アミューズメント・パーティOnLine

19 洞窟に潜むもの


 雪崩山はエレベータから飛び出すと、一目散に四の三教室を目指していた。決して広い校舎ではないが、雪崩山は廊下が延々と続くような錯覚を覚えていた。
 角を曲がり、誰もいない四の三教室に飛び込む。どこにでもある普通の教室だが、一ヶ所だけ不思議な個所がある。教壇の下に四角いちいさな扉があるのだ。
 雪崩山は扉についた埋め込み式の取っ手を引っ張り出し、荒々しくそこを開ける。中には無論、なにも入っていない。仕掛けらしいものもない。普通の人間なら、この穴が何に使われるのかを想像することはできないだろう。
 そこに四角錐がはめ込まれる。低い唸りを上げ、光る結界器。ついに結界が発動するのだ。これで勝てる! 急いで戻って飯島に加勢するのだ! 雪崩山は弾けたように教室を出、再びエレベータに戻ろうとした。
 エレベータのスイッチを押す。しかし、その重厚な扉は開こうとしない。苛立ってランプを見ると、階表示の横に小さな×印が点灯している。故障か? 雪崩山は振り返り、慌ただしく走り出した。
 階段で降りる!
 待ってろよ飯島! 山崎さん!
 その雪崩山と同じように、皆が走っていた。
 五六が──
 麗子が──
 小川が──
 瀬川が──
 名東が──
 割澤が──
 加藤が──
 学生ホールに向かって走っていた。
 皆、気づかずに走っていた。
 校舎が振動していることに。
 エレベータは地震と判断した制御回路によってストップしていたことに。
〈異次元の色彩〉が変色していることに。
 そして──
「何!?」
 飯島は我が眼を疑った。
 目の前で起こっていることが理解できないでいた。
 翼曽がその姿を二重にだぶらせている。
 まるで色ずれを起こした雑誌の写真のように、にじんで輪郭がだぶっているのだ。
 翼曽は苦しんでいた。〈精神分離の願〉をかけられた時とは較べものにならない、悲痛な表情で立ちすくんでいる。
 しかし、微動だにしない。声も上げていない。いや、上げられないのだ。上げたくても上げられないのだ。
 結界器の威力か、と最初は思った。しかし、飯島はすぐに気づいた。
 結界器の力がここまで強いわけがない、と。
 翼曽は麻都以上の相手である。結界器のあったセレファイスの中でも、麻都はこんな状態にはならなかった。結界器がここまで効果的なら、翼曽に効いて麻都に効かない理由が思いつかない。
 〈神格〉の別の効果、というのも感じられない。第一、飯島には自分が〈神格〉を発しているという自覚はなかったし、里美も翼曽をただ呆然と見ているだけだ。
「あ……」
 ナグが、まるで糸の切れた操り人形のように頽れた。同時に、イグも失神する。腕の中で力をなくしたイグを咄嗟に支えたため、藻間は〈写本〉を取り落としてしまう。
「何だ……何が?」
〈写本〉を燃やせば、こういう事態になるだろうとは想像していた。しかし〈写本〉はまだ地面の上に存在している。気づけば、〈写本〉の表紙に赤黒い逆五芒星が、今焼きつけられたかのようにくすぶっていた。
 藻間は、理解を超えたこの展開にただ立ち尽くすしかなかった。
「飯島!」
「山崎さん!」
 皆がほぼ同時に学生ホールに終結する。しかし、そこで彼らが見た光景は、彼らが脳裏に描いていたものとはかけ離れたものだった。
 無言で立ち尽くす三人──飯島、里美、そして翼曽。
 何かがあったことは判る。しかし、決着がついたようには見えない。では、この異様な静けさは何か?
「飯島……これはいったい……」
 かろうじて、雪崩山だけが声を発することができた。しかし、飯島は振り返ろうともしない。
 その背後から、藻間も姿を現す。藻間はイグとナグを両の小脇に抱えていた。
「イグ……ナグも?」
 背後の気配に気づいた雪崩山は、目を見張った。イグがいるのは判るが、なぜナグまでもが藻間に抱えられているのか?
