あれは、そう。夏と秋の境目。とても暑い日があれば一気に冷え込むような日が来たりと不安定な季節のとある日の夜更け。
 かさり、と大きな衣擦れの音がして、うっすらとまぶたを開けた。
 昼間は晴れていたのに今は小雨が降っているらしく、わたしたちが寝ていた部屋はもやもやした湿気に包まれていた。夜着が汗と湿気を含んでしっとりと重く身体にのしかかっているのを感じ、そっと外して起き上がった。
 枕元に置いておいた手ぬぐいを取って、額に吹き出していた汗を拭いながら隣の布団を見ると、寝ているはずの姿が消えていてわたしは小首をかしげた。一緒に眠ったはずだからいたのは判っている。だったらどこに行ったのかしら?
 布団を触ってみるとまだぬくもりが残っていて、この布団の主がつい先程までは寝ていたことが伺いしれた。あの子もこの暑さで目が冴えてしまって、台所に水でも飲みにいったのかしら?
 水のことを考えた時、わたし自身もとても喉が渇いていることに気がついた。少し怖いけれど、彼女もきっと下にいるから出会ってしまえば怖くはないわ。そう結論づけて、むくりと起きだして手燭をともし、そろりそろりと階段を降りていった。 階段を下りきった辺りで、私は思わず歩みを止めた。
 なぜなら台所の向かいにある食堂から雨音に混ざってかすかな人の話し声が耳に入ってきたから。
 夜の湿気に細かく混じるかのような、仄かな音。
 小さく聞こえるその声が、こわくてこわくて仕方なかった。けれど、台所は食堂の更に奥。通らざるを得ない場所。
 いっそのこと引き返そうかとも思ったけれど、さっきは香代がいると思って勢いで階段を下りてきたのだ。たった一人でこの暗い階段を上がるのはとても怖い。それに、食堂にいるのは香代の可能性が大きい。
 そう思って聞いてみると、話し声の片方は確かに愛しい妹、香代の声。けれど……。
 妹の会話の相手が誰だか理解した瞬間、私はぴくりと身体を硬直させてしまった。知らず知らず、片頬がつり上がるのを感じる。
 怖いのなんか身体から吹き飛んでしまって、わたしは音を立てないよう、且つ素早く食堂の傍に向かった。扉が開いていたのは判っていたので、食堂からの死角で灯りを消し、そうっと覗き込む。
 目が食堂奥の仄かな灯をとらえ、その横にいる人影を映し出し。
 きりり、とわたしは唇を噛み締めた。
 果たしてそこにいたのは、私の予想通り、香代と清さまその人だった。
 しかも。
 二人はお互いを抱きしめ合っていたのだ。
 あまりの出来事に驚愕し、わたしはただただ立ち尽くしてしまっていた。今までの私だったら、恥ずかしさと怒りですぐにこの場を離れていたと思う。けれど、そんなことさえも出来ずに立ち尽くすことだけしか、出来なかった。
 強く強く噛みしめた唇の端から、ぽたり、小さなしずくが落ちて胸に赤く広がった。

 

