんも気をつけた方がよろしくてよ」
 からかっていらっしゃるのか、香代さんはにっこり笑いながらわたくしにこう言ってまいりました。
「わたくしはお小言を頂く予定は全く入ってなくてよ。香代さんみたいに授業中ぼうっとして袖口を縫ってしまったりはしませんもの」
 やはりこちらもにこりと笑って言い返しますと、香代さんの頬がぷくりとふくれました。佳奈さんがそんな妹の頭をそうっと撫でました。
「さあ、もう今日はお家に帰りましょう。こんな時刻になってしまいましたし」
 そんな佳奈さんの言葉で、わたくしたちはそろって家路へ向かうべく教室を出たのでした。
 出しなに佳奈さんが香代さんに見えないように目配せをいたしました。きっと先程のことは秘密、という意味なのでしょう。わたくしも軽く笑みを浮かべて頷いたのでした。
 
 
 お二人とお別れしたあと、わたくしは今日のできごとを思い出さずにはいられませんでした。
 今日、佳奈さんへ教えたことが二人にとって良かったのか悪かったのかは、今のわたくしには判りません。
 ただ、曇っている佳奈さんの心を少しでも晴らしてあげることが、私にとっては一番重要なことだったのです。佳奈さんの笑顔を見られる、そのことが大事だったのです。
 佳奈さんの幸せを望むことが、今のわたくしにはとても大切なことだったので──。
 
 
 それがこのあと二人の間に起こる一つの出来事に大いに関わるとは知らないで──。

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