『我々に隙があったとはいえ、よくここまで戦った。諸君に完敗じゃ』
 声が聞こえる。老人の声だ。今までに聞いたことのない声だった。それも、ホール全体に響き渡るような──
『結界器とイグの裏切り、そしてナグから〈写本〉を奪った行為……誤算だらけじゃった』
 テレパシー、ではない。以前ナグが雪崩山たちに囁きかけたあの夜と同様、空間の裂け目から直接語りかけているのだ。
『藻間くん……じゃったかな。君も飯島くんや雪崩山くんに劣らない、素晴らしい超能力者だな。ぜひわしら〈雷羅〉とともに働いてほしい逸材じゃ』
 その言葉に、雪崩山は再び藻間を見る。よく見ると、藻間はシャツの中に、何やら本らしきものを入れている。そんなものを散開するときに入れていたか?
『さて諸君。わしは……そう、とある筋からは老テオバルドと呼ばれる老人じゃ。〈雷羅〉のことは訊いておろう? わしこそが〈雷羅〉そのものじゃ。そこにいるイグもナグも翼曽も、わしが作り出した亜邪神じゃということも知っておろう。わしの目的は……そう、わしの目的を他人に話すのは何年ぶりじゃろうな……わしの目的は、〈写本〉に書かれた邪神を復活させ、この世を邪神の治めていた時代に戻すことじゃった』
 飯島も、里美も、雪崩山も、麗子も、五六も、藻間も、加藤も、小川も、瀬川も、名東も、割澤も、一言も発することができずに老テオバルドの言葉を聞いていた。動けないわけではない。喋れないわけでもない。しかし、老人の声は彼らに一種の陶酔を与えていた。神経が痺れ、のぼせたようになり、ただ立ち尽くすこと、聞くことが快感になっていくのだ。
『〈写本〉に書かれていた世界にわしは酔った。こんな世界に住みたいと長年願っていた。わしは〈写本〉を使って邪神を復活させる方法を考えた。しかし、それにはどうしても必要なものがあった……それは超常の力、人間を超える神の力……わしに備わっていた力だけでは足りなかったのじゃ』
 老テオバルドはここで一度、言葉を切った。学生ホールに静寂が訪れる。
『わしは〈写本〉を解読し、邪神の魂を降臨させる方法を知った。わしは、わしの代わりに世界中から超能力者を探し、その能力を吸い取るために、亜邪神を──イグとナグを生み出したのじゃ。〈写本〉の力でな』
 雪崩山はイグとナグを見た。藻間の腕の中でぐったりとしているこのふたりの少女もまた亜邪神だったとは──
『イグとナグは存在そのものは安定しておったが、戦闘には不向きな亜邪神じゃった。戦闘に向いた高位の亜邪神はわしがもっと力をつけてからでないと召喚できなんだ……しかも〈写本〉で召喚された高位の亜邪神は強力だったが、一度に一体しか召喚できず、またその制御も難しかったのじゃ。いずれ依代は負荷で死んでしまうしな……』
 雪崩山はこの言葉に弾かれるように、身体が二重になった翼曽の姿を見た。この男もいずれは死んでしまうのだ。それも寿命などではなく、邪神の魂などという理解不能なものに憑依され、そのせいで──
『わしは何人もの超能力者の能力を吸ってきた。イグやナグも同様じゃ。イグやナグからあらゆるエネルギーを分けてもらい、わしは生きた。何年も生きた。人間の寿命を超えて、生き続けた』
 麻都の、翼曽の、そしてナグの言葉が雪崩山の脳裏を過る。〈雷羅〉の亜邪神は超能力者を欲していた──それはつまり、老テオバルドが人間を超えるために、その能力を「狩っていた」ということだ。結果、それは老テオバルドの寿命を延ばしていた。超能力もそうだが、生命エネルギーを──生命そのものを奪って生き永らえてきたともいえるのだ。
『しかし、どんなに人間を超える能力を身につけても、邪神そのものにならねば肉体の衰えを完全に止めることはできない。イグやナグのように、安定して時を止め生きることはわしにはできなかった。わしは気づいた。最高の邪神の魂を召喚できる方法に……伝説の超能力者、相手の能力を何倍にも高めるアンプリファイアを探し出し、わしの力を増幅してもらう方法に!』
