アミューズメント・パーティOnLine

13  夜の海


「マジか?」
 雪崩山のこの問に、飯島はうなずくしかなかった。窓の外の木々が風にささやき、日差しは日々にその熱量を上げる──そんな五月も半ばの昼下がりの一時を、雪崩山と飯島は問答で過ごしていた。
「本当に何にも覚えてないんだよ」
 飯島は済まなそうに言った。四畳半の部屋には、敷かれた布団がそのままになっている。二人は、その敷き布団の上で会話を行っているのだ。部屋の脇には、折りたたみの机の上にワープロが置いてある。彼らの奥にはさらに襖があり、その向こう側の様子を伺い知ることは出来ない。
「話は色々な人から聞いている。麗子の所にも行ったし、五六さんの所にも見舞いに行った。俺だって、ヤツとは戦ったんだ、ヤツがどのくらい恐ろしいヤツかは知っている。しかし……」
「大声はやめてくれ、雪崩。隣には」
 雪崩山はその飯島の言葉を遮るかのように右手を前に出し、陳謝のポーズを取った。
 襖の向こう側には、里美が寝ているのである。
「彼女はもう二日半寝たままだ。俺だって心配だよ。でもな、覚えてないものは言いようがない。原因究明は任せるから、他を当たってくれよ」
 飯島もまた、二日経ってようやく精神の安定を得たのである。岩崎精神科医院での戦いについては、全くと言っていいほどに記憶に残っていなかった。自分が何をしたのか、自分がどこにいたのか、自分が……。
「じゃ、あの戦いは、気絶状態というか、空白な状態で行ったってことかい?」
「勝手に解釈してくれ」
 飯島にはそれ以上の答えの持ち合わせはなかった。雪崩山もそれ以上突っ込んだ質問はせず、二人は暫し沈黙した。その二人の頬を、心地好い初夏の風が通り過ぎて行った。「じゃ、お前は自分の言ったことも当然覚えてはいないんだな」
 雪崩山が突然、意地悪そうな口調で言った。その口調を、飯島は聞き逃さなかった。
「何だよそれ」
「名東から聞いたぞ。えらく亭主関白な台詞を吐いたそうじゃないか。いわく『里美、起きな。そのまま誘拐われていく気かい?』、いわく『お前に里美は渡さない』、いわく……」
「ち、ち、ちょっとちょっと!」
 飯島はアパート中に響き渡りそうな声を上げ、雪崩山に掴みかかった。
「何だよそれ?」
「お前がトランス状態の時に口走った名台詞の数々さ。名東ははっきりと覚えていたぞ。隣の部屋にいても、はっきりと聞き取れたそうだ」
 飯島は頬を真っ赤にして雪崩山の胸倉を掴み、思いっ切り絞り上げると、顔を近付けてぼそっと言った。
「他の人には言わなかっただろうな?」
「名東が口を滑らさない限り、聞いたのは俺だけだろ。岩崎先生とかは聞いたかもしれんがな」
 雪崩山は飯島の手をほどきながら、にやにやと笑った。こういうプレッシャーに、飯島はとことん弱い。雪崩山は、これで暫く飯島をこのネタで遊べるなと思うと、笑いが止まらなかった。
「ま、それはそれでいいだろう。お前が山崎さんに惚れてるのは先刻承知のことだからな。それよりも、問題はその……〈雷羅〉か? 〈雷羅〉と翼曽のことだよ」
 雪崩山はいまだにくすくすと笑いながらも、話の軌道を修正した。飯島も、顔を赤らめながらその話題に耳を傾けた。
「とにかく、山崎さんを狙っているのは、とある組織だってことは分かった。ただ、さすがは自ら戦闘エスパーを名乗ることだけはある。小川さんや名東のテレパシースキャンでも、全くヤツの心を読むことは不可能だったそうだ」
「麻都と同じか、それ以上のヤツだからな」
 飯島はそう言って立ち上がった。飯島の身体は雪崩山の視界から一瞬消える──台所の奥へ入ったのだ──そして出てきた時には、手に二つの円柱を持っていた。
「雪崩山、飲るかい?」
 飯島の手には、キリンのモルトが握られていた。
「いや、俺は……」
 言いかけて、雪崩山は気付いた。そういえば、今日は電車で飯島のアパートに来たんだっけ……。
「貰う」
 にこにこと微笑み、飯島は雪崩山にビール缶を渡す。プシュッという小気味良い音が、四畳半二間の部屋にこだまする。至福の時だ。
「〈雷羅〉か……」
「何だと思う? ヤツらの組織」