 わたしと香代は、とても仲の良い姉妹だったと思う。それも、端から見たら異常だと思えるくらい、いつもいつもお互い傍にいた。
 わたしは香代がいないと一歩踏み出すことさえも躊躇ってしまうほど臆病で、香代はこの性格を知っていて、いつもいつもわたしを助けてくれていた。その上『姉さま、姉さま』と慕ってくれていた。わたしにはこの関係が、とても心地よかった。当たり前にこのままずっと時が流れていくと、思い込んでいた。
 ──微妙にその関係が崩れたのは、ここ数ヶ月のこと。
 私たち姉妹の前に現れた一人の人間が、穏やかで静かだった暮らしに一石を投じ、あれよあれよと言う間に私たちの間に隙間を作り、そこに入って幸せな時を過ごしている。
 香代は、清さまと一緒に離れてしまっていって、私は一人きり。
 けれども不思議と香代に対する怒りは何一つ湧きだしては来ない。あるのは清さまが香代をさらっていってしまったことに対する怒りだけ。
 悔しい。
 ずるい。
 泥棒。
 香代を返して。
 心の奥からふつりふつりと清さまに対する怒りと非難がとめどなく湧き出して止まらなかった。 ふ、とちくりと胸に痛みを覚え、痛んだ場所を見遣る。けれども見えたのは先程思いきり唇をかみしめた時に、ぽとりと落ちてしまった赤い色だけ。
 軽く胸元を開けて見るも、痛む原因は何も見つからなかった。
 それなのに。
 ちくり。
 ちくり。
 ちくり。
 胸の痛みはどんどん増していき、立つのに耐えられなくなって壁に寄りかかりながらずるずるとしゃがみ込む。
 小さく荒い息を繰り返しながら痛みを逃す。
 ──ああ。
 ふいに合点がいった。
 この胸の痛みは、身体の痛みじゃなく、心の痛みなのだわ、と。
 清さまに対する怒りや香代に対しての悲しみが、心の中に棘となって入り込んでしまったのだと。
 たぶん、そう。春のあの出会いの日から少しずつ心の奥に潜り込んできたもの。
 刺さった時に気付けばいいのに。
 すぐに気付いて取り除いてしまっていれば、これほど痛むことなく、簡単に元の生活を取り戻していたのに。
 遅かった。いたずらに時が過ぎてしまっていた。しかも、棘は奥に入り込む度に大きくなっていて、既に抜くことが難しくなってしまっていた。
 ──いえ。
 わたしは痛む胸を押さえながら一人首を横に振る。
 ひとつだけ、痛みを簡単に取り除く方法はある。それは……痛みの原因、元凶がいなくなってしまえばいいのだ。
 けれど、ともう一人の自分が内側から囁きかける。
 彼一人が全て悪いわけじゃない。香代を引き止められなかったわたし自身にも原因があるのではないの? と問い掛けてくる。
 そんなことはない。清さま一人がいけないの。清さまがわたしたちの前からいなくなってしまえば、また以前のように穏やかで幸せな日々が戻って来るの。
「そう、清さまがわたしたちの前からいなくなってしまえばいいのだわ」
 ぽつりと思いを小さな声で口に出してみる。そして、はっとなる。
 今まで幾度かこの思いを脳裏に浮かべたことはあったとしても、口に出してまで言ったことはなかったのだ。口に出したことで、改めて気付かされた。
 私は清さまに、この家から、いいえ、私たち姉妹の視界からいなくなってほしいのだと言うことに。
 さすがにその考えは恐ろしく、ぶるりと身を震わせた。未だ痛む胸を押さえたまま忍び足で急いで二階へ駆け上がった。夜着をかぶり、一息つく。
 けれども落ち着いて考えると、今の現状を打破するにはその方法しかなかった。清さまをこの家から引き離す。
 でも、当の本人たちはともかく、父さままでも賛成をしているこの関係を壊すことは出来るかしら──。
 
 
「姉さま、起きてらっしゃる……?」
 不意にかけられた声に、どきりとした。色々考えをめぐらせているうちに香代がどうやら戻ってきたらしい。私があそこにいたこと、気付かれてはいけない。
 私は咄嗟に寝たふりをした。微動だにせず、香代の動向を布団越しにうかがう。
 しばらく動かなかった私を寝ているのだと思ったのだろう、香代が横で眠りにつく気配がした。
 横にいる妹の気配は、私をとても安心させた。
 ──ああ、この幸せを、絶対に壊すわけにはいかない。
 けれども一体どうしたら、この胸にある棘を抜ききることが出来るのかしら……。
 延々と、痛む胸を押さえながらひとりで悩み続けた。
 次の日に起きる大きな出来事など、気付く由もなく──。

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