 雪崩山の視線は、必然的に里美に注がれていた。里美のアンプリファイア能力を手に入れて、世界の、この世の最高の存在とやらになろうとしているのか、この老人は──
『わしはこの世を統べる存在となる。まさに世界は邪神のものとなるじゃろう。素晴らしい、まったく素晴らしい! この数百年、わしは待った。待って待って待ち続けて、ついにアンプリファイアを見つけたのじゃ。山崎里美……お主の力、どうしても欲しいのじゃ!』
「わ……」
 声がした。老テオバルドの声ではない。
「わたしは……死ぬのですか……」
 翼曽だった。苦悶の表情から、涙を流している。唇が小刻みに震えている。
「わたしは……最強の……亜邪神では……なかったのですか……老……テオバルド……」
『翼曽、よく頑張ってくれた。しかし、残念ながらお主も限界じゃ。〈写本〉を奪われた段階で、お主の存在は否定されたも同然じゃ。〈写本〉は封印させてもらった。焼かれても汚されても困るのでの。次の亜邪神を生み出すことができなくなる故……』
 雪崩山は理解した。動けない翼曽も、気絶しているイグもナグも、彼らを生み出しコントロールしていた〈写本〉なるものが封印されたために、亜邪神であり続けられなくなっているのだ。老テオバルドの言葉から類推するに、イグやナグは比較的弱い亜邪神であり、安定して長時間存在はできるが、簡単にコントロールが切れる。しかし強い亜邪神である翼曽は肉体的な制限がある反面、邪神の魂がなかなか憑依された身体から抜けないのだ。
「次の……亜邪神……」
『ナグはすでに第三の亜邪神である蓮の準備に入っておった。さらばじゃ、翼曽。渾沌へ還れ……』
「老……テオ……バルド……おおおおおおおおおおお!」
 翼曽の身体が震えた。その身体から、抵抗していた邪神の魂がついに抜けようとしているのだ。
『さあ……山崎里美を渡せ……』
 老人の声が学生ホールにこだまする。
 暗黒の彼方から、見えざる恐怖が這い寄る。
『渡すのじゃ!』
 その恐怖が、里美のスイッチを入れた。
「いや────────────っ!!」
 ずん、と空気が鳴った。
 天井と言わず壁といわず、総ての遮蔽物が振動した。
 動けなかったはずの身体が、呪縛から解き放たれる。
 我に返る間もなく、全員が壁に打ちつけられていた。
 紫色のオーラが、まるで濁流のようにホール内を埋め尽くした。
 いまや、ホールの中心で立っているのは三人に過ぎなかった。
 飯島、里美、そして──翼曽。
『〈神格〉か──いい能力じゃ。わしもその力を発揮できるのかと思うと、身震いがする……!?』
 老テオバルドは察知していた。〈神格〉が自分の力を圧迫し、押し返そうとしていることを。そして、それとはまた違った巨大な力が自分に向けて放射されていることも。
「老……テオバルド……貴様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 身体の輪郭がぼろぼろと崩れ出している。存在そのものが崩壊し始めていた。しかし、翼曽は力の放出をやめようとはしなかった。
「今そこに行くぞ……テオバルド……鉄槌を……下すため……に……」
 翼曽の姿が半透明になっていく。空間を切り裂いて、老テオバルドの元に行こうとしているのだ。しかし、その行く手を結界が遮る。朽ちた翼曽には、もう結界器に対抗するだけの力は残されていなかった。
「ならば……跳ぶだけよ……」
 翼曽の身体が消えた。


 老テオバルドは、わが眼を疑った。
 今まで何もなかった漆黒の暗闇に、突如として巨大な輝く空間が出現したからだ。
 それは洞窟の天井の一部を砕き、暗闇を引き裂く光を伴って現れた。
 耳を覆わねば耐えられないほどの轟音が響いた。
 地鳴り、衝撃、岩盤の落下──謎の空間の出現で差していた強烈な光も埃と塵で遮られ、視界はゼロに等しい。
 何が起こったのか?