 一通り喉の湿った雪崩山は、再び飯島に質問を振った。飯島は少し考えていたが、つまみのないことに気付き、付属している背後に位置する押し入れを漁りに回った。雪崩山はまた質問を外されて少々不満気な顔をしたが、つまみが出るなら何の文句もない、そういう男である。
「実家から珍味をいくつか送ってきてるんだよね」
 そういって飯島は珍味を三袋ほどぶちまけた。二人は暫く珍味を頬張り、そしてまた会話を再開した。
「麻都や翼曽なんかを飼っておけるんだから、少なくとも超能力に造詣の深い連中なんだろうなぁ」
 ビール片手に敷き布団の上で会話する二人の姿は、一見妙な印象を与えるが、それなりに納得出来る部分も併せ持っている。この二人、この光景が妙に似合うのだ。
「しかし、山崎さんを欲しがる理由がいまいち分からないな」
「いや、それは分かっている」
 この意外な回答は、飯島の頬張っているいかくんを吹き出させるのに充分な力を持っていた。冗談だろ?といった眼を飯島は雪崩山に向けたが、雪崩山の眼は真剣であった。飯島の意識が急に尖った。真剣な話なのだ、これは!
「彼女の能力についての考えが大体固まってきているんだよ。岩崎先生のプロジェクトチームは流石に世界一の超心理学研究者たちだ」
「で?」
 飯島は焦って聞いた。里美の能力とは、一体?
「結論を急ぐなよ、飯島。少しだけ前説明をさせてくれ」
 雪崩山は逸る飯島を抑え、ゆっくりとその口を開いた。
「昨日、岩崎先生を訪ねて先生の実家に伺った。岩崎精神科医院は、上はそのまま営業するが、下はまた別の場所に移動させる必要がある、とおっしゃっていた」
 雪崩山はここで言葉を切り、ビールを一口飲んだ。そして泡のついた唇を拭いながら、先を続けた。
「岩崎先生と剛先生は、ある結論に達したそうだ。過去の研究データは彼女には全く役に立たない、という結論にね。つまり、山崎さんの能力は、もうPKだのESPだのといった分け方すら出来ないんだよ」
 飯島にはその言葉が理解出来なかった。精神活動の全てをPKやESPで表すことが出来ないのだから、「能力」イコール「超能力」であったとしても、PKやESPに分類出来ないのが、それほどに重要なことなのか?
「先生たちはこう結論付けたんだよ。超心理学者として、超心理分野をPKやESPといった枠でしか考えられなかった自分たちを恥じ、そんな枠に囚われない研究を行う必要があるとね」
「なるほど……」
 雪崩山はここでもう一口ビールを飲んだ。飯島はその間にもう一つ、いかくんを口に入れた。
「飯島、PKやESPの概念を言えるか?」
 この突然の質問にも飯島は怯まなかった。ミニコミ誌『アミューズ』には常にこの手の記事を書いているのだから、彼の頭の中にはしっかりとその類の言葉はインプットされていたのだ。
「え、と……ESP、エクストラ・センソリー・パーセプションだっけ? 俺たちの分類では、テレパシー・予知・後知・透視能力だね。主に自分の頭の中で関知出来る五感以上の能力、か。それとPK、サイコキネシスは念動力・念写・暗示……俺たちはテレポートをこっちに分類してる。主に精神の力が物理的な力となって外のものに影響する能力、だね」
「超心理学では、それ以上の分類なんてザラにある。物理的分類では振動現象・放射現象・動力現象・物質化現象、生物的分類では物質変化・体重変化・生命力変化・輪廻、そして心理的分類ではサイ情報・ESP・PK、等々。ただ、人間が発する──超能力者と呼ばれる人間が随時使用出来る〈能力〉としての分類は、限られる。と言うよりは、個々の能力があまりに多岐に渡りすぎているから、境界を曖昧にして大雑把に分類している、と言ったほうがいいのかな。だから、大体の場合はPKとESPの分類内に収めることが出来た。しかし……」
 雪崩山は三回目のブレイクを取った。ビールを飲む。喉が鳴る。以前より、少し長い。最後まで飲み干し、大きく息をつく。飯島は焦れて言った。
「で?」
「先生たちは当然、彼女の能力をまずPKやESPといった分類をすべく絞って研究に入った。しかし、何も分からなかった。彼女が能力者であると分かったのが、翼曽戦を目の前で見てからだってんだからね。そして、悟ったのさ。山崎さんの能力がPKでもESPでもないってことをね」
「……!!」
 飯島は、言葉を発せられないでいた。聞き入るしか、なかった。一体、彼女の能力とは何なのか?