 落盤か? 洞窟の上には確かに建造物がある。それは老テオバルドも知っていた。しかし、何の予兆もなしに、岩盤に守られたこの洞窟が崩れるものか? ここに座って数百年が経つが、ここまで唐突で大規模な落盤は経験したことがなかった。
 しかも、目の前に現れた輝く巨大な空間からは、老テオバルドが嫌う何かが放射されていた。
 何だ? この感覚は……老テオバルドは眼を細めた。塵と埃が洞窟内を覆っていたが、普段から視覚を眼から得ていない老テオバルドからすれば、視界が悪いことは「見る」ことへの障害にはならない。眼を細めるのは単なる「人間だったころの習性の一部」で、一種の儀式でしかなかった。
 その超感覚は、謎の光の向こう側に人間がいることを察知していた。一人、二人……全部で十三人。
 飯島洋一。
 山崎里美。
 雪崩山勇次。
 石原麗子。
 五六朋起。
 藻間隆。
 イグ。
 ナグ。
 加藤全一郎。
 小川恭一。
 瀬川充。
 名東雄太。
 割澤大介。
「老……テオバルド!」
 飯島が先頭に立って言う。塵と埃に白く汚れてはいるが、怪我はない。
「信じられないことだが……お前が老テオバルドか?」
 その横で雪崩山が言う。サングラスは外されていた。
「おお、ようこそ闖入者たちよ……しかし乱暴な来客じゃな」
「翼曽に引っ張られたんでしょう」
 名東が言う。割澤が補足するように続けた。
「瞬間的な気の放射からの推測ですけどね。彼はあなたの元にテレポートしようとしたんですよ。結界器で遮断されているにもかかわらず……」
「で、ここまで結界ごと跳ばしちまったってのか。全くもって恐ろしいな、亜邪神ってやつは」
 五六が溜息まじりに言う。
「いや、おそらく〈神格〉も影響してるんでしょう」
 加藤が指先に火を灯しながら前に出る。周囲の埃や塵が次々に焼かれ、視界が次第にはっきりしてくる。
「吸い出されたって感覚ですかね。例えるなら、超能力の真空現象とでも言うべきかな」
「とにかく、俺たちは敵のボスの前にいるってわけだ」
 加藤に続けて瀬川が言う。握りこぶしを胸の辺りに持ってきている。
「殴り合いでなんとかなる相手だと思うか?」
 そんな瀬川を小川が諌める。藻間はイグとナグを抱えたまま、終始無言で老テオバルドを睨みつけていた。
「いいえ、一発殴ってやるわ。これが殴らずにいられる!?」
 麗子は言うが早いか、瓦礫を蹴って飛び出していた。
「待って、麗子さん!」
 最後に言葉を発したのは、里美だった。麗子も思わず立ち止まって振り向くほど、その声には意思が満ちていた。
「あたしが……あたしたちがやります!」
 俯き気味な状態で言う。前髪で眼が隠れているのでその表情は読みがたかったが、決意と自信に満ちた言葉が続けて発せられる。それで充分だった。全員が、里美の意思を理解できたからだ。
「許さない……あたしたちを引き裂こうとするひとは……絶対に許さない!」
 里美は飯島の脇にやってきた。見つめあう二人。そして、その視線は同時に、射るように老テオバルドに向けられた。二人の背後に紫と金のオーラが立ちのぼる。
 ──〈神格〉!
「ほう……ついに自らの意思で〈神格〉を維持できるようになったか……それはそれは。じゃが、わしはお前さん方と戦おうと言ってるのではないんじゃ」
 老テオバルドは慌てた様子もなく、一歩前に出た飯島と里美を見ながら言った。
「翼曽の力があったとはいえ、ここに空間ごと跳んでくるだけのエネルギーを持つその力、全くもって惜しい。わしのために活かさんか? この老人の最後の頼みじゃ……」
「何が最後の頼みだ! お前に使われて苦しんだ人間、死んだ人間がいったい何人いる? 誰がお前なんかに手を貸すものか!」
 飯島が老テオバルドの言葉を遮った。
「みんなは下がっていて……まだ結界器の結界空間は生きているようです。少しでも奴の力の影響の及ばない場所にいてください」
 飯島の言葉に、背後のメンバーは頷き、数歩下がった。
「飯島くん……年寄りの言うことは聞くものじゃ。君は暴力主義者かね?」
 老テオバルドは身じろぎもせず、岩の上から見下ろしながら言う。まだその身体は岩の上に座ったままである。
「わしはもう数えきれない時間を生きてきた……そういう意味では人間を超越しておる。しかし残念ながら、不老不死というわけではない。わしは死が恐ろしいのではない。これだけ永く生きておると、人間誰しもできることとできないことが判って来る。わしの寿命も近い。わしはわしの夢がある。もう少しで手の届きそうな夢がな。それさえ手に入れてしまえば、わしは死んでもいいとさえ思っておる」
「それが里美をアンプにして邪神になることだというのか!?」
「その通りじゃ。わしが夢見ていた邪神の世界……そこの長になることがわしの永年の夢じゃった。もちろん邪神になれれば人間の寿命など超越するじゃろう。人間としてのわしもそこで死ぬのじゃろうな。しかし、その後は邪神としての永遠の命がある。人間としては死んでも構わぬ。じゃが、邪神となって邪神の王となることは……捨てられぬ夢じゃ」
「それは不老不死の願望そのものじゃないの!?」
 里美が問い掛ける。しかし、老テオバルドは聞く耳を持たない。
「人間の世界がどうなろうと、知ったことではない。わしが死んでもいいのじゃ。わしは人間として不老不死になりたいなどとは思っておらん。しかし、邪神が統べる世界には生きたい。邪神として生きたい。人間などというちっぽけな存在ではなく、永遠の這い寄る渾沌としての邪神に……」
「聞くに堪えない話だ」
 雪崩山が目を背ける。
「そんな夢物語のために何百年も生きてきただと? 世迷言も大概にしてもらいたいものだな。それにここには麻都も翼曽もいない。〈写本〉とかいうやつも封印しちまったんだろ? 諦めたらどうだ、老テオバルド!」
 結界のほのかな輝きの中から半身を出し、雪崩山は老人を指さして叫んだ。老人はそんな若者を慈しむような眼で見、口元を歪める。白い髭で覆われているので雪崩山にははっきりとは判らなかったが、嗤ったのだ。
「夢……夢を追いかけることの楽しさを知らぬ若造には言われたくないのお」
 老テオバルドは右手を挙げた。身構える飯島と雪崩山。その細い右手がゆっくりと空間に文字を描く。判読不能の謎の文字だ。瞬間的に金色の輝きが何もない空間を彩る。
「翼曽はテレポートの瞬間に崩壊したようじゃな」
「らしいな。あるいは空間の狭間か? 何にせよ、あんたを守る亜邪神とやらもいないわけだ」
 凄むように雪崩山が言うが、老人はその言葉にを無視するかのように呟いた。
「では蓮を召喚することができるわけじゃ……」
 宙に浮いていた老人の指が、素早く動く。その先には、藻間──に抱かれたイグがいた。糸の切れた操り人形そのものの少女に向けて、金色の光が奔る。それを遮ることは、藻間にもできなかった。あまりに素早く、あまりに意外な展開──。
「イグ!」
 藻間はコンマ何秒か後に、イグをかばうように動いた。しかし、遅かった。すべてが終わった後であった。ナグが藻間の腕から振り落とされるが、藻間は双子の妹のことまで気が行く状態ではなかった。
「イグ! イグ!」