「結論を先に言おう。飯島、セレファイス戦は覚えているな?」
「ああ。ただ、何で店が壊れたのかは知らない」
「そう、もうあの時お前はトランス状態に入っていたからな。結論はこうだ。飯島、セレファイスを壊したのはお前だ」
「は?」
 その言葉を理解出来ないでいる飯島に、雪崩山は畳み掛けるように続けた。
「ついでに言えば、麻都を追っ払ったのもお前だし、翼曽にダメージを与えたのもお前だ」
 雪崩山は空になった缶を机の上に置き、じっと飯島を見つめた。飯島の手は震えていたが、すぐにひきつった笑顔で明るく言った。
「な、何言ってんだよ、雪崩山。俺のどこにそんな能力があるってんだい? 俺はしがない一テレポーターだぜ? それが何で……」
 雪崩山は取り出したタバコに火をつけながら、ゆっくりと、諭すように言った。
「彼女の能力はアンプリファイア……超能力増幅能力だ。彼女自体には何の能力もないのと変わらん。彼女は麻都の時も、翼曽の時も、お前の能力を増幅したに過ぎん。ヤツらを追っ払ったのは、お前なんだよ」
 飯島の手から、ぽろっ、と缶が落ちた。


 夜の闇が横浜埠頭に忍び寄っていた。腕時計のアラームが午後八時を知らせた。風は昼の心地好さとは違った顔をして、埠頭を洗っていく。
 藻間は、そんな海を見るのが好きだった。岩崎医師から外出禁止が言い渡されていたが、あそこまで学校に近い白楽天の二階にいては学校に行かないわけにはいかないし、店の騒がしさも妙に耳についていた。
 藻間は、思い切って横浜まで出てきた。どこの海でも良かったのだが、何かが彼をここに誘った。夜の、人気のない埠頭は、彼の心と身体の傷を癒してくれる。
 分厚い眼鏡を外し、ハンカチで拭う。ここ数日、感じたことのない安らぎが、彼の周囲を覆っていた。
 何も考えないでいよう──心を空白にしよう。そう思ってやって来た。しかし、藻間のこの自らへの誓いも、すぐに破り去られていた。やはり、心配である。山崎里美、翼曽通、〈雷羅〉……考え出したらキリがない。藻間は首を振り、そしてまた頭痛を思い出す。アポーテーションを使っての頭痛は初めてではなかったが、ここまで酷い頭痛に見舞われたことはなかった。藻間は少しだけ姿勢を崩し、頭を抱えたまま膝をついた。
「大丈夫ですか?」
 その背後に突然声を聞き、藻間は仰天して素早く向き直った。
「あ……」
 そこにいた者は、藻間の視神経に間違いがなければ、この埠頭におよそ似つかわしくない人物であった。だぶだぶのピンクのサマーセーターにジーンズのミニスカート、その頭に帽子を頂き、長い髪が腰までかかる、特別に眼の大きな少女だったのだ。
「え、や、いや、大丈夫ですよ」
 藻間は変に恥ずかしくなって、ぴょこんと立ち上がった。頭は中からがんがんと鳴っていたが、その傷みを顔に出さないようにしながら、藻間は少女に微笑みを作った。
「ほら、この通り」
 そんな藻間の行動に、少女はくすっと微笑った。藻間は立ち上がってみて、少女が小さいのに気付いた。せいぜい少女の身長は一五○センチほどしかない。一八○センチを越える藻間には、小人のように思えても仕方のない所である。
「何でこんな所にいるの?」
 藻間は、聞こうか聞くまいかと思っていたことを先に少女に言われ、胸を突かれた。その精神的な揺らぎを悟られまいとして、妙に明るい声で言う。
「いやね、海を見ていると、こ、心が休まるんだよ」
 この台詞を吐いている時の自分の顔は、随分と間抜けだろうな──そう思いながら、藻間は少女に照れ笑いを見せた。そんな藻間に、少女も微笑みを返し、視線を海に向けて言った。
「あたしも海、好き。お家に篭もってるとね、海が見たくなるんだ。だから、お休みがもらえると、こうして海を見に来るの。疲れもふっとんじゃうんだ」
 少女の長い髪が夜風に舞う。月光できらきらと輝く。藻間は少女の髪に、何か別のものを見たような気がした。それが何かは、分からない。しかし……。
「あ……!」
 少女の声に、藻間は瞬時に反応した。少女の帽子が、風に飛ばされて海の方へと舞っていってしまったのだ。帽子は暫く海の上を舞っていたが、すぐに夜の闇へと溶け込んでいった。
「あ〜あ……卸し立てだったのに……」
 少女のこの悲しそうな声に、藻間は心を揺り動かされた。藻間は少女に警戒心を持たれないように、ゆっくりと、優しく言った。
「お嬢さん、ひとつ手品をご覧に入れよう。でもね、一つだけ僕を信じてやってもらいたいことがあるんだ」
「何?」
 少女は眼に涙を溜めたまま、藻間の言葉を聞いた。
「五つ数える間だけ、眼を閉じていて欲しいんだ。それが出来るなら、君の願いを叶えてあげるよ」
「本当? いいわ」
 そして少女は眼をつぶった。藻間がゆっくりとカウントを始める。
「いいかい? 眼を閉じててね……1、2、3、4……5っ!」
 眼を開いた少女の視界には、風に飛ばされたはずの帽子が入っていた。藻間が海に触れる瞬間にアポートで自分の手の中に飛ばしたのだ。
「あ……!!」
「ほら、帽子。お気に入りなんだろ? 大事にしなよ」
 藻間の大きな手から帽子を受け取り、少女は溜めていた涙を一筋だけ流して言った。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
 藻間はそっと少女の頭を撫で、微笑った。
「駅まで送るよ。家はどっちなの?」
 藻間は親切で言ったつもりだった。しかし、少女は帰ろうとはしなかった。
「もう少し、海を見ていたいの。帰るには早い時間だわ」
 そうか、と言った表情を藻間はして、ゆっくりとその場を去った。少女は埠頭の鉄柵に腕と顎を乗せるようにして海を見ていたが、藻間が去ろうとしているのに気付き、悲しそうな表情をした。左手を伸ばし、藻間を呼ぼうとした。しかし、呼べなかった。名を知らないからではなく、何かが胸に詰まったのだ。
「……」
 急に寂しさが少女に伸しかかった。それは、端から見ていても分かるほどに強いものであった。わずか三分前には見ず知らずの人だったのに、今となってはさよならもなしに行ってしまうなんて……。
「よッ」
 少女は突然、頬に冷たいものを押し当てられて飛び上がった。見ると、そこには藻間がジュースの缶を持って立っていた。
「コーラでいいかい? 当たったんでね」
 少女は缶を当てられた左の頬を手が軽く押さえながら、こくっとうなずいた。頬が上気していくのが、自分でも分かった。
「もう少し、一緒に……」
 しかし、その言葉は、汽笛と波によって掻き消され、藻間の耳には届かなかった。


「お、もうこんな時間か。俺は帰るよ。山崎さんをよろしくな」
 雪崩山は脚をふらつかせながら、玄関で奥にいる飯島に言った。飯島はビールの空き缶を蹴散らしながら戸口まで来て、雪崩山を送った。
「飯島ァ、『里美は誰にも渡さない』ィィィィィ〜ッ!!」
「早く帰れ、酔っぱらいっ!」