 藻間が必死の形相でイグに話しかける。イグは一向に動く様子はない。ただ、寝息のような呼吸音を、その小さな口から立てているだけだった。
「老テオバルド! イグに何をした!」
 飯島が叫ぶ。金色のオーラが増大し、彼と里美の周囲を輝かせる。
 しかし、その問いに老人は答えない。眼を細め、イグと狼狽する藻間を凝っと見ているだけだった。
「何があったんだ? テオバルドは何をしたんだ?」
 藻間の足下に落とされたナグを拾い上げながら、小川が言う。小川は藻間に語りかけたつもりだったのだが、今の藻間にその声は伝わっていなかった。激しく少女を揺さぶり、半ば狂乱したかのように叫ぶ。
「イグ! イグ! イグ!」
「雪崩山くん」
 老人が口を開いた。その右手はすでに下ろされ、膝の上に置かれていた。
「先程……きみはわしを守るものはもういないと言うたな?」
 細い眼がさらに細くなる。
 嗤っていた。
「……戦いは得意ではないが、若造と戦うくらいの気力も体力も残っておる。経験上、君たちに負けるとは思えない。わしを守るものなど必要ないのじゃ。じゃが、億劫なのじゃよ、ここから立ち上がるのが」
 続けて老人は呟く。
「亜邪神……蓮透、召喚……」
 老人の言葉が、洞窟内の空気を振動させる。何かが集まってきているのだ。目に見えない何か、が。
「待て! 亜邪神を……」
 雪崩山が走ろうとする。しかし、その身体は老人に近づくどころか、不可視の壁に弾かれ、数メートル後方に飛ばされていた。
「雪崩!」
 飯島が叫ぶ。同時に里美が、悲鳴に近い声を上げた。
「あ……!!」
 老人の右手に、古びた書物を見てしまったからだ。
 〈写本〉だ。
 藻間のシャツの中にあったはずの本が、老テオバルドの手の中にあった。
 イグの異変に取り乱していた瞬間に盗ったのか──その瞬間に気づいたものは誰一人いなかった。
 すでに表紙にあった赤黒い逆五芒星──邪封印は消えている。
「憑依目標……本間佳奈……」
 どくん、と鼓動音が洞窟内にこだまする。
「させるか!」
 飯島が言い放つ。その言葉がそのままプレッシャーとなって空気の弾丸を発生させる。圧縮された空気の塊が、音速で老テオバルドに迫る。
 その空気の弾丸は、しかし老人に届くことはなかった。
 爆発が起こり、一気に周囲の気温が下がる。空気中の水分が凍りつき、霧がかかったように視界が白くなる。
 老テオバルドの座っていた周囲の岩盤は大きく削られ、空気爆発の凄まじさを見せつけていたが、老人は擦り傷ひとつ負わずにいた。
 老人はひとりごちる。
「早かったな……蓮……」
「ご無沙汰しております、テオバルド様」
 白い霧が晴れたとき、老人の前にはひとりの人間が立っていた。
 否、人間ではない。亜邪神だ。
 第三の亜邪神──そして老テオバルドが自ら召喚した経験のある、最強の存在。
 蓮透。
 長い黒髪が、風もないのに大きく拡がってたなびく。
 大きな瞳は、背後にいる老人を思ってか、決して敵から視線を外そうとしない。
 その視線に射られた飯島たちは、まるで石化したかのように身動きが取れなくなっていた。
 それは蓮の能力ではない。皆が身動きができないほどに驚愕した結果だった。
 だれも口を開くことができない。洞窟は、久々に音のない、本来の姿を取り戻したように見えた。
 静寂が続く。
 何秒経ったか判らない。気が遠くなるような永い時間が経過したような錯覚を覚える。その錯覚を起こさせていた静寂を破ったのは、藻間の声だった。
「い……イグ……」
「藻間くん、もう彼女にイグの記憶はない。君のことを思い出すことも二度とないのじゃ」 
 老人は蓮の背後から、くぐもった声で言う。笑いが込み上げてきて、うまく喋れないらしい。その口調は明らかに嘲っていた。
「イグに別の亜邪神を降臨させたのか……!」
 雪崩山がようやく、吐き出すように言う。
「少し違うな。イグも亜邪神じゃ。正確には、本間佳奈の身体にいたイグの上に、新たに蓮透を降臨させたのじゃ。イグは消滅した。もうこの世にイグは存在しないのじゃ」
「イグは……存在しない……」
 藻間が肺から押し出すように言う。