 飯島の投げつけたビールの缶は、虚しくドアに当たって跳ね返った。二人は昼間からこの夜まで、実に合計十六本の缶ビールを飲んだのである。酔わないわけがない。
「くそー……あの阿呆が……」
 飯島は赤い顔で暫くドアを眺めていたが、ハッと我に帰って後ろを振り向いた。何か、声のようなものが聞こえたような気がしたからである。
「まさか……」
 飯島はそっと襖を開け、隣の部屋を見た。その瞬間、布団の中にくるまって真っ赤になっている里美と眼が合い、里美はあっという間に布団に顔を突っ込んでいた。
「あ……いや、その……」
 飯島は話し掛けようとして手を伸ばしたが、すぐに考え直して台所に行き、四・五回うがいをして再び出直した。
「山崎さん、気分はどう?」
「……」
 里美は答えられないでいた。何か騒がしい声が聞こえてきたと思ったら、『里美は誰にも渡さない』……!! 恥ずかしくないほうがおかしい。飯島さんが私のことをそんなに思っていてくれたなんて……! 熱がじわじわと篭もり、布団の中は熱帯のようになっていった。
「熱とかはない?」
 飯島は、何とかフォローしようと躍起になり、その手を里美のわずかに布団から出ている額に当てた。ぴくっ、と布団の中の里美が動いた。飯島は驚いて手を引っ込めようとしたが、その手は素早く里美によって握られていた。
「……飯島さん……」
 布団の中から、篭もった声が聞こえた。
「……ありがとう……」
 飯島もまた、脳が上気するのを感じていた。
「山崎さん……」
「飯島……さん……」
 ゆっくりと布団が退けられ、里美の顔が露になる。飯島もまたゆっくりと、里美に近付いていく。
「……里美……」
 飯島が里美をそう呼んだ瞬間、その唇は里美によって封じられた。


「風が強くなってきたね」
 藻間は風下に立ち、少女を護っていた。また帽子が飛ぶのは、シャレにならない。少女はそんな藻間の細かい心遣いに心を和ませていた。
「今日は楽しかったわ。そろそろ帰らないと」
 少女は藻間の腕時計をちらっと見て、言った。藻間もまた、自らの腕時計を見た。
「おお、もう九時を過ぎているのか。君といると、時間の経つのも忘れる」
 言って藻間は微笑んだ。初めて出会った、見ず知らずの少女と交わす会話ではないな、と思ったからだった。しかし、ある意味では少女も同感であった。いつもの一人ぼっちの休暇よりは、ずっとずっと楽しかったのだから……。
「今度こそ、駅まで送りましょう。家はどっちの方向になるの?」
 しかし、藻間のこの誘いも、彼女は丁重に断った。
「御免なさい、ここでお別れになるの。駅には行かないの」
「そうか……」
 藻間は少なからず残念に思った。ただ、親切の押し売りはいけない。藻間はこれ以上誘うのはやめた。
「あ、そうそう。お嬢さん、まだお名前を伺っていなかったね。今日のことはずっと記憶に残しておきたいんでね」
 倉庫のほうへ走って行く少女の後ろ姿に、藻間は少し大きな声で言った。普段の藻間からは、信じられないような会話である。
「イグ。貴方の名前は?」
「藻間。藻間隆」
「藻間さん、さようなら。またいつかお会いしましょう」
 少女は見えなくなった。藻間は、少女が見えなくなるまで手を振っていた。藻間はその唇の感触を楽しむかのように、つぶやいていた。
「イグ、か……不思議な娘だ……」
 藻間の網膜には、イグのきらめく長い黒髪が、残像のように残っていた。

【14 闇に囁くもの】を読む

【アミューズメント・パーティOnLine】にもどる