「ナグの準備が功を奏したようじゃな。こうも簡単に蓮を呼べるとは思ってもいなかったのじゃが」
 老人はさも愉快そうに言う。
「亜邪神の経験者に別の亜邪神を載せたことはないが、なるほど依代を選定する手間が省けるわい。なにせ経験者じゃからのう」
「貴様ぁ!」
 飯島が弾けたように叫ぶ。
「さあ、飯島くん。君のお相手は蓮がする。もちろん、山崎里美をおとなしく渡してくれるなら、話は別じゃがの」
 飯島の叫びに老テオバルドはお決まりの台詞で返していた。
 その老人の言葉を合図にするかのように、蓮が動く。麻都や翼曽のような大男ではなく、蓮は身長百五十センチに満たない小柄な少女である。その動きは軽く、また素早かった。瞬く間に飯島の眼前まで跳ぶと、その腹部に強烈な膝蹴りを入れていた。防御する暇もなく、飯島は宙に浮かされた。
 続いて左の肘が顔面に入る。宙に浮いた状態の飯島は身体を大きく回され、左の肩から地面に激突していた。
「飯島さ……」
 叫んだ里美にも、蓮は迫っていた。里美に対して暴力を振るうことはなかったが、代わりに胸元を掴み、彼女を宙づりの状態にしていた。里美のほうが大きいので、その爪先が数センチ上がったに過ぎないが、首を締めつける力は尋常ではない。里美はもがくこともできずにいた。
「山崎里美は我々〈雷羅〉が管理する」
 機械的に言うと、蓮は視線を里美から飯島に移す。地に臥したままの飯島は、顔を上げて蓮を睨み返すことしかできなかった。
「飯島! 山崎さん!」
 雪崩山が動いた。右手にPKを集中させると、その掌を蓮に向けた。気の束が蓮に走る。しかし蓮は雪崩山の動きを見ることなく、その気を弾き返す。
「きみの力ではわたしと戦うことに意味はない」
 大きな眼がきゅーっと細められる。雪崩山はその眼に死の色彩を感じ取り、咄嗟に跳びすさった。次の瞬間には雪崩山がいた部分の岩盤は粉砕され、数メートルに及ぶ穴が穿たれていた。
「みんな、結界から出るな!」
 走りながら雪崩山は叫んでいた。ほの明るい巨大な四角錐──結界器が生み出している結界空間に、飯島と里美を除いた全員が走り込む。
 結界の光を背後に、雪崩山はその足を止めた。彼の視線は飯島に向けられていた。飯島はまだ地に突っ伏したままだったが、その顔は蓮に向けられていた。雪崩山は飯島の無事とその強い意志を確認すると、振り向いてゆっくりと結界に入った。
「その程度の結界で何が守られるというのかな? 雪崩山くん」
 老テオバルドが嗤う。その声は雪崩山に届いていたが、彼はあえて無視して仲間に言った。
「蓮……と言ったか、あの亜邪神……全く歯が立たない。俺のPKをこんな形で弾き返すとは……飯島と山崎さんの〈神格〉でも戦えるかどうか……」
「雪崩……」
 五六が雪崩山の肩を叩く。雪崩山の弱音などついぞ聞いたことのない彼は、それ以上の言葉をかけることができずにいた。それは麗子も同様である。今までどんな困難やどんな敵の前でも背後を見せたことのなかった彼が、蓮には背を向けて結界に入って来た。それは彼の初の敗北を意味する──知らずに溢れる涙を拭くこともせず、麗子は雪崩山にしがみついた。
「俺たちは無力なのか……?」
 加藤が呟く。雪崩山と蓮の戦いを見て、彼は振り上げていた右手を下ろしていた。もし雪崩山の考えが正しければ、自分の念動発火も弾かれる。しかもこちらの力を増幅して打ち返している可能性がある──となれば、自分のみならず、ここにいる全員が増幅された炎で焼かれてしまうこともありえるのだ。
「読めない……」
 割澤も無力感に打ちひしがれていた。少しでも情報を取ろうとしたが、老テオバルドの考えも、蓮の考えも、彼のテレパシースキャンに反応しない。
 割澤の落ち込んだ顔を見て名東は声をかけようとするが、言葉がないことに気づいて口を閉ざした。
 その横でナグを介抱しようとしていた小川は、名東と割澤を見比べ、また視線をナグに落とす。恐ろしい敵、老テオバルドと亜邪神、蓮。姉が別人になってしまったことを、彼女はどう思っているのだろうか──別人?
「瀬川」
 小川は友人の名を呼んだ。
「名東くんと割澤くんの助けを借りれば、ここでできるか?」
 瀬川はその言葉に眼を見開いた。死と隣り合わせのこの瞬間でも、小川は冷静に、自分たちでできることをしようとしている。それが例え、全く無駄な努力であったとしても──。
「どうだ、瀬川。できそうか?」
「昏睡状態を相手にやったことないから自信はないんだが……」
「老テオバルドに邪魔されないうちに素早く、な」
 小川に急かされて、瀬川は仕方なく目を閉じた。右手をナグの額の上に持ってくる。
(何です?)
 名東が訊く。小川が答える。
(後退催眠だ)
(え、リーディングを……前世をこの場で読むんですか?)
(ナグの、いわば前世を復元してやるのさ。そこから老テオバルドの弱点を探るんだ。うまくすれば、亜邪神の秘密も判るかもしれん)
 その冷静な考えに、名東は衝撃を受けた。電撃に近い感覚が、彼の脳を走った。
(判りました。お手伝いできることは何でもします)
(では、私と名東くん、割澤くんの三人で彼女の──ナグの深層心理にある鍵を探るんだ。今の彼女は亜邪神とも人間ともつかない精神状態にあるはずだ。それを人間の意識に戻すキーがどこかにある、きっとある。それを探して、開けるんだ! 急げ! 〈写本〉の封印は解けているんだ。いつナグがナグとして目醒めるか判らない!)
 その無言の作戦を、藻間は無言で見つめていた。否、彼には何も見えてはいなかった。ただ、視線をそこに漂わせていたに過ぎない。
 仲間に囲まれて気絶している、イグの妹。
 もういない、イグの妹。
 冷静な判断などできない。
 ただ、頭の中にぐるぐると回る。
 イグの笑顔。
 イグの泣き顔。
 イグの不安そうな顔。
 イグ。イグ。イグ。
 瓜二つのナグを見ることで、藻間は現実から逃避しようとしているのかもしれなかった。
 老テオバルドの前に立ちはだかった彼女の顔は、彼の知っているイグではなかった。
 あの瞬間から、藻間は蓮の──蓮となってしまったイグの顔を見ていない。
 あのイグの笑顔はもうない。
 あのイグの泣き顔はもうない。
 あのイグの不安そうな顔はもうない。
 イグ。イグ。イグ。
 イグはもういない……。
「まだだ」
 その声は、藻間の耳に届いていたであろうか──もう一人の、諦めない男の声だ。
「里美を離してもらおう」
 声が蓮の足下から背後に移動していた。次の瞬間、彼女の背骨に衝撃が走った。
 空気の弾丸が、蓮の背にヒットしていた。長い髪がぱっ、と開く。だが、その程度の攻撃で里美を吊り上げる手を離すような蓮ではなかった。
「背中にダメージを受けたのは生まれて初めてかもしれない」
 蓮はゆっくりと振り向く。
「里美を離してもらおう」
 右の頬を腫らした飯島は、同じ台詞を吐いた。

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